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封建的人間で、威張り、人に頭を下げさす事を好み皆おじぎさせた罪

 私の親類でいとこ同士の夫婦で子供が五人ありましたが、長男(三十歳)、次女(二十四歳)、三女(二十一歳)


の三人は「セムシ」でいずれも十歳以降発病しました。次男(九歳)は小児麻痺です。長女(二十七歳)のみは健


康体で結婚しておりましたが、子供も無く、夫婦共肺結核におかされ、それが原因で夫婦心中致しましたので、


事実上相続者無き状態です。

 また、ある易者の言うには、その家の屋敷に大きな欅の木があったのを、現在家の主柱にしてありますが、昔


その木の下で武士が殺されたので、その者の恨みからだと申しますが、どんな因縁でしょうか。いかに致しまし


たら救われるでしょうか。御伺い申し上げます。

 祖先の罪が沢山ある。易者の言った事は信じられぬ。

 欅も龍神が住んでる時切ると祟る。セムシ(カリエス)三人は祖霊の祟り、その祖先


なるものが封建的人間で、威張り、人に頭を下げさす事を好み皆おじぎさせた罪で


ある。

 夫婦心中も、続けるだけの徳がないのだからやむを得ぬ。(S24.12.15)



『栄光』151号、昭和27(1952)年4月9日発行

 力について世の中の人は深い事を知らないからここにかいてみるが、これを科学


的定義でいうならば、目に見える形ある力程弱く、見えない力程強いという原理であ


る。すなわち前者は何馬力とか、何キログラムとかいうように限度があるが、後者に


至っては無限である。つまり人間の想念と同じで、目には見えないが恐るべき力が


ある。偉い人の力は一人で世界を動かす事さえ出来るのは人の知る通りである。

 右は人間だけについての説明であるが、これを押し拡げたのが神様の力である。


これを科学的に説く事も出来る。すなわち科学で唱える粒子説がそれで、これによる


と人間の霊は素粒子であって、神様の霊は微粒子である。もちろん神様でも神格が


高まる程、微粒子の度は益々高くなりそれと共に稀薄にもなるのである。このように


力学的にいっても素粒子程力が弱く、微粒子程力が強い事を知るべきである。


 この理によって最高級の神様の事を、神道では幽の幽とか、または幽幻微妙など


とも言われるのは全くそれを表現した言葉である。この理によって私に与えられてい


る神力は、最高級の神霊であるから、絶対力といってもいいくらいのもので、この力


は本当に揮われた者は、昔から一人もなかったのである。彼のキリストにしろ、言い


難い話だが割合弱かったのは事実がよく示している。すなわちキリストの行った奇蹟


といっても御自分だけのもので、弟子達にまで分け与える事は出来なかったのであ


る。その他の聖者にしても、ことごとく限られた力であった事はその事蹟が示してい


る。


 ここに私の事を少しかいてみるが、私の発揮する力の大きさと強さは、無限絶対と


言ってもいいくらいで、現在行使してる力は一部の発揮でしかないがそれでも知り得


た人は驚嘆する。信者はもちろんだが信者の中でも熱心な人で何分の一くらいしか


分かり得ないのである。言うまでもなくいずれは本当に発揮する時が来るから、その


時は開いた口が塞がらないであろう。ゆえに今から腹帯をしっかり締めておく必要が


ある。そうして私が現在現している力だけでさえ病気を治す人間を作り、農業の増産


法を教え、神の実在を分からせる奇蹟を現しているばかりか、大規模な地上天国や


美術館をも造っているのだがこれらはホンの小手調べで時と共に段々押し拡がりい


ずれは世界的に天国を造る事になろうから、本当の神力はこれからである。

 そのような訳でもっと詳しく知らせたいが、今言ったところで到底信ずる事は出来な


いし、神秘でもあるから、ホンの一部分だけ時に応じ、進むに従い発表するのであ


る。これを要約すれば善言讃詞にある通りの世界を造ってゆくのである。特に一言


いっておきたいのは、最大の争いである国と国との戦争であるが、これも私は時が


来れば、一挙に無くす事が出来るだけの力ももっているから、安心して貰いたいので


ある。新健康協会

地上天国

地上天国

『信仰雑話』P.7、昭和23(1948)年9月5日発行

 地上天国という言葉は、何たる美わしい響きであろう。この言葉ほど光明と希望を


与えるものはあるまい。しかるに多くの者は、地上天国などという事は実現の可能性


のない夢でしかないと想うであろうが、私は必ずその実現を確信、否実現に近づき


つつある事を認識するのである。ナザレの聖者キリストが「汝等悔改めよ、天国は近


づけり」といった一大獅子吼(ししく)は、何のためであろうかを深く考えてみなくては


ならない。その教えが全世界の大半を教化し今日のごとく大を成したところの、立教


の主たるキリストが、確実性のない空言をされ給う筈がないと私は思うのである。し


からば地上天国とはいかなるものであろうかという事は何人も知りたいところであろ


う。私は今それを想像して書いてみよう。

 地上天国とは、端的にいえば「幸福者の世界」である。それは病気、貧乏、争闘の


ない世界で、文化の最も高い世界である。しからば今日人類が苦悩に喘ぎつつあ


る、病貧争に満ちたこの世界を、いかにして天国化するかという大問題こそ、吾々に


課せられたる一大懸案であろう。しかも右の三大災厄の主原因こそは病気そのもの


である以上、まず病気を絶無ならしむべき方法が発見されなければならない。次は


貧乏であるが、これもその原因が病気が第一であり、誤れる思想と政治の貧困、社


会組織の不備等も第二の原因であろう。次に争闘を好む思想であるが、これは人類


が未だ野蛮の域を脱し切れない事が原因である。しからばこの三大災厄をいかにし


て除去すべきや、ということが根本問題であるが、この問題解決に私は自信を得た


のであって、最も簡単なる事実をここに説き明すのである。

 本教団に入信し、教化さるるに従い、心身の浄化が行われ、真の健康者たり得る


と共に、貧乏からは漸次開〔解〕放され、なお闘争を嫌忌(けんき)するに至る事は不


思議として誰も驚くのである。そのほとんどの信徒は年一年幸福者に近づきつつあ


る事は、無数の事実が証明している。


 私は他の欠点を挙ぐる事を好まないが、いささか左記のごとき事実を挙げる事を


許されたい。それは信仰をしつつ難病に呻吟し、貧困に苦しみながら満足し、喜んで


いるものがあるが、なる程これらも無信仰者よりは精神的に救われてはいるが、そ


れは霊だけ救われて体は救われていないのである。すなわち半分だけ救われてい


る訳で、真に救われるという事は、霊肉共に救われなくてはならない。健康者となり、


貧困から脱却し、一家歓喜に浸る生活にならなくてはならない。しかるに今日までの


あらゆる救いは精神を救う力はあるが肉体まで救う力はなかった訳で、止むを得ず


「信仰とは精神のみ救わるべきもの」とされて来たのであろう。その例として宗教家


がよく言う言葉に「現当利益が目的の信仰は低級信仰である」というが、これはおか


しな話である。何人といえども、現当利益を欲しない者は決してある筈がない。また


病苦を訴える者に対し「人間は宣しく死生を超越せざるべからず」と言うが、これもい


ささかか変である。何となればいかなる人間といえども、死生を超越するなどという


事は実際上出来得るものではない。もし出来得れば、それは己を偽るのである。こ


の事について私は沢庵禅師の一挿話をかいてみよう。


 禅師が死に臨んだ時、周囲の者は「何か辞世を書いて戴きたい」と紙と筆を捧げ


た。禅師は直ちに筆を執って「俺は死にたくない」と書いた。周囲の者は「禅師程の


名僧がこの様な事をお書きになる筈がない、何かの間違いであろう」と再び紙と筆を


捧げた。すると今度は「俺はどうしても死にたくない」と書かれたとの話があるが、私


はこの禅師の態度こそ実に偉いと思う。その様な場合大抵は「死生何ものぞ」という


ような事を書くであろうが、禅師は何等衒(てら)う事なくその心境を率直に表わした


事は普通の名僧では到底出来得ないところであると私は感心したのである。


 次に、世間よく人を救おうとする場合、自分が病貧争から抜け切らない境遇にあり


ながら宣伝をする人があるが、これらもその心情は嘉(よみ)すべきも、実は本当の


やり方ではない、何となれば、自分が救われて幸福者となっているから、他人の地


獄的生活に喘いでいる者を、自分と同じような幸福者たらしめんとして信仰を勧める


のである。それで相手が自分の幸福である状態を見て心が動く、宣伝効果百パーセ


ントという訳である。私といえども、自分が幸福者の条件を具備しなければ宣伝する


勇気は出なかったが、幸い神仏の御加護によって幸福者たり得るようになってから


教えを説く気になったのである。地上天国とは、幸福者の世界でありとすれば、幸福


者が作られ、幸福者が集まるところ、地上天国の実相でなくて何であろう。


新健康協会