疑い結構
疑い結構
未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆
今日智識人程、信仰で病気が治るのは、精神作用によると固く信じている頑迷さで
ある。何しろ彼らの考え方は、この医学の進歩した世の中に、薬も機械も使わない
で病気が治る理屈がないと決めており、そんな非科学的な方法であると思うのは、
余程智性の低い愚夫愚婦くらいだとの解釈である。もっともそういう事実も世間ざら
にあるから無理もないとも言える。
ところがこの患者〔略〕のごとく、最初から疑いの強い事は驚く程で、不承不承(ふし
ょうぶしょう)に浄霊を受けたのであるから、精神作用は微塵(みじん)もない事は分
る。ところがそれまで相当重態であったのが、たちまち好転し短時日で全快したので
あるから、疑いは一遍に消し飛んでしまったのである。これによってみても御自分の
方が迷信でないものを迷信と見る迷信者である事がよく分るであろう。
嘘と幸福
嘘と幸福
未発表、年代不詳
『地上天国』173号、昭和39(1964)年2月1日に没後掲載
私は約三十年前信仰生活に入ったのであるが、それまでの私は、その考え方がま
ことに不徹底であった。というのは、悪いことはすべきものではない、善いことをしな
ければならない、ということはつねに思ってはいるが、さてそれを実行に移そうとなる
とどうも勇気がでない。というわけで、善悪ともにはなはだ微温的であった。恐らく世
間にはこのときの私のような考え方の人が多いであろう。ところが信仰がだんだん深
まるにつれて霊界と現界との関係はもちろん、神様のご意志というものがはっきり判
り、考え方が断然変ってしまったのである。それはどういうことかというと、悪いことは
想像以上大きな罪になり、善い行いはこれまた想像以上善果を得るということで、こ
こに心境の一大変化とともに、悪を絶対排斥し、善を極力実行に移すというように方
針が変ったのである。ところが驚くべしそれからというもの、運勢が不思議にひらけ
はじめた。これなるかなとますます自信が強まり、実行すればするほど、それと交換
するかのように良いことがブツかってくる。もちろん多数からの信頼も日に深まるとい
うわけで今日におよんだのである。これはまったく幸福の哲学でもあろう。
以上私自身の体験のみではない。世間多くの人を見るにつけ一生懸命努力する
にかかわらずどうも思うようにいかない。時には躓(つまず)いたり、損をしたり、骨折
る割に人から好く思われない、信用もされないというわけで悲観する人がよくある
が、そういう人を仔細(しさい)に観察してみると、かならずどこかに間違いのあること
を発見する。とくに嘘を平気でつくということが一番悪いのである。かような人は、な
によりもまず自分自身の心をよく省みることであって、かならず心のそこにその原因
を発見するはずである。なるほどいままでいかに努力しても思うような結果を得られ
ないのは、確かに自分の罪であることを悟るであろう。とくに信仰者は神様から選ば
れたのであり、世人の模範たるべく約束されており、なおさら道にはずれることはで
きない。どこまでも俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じないという心境であらねばならな
いので、そういう人こそ神様から愛されるからご守護も厚く、心はつねに明朗で、
悠々として生活を楽しみ、敵を作らず、怨みを買わず、多くの人から尊敬を受けるよ
うになるから幸福者となるのである。特に注意すべきは嘘をつくという一事である。
殊(こと)に日本人の嘘つきということは世界的に知られているが、まったくそのとお
りで、つねに嘘をつく人は、それが習性にまでなってしまって、自分はあまり嘘つきと
は思っていないようになるものである。こういう人は自分の心の標準を高く揚げて、
鋭い批判をしてみるといい。かならず嘘発見ができるわけである。それについてあま
り人の気がつかない嘘を書いてみよう。
それは約束時間を守らないことである。おそらく日本人中約束時間を厳守する人
は幾人あるであろうか。この点外国人の時間厳守の話を聞くたびに私はうらやましく
思っている。時間を約束して守らないということは人を騙したことになり、立派に嘘を
吐(つ)いたことになる。嘘ばかりではない。相手を怒らせるからこれも罪になる。罪
の二重奏である。ところが日本の社会では時間を守らないことが当然のようになって
しまって、これに関心をはらう人はまことに少ないようである。昔から嘘つきは泥坊の
はじまりという諺(ことわざ)があるが、あるいはそうかもしれない。泥坊でないまでも
いささかの誤魔化しくらいはやるかもしれないと想われるのである。
これについて私のことを書いてみるが、私は朝起きるとあらかじめその日のプラン
をたてる。何時から何時まで、何分から何十分まで何の仕事をするというようにきめ
ておく。したがって、約束をした人がその時間より後(おく)れるとプランが崩れる。時
によると滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にさえなってしまう。それがため三十分の予定の
仕事が十分か十五分に切りつめなければならないことになるから、予期の成果が得
られない。もちろん不快も手伝うからでもある。このとき痛切に思うことは、日本人の
時間の観念があまりにとぼしいことである。したがって、ほんとうに改心するとした
ら、一番身近なところすなわち約束時間の厳守で、これが嘘を追放する手始めとな
ろう。私がつねに思うことは、新日本建設の第一歩としては、まず日本人全体が約
束時間の厳守からということを言いたいのである。
こういう話がある。昔天下の富豪岩崎弥太郎氏に見込まれその入聟(いりむこ)と
なり、ついには総理大臣にまでなった有名な加藤高明氏は、若い頃三菱北海道支
店に在職中、部下の一員がたまたま私信をだすのに三菱の社名入り封筒を使った
のを高明氏がみて戒告を与えた。それは私事に社用の封筒を使うのは、たとえ封筒
一枚といえども盗みになるといって、それから社員全部に社用の封筒を使うことを禁
じた。なるほどそれに違いないが、この社用封筒を私事に使うことは今でも世間普通
のように思われている。これによってみても高明氏の識見が高邁(こうまい)でいささ
かの間違った行為も許さないことが窺(うかが)われるのである。
氏神に就て
氏神に就て
『光』20号、昭和24(1949)年7月30日発行
氏神とはその土地へ初めて開拓に来た者が漸次子孫繁栄し、数代の後には一村
または一部落が形成さるる事になった、そこで何が神様を祀りたいという事になっ
て、その宗家の祖先を祀った――それが氏神である。
しかるに部落が漸次大を成すに及んで産土神を奉斎すべき必要に迫られとりあえ
ず氏神様に昇格を願い、産土神として鎮祭されたので今日見るがごとく、産土様と氏
神様と混同されやすいのである。
また、昔産土神社を造営した際、祭神としてその近くにある神社から、分霊を仰い
だり、また稲荷様を昇格させた場合もある、産土神社の祭神は大体右のごとく三種
類あるのである。