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天国における一段階に一主宰神あり、第一天国は太陽神である天照大御神

霊界の構成

『天国の福音』昭和22(1947)年2月5日発行

 前項に述べたごとく、霊界は天国、八衢(やちまた)、地獄の九段階になっており、


その段階の差別は何によるかというと光と熱である。すなわち最上段階は光と熱が


最も強く、最低段階の地獄は、暗黒と無熱の世界であり、八衢はその中間で現界に


相当する。現界においても幸福者と不幸者があるのは、天国と地獄に相応するので


ある。最高天国すなわち第一天国においては光と熱が強烈で、そこに住する天人は


ほとんど裸体同様である。仏像にある如来や菩薩が半裸体であるにみて想像し得ら


るるであろう。第二天国、第三天国と降るに従って、漸次光と熱が薄れるが、仮に地


獄の霊を天国へ上げるといえども光明に眩惑され、熱の苦痛に堪え得られずして元


の地獄に戻るのである。ちょうど現界において、下賤の者を高位に昇らすといえども


かえって苦痛であるのと同様である。

 天国における一段階に一主宰神あり、第一天国は太陽神である天照大御神であ


り、第二天国は月神である月読尊(つきよみのみこと)及び神素盞嗚尊(かむすさの


おのみこと)であり、第三天国は稚姫君尊(わかひめぎみのみこと)である。また仏界


は神界より一段低位で最高が第二天国に相応し、第一天国はない。第二天国は光


明如来(観世音菩薩)、第三天国は阿弥陀如来及び釈迦牟尼仏である。そうして、


霊界においてもそれぞれの団体がある。神道十三派、仏教五十六派等であり、また


いずれもその分派が数多くあって、おのおのの団体には、主宰神、主宰仏及び宗祖


教祖がある。例えば大社教は大国主尊(おおくにぬしのみこと)、御嶽教は国常立尊


(くにとこたちのみこと)、天理教は十柱の神等であり、仏界においても真宗は阿弥陀


如来、禅宗は達磨大師、天台は観世音菩薩等々で、また各宗の祖である弘法、親


鸞、日蓮、伝教、法然等は各団体の指導者格である。この意味において生前なんら


かの信仰者は、死後霊界に入るや所属の団体に加盟するをもって、無信仰者よりも


幾層倍幸福であるかしれない。それに引換え無信仰者は、所属すべき団体がない


から、現界における浮浪人のごとく大いに困惑するのである。昔から中有に迷うとい


う言葉があるが、これらの霊が中有界で迷うという意味である。

 故に霊界を知らず、死後の世界を信じないものは、一度霊界に往くや安住の所を


得ないため、ある時期まで痴呆のごとくなっている。この一例として先年某所で霊的


実験を行なった際、有名な徳富蘆花氏の霊が霊媒に憑依してきた。早速蘆花夫人


を招き、その憑霊の言動を見せたところ、たしかに亡夫に相違ないとの事であった。


そうして、種々の質問を試みたが、その応答は正鵠(せいこく)を欠き、ほとんど痴呆


症的であったそうである。これは全く生前霊界の存在を信じなかったためで、現世に


おいては蘆花程の卓越した人が霊界においては右のごとくであるにみて人は霊界の


存在を信じ、現世にあるうち、死後の準備をなしおくべきである。

 天国や極楽はいかなる所であるか、否一体天国や極楽などという世界は事実存在


するものであるか、大抵の人は古代人の頭脳から生まれた幻影に過ぎないと思うで


あろう。しかるに私は、天国も極楽も浄土も厳存している事を信ずるのである。それ


についてこういう話がある。昔某高僧と某学者と「死後地獄極楽ありや」という論争の


結果、高僧は有りといい、学者は無いという。ついに高僧は、「真偽を確めるには死


ぬよりほかない」と言い、学者に対し両者死をもって解決しようと言ったので、学者は


兜を脱いだという話がある。これは笑い事ではない。高僧の言うほうが真実である。


しかるに生きながら霊界を探求出来得るとしたら、これ程しあわせはあるまい。まず


私の体験によって知り得た種々の例証を書いてみよう。

 某会社重役夫人(三十歳)から重病のため招かれたことがあった。もちろん医師か


ら見放され、家族や親戚の人達がぜひ助けて欲しいとの懇願であった。その患者の


家は私の家より十里程離れていたので、私が通うには困難のため直ちに自動車に


乗せて私の家へ連れて来た。その際途中においての生命の危険を慮(おもんばか)


り夫君も同乗し、私は途中片手で抱え、片手で治療しつつともかく無事に私方へ着


いたのである。しかるに翌朝未明付き添いの者に私は起こされた。直ちに病室へ行


ってみると、患者は私の手を握って放さない。いわく「自分は今、身体から何か抜け


出るような気がして恐ろしくてならないから、先生の手に把まらしていただきたい。そ


うして私はどうしても今日死ぬような気がしてならないから、家族の者を至急呼んで


いただきたい」というのですぐに電話をかけた。一時間余の後、家族や親戚数人、会


社の嘱託医等自動車で来た。その時患者は昏睡状態で脈搏も微弱であった。医師


の診断ももちろん時間の問題との事である。そうして家族に取り巻かれながら依然


昏睡状態を続けていたが、呼吸は絶えなかった。ついに夜となった、相変らずの状


態である。ちょうど午後八時頃、突如として目を瞠(みひら)き不思議そうに四辺を見


廻している。いわく「私は今し方、何ともいえない美しい所へ行って来た。それは花園


で、百花爛漫と咲き乱れ、美しき天人達が大勢いて、遥か奥の方に一人の崇高(け


だか)い絵で見る観世音菩薩のような御方が私の方を御覧になられ、微笑まれたの


で、私は有難さに平伏した、と思うと同時に覚醒したのである。そうして今は非常に


爽快で、このような気持は、罹病以来いまだかつて無かった」との事である。そのよ


うな訳で翌日から全然苦痛はなく、否全快してしまって、ただ衰弱だけが残るのみで


あった。それも一ケ月くらいで平常通りの健康に復し、その後もなんら異状はなかっ


たのである。以上は全く一時的霊が脱出して天国へ赴き、観世音菩薩より霊体の罪


穢を払拭されたのである。そこは第二天国の仏界である。

 次に二十歳位の女子、重症肺結核で一旦治癒したが、一ケ年程経て再発し、つい


に死んだのである。それでその霊を私が祀ってやった。ところがその娘に兄が一人


あった。非常に酒飲みで怠惰で困り者であった。娘が死んでから二、三ケ月経た


頃、ある日その兄が自分の居間に座っていると、眼前数尺の上方に朦朧として紫色


の煙のごときものが見えるかと思うと、その紫雲は徐々に下降する。すると紫雲の上


に死んだ筈の妹が立っている。よく見ると生前よりも端麗にして美しく、衣服は十二


単衣のごとき美衣を着、犯し難い品位を備えている。そうして妹のいわく「私は兄さん


が酒をやめるよう勧告に参りました。どうか家のため身のため、禁酒していただきた


い」と懇(ねんご)ろに言って再び紫雲に乗り、天上に向かって消え去ったのである。


所が数日を経て同様の事がありまた数日を経て三度目の来降(らいごう)である。そ


の時は眼前に朱塗りの曲線である美しき橋――が現われ、紫雲から静かに降り立


った妹は、橋を渡り来たっていわく、「今日は三回目で、今日限りで神様のお許しは


なくなる。きょうは最後である」といって例のごとく禁酒を勧めたが、それ以後はそう


いう事はなかったそうで、これはもちろん一時的霊眼が開けたのである。


 右は、天国から天人となって現界へ降下せる実例としては好適なものであろう。ま


たおもしろい事は、右の兄なる人物は全然無信仰者で、霊などに関心を持たず、潜


在意識などある訳がないから、観念の作用でない事はもちろんで、右の話は母親か


ら聞いたのである。

 次にこれは肉体の病気でない――言わば精神的病気ともいうべき二十幾歳の青


年があった。その頃彼はある花柳界の婦人に迷い、遂に合意の情死を遂げんとす


る一歩手前のところを私は奇跡的に救ったのである。その際彼は二人分の毒薬を


懐中に用意していたにみても危ないところであった。私の家へ連れて来、早速霊的


調査をしてみた。すると彼の口から、狐霊が憑依してそういう事をさしたという訳が分


かったので、その狐霊へ対し戒告を与えなどして約二十分位で終った。終ったに係


わらず彼はなおも瞑目合掌(これは被施術者の形式である)している。そうして左方


に向かい首を傾(かし)げている。それが約三、四分位でようやく眼を瞠き、不思議そ


うになおも首を傾げている。彼いわく「不思議なものを見ました。それは自分の傍に、


琴のごとき音楽を奏している者があり、その音色は実に何ともいえない高雅で、聞惚


れながらあたりをよく見ると、非常に広い神殿のごときものの内部で、突き当たりに


階段がありその奥に簾(みす)が垂れている。すると、先生が衣冠束帯(いかんそく


たい)の姿で静かに歩を運ばれ、階段を上り簾の中へ入られた」との事である。私は


「後から見たのでは誰だか分からないではないか」というと彼は「否、たしかに先生に


違いない」との事で、その服装は、冠を被り、纓(えい)が垂れ、青色の上衣に、表袴


は赤色との事であった。これは彼が一時的霊眼が開け、霊界が見えたのである。彼


はなんらの信仰もない、商店の店員であって、霊的知識など皆無であるからかえっ


て信をおけると思う。そうして彼の坐した左側には神床があって、神様を祭ってあっ


たのである。これは、その時の私の幽体がその神殿の奥にいて出て来たものであろ


う。

 以上示したところの三例は、天国の室外と室内と天人の降下状態を知る上におい


て参考になるであろう。

 次に仏界における極楽の状態をかいてみよう。この時の霊媒は十八歳の純な処


女であった。この娘に憑依したのは、その娘の祖先である武士の霊で、二百数十年


前に戦死したよしである。その霊は生前真言宗の熱心な信者で死後まもなく弘法大


師の団体へ入ったので、私の質問に応じて答えたところは左のごとくである。

「最初自分が来た時は数百人くらいいたが、年々生まれ更(かわ)る霊が、入り来る


霊より多いので、今は百人位に減じてしまった。そうして日常生活は大きな伽藍の中


に住んでいて、別段仕事とではなく、琴、三味線、笛、太鼓等の遊芸や絵画、彫刻、


読書、書道、碁、将棋、その他現世におけるとほぼ同様の楽しみに耽(ふけ)り暮ら


している。また時々弘法大師または○○上人(私はその名を失念した)の御説教が


あり、それを聞く事が何よりの楽しみである。また弘法大師は時々釈迦如来のもとへ


行かれるそうで、そこはこの極楽よりも一段上で、非常に明るく、眩しくて仰ぎ見られ


ない位である。また戸外へ出ると非常に大きな湖があって、そこには蓮の葉が無数


にうかんでおり、大きさはちょうど二人が乗れるくらいで、大抵は夫婦者が乗ってお


り、別段漕がなくとも欲する方へ行けるのである。そうして夜がなく二六時中昼間で、


明るさは現世の晴れた日の昼間より少し暗く、光線は金色で柔らかく快い感じであ


る」――と言うのである。

 私はたびたび極楽に住する霊から聞いた事であるが、極楽に長くいると飽きるそう


である。二六時中遊びに耽るだけでおもしろくないから、神界のほうへ廻して貰いた


いとよく希望された。私が要求を容れて神界へ移住させた霊は少なからずあった。


その理由は神界は最近活動状態に入り、諸神諸霊は多忙を極めている。言うまでも


なくこれは昼間の世界が近づいたためである。何となれば神は昼の世界を主宰し、


仏は夜の世界を主宰していたからである。

 次に地獄界であるが、三段階の最下段は、神道にては根底の国といい、仏教にて


は極寒地獄といい、西洋にては煉獄といい、全くの無明、暗黒界で真の凍結境であ


る。そこへ落ちた霊は何十年何百年もの間全然何も見えず、凍結のままちょっとの


身動きさえ出来得ないのであるから、まことに悲惨とも何とも形容し難いのである。


私はそこから救われた霊から聞いた時慄然としたのである。彼のダンテの神曲にあ


る凍結地獄の状態は真実であろう。

 中段地獄は昔から一般にいわれている修羅道、畜生道、色慾道、餓鬼道、針の


山、血の池地獄、蛇地獄、蜂室地獄、蟻地獄等種々あり、それら取り締まりの赤


鬼、青鬼も地獄図絵に見るごとくであって、この鬼は現界において警官獄卒等のうち


残忍性に富んだものがなるのである。地獄の刑罰としては、かの束〔棘〕の着いた鉄


の棒で殴るのであるが、霊の話によれば人間の時よりも数倍痛いそうである。それ


は、肉体なる掩護物がなく直接神経に触れるからであろう。

 地獄苦について種々の例をあげてみよう。

 まず針の山は読んで字のごとく、無数の針の上を歩くのであるから、その痛さは非


常なものであろう。血の池地獄は、妊婦や出産が原因で死んだ霊が必ず一度は行く


所であって、これは多くの霊から聞いた話であるが、文字通り一面の血の池で首ま


で浸っており、血なまぐさい事はなはだしく、その池にはおびただしい蛆虫様のもの


がいてそれが始終顔へ這い上がってくるので、その無気味さはたまらないそうで、始


終虫を手で払い落しており、そのような苦痛が普通三十年位続くのである。蜂室地


獄はこれも霊から聞いた話であるが、ある芸者の死霊が某美容院の弟子に憑依し


語ったところによると、人間一人位入る箱の中に入れられ、無数の蜂が体中所嫌わ


ず刺すので名状すべからざる苦痛であるとの事であった。焦熱地獄は焼死したり、


三原山のごとき噴火口へ飛び込んだりした霊である。それについてこういう例があっ


た。ある中年の男子、一種の火癲癇で、彼いわく就寝していると夜中に目が醒める。


見ると数間先に炎々と火が燃えながら、だんだん近寄るとみるや発作状態となり、そ


の瞬間体が火のごとく熱くなると共に無我に陥るのである。これは大震災の翌年か


ら発病したとの事であるから、もちろん震災で焼死した霊であろう。この意味によって


今回の空襲による多数の焼死者の霊は、無論焦熱地獄に苦しんでいる訳であるか


ら、遺族は供養を怠ってはならないのである。

 色慾道は無論不純なる男女関係の結果堕ち行く地獄であって、その程度によって


それぞれの差異がある。たとえば情死のごときは男女の霊と霊とが結合して離れな


い。それは来世までも離れまいという想念によるからであり、抱合心中のごときは、


密着したままで離れないから不便と恥ずかしさのため大いに後悔するのである。た


またま新聞の記事などに表れている――生まれた双児の体の一部が密着して離れ


ないというのは情死者の再生である。また世間で言う逆様事、すなわち親子兄弟、


弟子と師匠などの不義の霊は、上下反対に密着するので、一方が真直であれば一


方は逆様という訳で、不便と苦痛と羞恥によって大いに後悔するのである。これによ


ってみても世間よく愛人同志が情死の場合、死んで天国で楽しく暮そうなどという事


は思い違いもはなはだしい訳で、実に霊界は至公至平である事が分かるであろう。


 こういう事も知っておかねばならない。それは現世において富者でありながら、非


常に吝嗇(りんしょく)な人がある。こういう人は現体は金持であっても霊体は貧者で


あるから、死後霊界に行くや貧困者となり、窮乏な境遇に陥るので大いに後悔する


のである。それに引換え、現世において中流以下の生活者でありながら常に足るを


知って満足し、日々感謝の生活を送り、余裕あれば社会や他人のため善徳を施す


ような人は、霊界に行くや富者となって幸福な境遇を送るのである。また富豪などが


没落する原因としてこういう事がある。それは出すべき金を出さず、払うべきものを


払わないという人がある。かくして溜めた金は盗みと同様の理になるから霊的には


盗金を貯めている訳で、これに逆利子が溜まる結果、実際の財産は僅少な訳にな


る。それがため霊主体従の法則によっていつしか没落する。大抵な富豪の二代目


が不良か低能で財産を蕩尽(とうじん)するという例が多いが、右の理を知ればよく


分かるのである。

 また今度の戦争の結果、財閥解体という事になったが、その原因は右のごとくであ


って、従業員や労働者に当然与えるべき金額を与えないで、それを蓄積し漸次富が


増えたのであるからである。本来資本に対する利潤は、たとえば郵便貯金や銀行預


金は最も安全であるから三分内外が適当であり、安全性がやや欠除せる国債は三


分五厘、信託は三分八厘、次いで幾分危険性を伴う株券は四、五分くらいが適当で


ありとしたら、資本家が出資する事業資金の利潤を、右を標準として合理的に考え


る時、まず七、八分ないし一割くらいが適正であろう。しかるにそれ以上の利潤をあ


げる場合、その余剰利潤は勤労者に分配すベきが至当であるに係わらず、多くの資


本家はそのような意志はなく、自己の利欲を満足させる事のみ考え、出来るだけ多


額の利潤を所得しようとするのが一般的である。労働運動などに脅えたり、ストライ


キ等に手をやいたりするのもそれがためである。したがって妥当なる所得以外の、


当然勤労者に配分すべき利潤を取得するという事は、勤労者の所持金を窃取する


意味になる、すなわち盗金である。従って盗金を蓄積して財閥となり栄耀栄華に耽っ


たのであるから天はゆるさない。しかも霊界では逆利子がどしどし殖えるから、つい


に今日に至って盗金と逆利子の分だけ剥奪返還されなくてはならない事になったの


であって、全く身から出た錆で、誰を怨む事も出来ないのである。故に右と反対に適


当な利潤を勤労者に分配し蓄積した富を社会や他人のために費し、善徳を積むとし


たら社会から尊敬を受け、永久に栄える事になる訳である。

 上段地獄は、地獄の刑罰が済み、八衢へ上がろうとする一歩手前であるから、大


方は軽苦で労作のごときものである。たとえば各家の神棚、仏壇等に饌供(せんぐ)


した食物の持ち運び、または通信伝達、霊の世話役等々である。

 ここで右饌供の食物について知りおくべき事がある。それは霊といえども、食物を


食わなければ腹が減る。そうして霊の食物とは、すべての食物の霊気を食するので


ある。ただし、現世と違い、極めて少量で満腹するので、霊一人一日分の食糧は飯


粒三つくらいで足りるのである。従って普通の家庭で饌供された食物といえども、か


なり多数の霊人が食しても余りある位であるから、その余分は餓鬼道の霊達に施与


するので、その徳によって、その家の祖霊の向上が速やかになるのである。この意


味において祖霊へ対しては出来るだけ飲食(おんじき)など供えるべきで、万一祖霊


へ対して供養を怠る時は、祖霊は飢餓に迫られ、やむを得ず盗み食いする結果、餓


鬼道へ落ちるかまたは犬猫のごとき獣類に憑依して食欲を充たそうとする。それが


ため畜生道へ落ちるのである。すべて人霊が畜生へ憑依する時は、悪貨が良貨を


駆逐するように、漸次人霊が溶け込み、獣霊のほうへ同化してしまう。この人獣同化


霊が再生した場合その獣となって生まれるが、これは生来の獣霊とは異なり人語を


解する。よく馬、犬、猫、狐、狸、蛇等に人語を解するのがあるが、これらは右のごと


き人獣同化霊の再生である。この同化霊は獣類になってある程度の修行が済むと


また人間に再生するのである。ここで注意すべきは、蛇、猫等を殺すと祟ることがあ


るが、これは同化霊であるからで、同化霊でないものは祟らない。また旧家などに古


くから青大将がいるが、これは祖先が蛇との同化霊となって子孫を守護しているの


で、これらを殺す場合非常に立腹し戒告を与える。よく蛇を殺してから死人が出たり


家が没落するというような事はそれである。また右と同様古くから祀ってある稲荷な


どは、それを取り潰したり祭典を怠る場合よく戒告を与えられるが、それに気付かな


いと家の没落にまで至る事があるから大いに注意すべきである。

 右のごとき実例は非常に多く、読者中にも思い当たる事が幾つかは必ずある筈で


ある。私の経験にこういう事があった。以前私がある家へ治療に行ったことがある。


その家にかなり大きな犬がいた。家人のいわく「この犬は不思議な犬で、決して外に


は出ない。ほとんど座敷住居で、絹の上等の座蒲団でないと坐らない。また家人が


呼べば来るが、使用人では言う事を聞かない。食物も粗末な物は絶対に食わないと


いう贅沢さで、よく人語を解し、粗末な部屋や台所を嫌い、上等の部屋でなくては気


に入らないという訳で、その他すべてが人間の通りである」との事で、その疑問に対


し私はこう答えた。「それはあなたの家の祖先が畜生道に堕ち、犬に生まれ代って


来たので、その因縁によってあなたの家に飼われるようになり、祖先としての扱いを


受けなければ承知しない訳である」との説明によって諒解されたのである。

 これは現在開業中の私の弟子が実験した事実であるが、今から二十数年以前、


横浜の某所にある中年の婦人、不思議な責苦に遇っているのを聞いたので好奇心


に駆られ早速行ってみた。本人に面会すると、彼女は首に白布を巻いていたが、そ


れを取り除くと、驚くべし一匹の蛇が首に巻きついている。その蛇は人語を解し、彼


女が食事をする時には一杯とか二杯とか量を限って許しを乞うと、その間蛇は巻き


ついていた力をゆるめるのである。それが約束より少しでも超過すると再び喉を締


めて、決して食わせないのである。ところがその原因について語ったところによれ


ば、「自分がその家へ嫁入後しばらくして姑が病気に罹ったので、自分は早く死ねよ


がしに食物を与えなかった。それがため餓死同様になって死んだ」そうである。「そ


の怨霊が蛇になって仇を討つべく、このような責苦に遇わせるのである」との事で


「一人でも多くの世の中の人に罪の恐ろしさを知らせ、幾分なりとも功徳をしたい」と


いう念願であるとの事であった。

 また動物の虐待について世人の誤解している事がある。それは動物に対し人間と


同様に見る事で、動物虐待は人間から見ると非常に苦痛のごとくに思うが、実はそ


れ程ではない。むしろ牛馬のごときは虐待さるる事を欲するのである。故にわざと歩


行を遅々とするのは鞭をあてて貰いたいからで、鞭の苦痛で走るのではない。牛馬


は打たれる快感を貪りたいためである。これについて、人間にもサディズム〔マゾヒ


ズム〕という性的変態症があるが、これは肉体的虐待によって快感を催すのである。


もちろんこれは牛馬のごとき虐待を好む動物霊の憑依によるのである。この意味に


おいて動物愛護や動物虐待防止は考えものであろう。

 ここで仏壇について説明をするが、仏壇の内部は極楽浄土の様相を備え、祖霊を


招ずるのである。極楽界は飲食饒(ゆた)かに百花咲き乱れ、香気漂い、優雅な音


楽を奏している。故に小やかながらもその型として飲食を上げ花を供え線香を上げ


るのである。また寺院においても同様で、木魚を叩き、鐃?(にょうばち)を鳴らし、笙


(しょう)、篳篥(ひちりき)の楽を奏するのは、いずれも音楽の意味である。また仏壇


へ飲食を供する際鐘を叩くのは霊界への合図である。

幸福への道

幸福への道

『明日の医術(初版)第二編』昭和17(1942)年9月28日発行

 凡そ如何なる人間と雖も幸福を希はぬ者は一人もあるまい。全く幸福こそ、人間


欲求としての最大のものであり、最後の目標でもあらう。そうして幸福の最大条件


としては、何といつても病気の無い人間、病人の無い家庭之以外にないであらう事


は余りに明白である。然し乍ら、今日迄の世界に於て、全く無病たり得る事は不可


能であるばかりでなく、現在健康であつても、何時如何なる場合に何等かの病気が


発生するかも知れないといふ不安は何人と雖も抱いてゐるのである。而も、偶々病


気に罹るとして、それが容易に治癒すべきものであるか、或は、容易に治癒し難いも


のであるかといふ事も全然予測がつかないのであるから、実に不安此上もないので


ある。其様な理由によつて、順調な境遇にある人も成功者になつた人としても病気


に対する不安がある為、真の幸福に浸り得られないといふのが事実である。

 そうして、凡ゆる不幸の根源は病気である事は曩に再三説いた通りである。貯蓄


の目的の大方は、罹病した時の用意であり、健康保険も生命保険もそれが為であ


る。孤児院も養老院も共済会も方面事業や、凡ゆる社会事業も、それが為であら


う。

 従而、国家が如何なる理想的政治を行ふも人間の病患を解決なし得ない限り、国


民の真の幸福はあり得ないのである。洵に健康こそ幸福の根本であり、否幸福の全


部であるといつても可いであらう。然るに今日迄、根本的に病患の解決をなし得る医


術も方法も、全然無かつた事である。

 私は、大言壮語するのではない。私の創成した日本医術と健康法によれば、人間


をして病患の不安から解放なし得る事は、既に述べた通りである。故に私は、私の


医術を知る人にして初めて幸福人となり得るといふ事を断言するのである。何千年


以来、人類が要望して熄(や)まなかつた所の“幸福への道”は、既に拓かれたので


ある。

五六七大御神となると、神であって、絶対力を発揮される

 五六七大神は、最後であるから御位も非常に高い。それ故にお願いなどは光明如来様にお願いする。五六七


大神様は崇め奉るのが本当で、お願いするのは天皇に直訴するようなものであるから、それはその御仕事をな


されている神様にお願いする。 


五六七大御神となると全世界を支配する事になる。そして総てが統一される。 五六七大御神となると、神であっ


て、絶対力を発揮される。


弥勒と観音は同じであるが、観音から応身弥勒となり、五六七大御神となられる。