悪人は終わる 悪人は死ぬ
最後の審判とは何か
『栄光』213号、昭和28(1953)年6月17日発行
最後の審判についてこれからかいてみるが、その根本としては言うまでもなく世界
的大清算であって、長い間溜りに溜ったところの罪穢(ざいえ)の浄化作用である。
従って余りに穢(きたな)くどうにもならないものは、地上から永遠に抹殺(まっさつ)さ
れる外はないから、恐ろしいのである。という訳で将来役立つものはもちろん残され
ると共に、役立たないものは処理されてしまうのは致し方ないのである。それは口で
言えばはなはだ簡単だが、これが人間にとっての脅威は、前古未曾有(みぞう)の大
異変であるから、到底筆や言葉では表わせないのである。つまり根本は、善と悪と
の立別けであって、善人は無罪となり、悪人は有罪者となる訳で、決定的審判が行
われるのである。従って現在地上にある人間ことごとくは、裁きの前の動物に等しき
運命に置かれているのだから大問題である。しかも悲しいかな、赦(ゆる)される者
は極く少数で、救われない者の方が大多数である事で、その割合は数字では表わ
せないが、大体右と思えば差支えないのである。
もちろん日本人も同様であるから、助かりたい人はこの際至急頭の切替えをする
事である。この事は昔から各聖者が神の代弁者としてハッキリ予言されている通り
で、言わばその時が来たのである。それも人類全部が救われるとは言わなかった。
ただ神の大愛によって一人でも多くを救えといわれただけであって、その使命をもっ
て生まれたのが我救世教であるから、まずこの認識が何より肝腎である。右のごとく
救われる人よりも救われない人の方が多いとしたら、この事を信者はよく心得て置
かなければならない。というのは病気を治し救おうとする場合その見別けが必要であ
る。なるほど誰も彼も一人残らず救ってやりたいのは山々だが、右のごとくであり時
の進むに従い、救われる人と救われない人とは自(おのずか)ら判るようになるから
で、これは神意である以上、いかんともし難いのである。従って浄霊を嫌ったり、話
に耳を傾けなかったり、逆にとったりする人は、すでに救われない側に運命づけられ
たからで、そういう人を何程分らせようとしても無駄であり、反って救わるべき人が疎
(おろそ)かになるから注意すべきである。
またせっかく御蔭を頂いても大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れ
たり、迷ったりする人もあるがこういう人はすでに縁が切れ、滅びの方へ廻ったのだ
から、手放した方がいいのである。以上によっても分るごとく、これからは入信させよ
うとする場合、素直に受入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生(しゅじょう)
として諦めるより仕方がないので、この意味に従い最後に近づくにつれて信者諸君
はまず善悪を判別する事である。
不空羂索観音は霊線のお働きですよ。不空ってのは空に非ずで、実際だっていうことですね
馬頭観音ていうのは観音様が獣になられるんで、悪魔と闘うときに獅子奮迅(ししふんじん)の働きをされ、そのと
きはそれはものすごく悪魔以上ですよ。たいへんなお姿で、馬の首になられ口から火焔を「カーッ」と吐いて、髪
の毛も逆立っていると言われますね。画や彫刻なんかにもありますね。
准胝観音っていうのは、これは変な字が書いてありますが、とにかく御位を低くされてのお働きですよ。准胝っ
ていう言霊がそうですね。准というのは従うという意味であり、胝は低いっていうことですからね。
不空羂索観音は霊線のお働きですよ。不空ってのは空に非ずで、実際だっていうことですね。羂索っていうの
が霊線に通ずるんですよ。
如意輪観音は如意の玉を振われるんで、これははっきり本に書きましたが、これはたいへんなお働きですよ。
十一面観音ってのは十一お顔があるんで、真ん中にお顔があって、その上の三つは慈悲で右横の三つは勇猛
ですね。それから左の三面は怒りですね。観音様も怒られるんですが、ただ行動には表わされないですがね。
それから後ろのが笑いです。そして一番上に仏様があってあれを仏と言いますがあれは阿弥陀如来でね、この
場合は阿弥陀様が観音様の上になってるんです。それは、実は、阿弥陀様は観音様の母になるんで、それを表
わしているんですよ。
魚籃観音っていうのは、漁師に魚を与えるんですね。これにはおもしろい伝説があるんで、非常に信仰の深い
漁師に観音様が魚を恵んでくださったんです。それから、その土地で魚籃観音を祀るようになったというんです。
あれはたしかインドでしたかね。
それから、揚柳観音というのは、揚は「あげる」ですね。柳は「やなぎ」の字が使ってあるけども、龍神のことであ
って、龍神を救うお働きなんです。
まだこのほかに、千手観音とかいろいろありますが、しかしたいして意味のないのもありますよ。例えば、白衣
観音、……もっともこれは意味がないこともないんで、観音様がごく落ちぶれたような姿をしていらっしゃるわけで
すね。それから龍頭観音なんて龍の頭の上に乗ったのもありますし、百体観音っていうのは百体あるんで、東京
の中野にあるお寺にちゃんと石で刻んで百体ありますがね。
とにかく、観音様ほどいろんなお働きは他にないんですよ。
男女の恋愛にしても根本は神秘的魅力である
私の神秘
未発表『私物語』昭和27(1952)年執筆
私はいつも思っている事は、私程不思議な人間は世界肇(はじま)って以来一人も
ない事を信じている。実に何から何まで不思議だ。自分でさえそう思っているのだか
ら、他の人としたら私という者の実体を想像してみても、結局群盲的であろう。という
のは神秘性が余りに多いからである。ところが面白い事には人間の欲の中で、最も
興味を惹くものとしては、何といっても神秘性であろう。そうして神秘というものは、あ
らゆるものに潜んでいる。彼の人類学者が古代の遺跡や、原始人の生活を研究す
るのも、その当時の神秘を探りたいからであろうし、科学者が一生を賭(と)してまで
も物理現象を研究し、解剖し、専攻するのも、無から有を生ぜしめたり、原子発見や
物質転換の理を知ろうとするのも、その物の神秘を暴こうと思うからであろう。また
医学者が一生を顕微鏡と首ッ引きで、死体解剖や動物実験に努力をするのも、生
命の神秘を掘出そうとする目的であり、天文学者が望遠鏡から大空を絶えず覗いて
いるのも、日月星辰、風雨雷霆、気候の変化などの研究に浮身をやつすのである。
その他歴史家、地理学者等もそうであり、文学者、美術家等がインスピレーションに
触れるべく、芸術的神秘を得ようとするのも同様であろう。このように専門専門によ
って形は異(ちが)うが、神秘を欲する点には変りはないのである。
また話は違うが、男女の恋愛にしても根本は神秘的魅力である。相愛する感情の
波に揺れつつ離れ難くなって、ついには生命までも犠牲にするのも実に神秘である。
というように人生は絶えざる神秘との戦いであるとも言えよう。実に神秘なるものは、
学理でも理屈でも分らないと共に、その力は無限である。従って今日のごとく文化の
進歩したのも、神秘探究こそ根本条件といってもいいであろう。そうして神秘中の神
秘ともいうべきものは、何といっても信仰であって、神仏に対する信仰の神秘性は、
恋愛以上といっても過言ではあるまい。とはいうものの単に宗教といっても、既成宗
教は一部を除いては、今日ほとんど神秘らしいものはないと言うのが実際であろう。
なるほど開教当時は相当神秘もあるにはあったであろうが、長い間に在るだけの神
秘は、最早暴(あば)き尽されてしまったのでもあろうが、そこへゆくと新宗教によっ
ては神秘性が多分にあるというのは、何だ彼んだ言われながらも今日既成宗教を圧
倒して相当の発展をしつつあるという事実である。ちょうど古女房と新婚ホヤホヤの
若い女性との相違のようでもあるが、しかし新宗教にも神秘性の多い少ないのある
事はもちろんだが、その中で自画自讃ではないが、特に我メシヤ教くらい神秘の多
い宗教は、恐らくあるまい。何よりも本教発展の速かなるにみても肯れるであろう。
そうしてその奇蹟の本尊が私であるとしたら、私という者に内在している神秘力は、
いかに豊富であるか想像もつかないであろうから、私は出来るだけ分らしたいと思う
が、この説明こそは実に困難である。どうしてもある程度以上は、その人の智慧証
覚に応じて覚るより仕方がないのであるから、精々身魂を磨いて覚者となる事であ
る。ではこれから色々な面から、私自身を解剖し、赤裸々に露呈しようと思うのであ
る。