mokiti okada -31ページ目

現在私ほど幸福なものはあるまいとつくづくと思い、神に対し常に感謝で一杯だ

私というもの

『地上天国』7号、昭和24(1949)年8月30日発行

 さきに「私の観た私」という論文を書いたが、先の客観論と違い、今度は主観的に


ありのままの心境を描いてみようと思うのである。

 現在私ほど幸福なものはあるまいとつくづくと思い、神に対し常に感謝で一杯だ。


これは何に原因するのであろうか。なる程私は普通人と違い、特に神から重大使命


を負わされ、それを遂行すべく日夜努力しており、それによっていかに多数の人々を


救いつつあるかは、信徒諸士の誰もが知るところであろう。ところが私のような特殊


人でないところの普通人であっても、容易に行われる幸福の秘訣があるから、それ


を書いてみるが、書くに当ってまず私の常に抱懐している心境を露呈してみよう。

 私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、ほとんど道楽のようになっている。私は


常にいかにしたらみんなが幸福になるかということをおもっている。これについてこう


いう事がある。私は朝起きるとまず家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をも


つので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。この点は世間と反対だ。世間は


よく主人の機嫌が良いか悪いかについて何よりも先に関心をもつのであるが、私は


それと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳


で、罵詈怒号(ばりどごう)のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事


が何よりも辛いのである。また一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこまでも


平和的、幸福的で、これが私の本性である。


 以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であると


いう理由によって私は「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」と常に言


うのである。


 私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大される事と思ってい


る。この文はいささか自画自讃的で心苦しいが、いささかでも裨益(ひえき)するとこ


ろあれば幸甚(こうじん)である。


歌の作り方に大体二つの型があると思ふ。

作歌について・巻頭言

『松風』第2巻第4号、昭和8(1933)年4月発行

 歌の作り方に大体二つの型があると思ふ。

 甲の型は物をとらへる機智、即ち特異象を鋭どく把握する芸術的叡智とでも言へ


よう。斯(こ)の種の人は普通正面から観るべき物を横から、裏から観て異相をとら


へんとする。言はば逆光線である。随而(したがって)作意は第二義的である。今一


つの型は、平凡な日常眼や耳にふるゝ茶飯事も詠ひ方で名歌にもなると言ふ信念で


作歌するのである。之を要するにどちらも片寄って真実でないと思ふ。つまり両方不


可分に精進してゆくのがいいと私はおもふ。

観音心と観音行


御論文
観音心と観音行

『観音の光』10号、昭和11(1936)年4月11日発行

 観音心とは観世音の御心の具現であり、観音行とはその具現の実行である。

 しからば観音心とはいかなるものであるか、これを出来るだけ判り易く説いて見よ


う。ついでに言うがこの観音心は、思想として未だ嘗(か)つて人類の経験にも、哲学


にも無いのであって、端的に言えば現在の思想が精〔清〕算されての後に来るもの、


即ち明日の思想である。

 この観音心とは一言にして言えば、応変自在融通無碍の心的活動である。今日ま


でのあらゆる思想宗教哲学等は、一定の法則主義主張又は戒律を造りそれを実践


せんとして飽くまで固着する結果、限られたる一定期の成果は在るが、時所位に依


る変化物象の流転に応化する能(あた)わずして、ついにその生命力を失墜してしま


うのは、余りにも瞭(あきら)かな事実である。たとえて言えば、国と国とは国是国策


を遂行せんとする固執によって一歩も枉(ま)げずついに戦をも起し、又政治団体は


主義に依って党派を生じ、階級はその利益の固執によって軋轢(あつれき)し、宗教


は解釈意識の相違によって、派を立てゝ相争う結果を生ずるのである。これが実に


人類社会闘争の根源であって、優勝劣敗も、弱肉強食も悉(ことごと)くがこの産物と


云ってもよいのである。


 この根本に気が付かなければならない。仏陀は慈悲を説き諭した、因果の法則を


示した、基督(キリスト)は愛と犠牲を、孔子は人倫の道を、モーゼは戒律をそれぞ


れ人類の為めに説いたことはすくなからず役立って居るのは否定すべくもない。しか


しこれら各々が持つ特殊性は、人類向上の為めの一分野であったに過ぎなかった。


何となればそのいずれもが、教理を立て戒律を造って居る。それはそれ自身が既に


限度を示して居る。この故に完全ではない、教の無い教、戒律の無い戒律、主義の


無い主義でなければならない。即ち応対変通である。それこそ宇宙の運行と倶(と


も)なる真理の具現である。これを卑近な例にとって見よう。人間の不正を矯(た)め


るに法律がある。この法律はかくすべからずの項目が何百何千もあるが、いかに努


力するとも所期の目的を達し得ないのである。それは法規の文字によって範囲と限


度とを示して居るからである。不正な人間はこの限られたる法文以外に不正な手段


を発見しようとするのが、何よりの実証である。法網粗であった時代より、法網益々


密になって、犯罪は減少しなければならないはずであるのに、事実はその反対の結


果をさえ示すと云う皮肉は、私の説を裏書して居る。

 彼の釈尊の八万四千もある経文は、法網の密なる理と、全く等しいと、思うのであ


る。

 この故に人間悪を絶対に匡正(きょうせい)する方法それは人間内面に在る魂の


工作でなくては根本的ではない。その魂さえ浄化清澄であったなら、例えば法律の


無い世界に住して居ても不正をやらないのは自明の理であるが、この状態の魂こそ


は、法規や道徳や戒律に何ら束縛をされて居ないところの、実に自由無礙(むげ)自


主的活現であるからである。天地と共なる真理そのままの姿であるからである。これ


即ち観音心である。