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死後人間の精霊は、直ちに霊界に入り、霊界の社会人となり、霊界の生活が始まるのである

生と死

『明日の医術 第三編』昭和18(1943)年10月23日発行

 そもそも、吾々の住むこの地上は「霊界と現界」に区別されていることは、すでに述


べた通りである。この理によって人間は、霊は霊界に属し、肉体は現界に属している


から、人が死ぬということは、肉体から霊が離脱して霊界に復帰することである。故

に、一般人が考えている死によって全部が消滅する――というような解釈は、全然


誤っているのである。私は約十年間位、人の死と霊界との関係を徹底的に研究し、


動かすべからざる根拠を把握し得たのである。

 故に、死後人間の精霊は、直ちに霊界に入り、霊界の社会人となり、霊界の生活

が始まるのである。そうしてまず人間が死の刹那(せつな)はいかなる状態であるか


を、霊界から観察する時の模様を書いてみよう。

 死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概(おおむ)ね人体の三個所から出るのであ


る。即ち前額部、臍(へそ)部、足の爪先からである。この区別はいかなる理由によ


るかというに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足


部という訳である。そうして霊の清浄なるものとは、生前善を行い、徳を積み、それ


によって霊体が浄化されたるもの、足部は生前罪悪を重ねたるもの、臍部はその中


間である。

 そうして、死の刹那を霊視したある看護婦の記録を私は見た事がある。これは最


も好い例であると思うから書いてみよう。

 これは、西洋の例であるが、人によって霊の見える人が、何万人に一人は日本に


も西洋にもあるのである。この看護婦もこの種のものであったと見え、なかなかよく


書いてあった。私は詳しい事は忘れたが要点だけを誌(しる)す事にする。ある時、


今や死に垂(なんな)んとする病人を熟視していると、額の辺から一条の白色の霧の


ようなものが濛々(もうもう)と立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうして


雲烟(うんえん)のごとく、一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、


間もなくしかも徐々として人体の形状になってゆき、数分後には、全く生前そのまま


の姿となって空間に立ち、凝乎(じっ)と自己の死骸をみつめているのである。その


際死骸に取ついて、近親者が悲歎にくれているのに対し、自分の存在を知らしたい


ような風にみえたが、何しろ幽冥ところを異にしているので、それを諦めたのかやや


暫くして向直り、窓の方に進んで、頗(すこぶ)る軽るげに外へ出て行ったというので


あるが、これは全く、死の刹那をよく表わしているのである。

 そうして仏教においては人の死を名付けて往生という。これは現界からみれば死


に往くのであるから往死でなければならない。しかしながら仏界は霊界であるから逆


になるので現界の死は仏界からいえば生即ち往生である。又、死ぬ前のことを生前


というのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は、霊界における生活を何


年か何十年何百年かを経て再び生れるのである。かくのごとく、生更(かわ)り死に


代り何回でも生れてくるのである。

 そうして霊界そのものは、人間に対しいかなる関係がありやというに、それは現界


において、神の御目的の受命者として、人各々の業務を遂行するにおいて、意識す


ると意識せざるとに関わらず、さきに説いたごとく霊体に汚穢(おわい)が堆積するの


である。それと共に肉体も病気老廃等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体で


ある衣を脱ぎすて霊界に復帰するのである。昔から霊の脱出した体を称してナキガ


ラというのは、そういう意味であり、カラダというのも同一の意味である。そうして霊魂


が霊界に入るや、汚穢の堆積した量に対し、浄化作用が行われるのであって、ある


程度、清浄化した霊魂は再び現界に生れてくるのである。

 又、人は生れながらにして賢愚の別がある。これはどういう訳かというと、古い霊魂


ほど賢いのである。何となれば、再生の度数が多い為、現世の経験が豊富であるか


らである。それに引換え、新しい霊魂は経験が浅い為、どうしても愚かであるのはや


むを得ないのである。新しい霊魂とは霊界における生殖作用によって新生するので


あるが、現界の生殖作用とは全然異なるそうである。

 又、誰しも経験する所であるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子


のごとく兄弟のごとく、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、これは、前生にお


いて、近親者又は非常に親密な間柄であった為である。これらを称して因縁というの


である。袖すり合うも他生(たしょう)の縁とかいうような事も無意味ではないのであ


る。

 又旅行などした時、ある場所に非常に親しみを感ずる事がある。それは前生にお


いてその辺に住み、又は永く滞在していた為である。

 右の様に、前世と今世との関係は、あらゆる事に影響しているのである。

 又、よくこういう事がある。非常に嫌いな物とか、恐ろしがるものがある。たとえてい


えば、犬や猫・鼠等を見て恐ろしがったり、又は蛙、蟻、毛虫等のごとき虫類を怖れ


たり、水を見ると慄(ふる)えたりする人がある。それらはどういう訳かというと、犬・


猫・鼠等に噛まれて、それが原因で死んだので、その恐怖が霊魂に染み着いている


為である。又、虫類を見て恐怖の刹那顛落し、それによって死んだり、水に落ちて死


ぬ等によって、その恐怖が霊魂に染みつき、それが全く解消しないうちに再生する


からである。


 以前、私が扱った患者にこういうのがあった。その人は、誰も居ない場所では恐ろ


しくて寸時も居られない。故に、一人留守居をする時は、往来へ出て立っているので


ある。これはどういう訳かというと、前世の時、独居の際急に発病し、人を呼んでも来


ない中に死んでしまったので、その時の恐怖がのこっている為である。こういう人の


例は割合多いものであるから、読者の知人にして、右と類似の行動がある人を観察


する場合、右の私の説を参考にすれば大抵判断はつくはずである。

 又、世間よく非常に心が良い人であるに拘わらず、まことに不幸な境遇の人があ


る。こういう人に対し、その知人などが常に疑問を起すのであるが、この疑問に対


し、私は次のごとく解くのである。
 人間が前世において悪事を重ね、それが為、刑場において死罪になるとか、又は


何らかの刑罰を受けるか、恨まれて生命を奪われる場合死に直面した時、深く前非


を悔悟し、悪の結果の恐ろしさを知って、この次生れた時は決して悪は為(な)すま


いと心に誓うのである。その想念が再生してからも強く滲みつき、悪を厭(いと)い善


事を為すのである。しかるに再生しても前世における罪穢が未だ残存している為、そ


の浄化作用としての苦悩を受けなければならないのである――という理由である。


 又、男子であって、非常に貞操の正しい人がある。自分の妻以外の婦人には決し


て関わりを作らないというのであるが、これらも前世において、婦人の為大いなる失


敗をなし、身の破滅にまで到り、死に際会して悔悟し、この次の世では、決して正し


からざる婦人関係は作らないと固く決心したという訳である。

 又、歴史を繙(ひもと)く時、ある時代の場面や人物などに、何かしら親しみか又は


憎悪等関心を払わずにおられない事があるが、それらは自分がその時代に生れ合


せ、関係があった為である事は勿論である。

神の意志は絶対愛と慈悲そのものである

神と悪魔

『明日の医術 第三編』昭和18(1943)年10月23日発行

 私は、神と悪魔について説いてみるが、これはまことに大胆極まるものと思う。何と


なれば人間は人間であって神ではない。又同様な意味によって人間は悪魔でもな


い。従って人間は飽くまで神たる事も得ない代りに、悪魔たり得る事も出来ないので


ある。ただ一時的神に等しき想念と行為は為し得るものであり、又、一時的悪魔にな


り得る事もあるであろう。

 しかるに私は、霊的研究を為しつつある裡(うち)に神の御意志とはいかなるもので


あるか、又、悪魔の意志なるものもいかなるものであるかを想像し得らるる位の観


念を得たと思うから、それをここに説こうとするのである。

 しからば、神の意志とは何ぞや。いうまでもなく絶対愛と慈悲そのものである。しか


しながら、私のいう神とは正しい神の事であって、世人は、神といえば全部が正しい


ものと想うようであるが、実は等しく神といえども、正神もあれば邪神もあるのであ


る。本居宣長(もとおりのりなが)の歌に、

 八百万神はあれども心せよ

     鳥なるもあり蟲なるもあり

 とあるが、全くこれらを詠じたものであろう。そうして今日までは、むしろ邪神の方が


多く、正神は少なかったのである。何となれば夜の世界であったからである。

 ここで、今一つ重要な事がある。それは一神説と多神説であって、キリスト教のごと


きは一神説であり、日本神道はほとんど多神説である。これはどちらにも理由はあ


るのであるが、日本だけでいえば多神説が正当である。それは神は一神にして多神


であるという説が本当であるからである。そうして人間界に階級があるごとく、神にも


階級がある、その階級は私の研究によれば九十一あるのである。昔から八百万の


神といわれるが、全くその通りであろう。

 ここで、参考の為、邪神なるものを解剖してみよう。世間よく神様の罰があたるとい


う言葉があるが、これは邪神系の神様である。何となれば、罰という事は人を苦しめ


る事であるから、人間に対し、絶対愛より外にないのが正神であるから、そのような


事はない訳である。又金を上げれば病気が治るというような神様も邪神である。何と


なれば、金を上げれば病気を治すという事は一種の交換条件であって、いわば神対


人間の取引のようなもので御利益を売る訳であり、実に浅間しき限りである。これら


は正神は聴届け給う事はないので正神は、人間からの報酬や条件などに関わら


ず、無我愛に救わせ給うのである。

 右のごとく、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、反対に不幸な結果を来


す事も往々あるから、そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。ち


ょうど、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であっ


て、これらは神様を看板にして行う一種の詐偽〔欺〕的行為といっても差支えなかろ


う。しかるに、こういう目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣


寝入に終るというのが常態である。故に、これを奇貨として布教師等が病人の懐を


絞るという行為を見受けるが、実に赦すべからざる罪悪で、世人はかような事に騙さ


れぬよう大いに注意すべきであろう。従って、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰


する場合、顕著な御利益があり、いかに考えても、神仏の御加護に違いないと思わ


れるような事があった場合、その感謝の誠を捧げるという意味で金銭又は品物を上


げるのが本当である。

 又、よくその宗教の信者が「その信仰を離れれば罰が当って不幸になる」とかはな


はだしきは「一家死に絶える」などというのがあるが、これらは、神が人間を脅迫する


事であり、邪神である事はいうまでもない。
 又、自己の願望を神に祈願する場合、正しからざる事、たとえていえば人を呪いあ


るいは自己の欲望の為社会を毒し、他人に迷惑をかけるような事等の願を聞届け、


幾分でも成就させる神は邪神であって、正神においては正しき願事以外は聴届け給


う事はないのである。以前私は友人から聞いたのであるが、盗賊の常習者の団体


が講中を作って、ある有名な神社へ参拝するのであって、そうする事によって、容易


に捕まらない御利益があるというのである。これらは実に怪しからぬ事で、神様に罪


があるのか人間に罪があるのか分らないが、真実とは思われない位の話である。

 この意味によって、正しい神仏か正しい宗教であるかという事は、何よりも常識に


よって判断するのが一番間違いないのである。奇嬌〔矯〕なる言説や態度等は勿


論、いささかなりとも国家社会の秩序に反するような点があれば、それは邪教と見な


すべきである。又、世人の気の付かないところに反国家的の邪教がある。それは何


であるかというと、朝から晩まで拍子木を叩いたり、又は数時間に渉って経文を読む


事を可としている信仰である。これらは無益に時間を空費する結果、国家の生産力


に影響する事は勿論である。右のごとき愚昧なる信仰は一部分であろうが、もし多


数人が行おうとすれば、生産増強上由々しき大事であろう。時局重大の折柄、当局


においても一考されたいと思うのである。

 そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべき


である。ちょうど、子に対する親の愛の一層拡充されたものといえるのである。故


に、罰をあてるという事は正神には決してないのである。しかしながら正しき信仰か


ら放れ、邪神邪教に迷うか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害


を受けるというその事が、罰が当ったように見えるのである。

 しかしこういう事もあるから注意すべきである。それは邪教信仰者が、その信仰か


ら放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく


災害を蒙らせる事がある。それらは全く罰が当ったと同じ意味であるが、これらは脅


迫信仰に多いので、そういう事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番そ


れを突破するにおいて邪神は手を引くから、その後は何らの障りはないのである。


要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行を為すにおいて、天


下恐るべきものはないのである。

 次は、悪魔についてかいてみよう。悪魔の心裡は一言にしていえば、神の御意志


とすべてが相反するという事である。即ち人に災厄を与え苦しめ、絶望せしめ、不幸


のドン底に陥れ、遂には滅亡さしてしまうという、実に人間として想像し得られない残


虐性をもっているものである。故に、一点の慈悲、一掬(いっきく)の涙さえないので、


それが悪魔の本性であるからやむを得ないのである。右のごとく人間を苦しめる事


が、悪魔にとっては、実に愉快で、無上の喜びであるらしいのである。

 右のごとく、絶対愛の神の御意志と、絶対悪の悪魔の意志とは両々相対して、常


に葛藤を続けつつあるのが、今日までの人類社会のあるがままの姿である。故に、


これを大にしては国際的となり、社会的となり、小にしては個人的にもなるのである。


この意味において、個人の小さなる意志想念の世界においても、常に神と悪魔と対


立し、闘争している事は、何人も日常体験しているところであろう。そうして個人にお


いては神の意志は良心であり、悪魔の意志は邪念であるから、良心が勝てば永遠


の栄えとなり、邪念が勝てば身の破滅となる事はいうまでもない。何となれば、神の


御意志は栄えを好み給い、悪魔の意志は破滅を喜ぶからである。

 右のごとく、私は神と悪魔について、私の想像をかいたのである。

 次に、人間の心中における、神と悪魔即ち善と悪とについて、徹底的に説いてみよ


う。

悪人とは何ぞや、言うまでもなく善人の反対であって自己の利益のため他人を犠牲にして平気でいる

愚かなる者よ! 汝の名は悪人なり

『光』7号、昭和24(1949)年4月30日発行

 悪人とは何ぞや、言うまでもなく善人の反対であって自己の利益のため他人を犠


にして平気でいるばかりか、中には一種の興味のためかとも思える奴さえある、こ


こでまず彼らの心理を解剖してみるが、よく悪人は太く短くという事を口にするが、悪


事千里のたとえ通り長い期間は隠し了(おお)せないという意味であろう、従って彼ら


は初めから承知してかかるのでもし知れたら百年目という覚悟である、ところが単に


悪事というと市井(しせい)の無頼漢が強窃盗や殺人等のように想われ勝ちだがそう


ばかりではない、社会的地位のあるものが実に危険至極と思われるような不正をす


る、終戦後新聞雑誌を賑わしているものに物質の隠匿横流し、脱税、贈収賄等の忌


わしい犯罪があまりにも多い事実である、この人がと思うような立派な名士等が小菅


(こすげ)行となるなどは不思議と思うくらいである、しからばなぜ以上のような不正を


行うかというと人の目を誤魔化し、巧妙にやれば知れずに済むという考えからである


事はもちろんである、ところが悪い事はどうしても知れずにはいない、これは見えざ


る霊界における神々が照覧ましましているからで、常に吾々が口を酸っぱくして言う


ところの「無信仰者は危険人物である」とはこの事で、相当偉い人でもこの肝腎の事


が認識出来ないのである。

 ところが一度不正が暴露し犯罪者となった以上社会的信用は失墜し、それを挽回


するまでには相当長年月を要する事はもちろんで、中には運悪く一生埋れ木となる


人さえ往々見受けるのである、考えてもみるがいい、ちょっとした不正利得のために


及ぼす損失たるや、利得した何倍何十倍に上るか知れないのである。

 明治時代有名なピストル強盗清水定吉なるものが捕えられた時、彼はつくづく述懐


したそうである、その言葉によれば「強盗くらい割の悪い商売はない、自分が今まで


盗んだ金を日割にすると一日四十五銭にしが当らない」との事であるからいくら物価


の安かった明治時代でも全く割に合わなかったに違いない。

 以上のごとく信仰上から考えても打算的からいっても割に合わないばかりか、罪悪


が暴露するまでの期間常に戦々兢々として枕を高くして寝る事は出来ないのである


から悪事不正をやる人間くらい愚かな者はない訳である、ゆえに標題のごとく「愚か


なるものよ! 汝の名は悪人なり」と言うのである。