稲荷は家の内には絶対祭ってはいけない
稲荷というものは、最初は豊受明神といって五穀の神が、稲を日本中に配られた。このとき狐を使って、狐にそ
れを咥(くわ)えさせて日本中を配った。それで字によってみると、稲を荷なうという字です。またある説によると、
飯成りといって飯をならせるという説もあります。また稲荷の画をみると、狐が稲を咥えて宙を飛んでる、その上
に女神が乗っている。これが豊受明神で、そういう具合に稲を狐が配った。その稲を感謝の意味と、また配っても
らいたいという意味から、お百姓が田圃にお宮を建てて祭った。それが正しい意味であります。ところが、世は邪
神の世となって、狐を使って悪い働きをした。邪神の親玉として出たので、豊川稲荷などに荼枳尼(だきに)天神
というのを中途で祭ったが、あれは金毛九尾の狐で、以前は稲の意味ばかりであったが、今度はなんでもきく利
益があるようになった。芸者や女郎が人をだまして金がよけい入るとか、財産を潰すことなどを願って、それを狐
が引き受けることになって、ぜんぜん本来の使命は没却され他のことになり、そのために正一位稲荷大明神と明
と神とを入れ、鳥居とか食物を上げさし、いばって、終には人間を下に見くだすようになった。これは人間が奉っ
てそうしたんで、稲荷の根本はそういう意味なんであります。
いま東京でなど、百姓でない人が祭ることはぜんぜん違っている。狐がどんな神通力があっても、四ツ足で人
間より下のもので地べたを歩くものです。これに家の中で人間より上に祭るというのはたいへんな間違いで、霊
界ではそこは地べたになるから人間のいる所は地の下になるわけですから、狐を祭れば災難や病人が絶えず、
うまく行かぬ。これは卜(うらない)者よりもよく当たる。ですから、家の内には絶対祭ってはいけない。ただし、祖
先が畜生道に落ちて狐に生まれて来ることがある。そういう場合は祖先ですから、祭ってはいけないと、その宮を
壊すのはいけない。そういう稲荷は、庭なり空き地へ丁重にお祭りする。いかに祖先だといえども天地の規則は
枉(ま)げられぬ。四ツ足を座敷に祭るということはいかん。丁重に祭ると稲荷も、喜び、ますますその家を守って
くれる。ただ人間より上の座敷に祭るということはいけない。よく四ツ足のことですから、稲荷が祟ったりなどする
から、気をつけなければならないのであります。
人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取り巻く
人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取り巻く、一人くらいならいいが、百人千人
となってその人を取り巻くと、その人は病気になる。曇りが多いと悪霊が寄って来るから、どうしても病気災難な
ど受ける。反対に人を助けるとありがたいと思う想念が光となって行く。この間救世主の身体からは光が出るとい
うことを言いましたが、この理を考えれば判る。救世主は何万何千万の人を助けると、ありがたいという想念が無
数の光となって寄って来ると、光で取り巻くから肉眼でも見えるようになる。無論内部からも出るんで、内外両方
の光が同時になる。
幸運者を作る宗教
幸運者を作る宗教
『栄光』212号、昭和28(1953)年6月10日発行
本来宗教とは何かというと、不幸な人を幸福に導くために、神の愛によって発生し
たものであって、それ以外の何物でもない。知らるる通りこの世の中に生を営(いと
な)んでいる誰もは、幾ら一生懸命に幸運になろうとしても、中々思うようにはならな
い。一生涯かかって幸福になる人は九牛の一毛で、ほとんどの人は幸福どころか逆
に後から後から不幸という奴が見舞って来る。というように学校で学んだ学理も偉い
人の修身談や伝記、それに関する書籍を読み、その通り実行しても役立つ場合は
稀である。なるほど理屈は実によく出来ていて感心はするが、実際となると理屈通り
にゆかないのは誰も経験するところであろう。
早い話が正直主義でやると、お人好しやお目出度人間にみられるし、方針を変え
て変な事をすると、今度は信用を落したり、下手(へた)をすると法律に引っ掛ったり
するので、どっちにしていいか分らない事になる。そこで小利口な人間は正直らしく
見せかけ、裏で不正直をやり、口を拭いて知らん顔の半兵衛を決め込むに限る。と
いうのが世渡り哲学という訳で、今日の人は滔々(とうとう)としてその哲学信者にな
ってしまい、このチャンピオンが出世頭となるのであるから、どうしても一般はそれを
見習いたがる。これが社会悪の減らない原因であろう。このような世の中だから、正
直者は馬鹿を見るなどと言われるのである。ゆえに正直な人間程融通の利かぬ時
世後れとされるし、正義など唱える人間は人から煙たがられ相手にされず、社会の
落伍者となるのもよく見受ける。
このような世の中に向かって、私は常に正義感を振り翳(かざ)しているのであるか
ら、並大抵の努力ではない。普通人は馬鹿馬鹿しいと思うであろうし、宗教家の決り
文句で、意気地なしで欲のない変り者くらいにしか見ないであろう。そんな訳で以前
は新聞雑誌などにも蔑視的興味本位に書かれたり、裁判沙汰などにされたりして随
分虐(いじ)められたものである。それというのも私は悪と闘うべく、思い切ってかい
たりするので、それが祟(たた)ると共に、急激の発展に対する嫉視(しっし)も手伝
い、大木に風当りが強い訳であろう。
ところがそのような圧迫に遭いながらも、一路発展の道を辿(たど)りつつあるその
力強さに、近頃は余程見直したらしく、形勢も大分緩和されたのでやり良くなったの
は何より嬉しく思っている。それというのも神様が後楯(うしろだて)になっている以
上、いかなる攻撃に遭ってもビクともしないからである。というのは本教には今までの
宗教に見られない大きな武器をもっているからで、それをかいてみよう。
それについては今日までのあらゆる宗教のやり方を見れば分る通り、大別して二
通りある。一は真向から正義を振り翳(かざ)して進む信仰で、この代表ともいうべき
ものは彼(か)の日蓮の法華教で、アノような法難に遭ったのもそのためである。そ
れが災いとなって宗祖一代中は余りパッとせず、数百年かかって今日のごとき隆盛
を見たのである。といって法難を恐れ安全の道を辿るとしたら、拡まるにしても大い
に時を要するか、さもなければ消えてしまうであろうから、ここに難しさがある。しかし
有難い事には民主主義となった今日、信教の自由を許されたので、終戦以前の日
本と違い大いに恵まれ、致命的法難も避け得られたのである。という訳で私の大方
針たる正義を貫くべく、一歩一歩悪を排除しつつ、善の目標に進みつつあるのであ
る。
次に問題である人間の幸福についてかいてみよう。すなわち幸福を生む根本は何
かというともちろん善であるがこの善を通そうとするには悪に勝つだけの力がなくて
はならないのは言うまでもないが、既成宗教にはこの力が不足していたため、真の
幸福は得られなかった。そこで物質は諦め、せめて精神面なりとも安心を得たいと
の民衆の要求に応えたのが、彼の仏教の悟りの説である。またキリスト教ではキリ
ストに習えという贖罪(しょくざい)精神で諦めさせたのである。彼の“右の頬を打たれ
れば左の頬を出せ”と言ったのも、無抵抗的悪に対する敗北精神であった。以上の
ごとくことごとくの既成宗教は物質的には悪に勝てないので、考え出したのが現当利
益否定説である。いわく現当利益本位の宗教は低級であって、精神的救いこそ高級
宗教なりとの説を唱えたのは無理はないが、それはある時期までの便法(べんぽう)
でしかなかったのである。これについて二、三の例を挙げてみるがよく長い間病気で
苦しみながら救われたといって満足しているが、これは無理に本心を抑えつけて諦
めているにすぎないので、一種の自己欺瞞である。病気が全快してこそ本心からの
満足感を得らるるのが真実である。また昔からその信仰にいか程熱烈であっても、
物質的に恵まれず、不幸の絶えない家庭もよくあるが、その結果精神的救いのみが
宗教本来のあり方と錯覚したのである。
ところが我が救世教は、精神的救いと共に物質的にも救われる。むしろそれ以上
といってもいい程である。本教が数年の間に現在見るごとく、各地に地上天国や美
術館等を造営しつつあるのもことごとく信者の寄付金である。しかも本教は最も搾取
(さくしゅ)を嫌い、自発的寄付を方針としている。にもかかわらずこれ程の大規模の
事業を経営するとしたら莫大な基金を要するのはもちろんで、それが集ってくるの
は、実に奇蹟である。これにみても信者の懐(ふところ)が楽であるからである。しか
も一時的ではなく、多々益々増えるのであるから、金銭上の心配などした事はない。
次に言いたい事は時代である。昔の各宗教が出た時代は小乗信仰でよかったか
ら、祖師(そし)は紙衣(かみこ)の五十年式で済んだが、今日となってはそうはゆか
ない。一切万事世界的となった以上、全人類を救うとしたら驚くべき大仕掛でなくて
はならない。つまり規模が大きい程救われる人も多数に上るからである。以上のごと
き本教の大計画を知ったなら、何人といえども本教を見直さない訳にはゆかないで
あろう。