mokiti okada -24ページ目

霊の地位向上こそ幸運の根本

幸運の秘訣

『栄光』246号、昭和29(1954)年2月3日発行

 この事について私は以前もかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不


な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。言うまでもなく昔から


人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、こ


の考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。というのは最も分りたい


と思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ


程結構な事はあるまい。ところが、幸いなるかな私はこの根本がハッキリ分ったので


ある。そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以っ


て説くのである。

 それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠(ぼうばく)たる掴ま


えどころないものはあるまい。しかも自分ではどうにもならないので、あなた委(まか)


せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。誰かが言った“人


生は大賭博なり”とは宣(むべ)なるかなである。従ってどんなに偉いといわれる人で


も、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいう


のであろう。そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。それ


がためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生と


いうものであろう。そうして運くらい皮肉なものはない。掴もうとすればする程逃げてし


まう。西洋の諺(ことわざ)に“幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴ま


ないとお終(しま)いだ”というが全くその通りである。

 私の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。訳


なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜け


てしまう。追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。とこ


ろが私はこの運という奴を確実に掴えたのである。だがそれを説明するに当って困


る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。というのは


物を見る場合上面(うわつら)だけを見て中身を見ない事で、否(いな)見えないので


ある。ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は


決して掴めない。という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、


中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。その訳


を詳しくかいてみよう。

 まず右の理を押し広げるとこういう事になる。すなわち上面とは現実界であり、中


身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。これがこの大世界の組織であ


って、造物主はそう造られたのである。故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を


動かすのである。しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界


にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんで


ある。では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な


階級制度になっている。それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段


階に分れている。もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界(ちゅううかい)といい


現界に相応している。

 こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私は神から詳しく知らされ、


その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであ


るから、寸毫(すんごう)の誤りはないのである。何よりもこの理を信じて実行に移し、


幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人


である。それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかであ


る。そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界


に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍の


ようなものである。しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命


もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。言うまでも


なく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜


行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。これに反し上段へ行く

程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和(けんぷわ)の理想境であり、中段


は中位である。

 以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸


運の根本である事が余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よ


く出世をして人から羨(うらや)まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまで


も続くと思っていると、豈(あに)計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥(もくあみ)


となる例もよくある。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しか


も人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、


霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重


量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。昔から罪の重荷というが、


その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るので


ある。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊


を軽くする事こそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のない


事は断言するのである。といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難


かしいものである。ところが容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸


運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。

大宇宙の構成

一の世界

『栄光』111号、昭和26(1951)年7月4日発行

 そもそも、現代文明を検討して見る時、その構成は唯物科学が基本であることは


うまでもないが、今それについて詳しくかいてみよう。

 それについてまず知っておかなければならない事は、大宇宙の構成である。といっ


ても人間に直接関係のない事は省き、重要な点だけをかいてみるが、本来宇宙なる


ものは、太陽、月球、地球の三つの原素から成立っている。そうしてこの三つの原素


とは火、水、土の精で、その現われが霊界、空気界、現象界のこの三つの世界であ


って、これがよく融合調和されているのが実相である。ところが今日まではこの三原


素中の二原素である空気界と現象界(物質界)だけが判っていたばかりで、この二


原素の外に今一つの霊界なるものの在る事が分っていなかったのである。というの


は唯物科学では、全然把握する事が出来なかったからである。従って、右の二つだ


けの進歩によって出来たのが、現在のごとき唯物文化であるから、つまり三分の二


だけの文化という訳である。

 ところが何ぞ知らん、この無とされて来た三分の一の霊界こそ、実は二と三を二つ


合せたよりも重要な、基本的力の中心であるから、これを無視しては完全な文明は


生まれるはずはないのである。何よりも二つの文化がこれほど発達したにかかわら


ず、人類唯一の欲求である幸福が、それに伴わないのがよくそれを示している。従


って今この矛盾の根本を充分検討してみると、これには深い理由のある事を発見す


るのである。というのはもし人類が、初めから一の霊界のある事を知ったとしたら、


物質文明は今日のごとく、素晴しい発達を遂げ得なかったに違いない。何となれば


霊界を無視したればこそ、無神思想が生まれ、その思想から悪が発生し、その結果


善と悪との闘争となり、人類は苦悩に苛(さいな)まれつつ、ついに唯物文化の発達


を余儀なくさせられたからである。これを深く考えれば、全く深甚なる神の経綸でなく


て何であろう。ところが物質文化がある程度発達するや、それ以上は反って文化の


破綻(はたん)を来すおそれが生じて来た。何よりも彼の原子爆弾の発見で、もちろ


んこれもその一つの表われではあるが、ここに到っては最早文化の進歩に対し、一


大転換が行われなければならない天の時となったのである。その第一歩として、無と


されていた一の霊界の存在を普(あまね)く人類に明示される事となった。といっても


無の存在である以上、その方法たるや、科学では無論不可能である。そこでいまだ

かつて人類の経験にない程の偉大なる力の発揮である。すなわち神の力である。と


ころが長い間唯物主観に固まっていた現代人であるから、納得させるには非常な困


難が伴うのであるが、これに対し本教が行う唯一の方法としての奇蹟がある。すな


わち本教の浄霊法こそそれである。これによっていかなる無神論者といえども、一挙


に承服せずには措(お)かないからである。従ってこの事が普く人類社会に知れ亘


(わた)るにおいては、世界共通の真文明が生まれんとして、現代文化は百八十度


の転換を、余儀なくされるであろう。

 ところがここに残された厄介な問題がある。それは何千何万年も掛って、今日のご


とき文化を作り上げたのであるから、これまでにはいかに多くの罪悪が行われたか


分らない。罪悪とはもちろん霊体の汚穢で、それが溜り溜っている以上、このままで


は新世界建設に障碍(しょうがい)となる。ちょうど家を建てる場合、木屑、鉋屑(かん


なくず)、その他種々の塵芥(ちりあくた)が散らばっているようなものであるから、こ


こにその清浄作用が行われなければならないが、これもまた止むを得ないのであ


る。キリストの最後の審判とはこれをいわれたのであろう。

 以上によっても判るごとく、本教が素晴しい奇蹟を数限りなく現わしているこの事実


こそ、一の世界の存在を認識させるための、神の御計画でなくて何であろう。そうし


て神は私にこの大任を荷(にな)わせ給うたのである。

悪いことをすると霊界の閻魔の庁に記録され悪事の大小によってそれ相応に罰する

悪は何故暴露するか

『栄光』136号、昭和26(1951)年12月26日発行

 私は前々号に無神迷信の題名の下に、公務員の汚職問題について詳しくかいた


ら、大体分ったであろうが、要するにその根本は不正をする人の心理である。もち


ろん人の目にさえ触れなければ、どんな悪い事をしても隠し終(おお)せるという、い


わゆる無神思想である。そこで今一層徹底してかいてみるが、なるほど右の考え通


り悪が絶対知れずに済むとしたら、こんな旨い話はないから、出来るだけ悪い事をし


て、儲けた方が得という事になる。今日悪い事をする人間のほとんどは、そうした考


え方であるのは言うまでもない。ところがいくら巧妙にやっても、いつかは必ず暴露し


てしまうというこの不思議さである。としたら彼らといえどもそこに気が付かない訳は


なかろうが、本当の原因がハッキリ分らないがため、悪事を棄て兼ねるというのが偽


らざる心情であろう。

 そこで私はなぜ悪事は、必ず暴(ば)れるかというその原因を明らかにしてみるが、


まず何より肝腎な事は、なるほど人の目は誤魔化す事が出来ても、自分の目は誤


魔化せないという点である。どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと


知っている以上、自分には暴露されている訳である。そうして一般人の考え方は、自


分は社会の一員としての独立の存在であって、別段他には何らの繋りがないから、


何事も自分の思った通りにやれば一向差支えはない。だから自分に都合のいい事、


利益になる事だけを巧くやればいい、それが当世利巧なやり方であるとしている。従


ってたまたま利他的道義的な話を、先輩や宗教人などから聞かされても、上辺(うわ


べ)は感心したように見せても、肚の中では何だ馬鹿馬鹿しい、そんな事は意気地な


しの世迷言(よまいごと)か、迷信屋の空念仏だくらいにしか思わないのが実際であ


ろう。全くそういう人間こそ形に囚われ精神的には零でしかないから、人間としての


価値も零と言えよう。

 右は現代人大部分の考え方を、ありのままかいてみたのであるが、ではこういう思


想の持主が、果して将来幸福であろうかというと、例外なく失敗するのである。

 ではなぜ失敗するかというと、前述のごとく、悪は人には知れなく共、自分だけは知


っているのだから、この点が問題である。なぜかというとどんな事でも、人間の肚に


あるものは何でも彼んでも、手に取るように分るある恐ろしいところがある。その恐


ろしいところとは一体どこかというと、これが霊界にあって現界でいえば検察庁のよう


なところで、いわゆる閻魔(えんま)の庁である。ところが悲しいかな、唯物思想に固


まった人間には信じられないので、たまたま人から聞かされても、そんなものはある


もんかと否定し、少しも耳を傾けようとしない、この想念こそ悪の発生源である。この


理によって本当に悪を無くすとしたら、これを教え信じさせる事で、これ以外効果ある


方法は絶対ない事を断言するのである。では閻魔の庁へなぜ知れるかというと、人


間の魂とその庁とは霊線といって、現界の無線電波のようなものが一人一人に繋が


っていて、一分の狂いなく閻魔の庁に記録されてしまう。庁には記録係があって、


一々帳簿へ載せ、悪事の大小によってそれ相応に罰するので、それが実に巧妙な


手段によって暴露させ、現界的刑罰を加えるのであるからこの事が肚の底から判っ


たとしたら、恐ろしくて少しの悪い事も出来ないのである。もっともその反対に善い事


をすれば、それ相応な褒美を与えられるという、これが現幽両界の実相であるから、


この世界は神が理想的に造られたものである。

 これが絶対真理であってみれば、これを信ずる以外、根本的解決法はないのであ


る。ところが現代はそういう霊的な事は、政府も有識者も盲目であるから、反って大


衆に知らせるのを非文化的とさえ思っているのだから、困ったものである。そんな訳


で、せっかくそれを分らせようとする吾々の仕事も、迷信と断じて警戒するくらいだか


ら、本当からいえば御自分の方が、余ッ程迷信にかかっているのである。その何よ


りの証拠は、これほど骨を折っても、汚職などの犯罪は少しも減らないばかりか、む


しろ増える傾向さえ見えるではないか、それは単に表面に現われた犯罪を膏薬張で


防ごうとしているのだから駄目で、容易に抜けられそうな法網を張ったり、誰でも破


れるような取締りの塀で塞ごうとしていて、全然急所が外れているのだから、その愚


及ぶべからずといいたいくらいである。しかもこれが文化国家と思い、得々としてい


るのだから、余りに幼稚で、現在は文化的野蛮時代といってもよかろう。