ツアコン ESSEの旅ネタ館

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旅の番組や各地の情報・歴史番組を見ると、行ってみたくなりませんか?
実際に旅行に行った時に、現地の歴史やいろいろな情報を知っていたらさらに楽しめると思いませんか?

そんな、情報を集めてみました。動画でも紹介しています。

テレビの旅情報番組など、ネタのなりそうなのに見逃してしまう、まとめるのが面倒、いちいちそんな暇ない、というみなさんのために、まとめたりしています。また、私自身がいろいろな資料、参考文献などをまとめたものもあります。

旅行に行くときの資料にしてもらったり、旅行先を選ぶ時の参考にしてもらえたらいいなぁ、と思っています。

動画もついていますので、いろいろな場所の画像を検索することができますよ。


旅の動画検索はこちら


また、みなさんからの現地情報や、タイムリーなネタなどもコメントいただければ嬉しいですニコニコ

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すみません、ご無沙汰しております、ESSEです。



今回はスペインでのうれしいハプニングの報告と

現在更新しているサイトのお知らせです。


使い勝手の理由から今はこちらで更新してます。



新婚旅行ヨーロッパ~世界遺産を巡る旅 といいます。



ヨーロッパの旅情報を発信しています。



是非、こちらもご覧になってくださいネ。



で、話は変わって、

実は今回の添乗でうれしいハプニングがありました。




現地の新聞に私たちのツアー一行が掲載されたのです。




観光協会の人と、ガイドさんが知り合いで、

是非、フラメンコイベントの記者会見においでよって誘われたので、

ツアーのみんなで伺いました。



で、現地のハポンさんの代表者を囲んで撮った写真が新聞に載りました。



ハポンさん?と思ってらっしゃる方も多いと思います。



ハポンとはご先祖さまが日本人なのです。

今から400年前、仙台藩、支倉常長を大使とする慶長遣欧使節団の一行のうち、

日本に帰国しないでスペインに残留した日本人たちの子孫なのです。



当時、一般市民は名字が無かったので日本から来た人は皆、

ハポン(日本)という名前を付けたのです。



現在、人口24000人のコリア・デル・リオ市には650人のハポンさんがいます。

当時、残留した日本人の子孫です。



昨年、日ス交流400年周年を迎え、スペインを公式訪問した皇太子、浩宮さまは


コリア・デル・リオ市を訪問しハポン氏を代表するハポン姓の人々を中心に1万人にも

上る市民の出迎えを受け、日ス友好の証として桜の木を植樹されました。



写真のハポン氏は日本名誉領事を務められています。



911日に地方紙の「エル・コレオ」と「ディアリオ・デ・セビーリャ」の文化欄に掲載された記事です。


では、内容を抄訳してみましょう。


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来たる91921時、セビーリャ郊外のエスパルティナ市にあるロレート修道院において、

当代のフラメンコの名人に数えられる歌手のサムエル・セラーノ、ギタリストのパコ・セペロを招いて、カンテ・ホンドのフラメンコ公演が行われる。



昨日、セビーリャ県庁文化ホールにて記者会見が行われた。

出席したのは、セビーリャ県庁観光局長マヌエル・ゴンサレス氏、セビーリャ副市長ハビエル・ランダ氏、エスパルティナ市会議員アウロラ・バエナ氏、文化委員長マリア・アレナ・ロメロ氏、日本名誉領事ホセ・ハポン氏らである。



16世紀に創立したロレート修道院は、現在もなおフランシスコ会の修道士が勤行をおこなっている。2007年には歴史文化遺産の登録を受けており、この地方の教会関連の名所史跡としての価値は高く、宗教のみならず文化的な役割も果たしてきた。



これは歴史と文化の出会いとしての意味を持つイベントで、現役で使われている修道院においてフラメンコ公演を行うのは初めての試み。



組織運営にあたっては、地元のフラメンコ協会、幾つかのワイン醸造会社なども後援スポンサーとなっている。


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写真中央右が副市長、その右、顔がニョキッと出てるのがハポンさん。



現地のガイドさんから聞いたところによると、

ハポンさんには生まれた時、それと分る特徴が出ることがあるそうです。



それは何かというと・・・・、



蒙古斑(お尻の青いアザ)です。



これが時として、虐待と間違えられ警察に通報される、また、これが元で離婚した

なんて笑えない話もあるそうです。


今回はこの辺で!



是非、新婚旅行ヨーロッパ~世界遺産を巡る旅 もご覧になってくださいネ。



ではでは。パー















暑い暑い、蒸し暑い日本です。


夏休みのいろいろな行事があって、みなさんもお忙しいでしょうね。




明日から、暑い日本を脱出、イギリス周遊ツアーに行ってまいります。


湖水地方の気温は20度前後と、涼しく過ごしやすいようです。



今回は最終日、ロンドンでも多少時間が取れると思います。


ピーターに会いに、再び行って来ますね~~。



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キンデルダイクはオランダ ロッテルダムから13kmに位置する水郷地帯。


1キロ四方の小さな集落にオランダでは最多 19基の風車が建ち並んでいます。



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1740年頃建設されたこれらの風車は、風の動力によって水車を回し、低地の水を汲み出しているのです。


風車1基で水を1.5mの高さまで汲み上げることができ、これを数回繰り返すことにより、より高いところにある排水路まで水を持ち上げることができます。


汲み上げられた水は、最後にはライン川の支流にまで汲み上げられ、排水されていきます。



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 写真は絵葉書より。




国土の1/4が海面下であるオランダでは、排水システムは国を守るための重要な問題で、最盛期には国内に1万基以上の風車があったと言われています。


これらの風車によって水害を防ぎ、湿地帯を豊かな牧草地に変えたのです。




19世紀には産業革命で蒸気式のポンプが建造され、風車はその役目を終えました。


現代では電力で水の汲み上げが行われるようになり、オランダ全土でも風車は950基程度しか残っていません。



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その中でも、19基もの風車が残されているキンデルダイクは大変珍しい場所と言えるでしょう。




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19基の風車のうち17基には風車守が住んでいて、生活をしながら文化財である風車の保存をしているのです。




風車の羽根の向きは、風向きによって360度変えられるように(手動)なっていて、羽根の部分には布が張られ、風の強さによって張り具合を調整します。


風車守の腕の見せどころですね。



オランダに風の吹く限り、風車は回りつづけ、美しく力強い田園風景の一部となって残り続けていくのでしょう。





海抜以下の低地を、長い間かけて干拓しつづけ国土を建設したオランダ。


『世界は神様が作ったが、オランダはオランダ人が作った』と言われる所以です。


今年2013年は、イギリスとの国交が始まって400年を迎えます。


イギリス人航海士 ウイリアム・アダムス、日本名 三浦按針がオランダ船に乗って日本へ漂着したのは1600年4月29日のことでした。


日本に初めて来たイギリス人です。


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彼はロンドンの南東ギリンガム市に生まれました。(現在は合併してメドウェイ市に変わりましたが)


船員だった父親が亡くなってから、12歳でロンドンに出て船大工の棟梁に弟子入りしましたが、彼は造船よりも航海術に興味を持ち、奉公の年季が明けてから英国海軍に入ります。


その後、航海術を会得した後、オランダ商船の航海士としてリーフデ号に乗り込み、極東を目指したのでした。


たどり着いたのは、臼杵(大分県)、ウイリアム・アダムスは36歳、日本は《関ヶ原の戦い》を迎えようとしていたところでした。


尋問のため大阪に移送されたアダムスと、オランダ人航海士ヤン=ヨーステンは、ここで家康に初めて謁見し、航海の目的や航路、新教国(イギリス・オランダ)と旧教国(スペイン・ポルトガル)との対立の話などを聞かせました。


そして、本国イギリスの話や、貿易による親善関係を結びたいという話を家康にしたのです。


アダムスに好感を持った家康は、彼の願いを受け入れ、1613年通商の許可を出し、平戸にイギリス商館が開設されました。



アダムスは家康に大変信頼され、江戸・日本橋に屋敷と、神奈川県三浦に領地をもらい、更に三浦按針(みうらあんじん)という日本名を与えられ、大名並みの暮らしを約束されながら、幕府の外交顧問として活躍したのです。



ところで、同じリーフデ号の航海士であったオランダ人ヤン=ヨーステンも、江戸城 内堀内に屋敷を与えられ、耶楊子(やようす)という日本名を与えられました。


彼はその後、インドネシアで朱印貿易の途中、船が座礁して命を落としたのですが、ヤン=ヨーステンの屋敷があったっことから、耶楊子(やようす)が訛って、現在の八重洲(やえす)という名前が付けられたそうです。




アダムスの尽力で開始された日英交流は、1613年にイングランド王ジェームス1世よりの正規の使者が平戸に入り、家康 そして秀忠に書簡と贈答品が届けられました。



しかし、そのすぐ後 1616年に家康が死去。


江戸幕府は鎖国へ向けて徐々に門戸を閉ざしていったのでした。




平戸に移り住んだアダムスは、1620年平戸で亡くなりました。


享年57歳、幾度も帰国の願いを出しましたが、結局聞き届けられないまま、日本で客死したのです。



ウイリアム・アダムスの生まれた故郷には、日本との国交樹立に尽力したウイリアム・アダムスの功績を讃え、記念碑が建立されました。

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メドウェイ市(旧ギリンガム市)には、アダムスが洗礼を受けた教会、聖マグダラのマリア教会が今も残り、姉妹都市であるアダムスゆかりの地、横須賀や伊東の名前の付いた通りも、『YOKOSUKA WAY』 『ITO WAY』として存在します。


St Mary Magdalene 教会
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ウイリアム・アダムスが残したものは、今も日本とイギリスの懸け橋になっているのですね。

 



ザンクト・ガレンはスイスの北東部に位置する、人口75000人ほどの街です。


ここには7世紀に聖ガルスによって建てられた小屋に起源を持つ、ヨーロッパでも最も古い修道院のうちのひとつ、ザンクト・ガレン修道院があります。



伝説では・・・


ガルスは師匠である聖コルンバンとその他の弟子たちと共に、アイルランドからキリスト教の布教をしながらローマを目指していました。


その途中、ミューレネン渓谷にやって来た彼は、うっそうと生い茂る草に足を取られて転んでしまいます。


ガルスはこの出来事を 《神の啓示だ!》と感じ、その地に留まる決心をしました。



彼は、この地に小さな僧院を建て祈りの場にすることにしたのですが、ここには恐ろしい熊が出没して人々を怖がらせているというのです。


ガルスが焚き木を集めていると、件の熊が現れました。


ガルスは、熊にパンを与え、小屋の建設を手伝うように諭します。


熊はパンのお礼に僧院の木材を集めるのを手伝い、その後二度とこの地には戻らないと約束したのだそうです。



この伝説は今では、街のあちこちにレリーフとして残されています。



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こうしてガルスが建てた僧院こそ、現在のザンクト・ガレン修道院の原型です。



ガルスの死後、僧院のあった場所に建設された修道院は、重要な教えの場として成長していきました。


印刷技術のなかった当時、本を書き写す 《写本》 という作業は修道士たちにとっての重要な仕事のひとつで、修道院には書物の保管と写本作業の場として図書館が併設されるのが普通でした。

ザンクト・ガレン修道院の図書館には、9世紀までには既に古代の文献を含む貴重なコレクションがあり、ラテン語で書かれた福音書の写本、ドイツ語で記された最古の本、現存する中では最も古い羊皮紙に描かれた大聖堂の建築設計図があります。



宗教革命を生き残った修道院は、アルプスの北部地域で最も重要な修道院の一つに数えられ、1767年に図書館は、美しい木工細工、天井画、化粧漆喰が組み合わさった美しい後期バロック様式の現在の姿に改装されました。



1805年、再編成されたザンクトガレン州は修道院を閉鎖しましたが、図書館は保存することに決定。




その蔵書は16万冊、中世期の文献では世界最大級のものとなっています。



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  写真 The Baroque Library of St Gallen © St.Gallen-Bodensee Tourismus



木製の床を傷つけないため、見学者は大きなスリッパを靴の上から履きます。


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また、図書館内は撮影不可、バッグ類もすべてロッカーに預けて見学しなければなりません。


これは、たぶん貴重な文献の盗難を防ぐためと思われます。




ガルスがこの地へやって来たのが、612年。


もとは何もなかったこの地は、ザンクト・ガレン修道院と共に発展していき、やがてザンクト・ガレンという街になりました。



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1983年には世界遺産に登録された修道院と図書館は、2012年には聖ガレスがこの地にやって来て1400年の節目を迎え、様々な式典が催され、聖ガルスにまつわる古い宝が公開されました。



図書館の貴重なコレクションを見るために、世界中から年間10万人以上が訪れます。




久しぶりのゆっくり(?)スイスへ行ってまいりました。



最近はロマンティック街道(ドイツ)と、スイスがセットになっているツアーが多かったので、スイスだけで周るコースへ行くのは本当に久しぶりでした。



鉄道王国ともいえるスイスで氷河特急に乗り、マッターホルンの朝焼けを楽しみ、ハイキング、峠のドライブ、ハイジの家、美しい湖とアルプスの山・山・山…、そして美しい旧市街。


はぁ~~、堪能してまいりました。


スイスだけなので、のんびりかと思いきや、そこはやはりツアーです。


盛り沢山にあちこち周るので、それなりに忙しいです。


1か所、ゆっくりできたのは、マッターホルンの麓の街 ツェルマットでしょうか。


ハイキングして、半日フリータイム。


夕食もフリーだったので、ゆっくりのんびり街の散策をしました。


 

 

 ↓麓の街、ツェルマットからのマッターホルン
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 ↓ ゴルナーグラード駅からのマッターホルン、近い!
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お天気が良かったので、みなさんもマッターホルンの街を楽しんでいらしたようですね。


 ↓マルシェの入口に飾ってあったウシ&車 可愛かったので思わずパチリ。
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今回は、直行便利用だったので最終日も3時頃まで時間があり、世界遺産の街 ザンクト・ガレンへ行って来ました。


乗り継ぎ便だと、朝のうちに日本へ帰国となるのですが、直行便はその点お得ですね。


ちょっとした時間がツアーの場合は有効に使えます。



個人旅行だったら時間も心配なので、出発日はホテル周辺を散策する程度で済ませてしまうのが普通でしょ?


でも、ツアーならバスも手配されていて、時間通りに空港まで送り届けてくれるので、安心!



次回はそのおまけで行った、ザンクト・ガレンを紹介します。


久しぶりにスイスです。


ベストシーズンのスイス、どこも混んでいるでしょうね。



夏のツアーだというのに、気温0度から30度までのところを動きますので、荷物もたくさん・・・。



しばらく忙しい日々が続いていましたが、このツアーの後はお盆までひと息つけるでしょうか。



ブログも頑張ります、予定!



ひとまず、行ってまいります。



お客様は、25名~~。


きゃーー、久しぶりに大人数です!!!

今回のプライベートツアーで3か所目の宿泊地、ロンダをご紹介しましょう。



ここは大きな岩山の上に建っている、人口3万5千人程度の街。


実際には山ではなく、川によって浸食されて山になってしまった、というのが正しいでしょうか。



街の中、新市街と旧市街の間にはグアダレビン川が流れ、その川によって浸食された渓谷となっています。



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↑ 左側が新市街、右側が旧市街。

   渓谷には高さ100mのプエンテ・ヌエボ(新橋)がかかります。

   (さすがにこの写真は上空からしか撮れません、絵葉書です。)


 高さ100mのヌエボ橋
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ヌエボ橋のたもとには、スペインの国営ホテル パラドールが。
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↑ ここは、アサヒ《スタイルフリー》崖の上編 のコマーシャルで使われました。




パラドールの先には展望台。


 ↓ お分かりですか? 空中に浮かんだ、展望台です。
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 眼下には畑や民家も・・・。
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パラドール側から見た、対岸の私たちのホテル モンテリリオ。 

テラスのレストランを予約しました。
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ロンダは近代闘牛発祥の地。


18世紀に建てられたマエストランサ闘牛場です。



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↓ 夜のディナーはここの席で。
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日本人はそんなに多くは食べられないので、いくつかシェアしても良いですか?


と尋ねたら、もちろん結構です、と言ってくださいました。



ところが、あまりの美味しい食事にみなさん ペロリ。




目の前には絶景、夕日もキレイ、お食事は絶品、サービスも洗練されていて、しかも暖かい・・・最高のディナーとなりました。


さすが、星はついていないものの、ミシュランお勧めのレストランで、大満足。



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食べて、飲んで、笑って、感動して、こうしてロンダの夜は暮れていきました・・・。


やっと暗くなってきたのは、夜10時ごろ。




素敵なロンダの滞在でした。



コルドバのパティオ祭は、毎年5月に行われます。


このパティオ祭は、第1次世界大戦後から100年近く続いているお祭りで、パティオのコンクールが開催されます。


各パティオは一般に公開され、審査員はもちろん観光客も見学することができるのです。




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もともと、このパティオ《中庭》 を家の中に作る文化は、古代ローマ時代からありました。


ポンペイの遺跡を訪ねたことのある方は、お金持ちの邸宅の中にパティオが造られていたのを覚えていらっしゃるでしょうね。


ローマ帝国時代のパティオは、中庭を囲んで列柱が配され、中央には噴水があり、暑い夏でも涼を感じさせてくれる空間が作られていました。



ローマ帝国が衰退した後も、この習慣はイスラムに引き継がれ、それがイスラム教徒によってスペインにもたらされたのです。



後ウマイヤ朝の首都であったコルドバでは、王侯貴族や富裕層たちが自分の邸宅にこのパティオに作り、レコンキスタの完了後もパティオの文化はコルドバに残されました。



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今回コルドバで宿泊したホテルも、気持ちの良い中庭を持つホテルでした。


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なんと、プールの地下には、ローマ時代の遺跡が・・・。


水着に着替えてプールに行こうと思ったら、何やら遺跡らしきものがあったので、とても驚きました。



旧市街にあるホテルなので、メスキータまで徒歩2分、夜景の見学にも便利なホテル。



スタッフもとても親切で、ポーターも迅速です。


部屋数はあまり多くない、個人客向けのホテルで、日本人は我々のみ。


古いホテルですが、水周りはきれいに改装され、バスタブも完備。



長逗留しても良いくらいの素敵なホテルでした。


http://www.casasypalacios.com/index.php/pagina-principal/juderia-de-cordoba


アンダルシア、夏は外で卵が焼けるほど暑い(!)街 コルドバを訪ねました。



コルドバは、711年イスラム教徒によって征服されましたが、その後 1236年6月29日にカスティーリャ王フェルナンド3世によって再征服(レコンキスタ)され、カトリック教徒の手に取り戻されました。


イスラムの支配を500年間受けていたコルドバには、今でもイスラム風の建築が残る、いかにもアンダルシアらしい町並みの街です。



決して華やかな街ではありませんが、いわゆるいぶし銀のような風格のある町 コルドバは、ローマ帝国時代にはローマの属州 ヒスパーニア・パエティカの首都となっていたため、その頃の遺跡であるローマ橋やローマ寺院など、ローマ時代の遺跡も残っています。



ローマ橋、土台にはローマ時代の橋が残る。

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↑ 橋の向こう側にはメスキータ、その中にひと際高くそびえる、コルドバ大聖堂。



コルドバは、イスラム教徒によって征服された後、後ウマイヤ朝の首都となり、世界最大の人口100万人を数える大都市となりました。(因みに現在の人口は新市街も合わせて32万人程度)



当時のヨーロッパの各都市の人口が3万人そこそこという時代。


そんな時代に、100万人の人口を抱える大都市だったコルドバには、1600のモスク・6万戸の大邸宅・21万戸の一般住宅・8万件の商店があったと文献に残されています。



そのような中、メスキータ (スペイン語でモスクの意味)は、もともとあったキリスト教寺院の上に建設され、その後増築が繰り返され、今日の巨大な姿となりました。



メスキータには ミナレットという塔があり、礼拝の時を皆に知らせるためのアザーンが唱えられました。


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メスキータ内部には無数の円柱が並ぶ、『円柱の森』。

礼拝のための空間です。


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無数の柱がまるで森のように果てしなく広がり、幻想的な空間を作り出し、今にもコーランの響きが聞こえて来るかのような錯覚を覚えます。



ここに何万人ものイスラム教徒たちが日に5回集まり、メッカの方角に向かって礼拝を行いました。メッカの方角を示すミフラーブという窪みも残っています。


当時は外地にあるモスクでは最大のものだったのです。




しかし、そんなコルドバの栄華も 1031年 後ウマイヤ朝の衰退とともに終焉を迎え、その他の都市と同じくイスラムの小国家として分裂してしまいました。



そして、1236年のレコンキスタ完了後に、カトリックの教会堂がメスキータの中央に建設され、その時に1000本以上あった円柱の森は、150本も削られてしまったのです。



当時カトリックの教会堂を必要としていた教会側の請願を、国王カルロス1世が聞き届け、メスキータの中央部に教会を建設したのですが、これについて市民からは大反対があったそうです。


世界的にも珍しい、異国にある最大のモスクであったメスキータをわざわざ壊す必要はないと市民たちは感じていました。


しかし、教会側の請願は王に受け入れられ、大聖堂はメスキータの円柱の森を壊して、建設されてしまいました。



カルロス王はその後、自身の新婚旅行を兼ねて領地を周る際に、ここコルドバの大聖堂(メスキータ)を訪れました。



そして、その時・・・ 


『どこにでもあるもの(大聖堂)を作るために、ここにしかないもの(メスキータ)を壊してしまった。』


と、自分の失敗を嘆いたそうです。





市民たちは、知っていたのです。


いくら、異教の礼拝堂とはいえ、このメスキータが他には類を見ない素晴らしい建築物であり、衰退していく街の、栄華を誇った昔を物語る歴史的価値のあるものだということを。





最盛期には『西方の真珠』(イスラム勢力の西方にあったため)とまで謳われたコルドバでしたが、新大陸の富によって栄えたセビージャと、アルハンブラ宮殿のあるグラナダに挟まれ、次第に忘れ去られ、『化石の街』となってしまったのです。



今は、世にも不思議な建築物となった、大聖堂を内包するモスク 『メスキータ』と、美しい中庭を持つ街を散策に、世界中から観光客が訪れるコルドバ。



コルドバ歴史地区は1984年に世界遺産に登録されました。



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ユダヤ人街、花の小路より メスキータのミナレットを臨む。





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↑ 夜のメスキータ 橋の向こう側の平たい部分。高くなっている部分が大聖堂。

  (夜景の写真は上手く撮れなかったので、この写真は絵葉書からです。)


夜のコルドバはため息が出るほど美しい・・・。



そう言えば、今年のお正月はコルドバで迎えたのでした・・・。


あの時は郊外のホテルで、夜景は楽しめませんでしたが。


12月31日、ホテルのスタッフたちと除夜の鐘(?)を聞きながら、ブドウを食べたのを思い出しました。