お節介って、お節介なんだよ。

親切じゃない、お節介なんだよ。

優しさでも、気遣いでもない、お節介なんだよ。

 

要するに・・・余計お世話の自己肯定感バージョンなんだよ。

無敵で最強で至高でやっかいな、お節介はお節介なんだよ。

お節介は世界最強の自己肯定装置かもしれない

人にお節介を焼くことは、本人にとってとても良いことらしい・・・

(あくまで、らしい・・・)

そりゃそうだ。

 

だってさ?

お節介って、

「こうしたらいいだろう」
「きっと喜ばれるだろう」
「あなたの為を思って」

って、相手の気持ちを聞く前にもう結論出してるんだから。

スピード感が違う。

相手の反応を待つ時間が必要ない。

相手の感情なんて気にする時間もない。

深く考える時間を必要としない代わりに・・・自己満への特急券になっている。

 

  善意は最強の正義

 

お節介ってすごいよ。

善意だよ?
正義だよ?
否定しにくいよ?

受け取られなかったら?

「あなたの為を思って言ってるのに!」

はい、これで完成。

 

相手が悪いことになる。

なんて無敵な思考回路。

普通さ、
拒絶されたら凹むよね?

「余計だったかな…」って反省するよね?

でもお節介やきは違う。

折れない。

むしろ強くなる。

「もっと正しく伝えなきゃ!」

進化する正義。

なんなら・・・?『私の好意と行為を受け取らない相手が悪い!』

自分が正しいからね?間違ってるのは相手になるわけだ。

これはトラブルにならない方がおかしい・・・

しかーし!トラブルなんてどこ吹く風だ。お節介をやいた時点でもう本人は満足しているんだから・・・

トラブルになる時にはもういない・・・

 

なにこの「本怖」の世界・・・

 

  お節介やきの脳内お花畑説

 

私はね、思うの。

お節介やきの人の脳内って、
きっと春なんだよ。

 

世界に困ってる人が居る。→ 私の出番!

 

世界が不条理だ。→ ヒーロータイム!

 

世界に問題がある。→ ご褒美ステージ!

 

最高じゃない?

 

不幸がチャンスに見える世界。

そりゃ、世界が楽しく見えるはずだよ。

世界に不幸と不条理が溢れていれば・・・いるほどに・・・自分の出番だと活躍の場所だと嬉々として駆けつける。

 

だからって、助けてくれるとは限らない。だって、やりたいのはお節介・・・茶々を入れて帰る・・・

なにこの押し売り・・・

「善意の押し売り」とは、昔流行った気がするな・・・。

  勘違いしないで欲しいんだけど

 

別にお節介を否定したいわけじゃない。

助けられる人もいるし、
救われる人だっている。

自分から助けを求められない人にとっては、
どれだけありがたい存在か。

 

でもさ。

お節介って、

相手の気持ちより、
自分の気持ちが先に走ってるよね?

「私は悪くない!」
「正しいことをしている!」

っていう、
魅力的な自己肯定感の塊。

ちょっと羨ましい。

 

  私には無理な生き方

 

私はどうかって?

無理だね・・・( ´∀` )笑

私はいちいち考えちゃう。

 

相手どう思ってるかな?
迷惑かな?
押し付けてないかな?

 

って。

だから羨ましいんだと思う。

他人を気にせず、
自分の正義を押し通せる人。

 

世界は私の為にある、くらいの顔で生きられる人。

 

  「話し聞こか?」星人と「あなたの為」怪人

 

最近あんまり見ないけど、

たまにいるよね。

「話し聞こか?」星人。
「あなたの為を思って」怪人。
「私は悪くない!」魔人。

 

あれはある意味、才能。

他人の評価に振り回されない才能。

 

  一周回って思うこと

 

世界は私の為にある、くらいで生きていくのも
悪くないのかもしれない。

 

少なくとも、

他人に振り回されて疲れるよりは、よっぽど楽そうだ

でも私は多分、そこまで振り切れない。

だから今日も、
お節介やきの人を観察して、

「すげぇな…」

って思いながら、自分は自分の牛丼大盛で満足する。

 

世界の全員を救わなくてもいい。

世界を正しくしなくてもいい。

 

せめて、自分の気分くらいは
自分で責任持てたら、それで十分。

 

相手の気持ちが知りたい?
誰かの本当の想いが知りたい?
 

そんなの、自分のエゴじゃない?
相手がだれであれ、その本心を知ることなんてきっと出来ない。

だって、自分自身ですら、自分のコトを知りはしないし・・・
誰も彼もが、自分の想いを、本当の気持ちを吐き出す場所が無いってもがいているんだから

それなのに、「知りたい」なんて・・・
そんな無粋で無神経なことないだろう・・・

「吐き出したいなら、私に言って欲しいって?」

私はその本心が知りたいって?
それこそ、勘違いし過ぎじゃない?


あなたは、私は、そして誰かは・・・

そんなに相手に話すことが出来るような「何か」を渡すことが出来ているのかな?

話すってさ、「沈黙」する相手に対してする行為らしい(ベンヤミン曰く)
気候としている時点で、沈黙できていない。

沈黙することが出来ない時点で、話しを聞くことも出来ないのに、本心や素直な気持ちなんて知ることが出来るはずがない。

聞きたいなら、「沈黙」の意味って言うか、本質を知る必要があるんだろうって思う。

そこで面白いのが、聞こうとする存在が一番饒舌なんだ。
よく喋る。よく話す。よく聞こうとするふりをする。

「沈黙」なんてどこ吹く風だと言わんばかりだ。

親が言う・・・
教師が言う・・・
上司が言う・・・

「何を考えているんだ?」「素直になれ」「正直に言ってみろ」
ほとんど尋問で脅迫で・・・事情聴取だ。

「こうじゃないのか?」
「あぁじゃないの?」
「そうじゃないかい?」

適当な、それっぽいことを並べて共感しようとして、共感させようとして、話させようとして、共有しようとして、知ったかぶりをして、分かったようなことを言って・・・

「そうです」
っていう、「同意」をさせようとしてくる。

本当に煩わしい。

何も分かってくれないし、分かってないし、分かろうとしていないのに、
分かっている風を押し付けてくる。

あのね?

私は私が何を思っているのか?何を願っているのか?どうしたいのか?

好き嫌いすら、まともに言語化できないんだよ?

それなのに、あなたに何が分かるの?

更に言えば、モヤモヤっていう言語化できない感情は、言語化できないからモヤモヤなんだよ?
それを解消なんて出来るわけないじゃないか。

だからさ、分からないし、分かって貰えないんだよ。
だからさ、孤独を感じるんだよ、誰にも伝えられないから、誰にも理解してもらえないんだ
だからさ、沈黙する相手にしか、言語化できないアレコレを吐き出せないんだ

気軽にモヤモヤを・・・人の心情を・・・

アレコレ聞こうとしたり、決めつけて判断したり、共感しようとしたり、分かったふりをしようとしたり、近づこうとしないで。

知りたいなら「沈黙」を知れ
まずは黙れ。

そして、隣に座れる器量を作りなさいよ。

言葉以外の全てが語るからさ・・・

そこに在ることを言語化するのはそれからさ。

分かるかな?

夜空の月のように
夕焼けの光のように
傾けるグラスの中のウイスキーのように
朝日に滲む夜露のように
凪の中に揺れる水面のように

沈黙が人を語らせる。

 

「幸せ」って、いつ分かるんだろう

 

「幸せってなに?」

そう聞かれると、
みんな少し優しい顔をする。

小さな幸せを集めよう、とか。
今あるものを大切に、とか。
恋をしている時が幸せだ、とか。

科学的にはどうやら、
副交感神経がどうとか、
ドーパミンがどうとか、
セロトニンがどうとか。

つまり、脳内の化学反応らしい。

 

なるほど。
じゃあ、あの時の笑顔も、
あの夜の高揚も、
あのぬくもりも、
全部、神経の電気信号だったのかもしれない。

 

でもね。

私はずっと思っている。

 

幸せって、
その瞬間には分からないんじゃないかって。

 

コップに水を注ぐ。

まだ入る。
もう少し。
もう少し。

溢れた瞬間に、
「あ、いっぱいだったんだ」と気づく。

 

でも、その時にはもう遅い。

 

コップが割れて、
水がこぼれて、
何もなくなった床を見つめながら、

「あの時、あれで十分だったんだ」

って、ようやく思う。

進行形の私は、いつも満たされない。

もっと欲しい。
もっと上へ。
もっと先へ。

手に入れた瞬間から、
次を見てしまう。

それが“生きる”ってことなのかもしれない。

 

でも、失った時にだけ、
「あれが幸せだった」と思えるなら、

幸せって、
状態じゃなくて、

“感想”なんじゃないか。

 

幸せを感じている時って、
実は感じていない。

ただ、生きているだけ。

本当に幸せを実感するのは、
それを失った後。

 

つまり、
不幸の中でしか、
幸せは輪郭を持たない。

なんだか皮肉だよね。

幸せを失ったからこそ、
幸せを知るなんて。

 

だから私は思う。

幸せは、
追いかけるものじゃない。

掴むものでもない。

 

ただ、あとから振り返った時に
「あの時間、悪くなかったな」と
静かに思えたら、それでいい。

 

もしかしたら今も、
どこかでコップは満ちているのかもしれない。

まだ入ると思っているだけで。

 

今この瞬間も、
未来の自分が振り返って、

「あれが幸せだったんだ」と

小さく微笑む日が来るのかもしれない。

そう思うと、

少しだけ、
欲張るのをやめてみようかな、と思える。

 

幸せかどうかは分からないけどね・・・私にはまだまだ・・・・

人はその時々で表情を変える。

感情に左右される時もあれば、状況に左右される時もある。

 

仕事モード?

家庭モード?

一人モード?

楽しいモード?

 

私にだって沢山ある。

演じている時と、演じていない時と、両方が混ざっている時と、何も考えていない時もあれば

考え過ぎて分からなくなっている時

 

そして今は、きっと分からなくなっている時が多い

 

誰にも言えないこのモヤモヤを発散させたいと思うこともあれば

モヤモヤを抱えて暗く深い部分に墜ちていきたい気持ちもあり

散財して気分転換に走りたくなる気持ちもあれば

必死に利益を求めて、値動きに気を使う瞬間もある

 

自分のコトほど分からないモノだ。

人の何かが・・・思いや感情や何を考えているか分からないなんてよく言うけど・・・

 

自分のコトが一番分からない。

それなのに、自分のコトは自分が一番分かるなんて言う人も居る。

 

そして私は自分に問いかける。

「どうしたい?」

「何を願い、何を望む?」

 

神に祈るように、自分の願いを考えることもある

 

誰かの幸せを願い、自分の欲望を願う

誰かの幸せって何だろうか?って思う時もよくあるが・・・

衣食住があり、笑顔で笑っていてくれることを願うくらいしかないだろう・・・

 

なら?自分は?自分のコトは何を願う?

 

結局、お金になってしまうのが、人らしさなのか・・・私の醜さなのか・・・

俗物的に資本の充実を願ってしまうあたりが、私がまだまだ現実の世界を生きている証拠な気がしないでもない。

 

私は、願っている時どんなモードでいるんだろうか?

真摯な気持ち?

欲望まみれの姿?

流されるだけの空虚なマネキン?

 

願う時の自分の姿は、真摯な気持ちで、俗物的な欲望を願う。

なんと滑稽なんだろうか。

 

真摯に欲望の充足を願うとは・・・

やっぱり人は、少なくとも私は・・・現実の世界でしか生きられないらしい

 

どれだけ、想いを巡らせて、思考を回し、思想を強くするための行為を目指しても、

生きているっていう事実からは逃れられない。

 

規範と枠組みの檻に入れられた家畜でしかないんだと痛感する。

 

神に祈る時に、願いを感じる時に、夢を語る時に・・・

自分が家畜で社畜で、世界の奴隷だと認識するとは、悲しいね。

 

私のモードはきっと・・・常に何かの支配下にあるんだとしたら、使い分けるモードは・・・

仕事でも、家庭でも、1人でも、なんでもなく・・・

 

家畜モードと社畜モードなのかもしれない。って思うと、解放されたいって思ってしまうのは私だけなんだろうか?

 

だからこその、自分探しで

だからこその、自分への問いかけで

だからこその、自分の為に生きたいと願い思い夢見てる

 

でも、その先に何があると思っているんだろう?

自分を見付けて手に入れた先に何があるんだろう?

世界からは逃れられないのに・・・何があると思っているんだろうか?

 

救いなんて無いのにね。生きやすい世界なんて無いのにね。自分らしさなんて・・・世界には通用しないのにね。

 

敵しかいない世界で、悲しみしか生まない世界で、

それでも、喜びは探したいさ・・・

私は本来的価値を見付けて、伝えていくよ。

それが私の本来的価値モードだからさ・・・

「どうして分かってくれないの?」 「そんなつもりじゃなかったのに」

人間関係の悩みは、いつもこの「誤解」から始まりますよね。 

三島由紀夫は、こんな残酷で鮮やかな言葉を残しています。

「男の生涯の悲劇は、女性というものを誤解することだ」

 

でも、最近思うんです。 悲劇が生まれるのは、単に「間違えた」からではなく、

「知らないということを、知らないまま確信してしまう」からではないか、と。

 

誤解が悲劇を生むのは、「知らない」を確信するからかもしれない

 

人は、分かり合えないと悲しむ。
でも本当に悲劇なのは、「分からない」ことじゃないのかもしれない。

本当に怖いのは、
知らないのに、知ったつもりになること

 

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」

これは シモーヌ・ド・ボーヴォワール の有名な言葉だ。

この言葉の核心は、
“本質は最初からそこにあるわけじゃない”ということ。

人は固定された何かではなく、
関係の中で、環境の中で、期待の中で「なっていく」。

なのに私たちは、

「男ってこうだよね」
「女ってこうだよね」
「この人はこういう人だよね」

と、簡単に言ってしまう。

それは安心したいからだ。
曖昧さに耐えられないからだ。

でも、その瞬間に悲劇の種は蒔かれる。

 

  鏡合わせの迷宮

 

自分の目に映る他者を、相手が見たとき。

相手は、「見られた自分」を見る。

そしてその“見られた自分”を演じる。

私はその姿を見て、「やっぱりそういう人だ」と確信する。

相手も同じことをする。

こうして、相互の誤認が、確信に変わっていく

 

もしかしたら、
分かり合えないんじゃない。

そもそもそこに、一つの“真実”が無いのかもしれない。

人は、相手そのものを見ているのではなく、
「相手を見た自分の解釈」を見ている。

 

そしてその解釈に、真実というラベルを貼ってしまう。

 

三島由紀夫は、
他者を“ファンタジー”として見る危うさを描いた。

他者を理想や幻想に閉じ込めた瞬間、
相手は生活者ではなく、物語の登場人物になる。

 

でも現実の人間は、物語通りには動かない。

だから裏切られた気がする。

でも、裏切られたのは相手ではなく、
自分の確信だったのかもしれない。

 

  確信という名の「誤解」

 

誤解は避けられない。

人は他者の目の中で自分を作り、
その自分をまた他者が見る。

鏡の中の鏡のように、
像は何重にも歪んでいく。

問題は歪むことじゃない。

歪んでいるのに、
「これは正しい」と言い切ってしまうことだ。

 

悲劇は、知らないことから生まれるんじゃない。

知らないのに、
知っていると確信するところから生まれる。

分からないまま、
分からないと認め続ける勇気は、
案外むずかしい。

 

でもきっと、そこにしか優しさはない。

分かり合えないんじゃない。


もしかしたら、
確かな真実なんて、最初から無いのかもしれない。

それでも、それでも。

今日も誰かを“分かったつもり”にならないように、
少しだけ立ち止まれたら。

それだけで、悲劇は少し減る気がしている。

「私たちは、決定的に分かり合えない。だからこそ、最高に自由だ」