🐾 ラノベだからこそ面白い『吾輩は猫である』の魅力

人間の“くだらなさ”が際立つ理由:

  • 人間はやたら難しい言葉を並べ、賢く見せようとするが、
     実際には見栄・世間体・虚勢にまみれている。

  • 会話は中身より“喋ってる自分”が大事。
     意味のない議論で、勝手に勝敗をつけて満足する。

  • 家庭の中でも正しさを演じ、他人の目を恐れ、
     “誰も見ていない社会”に必死で媚びている。

猫の“らしさ”が輝く理由:

  • 名もなく、社会的立場もないけれど、
     誰よりも冷静に、矛盾と滑稽を見抜く存在。

  • 喋らずとも考える。従わずとも観察する。
     「人間って、なんでそんなに必死なんだ?」という視線が哲学的。

  • 何も持たず、何者でもないからこそ、
     “生きてるフリ”をしてる人間たちの姿が際立つ。

🐾ラノベ風:第8話

  第8話:髪結いの亭主とオチ要員たち

今日も、客人が来た。
しかも、賑やかなやつらが、連れ立って。

髪結いの亭主・金田
元書生の三平
郵便配達の熊五郎


そして——話題の中心を横取りしたがる“誰か”

彼らは、苦沙弥先生の書斎を居酒屋と勘違いしている節がある。

「先生、最近髪が伸びましたね!うちのカカアが腕をふるってカットしますぜ」
と、金田が口を開けば、

「俺ぁ最近、夢で二宮金次郎が出てきましてねぇ」
と、三平がどこか遠い目をする。

 

熊五郎に至っては、「この辺りの郵便受けの高さに統一性がないのが日本の病理だ」と熱弁し始める始末。

吾輩、猫であるが、
彼らの話には一貫性も整合性も、もちろん論理性もない。

 

しかし——

なぜか、耳を離せない。

それはなぜか。

理由は単純。
彼らが語っているのは、“生きることそのもの”だからだ。

(???私???)

 

知識人の会話は、言葉の意味を磨きすぎて、いつしか言葉だけが先に歩き出す。
けれど、庶民の会話は違う。

彼らは、“今ここ”で何が起きたか、
“昨日”どんな不運があったか、
“明日”をどうやって乗り越えるかを、笑い話にして吐き出す。

 

それは、まるで——
自分を自分で救うための儀式のようだった。

 

金田が語った。

「いやぁ、うちのカカアも毎日うるさいもんで。亭主元気で留守がいいって、俺の前で言いますからね」

皆が笑う。
でもその笑いには、“それでもやっていく”という決意が混じっていた。

 

そう、人間は**“笑い”という形で、生きる苦しさを可視化する。**

だから彼らは、見栄も理屈も関係なく、
ただ、“生きている自分”を話す。

吾輩は、その姿を見て思う。

 

「生きることには、意味がなくても“声”がある。
意味は問われるが、声は抑えられる。
だからこそ、声を出すことが、生きる証なのだ。」

 

先生たち知識人の議論では、結論が出なかった「生の意味」。
だが、金田や三平の語りの中には、
“答えじゃないけれど、生きてる感触”があった。

会話が終わるころ、誰も“正しかった”とは言わない。
誰も“間違っていた”とも言わない。


でもそこには、誰一人欠けても成り立たなかった時間が残った。

吾輩は、ちゃぶ台の下で静かに目を閉じる。
猫には、社会的義務も、言葉もない。


けれど、今だけは思うのだ。

「話すことは、生き残ることに似ている」

  次回予告:「猫が見た!知識人のバカ話」——再び始まる高尚な討論会。だが、猫は見ている。「その話、誰に届くんだ?」と。