マキャベリを知ると、今の社会はどこまでもマキャベリズムを反映していることを実感する。

どこまでも個々人には救いがなく

国家は全体の為に、誰かの為じゃなく国家の為に・・・

 

私が生きるこの世界は、私には冷たく非情で不条理を感じる時しかない。

 

現実が過酷なのは十分理解しているつもりだけど、

それでも、現実以外では生きられないことを私は知った・・・

現実にしか私には居場所が無かった。

逆に現実じゃない場所に居場所がある人が居た。

私とは交差しない場所だったんだろう。

 

思うところはあるんだ・・・

居場所が現実にないって感じながらもがく私は、いつまでも自分の居場所を探して生きていく

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過去のために生きるのか、過去を糧に生きるのか

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)
イタリア・フィレンツェ共和国の外交官、政治思想家。

 

彼が生きた当時のイタリアは、
戦争・裏切り・陰謀・腐敗・侵略のオンパレード。
正義や理想ではどうにもならない世界のど真ん中にいた。

 

だからこそ、彼の思想は“現実を直視する勇気”に満ちている。

 

  正しさだけでは、人は生きられない

 

生きたいだけ。
居場所が欲しいだけ。

それだけなのに、
それだけが、どうしてこんなにも難しいんだろう。

安全で安心できて、
表現も行為も縛られない自由な場所。

そんな場所があったらいいなって、
人はずっと願ってきたんだと思う。

 

でもね、
安全な庇護は、自由をくれない。
危険な自由は、安心をくれない。

どちらも欲しいのに、
どちらも同時には手に入らない。

だからこの世界は、不条理で、
弱い人ほど、ハードモードになる。

居場所が欲しい。
大切な存在と一緒に生きたい。

それは「わがまま」でも「贅沢」でもなく、
生き物として、あまりにも自然な欲望。

 

でも現実は冷たくて、
お金がなければスタートラインにも立てない。

お金がないと、
居場所も、同伴も、選択肢も、ぜんぶ消える。

 

そう思うと、
「正義って、結局お金なの?」
「悪って、貧しさのことなの?」
そんな疑問が、胸の奥で腐らずに残る。

 

  人を豊かにするのは?

 

私は知っている。
支配されたくないけれど、
支配なしに生きられない現実も。

今の支配の正体は、武力でも王様でもなく、
資本と制度だ。

 

国家が資本の流れを握り、その庇護の内側でしか、
私たちは夢を見ることすら許されない。

 

支配から抜け出したいと思うたびに、
居場所は遠ざかる。

でも、孤独で生きられるほど、
人は強くないことも、私は知っている。

 

私は、
たくさんの「死体みたいに生きている人」を見てきた。

国家なんて感じる余白もない。
誇りも理念も考える余裕もない。

 

あるのは、
「出来ないと価値がない」という烙印だけ。

善意も悪意も関係なく、
出来なければ、
意味も、価値も、存在すら削られていく。

拷問も独裁も、
遠い国の話じゃない。


会社で、組織で、関係の中で、
私たちはもう十分に経験している。

 

  居場所と自由は、同時に手に入らない

 

人は、
正しさだけでは、生きられない。
正義だけでは、救われない。
綺麗事だけでは、息ができない。

 

だからといって、
「悪が必要だ」とも言いたくない。

ただ一つだけ確かなのは、
悪は、正しさと正義がある時にだけ成立する
ということ。

 

 

私は何を捨てるのか?
正直、何も捨てたくない。

自分も、
大切な人も、
夢も、
自由も、
全部、手放したくない。

 

でも現実は、
取捨選択を強制してくる。

 

何を捨てよう?
それとも、何を守ろう?

そうやって迷い続けた先で、
ある日、ふと気づいた。

私は、後悔だけは、最後まで手放さない。

過去も、経験も、
泣いた時間も、選び損ねた道も、
私は忘れない。

 

忘れる自由もあるのに、
私は「忘れない」という自由を選ぶ。

侵略されても、
奪われても、
壊されても、

最後まで残るのは、
「覚えている」という選択だけなのかもしれない。

 

忘れられないことは、鎖にもなる。
でも同時に、それは未来に繋がる糧にもなる。

 

  過去のために生きるのか、過去を糧に生きるのか

 

だから私は、こう思いたい。

後悔で人が変わるなら、
人は「過去のために生きている」んじゃない。

過去を、未来の燃料にして生きているんだ。

 

過去を抱えたままじゃないと、
私は前に進めないから。

忘れないという選択は、
未来の自由を、まだ諦めていないという証拠だから。

 

居場所は、
まだ見つかっていない。

 

でも私は、後悔を抱いたままでも、歩ける。

捨てきれなかった想いごと、
この世界で、生き続ける。

 

それが、今の私に残された、
たった一つの自由なんだと思うから。

私は1人の時間をとても大切に思っている

思考する時間

嗜好の時間

誰に気を使う訳でもなく、いつでも自由を感じられる。

 

私は、自分のやりたい時に、やりたいことを、やりたいように、私のやり方でやりたい。

って言うのは、私の若かりし頃の言葉だ。

未だに変わらんのだね。

未だに成長せんのだね。

 

いつまでたっても、1人の時間を楽しんでいると・・・思っているのは上辺だけ・・・・

守りたいから、今日も少し孤独になる・・・それでも家族という居場所で

どれだけ一人を楽しんでいても、どこかに寂しいって言う感情は在るもので

誰かとの繋がりを求めてしまうモノで

職場でも友人は増える

飲みに行くことだってある

 

でも、やっぱり自分の居場所か?って言われると

やっぱりここじゃないって思ってしまう。

 

一人の居場所を求めているのか?

それとも、過去にあった居場所を求めているのか?

居場所なんてそもそもなかったのか・・・・

  居場所が欲しい。守りたい。だから孤独になる

 

居場所が欲しい。
安心できる場所。
ここに居てもいいって思える場所。

それって、そんなに贅沢な願いじゃないはずなのに、
どうしてこんなに難しいんだろう。

 

私は、自分を守りたい。
大切なものも守りたい。
失いたくない。
壊されたくない。

だから、必死になる。
無知でも、臆病でも、過剰でもいい。


とにかく「守る」ことを選ぶ。

 

でもそのたびに、なぜか孤独が増えていく。

守るって、誰かを遠ざけることでもあるんだと、
・・・あとから気づく

 

  孤独は「弱さ」じゃなく、「防衛」だった

 

傷つかないように距離を取る。
踏み込まれないように線を引く。
悟られないように、本音を隠す。

 

これ、全部「強がり」だと思われがちだけど、
私は違うと思っている。

これは、生き延びるための防衛反応だ。

 

壊れないように。
もうこれ以上、失わないように。
同じ痛みを繰り返さないように。

 

孤独は、
逃げじゃなくて、
「これ以上壊れないための静かな選択」なんだと思う。

 

そうやって、
ちゃんと自分を守っているはずなのに、気づけば、誰も入ってこない場所に立っている。

  家族という、いちばん近くて、いちばん孤独な居場所

 

そしてこの「守り」と「孤独」は、
何よりもまず、家族の中で始まる

家族って、本当に不思議な関係だ。

・一番近いのに
・一番分かり合えないこともある
・一番守りたいのに
・一番傷つくこともある

親だから、分かり合えるとは限らない。
子どもだから、守れるとは限らない。
一緒に暮らしているから、心まで共有できるとは限らない。

 

「守りたい親」と「守られたくない子」

 

親は言う。

「あなたのために」
「心配だから」
「失敗しないように」
「傷つかないように」

でも、子どもは思う。

「信用されてないのかな」
「信じてもらえないのかな」
「私は弱い存在なのかな」

守る側は、
良かれと思って壁を作る。

守られる側は、
その壁のせいで孤独になる。

どちらも「間違ってない」のに、
どちらも少しずつ、傷ついていく。

 

「迷惑をかけるな」の呪いと、家族の沈黙

 

小さい頃、言われなかっただろうか。

泣くな。
大声を出すな。
人に迷惑をかけるな。
弱音を吐くな。

その言葉は、
家庭を守るための言葉だったのかもしれない。

でもその代わりに、
感情を出す場所は、どんどん失われていった。

家族の中でさえ、
泣くことが迷惑になり、
怒ることが問題になり、
悲しむことが重くなり、
黙ることが「大人」になった。

その結果、
家族の中にいるのに、
心だけがひとりぼっちになる。

 

守ることで、家族も自分も孤独になる

 

親は、子を守ろうとする。
子は、親を傷つけまいとして本音を隠す。

そして気づけば、

・誰も悪くないのに
・誰も弱くないのに
・誰も裏切っていないのに

家族みんなが、少しずつ孤独になっている。

守るって、
とても尊い行為だけど、
同時に、とても孤独を増やす行為なんだ。

  それでも人は、居場所を捨てられない

 

それでも、人は、私は居場所を欲しがる。

誰もいない場所で、
どれだけ心が静かでも、
どれだけ安全でも、
そこに「温度」がなければ、生きている気がしない。

 

孤独だけで生きていけるほど、人は強くない。

 

孤独だけでは、生きられない。
誰かと繋がりたい。
誰かに「居てもいい」と言ってほしい。

守ることで増えた孤独も、誰かと並んで座ることで、
少しずつ薄まっていくことがある。

 

だから私たちは、

また少しだけ開いて、
また少しだけ守って、
その繰り返しをしている。

 

  孤独を抱えたまま、自分という居場所へ

 

孤独を捨てられない人もいる。
孤独がないと、生きられない人もいる。

それでも、
孤独を抱えたままでもいいから、
自分の居場所に立っていたいと願ってしまうのが、人なんだと思う。

完全に分かり合えなくてもいい。
完全に許し合えなくてもいい。
それでも同じ場所に居る。

それだけで、
もう十分すぎるほど、「居場所」なんだと思う。

  守るから孤独になる。それでも居場所を求める

 

居場所が欲しい。
自分を守りたい。
大切なものも守りたい。

でも、守ると孤独が増える。

 

でも、
それでいいんだと思う。

 

守りながら、
ときどき孤独になりながら、
それでも居場所を探してしまうのが、
たぶん、人間なんだ。

 

 ■シンプルフレーズ

 

「守るって、孤独になること。でも、それでも居場所を捨てないこと。」

人は、庇護と支配の中でしか生きられないのに、
その庇護の代価として「自分」を差し出すしかないのか?
そして、それでも後悔だけは最後まで手放さずにいられるのか?

欲しいのは、居場所。手放したいのは私を縛る鎖。

私は我が儘で傲慢で自己中で利己的で天邪鬼で・・・

それでいて、弱くてもろくて、強がっていて、カッコを付けていて・・・

 

あるのは後悔だけの、空っぽの存在かも知れない。

でも、後悔を活かして生きていけるな・・・・

 

私にも生きる意味と価値があるんだろ?

って、思いたいだけの願いを込めたブログ・・・

 

  居場所とは、安心と自由の両立なのか

 

私が欲しいのは、
安全と安心が担保されていて、でも表現と行為は縛られない場所。
 

そんな都合のいい居場所だ。

でも、きっとそれは成立しない。

安全な庇護は、自由を奪う。
危険な自由は、安心を奪う。

全部が揃う場所なんて、どこにもない。


だからこの世界は、不条理で、
弱者にとっては最初からハードモードなんだと思う。

 

生きたいだけ。
居場所が欲しいだけ。
この欲望は、綺麗ごとじゃなくて、
感情で、行為で、必然だ。

 

でも、この世界では――
お金がなければ、スタートラインにすら立てない。

 

居場所も、
大切な存在との同伴も、
どれも、金がなければ届かない。

正義は結局、金なんだろうか。
悪とは、金がないことなんだろうか。

 

それとも、
庇護と自由を少しずつ分け与えられる代わりに、
対価として“自分そのもの”を差し出すこと
なんだろうか?

  支配されたくないのに、支配なしでは生きられない

 

支配されたくない。
でも、支配がなければ、生きられない。

この矛盾を、私はもう否定できない。

 

現代の支配の正体は、
制度でも暴力でもなく、資本だ。

 

資本の流れを国家が握っているから、国家は絶大で、
私たちはその庇護の中でしか、夢を見ることができない。

 

支配から抜け出したいと思った瞬間、
人はこう言われる。

「じゃあ、ひとりで生きろ」

でも――
孤独で生きられるほど、人は強くない。

 

だから私は、
首輪があることも、リードがあることも・・・
分かっているのに、

それでも散歩に行く。

 

支配と自由は、反対語じゃない。
支配の中でしか、自由を“実感”できない人間の弱さが、そこにある。

  私が最後まで手放さないもの

 

私は、何一つ捨てたくない。

自分も、
大切な存在も、
夢も、
居場所も。

でも現実では、
取捨選択は、生存条件だ。

 

何を捨てるか。
何を守るか。

考え続けた末に、
私はこう気づいた。

私は、後悔だけは、手放さない。

 

経験も、
知識も、
過ごした時間も、
全部、忘れない。

たとえ、
すべてを奪われたとしても、
最後まで残せる自由は――
「忘れない」という選択だけなんだ。

 

後悔は、鎖でもあり、
同時に、未来の糧にもなる。

忘れられないから、束縛になる。
忘れないから、未来に変わる。

 

この表裏一体が、
私に残された自由だ。

  後悔は、正当化できないから“後悔”になる

 

後悔って、
納得できないから後悔なんだ。

正当化できないから、後悔なんだ。

 

だから人は、
同じ選択をしないために、違う行為を選ぶ。

 

遊んで宿題が終わらなかったなら、
次は遊ぶ前に、宿題を終わらせる。

それが、
後悔を“思い出”で終わらせず、
“糧”に変える唯一の方法なんだと思う。

 

でも――
何度も同じ後悔を繰り返しているなら、
それはもう後悔じゃなく、
ただの思い出だ。

 

失っていないから、繰り返せる。
代償を支払っていないから、浸っていられる。

失って初めて、人は本当の後悔を知る。

 

津波で家族を失った人は、
もう海の近くには住まない。

そういうことだ。

  私は、過去のために生きているのか?

 

もし、
後悔で人が変わるとしたら――
人は、過去のために生きていることになるのだろうか。

 

でも私は、こう考えたい。

私は、過去に縛られて生きているんじゃない。
過去を“糧”にして、生きている。

 

もう、失ってしまったものは戻らない。
でも、失ったからこそ、
今の行為が決まる。

離婚も、
子どものことも、
恋愛も、
親も、
実家も。

全部、もう失っている。

だから私は働く。

必死に、
身を粉にして、
働く。

 

いつか、
お金という現実的な形で、償うために。

 

資本主義万歳だ。
金でしか返せない後悔も、
この世界には、確かに存在する。

 

それでも私は、
この生き方を選んでいる。

 

  後悔は杭か。糧か。

 

後悔は、
私を縛る杭でもあり、
私を前に進める糧でもある。

 

どちらに変わるかは、たぶん――
次の行為でしか、決まらない。

 

私は、
正義を持たない。
善人でもない。
たぶん、敵で、たぶん、悪だ。

 

それでも、
忘れない。
手放さない。
後悔し続ける。

それが、
私がこの世界で生き続けるための、
いちばん静かな自由だから

私のMBTIは、INFP-T らしい・・・

他の診断結果の人はそんなに違うの?って思ってしまう。

 

外向的でズバズバ言える人。
論理的で感情に振り回されない人。
決断が早くて迷いが少ない人。
豪快で前向きな人。

……本当にそんなに、きっぱり分かれるんだろうか?

分類されても、私は私のまま。

私は占いや診断にはあまり関心が無い。

どうとでも解釈できてしまう結果には正直心惹かれない。

ただ、実際に見える人っていうのに会ってみると全然違うことが分かるから怖い。

本当に分かられてしまう。知られてしまう。私の心の中まで見られてしまう。

それがまたちょっと怖い。

 

だから・・・

自分は自分で探して、自分で見つける。

人は見たいように世界を見る事しか出来ないから、自分のコトも見たいように見ようと思っている。

 

その上で、MBTIっていう最近流行りの診断。

どうやって使うのが良いのか?って言うのを私は考えてみた。

  「私は私でしかないのに」

 

私はたぶん、ずっとどこかで思っている。
「私は、私でしかない」って。
誰かの代わりにはなれないし、誰かと完全に同じにもなれない。

 

なのに、大人になるほど、「似た誰か」を探すようになった。

似た性格、似た悩み、似た生きづらさ。見つけた瞬間、少しだけ安心する。

ああ、私だけじゃないんだって。

 

孤独が、ほんの少しだけ薄まる。

 

そんな私のMBTIは、INFP-Tらしい。

仲介者、理想主義、繊細、共感体質、不安は標準装備。

一人の時間がないと静かに死にます。

優しくて、自分を傷つけるタイプ。

 

……でも、正直こうも思った。
それって、今を生きてる人、だいたいそうじゃない?

  診断に救われる私たちと、その曖昧さ

 

心理テストは昔から人気だった。適性診断、性格検査、職業診断。

今では発達障害や適応障害すら、テスト結果で振り分けられていく。

新しい病名が増えるたび、私たちは少し安心する。

 

「これは私の弱さじゃなくて、特性なんだ」って言えるから。

でも同時に、どこかで分かってもいる。
名前が付いても、生きやすくなるわけじゃない。
 

仕事は急に楽にならないし、手は痛いままだし、月曜は普通に来るし、人間関係の難易度も下がらない。

それでも私たちは診断をやめられない。

 

なぜなら人は、「分からない」を何より怖がる生き物だから。

「人は、説明できない不安より、説明できる不安を選ぶ。」

これはたぶん、今の時代の真実だと思う。

  INFP-Tは「頑張れるけど壊れる」・・・でもそれって?

 

INFP-Tは「頑張れるけど壊れるタイプ」らしい。
ここで私は、少し笑ってしまった。

だって今の時代、頑張っていない人を探す方が難しくない?


みんな頑張ってる。仕事も、家庭も、勉強も、人間関係も、将来の不安も、体力の限界も、全部抱えて必死に生きている。

そして、壊れる。

 

壊れるのはINFP-Tだけじゃない。
雑に扱われて平気な人なんて、一人もいない。
誰だって限界を超えれば、心も体も折れる。

結局、「どこにどう表れるか」だけの話で、その壊れ方は千差万別。誰かと同じになるなんて、ありえない。

 

私は、誰もが特別だと思っている。
 

誰もがオリジンで、誰もが特殊で、誰もが変質的。

完全に同じ価値観を持つ人なんて、この世界に存在しない。

同じ経験をした人もいないし、同じ時間を生きた人もいない。

誰もが、自分だけの時間と、経験と、後悔を抱えて生きている。

家族でも、兄弟でも、同じ遺伝子でも、同じ世界を同じ角度で見て、同じ感想になるなんてありえない。

 

それなのに、人は同じ枠に入りたがる。

ここが、人間のいちばん不思議で、いちばん切ないところだ。

  それでも人は、誰かと同じで安心したい

 

それでも人は、誰かと共感したい。
同じタイプ、同じ診断、同じジャンル。その「同じ」があるだけで、距離は一気に縮まる。「仲間だ」と感じる。

グループ、チーム、ファミリー。

寂しいから。
孤独より、上辺だけの共感でもいいから欲しいから。


なにより、見付けられて、認められて、「ここに居てもいい」って言ってほしいから。

 

たとえ本質が違っていても、上辺だけで、人は案外満足できてしまう。

ペルソナという仮初めの自分の居場所ができた気がするから。

 

同じ価値観の人には、きっと出会えない。
それでも、人は誰かを探す。
その矛盾ごと、人間なのだと思う。

 

だから私は思う。
診断やテストは、「自分を知る」だけの道具じゃない。

誰かに知ってもらい、誰かと繋がるための“呼び水”なのかもしれない。

今の時代、何でもすぐに発信できて、すぐに反応が返ってくる。

その構造が承認社会であり、資本の温床でもあることを、私は正直あまり好きになれないけれど……

 

それでも、使い方次第では、人を孤独から少しだけ救うこともできる。

 

だから私は、
「私、INFP-Tなんだ」って、公言してみようと思う(笑)。
枠に収まるためじゃない。


誰かと繋がる“きっかけ”として。

 

  ■シンプルフレーズ

 

「人は一人では生きられない。だが、誰かといることで自分を見失ってはいけない。」

 

分類されても、私は私のまま。
同じにならなくていい。
違うままで、誰かと笑っていられたら、それでいい。

「共感は欲しい。でも、私は私をだけも見ていたい。」

ぼんやりする時間がきっと一番大切なんだろうな。 

ボーっとしている時間も脳は回転しているんだろう。 

 

想像力や柔軟な思考、肉体を使った後の何も考えられないような時、

空を見上げてのんびりする時間。きっと一番私を作り出す時間なんだろうな。

町の夜と、焚火と、星と・・・ONとOFFのあいだで

 

疲れているのかな・・・?


それとも、ただ静かな時間を求めているだけなんだろうか。

町中の夜空は、いつも明るい。
星は少なくて、夜なのに、どこか昼の延長みたいだ。

 

静寂とは、程遠い。
車の音、話し声、エンジン、信号、スマホの通知・・・
町の夜は、眠っているふりをしながら、ずっと騒がしい。

 

情報と刺激が溢れかえって、
余裕も余白も、あっという間に押し流されていく。

 

そんな世界の中で、「生きにくいな」と感じている自分が、確かにいる。

 

でも一方で、生きるためには、町のほうが圧倒的に“生きやすい”。

 

お店も、交通も、仕事も、病院も、全部、人が暮らすために整えられていて、
町の中でこそ、私はちゃんと生きられるとも思う。

便利で、合理的で、
生き延びるためには、ここが一番優しい場所なのかもしれない。

 

それなのに、どうしてだろう。

ふと、静寂を求めてしまう夜がある。
平穏に、逃げたくなる瞬間がある。

 

きっと私は、ONとOFFの切り替えスイッチが欲しいんだと思う。

 

生きやすい場所で、生きること。
生きにくい場所で、非日常に身を置くこと。

 

どちらかじゃなくて、
どちらも欲しいと願ってしまう、
なんとも欲張りな私がいる。

 

楽しい時間。
素敵に物思いにふける時間。
悲しい時間。
自分に浸る時間。
塞ぎ込む時間。
辛くても動き続ける時間。
休めない時間。
悩む時間。
迷い、彷徨う時間。

 

その全部の合間に、ぽつんと置かれた
「静かな一瞬」がある。

それでこそ、人生はカラフルになるんだと思う。

 

色と色が混ざって、
ときどき濁って、
ときどき滲んで、
それでもちゃんと、多彩になる。

カラフルに生きたい私がいる一方で、
モノクロの世界で、
ただ時間を使いたくなる私もいる。

 

そのどちらも、
きっと・・・間違っていない。

 

星を見上げて、「この星、なんて名前なんだろうな・・・」
なんて思う、あの時間。

 

答えなんて出なくてもいい。
知識がなくてもいい。
ただ、そう思っている時間そのものが、もう充分に、豊かだったりする。

寒いから、ほんの少しの時間しか見ていられないけれど、
それでもその数秒だけで、心の奥に、ふっと灯りがつく。

本当は、焚火なんかしながら、
ホットワインを片手に、ゆっくり空を眺めたい。

 

火の音だけが、静かに揺れて、
身体はあたたかくて、星は名前も知られないまま、
ただ、そこにある夜。

 

その時の私は、
何者でもなくていい。
役割も、評価も、肩書きも要らない。

 

ただ・・・ぼんやりしている私で、
それだけで、もう十分なんだと思える。

 

生きやすい町の中で、ちゃんと生きて。
ときどき、生きにくい静寂の中へ、そっと逃げる。

その行き来ができたら、きっと私は、
もう少しだけ、自分に優しくなれる気がしている。