前を見て歩く。

足元を見て歩く。

そんな当たり前のことさえ、現代の私達は出来ない。

見ることが出来ないんだ。

自分の立っている場所も、進んで行く先も・・・

見ているのは、スマホの画面と周囲の他人の顔ばかり・・・

「見る」は、いつから“評価”になったんだろう?

人は毎日、何かを見ている。

街を眺める。
鏡を見る。
SNSを見る。
写真を見る。
レビューを見る。

でも、その「見る」は、本当にただ見ているだけなんだろうか?

 

今回考えたいのは、「眺める」と「凝視する」の違いだ。

  ■ 眺めるということ

例えば、街を歩いている時。

看板が見える。
人が通る。
空の色が変わる。
花が揺れる。

そこに強い意味は無い。

興味は流れ、視線は移動し、感情も変わっていく。

 

これは「眺める」に近い状態なんだと思う。

流動的で、固定されない。


ただ世界を受け流している状態。

鏡を見る時も、少しこれに近い。

髪を整える。
顔を見る。
なんとなく不満を持つ。


でも、次の瞬間には別の角度を見ている。

鏡の自分は固定されない。
常に変化しているからだ。

  ■ 写真になった瞬間、人は“凝視”を始める

でも、それが写真になると変わる。

切り取られた瞬間、意味が固定される。

  • 顔の形
  • 肌
  • 年齢
  • 表情
  • 雰囲気

全部が「評価対象」になる。

つまり写真は、「見る」から「判定」に変わるんだ。

 

そして現代は、そこからさらに進む。

加工する。
修正する。
演出する。

動画になれば、動きまで整え始める。

 

それはもう、「自分」ではなく「見られたい自分」を作る作業だろう。

 

アイドルとは偶像だ。

つまり、「見られるために設計された存在」。

今のSNS時代は、その偶像化を誰もがやっている。

  ■ 人は、自分を直接見ることが出来ない

ここで面白いのは、自分を探そうとした時だ。

私は未だに「自分」が分からない。

適当に生きているように見られる。
別に不満だけではない。
でも、モテないのは悲しい。

なら、どうしたらいいのか?

 

結局、人は「どう見られているか?」を気にする。

 

ちゃんと考えていそう。
余裕がありそう。
誠実そう。
魅力的そう。

そういう“印象”で判断されるからだ。

つまり、人は自分を直接見ることが出来ない。

 

だからこそ、他人の目の中に映る自分を探し始める。

  ■ 「どう見られたいか?」の方が見つけやすい

本当の自分を探すのは難しい。

でも、

  • 強く見られたい
  • 優しく見られたい
  • 面白く見られたい
  • センス良く見られたい

こういう「どう見られたいか?」は、案外見つかる。

 

だから最初に探すべきなのは、「本当の自分」じゃなく、「見られたい自分」なのかもしれない。

 

ただ、その瞬間から人は迷い始める。

自分が見ている自分と、他人が見ている自分がズレるからだ。

そのズレが、他者依存を生み、「もっと自分を探したい」に繋がっていく。

  ■ レビューは、“他人の視線”の集積

そこで現代人が使うのがレビューだ。

レビューとは、単なる感想じゃない。

「他人がどう感じたか?」の記録だ。

  • この店は映える
  • この服は好印象
  • この香水はモテる
  • この場所はセンスが良い

そういう「他人の評価」が大量に並んでいる。

人はそれを見て、取捨選択する。

そして、その評価を自分の中に取り込み、「見られたい自分」を編集していく。

 

だから、「形から入る」は間違いじゃない。

内面を直接育てるのは難しい。
でも、形は真似できる。

服装。
場所。
話し方。
雰囲気。

外側を整えることで、後から内面が追いつくこともある。

  ■ 現代は、新しい規律訓練型社会なのかもしれない

ここで、私は思う。

これも一つの「規律訓練型社会」byフーコー なんだろう。

昔は、

  • 学校
  • 工場
  • 軍隊

みたいな場所が、人を訓練した。

 

でも今は違う。

SNS。
レビュー。
アルゴリズム。

それらが、「どう見られるべきか?」を教えてくる。

 

しかも怖いのは、誰かに命令されているわけじゃないことだ。

人は自分から進んで、

  • 加工し
  • 修正し
  • 空気を読み
  • 好印象を作り
  • 正解っぽい人格を演出する

つまり、他人の視線を、自分の中に住まわせている。

 

  ■ それでも、人は“見られたい”を捨てられない

でも、人は社会の中で生きている。

だから「どう見られるか?」を完全に捨てることは出来ない。

 

問題は、他人を気にすることじゃない。

「どの視線を採用するか?」なんだと思う。

レビューを見てもいい。
SNSを見てもいい。

 

でも、その全部を取り込めば、自分は他人の評価の集合体になってしまう。

 

だから最後に必要なのは、

「私は、どの見られ方を選びたいのか?」

という、自分なりの美学であり価値観なんだろう。

 

どうありたいか?

って言うのを知る時に、既にある他人の評価を参考にするのは決して間違いじゃないと思う。

  シンプルフレーズ

「人は、自分を直接見ることが出来ない。
だから、他人の目の中に映る自分を探し続ける。」

 

次回はレビューっていうモノの使い方の可能性を模索したい

自分探しの一歩は、レビューっていう投稿にあるのかもしれないと私は思うから

レビューっていう口コミ

商品を買った時、食事をした時

普段の買い物でも、旅先やデートや趣味の行き先や道具の選択

どんなときにも、どんな場所にも、どんな物にも

そこには誰かの評価と感想が付いている。

 

新商品や新店舗や新しい施設だとしても、広告や宣伝に対して誰かの言葉がついている。

 

それは、誰かの評価や感想の無いものが無いっていうことなんだ。

そして私達は、常に誰かの評価と感想に一喜一憂しながら生きている。

 

だからこそ・・・

そのレビュー、「どうやって使っている?」っていうことを見直しても良いんじゃないかな?

レビューっていう口コミには、自分を見つける可能性がある

「レビュー見てから行こう」

今の時代、そんな選び方は当たり前になった。
でも私は最近、レビューって“お店の評価”だけじゃないんじゃないか?と思い始めている。

 

   レビューで、人は“安心”を買っている

例えば、カフェを探す時。

「静かでおしゃれなお店でした。コーヒーも香りがよく、スイーツも甘過ぎず、ゆっくり過ごせました」

そんなレビューを見ると、「良さそう」と思って行くことがあるだろう。

でも、その時って、自分は何を選んでいるんだろうか?

コーヒー?
スイーツ?
おしゃれさ?
静かさ?
それとも、「人気だから外れなさそう」っていう安心感?

 

実際、人はそんなに明確に生きていない。

「なんか良さそう」
「失敗したくない」
「評価高いから」

そんな理由で選ぶことなんて山ほどある。

 

だからこそ、レビューを見るっていう行為は、実は“他人の視線”を借りて安心を買っているのかもしれない。

  でも、レビューを書く時に人は変わる

🌟面白いのはここからだ。

こと“レビューを書く側”になった瞬間、人は「自分が何を感じたのか?」を考え始める。

 

例えば、

「静かさが良く、店員さんも気さくで構い過ぎず、ゆっくり過ごせた」

って書いたとする。

 

すると見えてくる。

自分は、静かな場所を求めていた。
距離感を大切にしていた。
安心して一人で過ごせる空間が欲しかった。

つまり、レビューを書いているようで、本当は“その時の自分”を言葉にしているんだ。

レビューは「感情の記録」になる

レビューって、お店の説明みたいに見える。

 

でも実際は違う。

「何が美味しかったか?」より、

「なぜ、その時間が心地良かったのか?」

の方が、自分をよく表している。

例えば、

  • 静かな空間が好き
  • 店員さんが構い過ぎない方が楽
  • 甘過ぎない味が好き
  • 一人の時間が落ち着く

そういう“小さな好み”って、自分では案外気づいていない。

でもレビューを書くと、それが浮かび上がる。

 

つまりレビューは、「お店を評価する場所」であると同時に、「自分の感情を確認する場所」でもあるんだろう。

  ブログやSNSより、レビューは軽い

ここがレビューの面白いところだと思う。

ブログやSNSって重い。

「どう見られるか?」
「共感されるか?」
「嫌われないか?」

どうしても意識してしまう。

 

でもレビューって、少し違う。

書き捨てでもいい。
誰も困らない。
大きな責任もない。

もちろん、「いいね」や評価はある。
感想に対して感想が返ってくることもある。

 

つまり現代では、“レビューする自分”すら評価される。

 

だから、人は無意識に「見栄えの良い言葉」を選ぶ。

「洗練された空間」
「上質な時間」
「落ち着いた雰囲気」

そんな言葉を並べたくなる。

 

でも、それすら悪いことじゃないと私は思う。

だって、その言葉選びには、

「どう見られたいか?」

っていう、自分の理想や美学が滲むからだ。

  レビューの可能性

レビュー文化って、批判されがちだ。

他人の評価に流される。
SNS映えに支配される。
評価経済だ。

確かに、それも間違っていない。

 

でも私は、レビューには別の可能性もあると思っている。

レビューを書く時、人は初めて、

「自分は何を求めていたんだろう?」

を考える。

何に安心した?
何が好きだった?
何を心地良いと思った?

それを言葉にする。

つまりレビューとは、“対象を評価する行為”ではなく、“自分の感性を読む行為”なのかもしれない。

 

  シンプルフレーズ

「人はレビューを書きながら、お店を語っているようで、本当は“その時の自分”を語っている。」

もう少しだったのに。
あと一歩だったのに。
その「あと少し」で手を抜いて、あとから後悔する自分に、何度もがっかりしてきた。

「あと少し」が出来ない私へ――ADHDかどうかより先に、見つめたい“最後で気を抜く癖”の話

 

「どうして最後までちゃんと出来ないんだろう?」

そんなふうに、自分にうんざりしたことがある人は少なくないと思う。
始めることが出来ないわけじゃない。
途中まで頑張れないわけでもない。
むしろ、そこそこ出来る。そこそこやれる。だから余計に厄介なんだ。

 

本当に困るのは、最後の最後。
ゴールのほんの手前。
仕上げのひと手間。
確認の一回。
その「あと少し」が抜ける。

マラソンなら、ゴールテープを切る前に足を緩めてしまうような感じ。
横断歩道なら、渡り切る直前で早歩きをやめてしまう感じ。
料理なら、盛り付けや最後の一工程を残したまま食べ始めてしまう感じ。
絵なら、あと少しで完成なのに、そこで満足してしまう感じ。

 

そして仕事になると、これが笑えなくなる・・・

怒られるほどではない。
でも、褒められもしない。
大問題ではない。
でも、同じような小さな抜けを繰り返す。
確認不足、ケアレスミス、ちょっとした遅れ、少し足りない詰めの甘さ。

 

学生時代なら、結果さえ出ていれば見逃されたこともある。
点数になれば、それで終わりだった。


でも社会は違う。

社会は、完成して初めて価値になる。
 

途中まで上手くやったことより、最後まで責任を持てたかどうかを見られる。
契約も、ハンコをもらって終わりじゃない。
製品も、形になっただけじゃ終わりじゃない。
人間関係も、話しかけた時点ではなく、最後まで相手との距離感を扱えて初めて成立する。

 

だからこそ、途中で気が抜ける癖は、社会では地味に痛い・・・

しかも厄介なのは、こういう人はだいたい自分の欠点を分かっていることだ。


分かっていないんじゃない。
むしろ、嫌というほど分かっている。

「またやった」
「なんでそこで確認しなかったんだ」
「なんで最後まで気を張れないんだ」
「もう少し気を使えたらよかったのに」

そうやって、後からちゃんと後悔する。

 

ここで、「ADHDだからかな」と考えたくなる気持ちも分かる。


注意が逸れる。
途中で別のことに気を取られる。
勢いで話す。
断られたことを忘れてまた誘う。
言ったつもりと、言ってない現実がズレる。
終盤で集中が切れる。

たしかに、そういう特性と重なる部分はあるのかもしれない。


でも、ここで少し意地悪な言い方をするなら、診断名がついた瞬間に問題が消えるわけじゃない。

ここは厳しく見た方がいい。

「ADHDかもしれない」は説明にはなる。
でも、それだけでは改善にならない。
もっと言えば、説明だけで安心し始めると、人はすぐに自分を甘やかす。

出来ない。
仕方ない。
特性だから。
そうやって、自分を守る言葉を並べることは出来る。

 

でも、本当に必要なのはそこじゃない。

必要なのは、自分はどこで気を抜くのかを正確に把握することだと思う。
始まりが苦手なのか。
途中で飽きるのか。
最後の確認だけ出来ないのか。
人間関係になると雑になるのか。
単純作業を繰り返すと精度が落ちるのか。

つまり、反省を気分で終わらせずに、構造として見ることなんだ!

 

ここで大事なのは、自分を責めすぎないことじゃない。
むしろ逆だ。
 

曖昧に優しくしないことだと思う。

「こういうところあるよね、私って」で済ませるのは、優しさじゃない。
ただの先延ばしだ。
本当に自分を助けたいなら、もっと具体的に見た方がいい。

たとえば、最後の確認が抜けるなら、
「確認しよう」と思うだけじゃダメなんだろう・・・


その時点で脳内ではもう終わっているから。

 

だったら、確認を気合いでやるんじゃなくて、仕組みにするしかない。

終わったら一呼吸おく。
指差しする。
チェック項目を固定する。
提出前に必ず一か所だけ見る場所を決める。
会話や約束は、その場のノリではなくメモに残す。
相手とのやり取りは、気分で扱わない。

すごく地味だ。
全然かっこよくない。


でも、こういう人に必要なのは、才能の開花より凡ミスを減らす工夫だったりする。

 

ここを受け入れるのは、少し悔しい。
本当は、勢いと感覚でスマートに生きたい。
ノリよく、自由に、気軽に、軽やかにやりたい。
いちいち確認なんてしたくない。
いちいち立ち止まりたくない。

でも、その「軽やかさ」が、誰かの手間になっているなら話は変わる。


その「気ままさ」が、相手にとっては雑さや無責任に見えるなら、そこは見直さないといけない。

 

ここは、忖度なく言っておきたい。

悪気がないことは、免罪符にならない。
後悔していることは、改善したこととは違う。
優しい人でいたいなら、勢い任せで人を振り回さない努力は必要だ。

 

これは厳しい話に聞こえるかもしれない。
でも、責めたいわけじゃない。
 

むしろ、逆だ。

自分を本当に救うのは、
「そんな日もあるよ」で終わる慰めじゃなくて、
「たしかにここは自分の欠点だ」と認める勇気だと思うから。

 

欠点を認めることは、自分を嫌うことじゃない。
欠点を認めることは、改善の入口を見つけることだ。

 

そして、人間関係においては、もう一つ大事なことがある。


それが、ちゃんと『ごめんね』から始めることだ。

忘れた。
抜けた。
気が散った。
雑になった。
その事実を、なかったことにしない。

 

「そういう特性だから」で押し切らない。
「悪気はなかった」で流さない。
「でも私なりには頑張ってる」で終わらせない。

 

ちゃんと、「ごめんね」と言う。


そして、出来る範囲でやり方を変える。
それだけでも、人は少しずつ信用を取り戻せる。

 

完璧じゃなくていい。

でも、未完成を放置したまま“これが私だから”で終わらせるのは違う。

そこを履き違えたら、自分らしさはただの開き直りになる。

私たちは、たぶん完璧にはなれない。
何度も抜けるし、何度も忘れるし、何度も後悔する。


それでも、毎回少しずつでも「最後までやる工夫」を覚えていくしかないんだと思う。

だって、人生も仕事も人間関係も、
途中まで良かっただけでは成立しないことがあるから。

 

あと少し。
その「あと少し」が出来ない自分に絶望する日もある・・・


でも、その絶望を言い訳にしないで、
「じゃあどうしたら最後の一歩を残せるか」を考えることは出来る。

 

気合いじゃなくていい。
根性じゃなくていい。
才能なんかいらない。


ただ、自分の抜け方を知って、自分の雑さを認めて、自分なりの補助輪をつければいい。

ちゃんと「ごめんね」から始める。
そして、何度でも小さくやり直す。

それは、情けないことじゃない。
むしろ、未完成な自分を見捨てないための、いちばん現実的な優しさなんだと思う。

 シンプルフレーズ

「出来ない自分を許すことと、出来ないままで放置することは違う。」

前回、「レビューっていう口コミには、自分を見つける可能性がある」っていう話を書いた。

今回は、その続き。
実際に私が書くと、どうなるのか?っていう話をしです。

 

私のレビューって言うとちょっと下手な話しだけど、もうね・・・ブログ用になってしまってる。

長いね。無意味に長いね。レビューってもっと短くしないとね。

でも、感想って言うのは語ると長くなるもんよね?

 

最高の娯楽は、無料の中にある!

 


天気のいい休日って危険なんです(笑)私の場合はね?

朝起きて、カーテン開けて、太陽が出てるだけで「どっか行け」って言われてる気がする。

 

・・・いや、誰にも言われてないんですけどね(笑)

 

でも、晴れてるだけで外に出たくなる時ってあるじゃないですか?

とは言え、現実は厳しい。

お金?そんなに無い。
車?無い。
一緒に出かける相手?・・・それは聞かないでください(笑)

 

じゃあどうする?

考えるんです。

「今の自分は、何をしたら楽しいんだろう?」って・・・「どこ行く?何する?」

すると出てくるのは、私の好きなモノやことばかり・・・

 

自転車。
神社。
花。・・・以外ってよく言われます。なんでだろう?花好きですよ?

 

でね?春から初夏って、花のシーズンなんですよ!

5月ってだけでテンションがちょっと上がる。
「あ、バラ咲いてるかな?」って調べ始める。

すると出てきたんです。

 

『奥殿陣屋』有名な場所みたいです。

しかも・・・入場無料!

もう、この時点でかなり好き(笑)無料っていう魔力は強すぎる(笑)勝てないwww


  自転車で向かう時間すら、ちょっと楽しい

自転車は大好きです。車が無いって言うのもあるのか?それとも、自転車があるから車を求めていないのか?

ただ・・・こういう時の自転車っていいんですよ!!!

 

多少の坂道はある。
「うわぁ・・・地味にキツい」ってなる。

でも、その“ちょっと面倒”を越えた先に景色があると、ちゃんと気持ちいい。

 

そして到着。

岡崎市奥殿陣屋、良いんですよ。

人は居る。
でも、人混みってほどじゃない。

これが最高!!!

 

最近「ゆっくり見られる」って、贅沢なんだなって思ってしまう。

誰かに押されるわけでもない。
急かされるわけでもない。
写真撮る時に「後ろ待ってるかな?」って焦らなくていい。

これだけで、かなり心が楽。

 

映えのする場所はいつでも、どこでも人ごみだらけ・・・

疲れるんですよ。無意味に気を使って、周囲の人の写真を気にしたり、1人で行っている事のなんというか・・・を感じたり。

ゆっくり楽しめるって、それだけで私には最高のロケーション(笑)

 

 花って、なんであんなに気持ちいいんだろう?

 


バラも綺麗。

ネモフィラも咲いてる。

ポピーも、カモミールも風に揺れてる。

 

もう、「春、仕事し過ぎだろ」ってくらい景色を作ってくる(笑)

しかも花って、みんな太陽を向いてるんですよ。

「あ、太陽に呼ばれてたの私じゃないな(笑)」

って初めて知りました(笑)太陽に呼ばれていると思って家を出たのに(笑)

 

完全に花たちが主役。

私は、ただ見に来ただけ(笑)

でも、それがなんか良かった。

 

匂いって、不思議です。私には表現できないアレのソレです。

風が吹くと、ふわっと香りが流れてくるんです。

青臭いような?
イヤ・・・甘いような?
ちょっと酸味があるような?

「なんの匂いだ?」ってなる。

で、花に顔を近づけても分からない(笑)

 


私の鼻、たぶんポンコツなんですよ💦

でも、バラはちゃんと分かった。

近づいた瞬間、「あ、これバラだ」ってなる甘い香り。

咲き始めだからか、花びらもみずみずしくて、本当に綺麗だった。

 

写真を撮ろうとすると、みんな太陽の方を向いているから影になって撮りにくいんですよね(笑)

でも、人が少ないから焦らなくていい。
ゆっくり歩ける。
好きなだけ眺められる。

これで無料。

 

・・・行かない理由が私にはないです(笑)

 

5月中なら、まだまだバラも楽しめると思う。
夏にはヒマワリも楽しみな場所。

一人でも十分楽しい。
でも、茶室なんかもあるから、誰かと来ても楽しめそう。

本当に、蕩れって感じでした(笑)

  自分で感想を書いていて感じるのは?

前回、「レビューから見える自分の姿。レビューっていう口コミには、自分を見つける可能性がある」

って話をした。

 

今回、まさにそれです。

私は、高級レストランに行きたいわけじゃなかった。

刺激が欲しかったわけでもない。

静かな場所で、
風を感じて、
花を見て、
ぼーっとして、
ちょっと笑えて、
安心したかったんだ。

 

しかも、「無料」これ大事(笑)

いや、本当に。

無料って、正義なんですよ。

お金を使わない安心感って、かなり心を軽くする。

「元を取らなきゃ」が無い。

だから純粋に楽しめる。

これ、かなり大きい。

 



  レビューって、“好きな自分”を探す行為なのかもしれない

レビューを書く時って、

「どこが良かったか?」

を考える。

 

でも実際には、

「自分は何に癒されたのか?」

を探してるんだと思う。

 

私は今回、

静かな場所。
自然。
ゆっくり流れる時間。
風。
花。
そして、無料(笑)

「自分の感性」が全部滲んでいる。

そういうモノに、ちゃんと癒される人間なんだって分かった。

 

レビューって、本当はこういうものなのかもしれない。

 

 シンプルフレーズ

私は、レビューを書くことって、「お店を評価すること」だけじゃないと思っている。

 

言葉にすることで、

「一瞬の時間を大切に感じる感情」
「静かな場所と自然に癒されること」
「無料っていう魔力はやっぱり強いこと」
「心地よさを求めていること」

そんな、“その時の自分”が見えてくる。

 

レビューとは、場所の感想ではなく、

「私は、何に癒されて、何を心地良いと思う人間なのか?」

を少しずつ“好きな自分”を知っていく為の、小さな自己探しなのかもしれない。


「レビューとは、“良かった場所”の記録じゃない。“心が少し軽くなった自分”の記録なんだ。」

連休前みたいな日は、仕事を早く終わらせたくなる。
でも、そういう日に限って、周りとの温度差がやけに目につくことがある。
誰も悪くないのにしんどい・・・そんな日って、案外たくさんあるんだと思う。

温度差は、静かに人を削っていく。だから私はネガティブを吐き出す

 

はっきり言うね。

もう、超帰りたいの!

1秒でも早く帰って、連休を週末を休日を満喫したい!そして・・・お酒が飲みたい・・・

 

そう、私は仕事より、休日に命を懸けている。

最近聞く「ワークライフインテグレーション」?あほか?って思う。

  それぞれ正しいのに、モチベーションだけが噛み合わない

もう週末。
明日から連休。
こちらとしては、出来るだけ早く仕事を終わらせて帰りたい。

 

でも、現実はそんなに単純じゃない。

休日出勤の人もいる。
日にちがズレて連休の人もいる。
予定がない人もいる。
少しでいいから残業したい人もいる。
予定はあっても、そこまで急いでいない人もいる。

 

状況は本当にさまざまだ。


そしてその違いは、そのままモチベーションの差になる。

早く終わりたい人。
急いでいない人。
残業代が欲しい人。
少し余裕を持って進めたい人。

 

ここで厄介なのは、誰も間違っていないことだと思う。
悪い人がいるわけでもないし、サボっているわけでもない。


みんなそれぞれ、自分の事情の中で理性的に正しい判断をしているだけなんだよね。

だからこそ、余計にしんどい。
正しさでは、この温度差は埋まらないから・・・

  この温度差は、仕事だけの話じゃない

こういうことって、仕事だけじゃないと思う。
たとえば子育ての時の夫婦の温度差も、きっとそうだろう。

 

主観的に強く関わる側と、少し引いて客観的に見ている側。
どちらが正しいとかじゃない。


でも、感じている熱量は違う。

 

音楽を習わせるのか。
スポーツをさせるのか。
勉強を優先するのか。
何を大事にするのか。

方向性が違うことだってあるし、そこまで対立していなくても、温度差は生まれる。


そして、それを放置すると、だんだん亀裂になる。

小さなズレが、軋轢になる。
「なんで分かってくれないの?」が積もっていく。


最後には、関係そのものが危うくなることだってある。

 

だから、温度差を甘く見ない方がいいんだと思う。
誰も悪くないからこそ、余計に扱いが難しいんだ。

  じゃあ、今日のモヤモヤをどうするのか?

問題はここからだと思う。

今日の感情や想いを、どこでどう吐き出すのか?


コントロールするのか。
発散するのか。
ぶつかるのか。
ぶつけるのか。
それとも、一度飲み込んで別の場所で出すのか?

 

この選択肢を、自分の中に持っておくことは大事だと思う。

感情って、放っておけば自然に消えるほど都合が良くない。
言えなかったこと。
飲み込んだ不満。
モヤモヤした違和感。
そういうものは、溜まっていく。

そして、溜まったものは、いつか別の形で出る。
 

どうでもいい一言にイラついたり、関係ない相手に強く当たってしまったり、自分の中だけで腐っていったりする。

だから、出口は必要なんだよね。

  私は、出来ることをやるしかないと思っている

私の場合、予定を立てる時は基本的に余裕ありきだ。


仕事のしがらみがあることも前提にするし、思い通りに進まないことも込みで考える。

子育ての時もそうだった。
私に出来ることなんて限られていたし、一緒にいられる時間が少ない側だったから、フォローが中心だった。

 

結局、出来る側が、出来ることを全力でやる。


そのくらいが現実的なんだと思う。

全部を自分の理想通りにしようとすると、苦しくなる。
みんなのモチベーションを揃えようとしても無理がある。


だって、事情が違うんだから。

でも、そう分かっていても、感情は残る。
そこが厄介なんだよね・・・

 

  ネガティブな投稿には、案外ちゃんと価値がある

だから私は思う。
案外、ネガティブな方向性のブログや投稿って、共感の力と可能性を持っているんじゃないか?って。

 

前向きな言葉が刺さる日もある。
でも、しんどい時って、眩しい言葉は重たいことがある。


そんな時に救いになるのは、「分かる、その感じ」と思える愚痴や不満だったりする。

 

毎日不満を投稿し続けるのも、ありだと思う。
専用のアカウント、いわゆる裏垢みたいなものも、使い方によってはかなり理にかなっている。

ただし、そこに落とし穴もある。

投稿するために、わざわざ意識や感情をネガティブな方へ持っていったら意味がない。
吐き出すための場所だったはずなのに、不満を探しに行く場所になったら本末転倒だ。

 

だから、ネガティブ投稿は「住む場所」じゃなくていい。
あくまで、吐き出すための場所。
叫ぶための場所。
王様の耳はロバの耳って叫ぶための、古井戸みたいなものなんだと思う。

 

  愚痴は弱さじゃなく、自分を守るための出口かもしれない

愚痴や不満って、あまり良くないものみたいに扱われることがある。


でも私は、そうは思わない。

溜め込みすぎた感情を外に出すことは、自分を守ることでもある。

 

誰かを傷付けるためじゃなく、自分が壊れないために吐き出す言葉なら、それは必要なものだと思う。

 

誰も悪くないのにしんどい日。
正しさでは埋まらない温度差に削られる日。
そんな日に、「こんなことでモヤモヤする自分が悪い」なんて責めなくていい。

ちゃんとしんどかった。
ちゃんとズレを感じた。
だから、ちゃんと吐き出していい。

それだけで、明日は少し違うかもしれないから。

 シンプルフレーズ

誰も悪くない温度差ほど、人を静かに削っていく。
だからこそ、今日のモヤモヤは今日のうちに吐き出していい。
愚痴を吐くことは弱さじゃない。自分を守るための古井戸だ。

 

「大様の耳はロバの耳~」ってね(笑)