人を好きになるって、本当に力になる。

なんというか、心のよりどころのような感じがある。

もちろん、少し冷静に見れば、恋に恋しているだけなのかもしれない。

 

恋は、自分に覇気を戻してくれる

好きな人がいる自分に酔っているだけなのかもしれない。

でも、それでもいいじゃないか?と、私は思ってしまう。

 

だって、人を好きでいる時間には、確かに生活に覇気が出るから。

週末の予定を考える。
髪型を少し気にする。
服を選ぶ。
言葉遣いを考える。
姿勢や表情や立ち居振る舞いを、少しだけ意識する。

 

普段なら面倒くさいと思うことまで、なぜか出来てしまう。

「少しでも良く見られたい」
「少しでも魅力的に見られたい」
「少しでも、あの人の目に留まりたい」

そう思えるだけで、人は自分に手をかけ始める。

 

それは、ただモテたいという感覚とは少し違う。

モテたいは、不特定多数に向いている。
でも、好きな人に好かれたいは、たった一人に向いている。

誰でもいいから認められたいんじゃない。
その人に、見つけてほしい。

その違いは、とても大きい。

  好きな人がいるから、自分を見るようになる

不思議なことに、人は誰かを好きになると、自分を見るようになる。

あの人から自分はどう見えているんだろう?
この言葉はどう受け取られただろう?
この服装は似合っているだろうか?
この態度は恥ずかしくなかっただろうか?

 

そうやって、相手の目を想像する。

そして、その相手の目の中に、自分を見る。

 

これは、少し怖いことでもある。
だって、自分だけでは見えなかった自分が見えてしまうから。

雑な自分。
弱い自分。
格好つけたい自分。
認められたい自分。
好かれたい自分。
嫌われるのが怖い自分。

好きな人の存在は、鏡みたいなものなのかもしれない。

 

ただし、普通の鏡ではない。

自分の顔を映す鏡ではなく、
自分の心の姿勢を映す鏡。

だから、好きな人がいると、自分に関心が戻ってくる。

何も好きじゃない。
誰も好きじゃない。
他人に興味もない。

そんな状態では、自分自身にすら関心を持つことが難しい時がある。

 

自分を磨こうとも思えない。
自分を知ろうとも思えない。
どこへ行きたいのかも、誰に会いたいのかも、どんな自分でいたいのかも、ぼんやりしてしまう。

でも、好きな人がいると違う。

あの人に会うなら。
あの人と話すなら。
あの人の前に立つなら。

そう思うだけで、自分を整えたくなる。

恋は、相手に向かっているようで、
実は自分へ戻ってくる道でもあるんだと思う。

  恋は下心でいい

「恋は下心で、愛は真心」

この表現は、本当に上手いと思うwww

 

恋には、どうしたって下心がある。

好かれたい。
見てほしい。
振り向いてほしい。
選ばれたい。
特別に思われたい。

そんな感情がない恋なんて、たぶん綺麗すぎる。

いや、綺麗すぎるというより、人間味がない。

好きな人に良く見られたい。
好きな人に褒められたい。
好きな人に「素敵だな」と思われたい。

それは下心だ。

 

でも、その下心は汚いだけのものじゃない。

下心があるから、人は努力する。
下心があるから、自分を磨く。
下心があるから、相手のことを知ろうとする。
下心があるから、言葉を探す。
下心があるから、少しだけ勇気を出せる。

だから、恋は下心でいい。

 

ただし、下心のままで終わると、相手を見失う。

自分が好かれること。
自分が満たされること。
自分が輝くこと。
自分が救われること。

そこだけを見てしまうと、相手はいつの間にか、自分を照らすための道具になってしまう。

 

それは恋に酔っているだけなのかもしれない。

相手を見ているようで、
本当は、相手に見られている自分だけを見ている。

ここは、少し怖いところだと思う。

  振り向かれたあとに、愛は始まる

よく「釣った魚にエサをやらない」なんて言う。

 

あれは、かなり核心を突いた言葉だと思う。

振り向いてほしい時は頑張る。
手に入れたい時は努力する。
相手がこちらを見ていない時は、必死になる。

 

でも、相手が自分を向いてくれた瞬間に、安心してしまう。
そして、雑になる。
手を抜く。
大切にしなくなる。

それは、相手を好きだったのではなく、
「振り向かせようとしている自分」が好きだったのかもしれない。

 

きつい話だけど、これはあると思う。

恋は、振り向かせるまでが楽しい。
でも、愛は、振り向いてくれたあとに問われる。

相手が自分を見てくれたあとも、ちゃんとその人を見ることが出来るか?
自分の寂しさを埋めるためではなく、一人の人間として大切に出来るか?
自分の灯だけではなく、相手の灯も守れるか?

 

そこからが、本当の始まりなんだと思う・・・

恋は非日常をくれる。
愛は日常を守る。

恋は自分を動かす。
愛は二人の時間を育てる。

恋は「見てほしい」と願う。
愛は「見ていたい」と思える。

この違いは、とても大きい。

  家族の好きと、恋愛の好き

家族を好きだと思うこともある。

夫婦。
子供。
両親。
兄弟。

大切な存在であることは間違いない。

 

でも、大人になると、家族への好きは日常の中に溶けやすい。

そこにいるのが当たり前になる。
分かってくれているのが当たり前になる。
自分を向いてくれているのが当たり前になる。

子供に対してもそうかもしれない。

子供は、こちらを唯一無二の存在として見てくれる。

 

それは本当に尊いことだと思う。

でも、その尊さに慣れてしまうことがある。

 

自分を向いてくれている人を大切にするより、

まだ自分を向いてくれていない誰かを振り向かせたくなる。

これは、人間の弱さなのかもしれない。

手に入っていないものは輝いて見える。
すでにそばにあるものは、当たり前に見えてしまう。

 

でも、本当に大切なのは、
自分を向いてくれたあとも、ちゃんと向き合い続けることなんだと思う。

恋の高揚だけではなく、
日常の中で大切にし続けること。

そこに、愛の難しさがある。

そして、そこに愛の美しさもある。

  恋は、自分を見つける灯

私には、しっくりくる言葉がある。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

恋は、自分の中に灯をともしてくれる。

暗かった日常に、少し明かりが差す。
ぼんやりしていた自分の輪郭が見えてくる。
何を着たいのか?
どう見られたいのか?
どんな言葉を使いたいのか?
どんな自分でいたいのか?

好きな人がいることで、自分の姿が少しずつ見えてくる。

 

でも、その灯を自分だけのために使っているうちは、まだ恋なのだと思う。

自分だけが照らされている。
自分だけが力をもらっている。
自分だけが救われようとしている。

それも悪くない。

 

恋の始まりは、きっとそれでいい。

でも、愛はその先にある。

自分を照らしてくれた灯を、相手にも渡せること。

 

相手もまた、自分自身を見つけ始める。
相手もまた、少しだけ自分を大切にしたくなる。
相手もまた、自分の言葉や姿勢や生き方を見つめ直す。

そうなった時、初めて二人は、お互いを知り始めるのだと思う。

 

一方通行の憧れではなく、
お互いがお互いの中に、自分を見つけていく。

それを愛って呼べたら、素敵じゃないか?

  愛は、下心を真心へ育てること

恋は下心でいい。

好きな人に好かれたい。
選ばれたい。
振り向いてほしい。
特別になりたい。

それは自然な感情だと思う。

 

でも、その下心を下心のまま終わらせないこと。

自分が満たされたいだけではなく、
相手も満たされているだろうかと考える。

自分が見てほしいだけではなく、
相手のことを見ようとする。

自分が救われたいだけではなく、
相手がその人らしくいられることを願う。

 

そうやって、下心が少しずつ真心へ変わっていく。

その変化を、愛と呼ぶのかもしれない。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

自分だけが明るくなるのではなく、
相手の世界にも、そっと明かりを渡すこと。

 

その灯で、相手を支配するのではなく。
その灯で、相手を焼くのでもなく。
その灯で、相手を自分の都合のいい形に照らすのでもなく。

 

ただ、そっと渡す。

「あなたも、あなた自身を見つけていいんだよ」

そう思えること。

それが、私にとっての愛なのかもしれない。

 シンプルフレーズ

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

人を好きになることは、自分を知ることでもある。
そして、誰かを愛することは、相手が相手自身を知っていく時間を、大切に出来ることなのだと思う。

 

自分が一番見えていない

自分のことは、自分が一番よく分かっている。
そう思いたいけれど、案外そうでもないのかもしれない。
外見ですら見えないのに、心なんてもっと見えないのだから。

 

  自分の姿は、自分では直接見えない

自画像を描こうとした時、人はきっと鏡を見る。

鏡に映った自分の顔を見て、目の形や鼻の位置、口元の雰囲気を確かめながら描いていく。

 

でも、その鏡に映った自分は、本当に他人が見ている自分と同じなんだろうか?

 

分かりやすいのは、声だと思う。

自分の声って、自分では聞き慣れているつもりでも、録音して聞いてみると「え、誰の声?」って思うことがある。

 

自分が聞いている声と、他人が聞いている声は違う。

自分の中では馴染みのある声なのに、外に出して確認してみると、思っていたものとズレている。

 

たぶん姿も同じなんだろう。

自分では自分の正面くらいしか見えない。
後ろ姿も、横顔も、上から見た姿も、歩いている時の雰囲気も、自分では直接見ることが出来ない。

だから鏡を使う。
写真を撮る。
他人の目線を借りる。

自分という存在は、一番近くにあるのに、自分だけでは全体を見られない。

 

これ、なかなか悲しい話だと思う。

  他人の視点を借りて、やっと自分が見えてくる

仮に、鏡をいくつも使って後ろ姿を見たとする。

でも、その時には正面が見えない。
横を見ようとすれば、別の角度が見えなくなる。


どれだけ工夫しても、自分の姿を一度に全部見ることは出来ない。

 

結局、自分の姿を知るには、他人の視点を借りるしかない。

「こう見えているよ」
「こういう雰囲気があるよ」
「こういう表情をしていたよ」

そう言われて初めて、自分では知らなかった自分を知ることがある。

 

もちろん、他人の評価を全部信じる必要はない。

だって、他人の目だって完璧じゃない。
その人の好みや価値観や機嫌も混ざる。


人間なんて、そんなに公平なカメラじゃない。都合よく見て、都合よく解釈する。私も含めて、だいたいそんなものだ。

でも、それでも他人の視点は必要なんだと思う。

自分だけでは見えない角度が、必ずあるから。

  では、内面はどうやって見るのか?

外見ですら、自分では直接見えない。

 

なら、内面はどうなんだろう?

心。
精神。
思考。
思想。
価値観。
信仰。
好き嫌い。
怒り。
悲しみ。
嫉妬。
劣等感。
優しさ。
見栄。
こだわり。
美学。

こういうものは、鏡に映らない。

 

他人からも見えない。
そして、実は自分でもはっきりとは見えていない。

 

「私はこういう人間です」と言えたとしても、それが本当に自分の全部か?どうかは分からない。

優しいと思っていたのに、意外と冷たい部分がある。
大丈夫だと思っていたのに、ずっと傷ついていた。
好きだと思っていたのに、実は承認されたいだけだった。
嫌いだと思っていたのに、本当は羨ましかっただけだった。

 

自分の心は、自分の中にあるのに、形がない。

形がないから、見えない。

だから、見える形にする必要がある。

  見えない自分を見るには、外に出すしかない

見えないモノを見ようとするなら、アウトプットするしかないんだろうと思う。

言葉にする。
日記に書く。
レビューを書く。
愚痴として吐き出す。
不満として並べる。
作品にする。
誰かに話す。
何かを見て、感じたことを書く。

 

そうやって外に出した時、初めて自分の中にあったものが形になる。

「あ、私はここに引っかかっていたんだ」
「私はこういう言葉に反応するんだ」
「私はこういう人に憧れているんだ」
「私はこういう扱いをされると傷つくんだ」
「私は本当は、これが欲しかったんだ」

そうやって、自分の輪郭が少しずつ見えてくる。

頭の中で考えているだけだと、感情も思考もぐちゃぐちゃのままだ。

 

でも、書いてみると分かる。

同じ言葉を何度も使っている。
同じ不満を繰り返している。
同じ人に反応している。
同じ場面で怒っている。
同じところで落ち込んでいる。

 

そこに、自分の癖がある。

自分の価値観がある。

自分の大切にしているものがある。

  レビューや日記を書いてみるのをお勧めしたい。

まずレビューから始めるのが良いと思っている。

いきなり「自分とは何か?」なんて考えると、ちょっと重い。

そんなの哲学者でも難しい。


普通に生きている人間が、仕事終わりに疲れた頭で考えるには、なかなか面倒くさい。いや、だいぶ面倒くさい。

 

でも、レビューなら始めやすい。

映画を見た感想。
本を読んだ感想。
ご飯を食べた感想。
旅行に行った感想。
神社に行った感想。
誰かの投稿を読んだ感想。

「面白かった」
「つまらなかった」
「好きだった」
「苦手だった」
「なんか引っかかった」
「なぜか泣きそうになった」

それでいい。

大事なのは、上手く書くことじゃない。

 

自分が何に反応したのかを知ること。

感想って、対象について書いているようで、実は自分について書いている。

 

何を美しいと思うのか?
何を嫌だと思うのか?
何を許せないと思うのか?
何に救われた気がするのか?

そこには、自分の価値観が出る。

レビューは、作品を見るためのものでもあるけれど、自分を見るためのものでもあるんだと思う。

 

日記は、自分の感情の流れを見る鏡になる

レビューに慣れてきたら、日記も良い。

日記と言っても、立派な文章じゃなくていい。

今日は疲れた。
今日は腹が立った。
今日は少し嬉しかった。
今日は何もしたくなかった。
今日は誰かの一言が引っかかった。

それくらいでいい。

 

むしろ、最初から綺麗に書こうとすると続かない。

完璧な日記なんていらない。
誰に提出するわけでもない。
採点されるわけでもない。

ただ、自分の感情の流れを残しておく。

 

それだけでいい。

人は意外と、自分の感情を忘れる。

その時はあんなに苦しかったのに、数日経つと薄れてしまう。
その時は本当に嬉しかったのに、日常に戻ると忘れてしまう。

 

でも、書いておくと残る。

そして後から読み返すと分かる。

「私はこういう時に無理をしているんだ」
「私はこういう言葉に弱いんだ」
「私はこういう出来事をずっと気にしているんだ」
「私は案外、同じことで何度も悩んでいるんだ」

これは責めるためじゃない。

 

自分を知るためだ。

自分の感情の流れを知ることは、自分の扱い方を知ることに繋がる。

 

  愚痴や不満も、自分を知る入口になる

愚痴や不満も、悪いものばかりじゃないと思う。

もちろん、ずっと愚痴だけを吐き続けて、そこに住み着いてしまうのは危ない。

 

それはもう、古井戸に叫びに行ったつもりが、古井戸の住人になるようなものだ。

そこまで行くと、さすがに帰ってきなさい案件である(笑)

 

でも、愚痴や不満には、自分の本音が出やすい。

何に納得していないのか。
何を我慢しているのか。
何を軽く扱われたと思っているのか。
何を本当は大切にしてほしかったのか。

怒りの奥には、だいたい大切にしていたものがある。

悲しみの奥にも、期待していたものがある。

愚痴や不満は、ただの汚い感情じゃない。

ちゃんと見れば、自分が何を大事にしているのかを教えてくれる。

  自分探しは、遠くに行かなくても出来る

自分探しというと、どこか遠くに行くような感じがする。

旅に出る。
環境を変える。
新しいことを始める。
誰かに会いに行く。

もちろん、それも良い。

 

でも、自分を見つける入口は、もっと近くにもある。

 

今日感じたことを書く。
好きだったものの理由を書く。
嫌だったことを言葉にする。
誰かの言葉に引っかかった理由を考える。
何度も繰り返してしまう不満を眺める。

それだけでも、自分は少しずつ見えてくる。

自分とは、最初からはっきり存在しているものじゃないのかもしれない。

 

書いて、話して、作って、吐き出して、振り返って。
その中で、少しずつ見つかっていくものなんだと思う。

  アウトプットは、見えない自分を映す鏡

自分の姿を見るには、鏡が必要だ。

でも、自分の心を見るには、言葉が必要なんだと思う。

 

外に出してみないと、自分の中に何があるのか分からない。

だから、上手く書けなくてもいい。
綺麗にまとめられなくてもいい。
誰かに褒められなくてもいい。

 

まずは出す。

書く。
話す。
残す。
作る。
吐き出す。

その時に、初めて自分の輪郭が見えてくる。

自分のことなのに、自分が一番見えていない。

だからこそ、言葉にする。
だからこそ、表現する。
だからこそ、アウトプットする。

アウトプットする時が、一番自分を見付けられる。

ヒーローだけが主人公じゃないんだろうな

 

ガラクタだって宝物になるんだ

捨てたモノだって、いつか探したくなる

忘れたことをいつまでも思い出そうとする

 

求めているんだ。

欲しがっているんだ。

 

でも、もうそんなモノに意味がないって思っている。

 

石ころを磨いても石ころだし

ゴミなのに捨てたらダメだって言われて

逃げたら終わりみたいに思えてきて

 

何が大切なのかを考えるより

何が必要ないかを考えてしまう

 

自分を守って生きていきたいのに

守れるほど強くもなくて

守られたいとさえ思うのに

守ってくれる人も居なくて

守る方法も分からないから

傷ついている自部を見てまた悲しくなって

だからって、どうしたら良いのかもわからなくて

 

誰かに相談しても答えなんかなくて

むしろ答えのある問題でもなくて

納得なんてどこかに行っていて探し出せないのに

納得を求めていて

 

結局言い訳をして生きている

 

あ~あ

 

どうしようね。

時間には限りがある。

それを効率的に使うために、学生時代は時間割なんていうモノがあったと思う。

誰でも覚えがるんじゃないかな?

1時間目・・・2時間目・・・5時間目は眠くなる・・

みたいなさ(笑)

時間にだって、名前と意味を付けて管理して生きるのはありなんじゃない?

逆に、辛くなるだけかな?

お金の管理に名前を付けるなら、時間にだって名前があってもいいでしょ?

出来ない理由を並べるのは、たぶん簡単だ。
でも本当に苦しいのは、出来ないことより、出来ないままでいい理由を探してしまう自分を見てしまうことだと思う。
だから私は、言い訳を潰すより先に、人生の時間にちゃんと名前を付けたい。

  出来ない理由を並べる自分が嫌になる

私は、出来ない理由を並べるより、出来るようにする方法を探したいと思っている。

それは本音だ・・・。

 

でも、どうやっても出来ないこともある・・・多すぎる💦
やりたいことも、なりたい自分も、行ってみたい場所も、学びたいことも、きっと無数にある。

人の欲には限りがない。

 

たとえば、英語を話せるようになりたい。
そう思う。

セブ島留学も気になる。
英語が話せたら、世界が広がるのかもしれない。
海外の人と話せるようになるかもしれない。
新しい仕事や人間関係に繋がるかもしれない。

でも、同時にこうも思う。

「話せるようになったところで、どうなるの?」
「人生で本当に役に立つの?」
「スマホの翻訳アプリもあるし、AIもあるし、困らないんじゃない?」

 

こうやって私は、出来ない理由を並べてしまう。

 

いや、もっと正確に言えば、
出来ないままで問題ない理由を探してしまう。

ここが厄介なんだ。

 

出来ないことが嫌なんじゃない。
出来ない自分を、理屈で守ろうとしている自分に気づいてしまうのが嫌なんだ。

  メリットが見えないと、人は動けない

時間も労力もお金も、無限じゃない。

だから、何かを始める時に、
「それに見合うメリットはあるのか?」
と考えるのは、別に悪いことじゃない。

 

むしろ普通だ。

英語を学ぶにしても、留学するにしても、独立起業するにしても、何かを始めるにはコストがかかる。

時間も使う。
お金も使う。
気力も使う。
失敗する可能性もある。

 

だから人は考える。

「それ、今やる必要ある?」
「もっと別のことに使った方がよくない?」
「今の生活でも困ってないんだから、別にいいんじゃない?」

こうして、選ばない正当性が完成していく。

 

これが怖い。

なぜなら、これは怠けではなく、かなり理性的に見えてしまうからだ。

理屈としては間違っていない。
でも、その理屈の奥に、怖さや面倒くささや失敗への不安が隠れていることもある。

だから私は、自分でも分からなくなる。

これは本当に必要ないから選ばないのか。
それとも、出来ない自分を守るために、必要ないことにしているのか。

  人間関係も、同じ天秤に乗せてしまう

これは、人間関係にもあると思う。

 

この人と関わるメリットはあるのか?
デメリットの方が多いんじゃないか?
気を使うくらいなら、一人でいた方が楽なんじゃないか?

 

そうやって天秤にかける。

もちろん、それが悪いとは思わない。

合わない人と無理に関わる必要はない。
自分を削る関係なら、離れる選択も必要だ。
綺麗事だけで人間関係は続かない。

 

でも、それを繰り返しすぎると、今度は一人でいるメリットばかりが強くなる。

一人は楽だ。
傷つかない。
気を使わない。
予定も合わせなくていい。
誰かに期待しなくていい。

でも、本当は人との繋がりも欲しい。

 

ここでジレンマが生まれる。

一人でいたい。
でも、孤独ではいたくない。

人と繋がりたい。
でも、面倒な関係には傷つきたくない。

あぁ、面倒くさい。
人間って本当に面倒くさい。

 

しかも、こういう時に限って、感情で動くと後悔する。
・・・あとから一人反省会が始まる。

「あれで良かったのか?」
「言いすぎたんじゃないか?」
「やっぱり関わらなければ良かったんじゃないか?」

この反省会、開催頻度が高すぎる。


もう年会費を取れるレベルだ。

  ビジョンがない行動は、続かない

行動することは大切だ。

やってから考える。
走りながら修正する。
成功するように努力する。
準備して、用意して、積み上げる。

それは本当に大事だと思う。

 

でも、ビジョンがない行動は続かない。

目的のない目標だけでは、私は動けない。

「英語を話せるようになる」
これは目標だ。

 

でも、目的は何だろう?

海外で暮らしたいのか?
外国人の友達が欲しいの?
仕事に繋げたいのか?
自分の世界を広げたいのか?
それとも、英語が話せる自分になりたいだけなのか?

 

どれでもいい。

でも、そこが見えないと、努力が宙に浮く。

 

独立起業だってそうだ。

起業することが目標なのか?
自由に働くことが目的なのか?
お金が欲しいのか?
自分の裁量で生きたいのか?
誰かに使われることから離れたいのか?

 

ここを見ないまま動くと、たぶん途中で折れる。

だって、苦しくなった時に支えてくれる理由がないから。

  今の欲を満たすことも、生きるために必要だ

未来のために積み上げることは大切だ。

でも、今の欲を全部我慢して、未来のためだけに生きるのも違うと思う・・・。

 

今、友人と楽しくお酒を飲む。
今、好きな動画を見る。
今、何も考えずに休む。
今、意識低い時間を過ごす。

それだって必要だ。

 

だって、今の不満は今の問題だから。

未来の自分がどうなるかも大切だけど、今の自分が苦しいなら、まず今の自分をどうにかしないといけない。

 

今の欲が満たされないまま、未来の理想だけを見ても、人はそんなに強く生きられない。

意識高い時間だけでは、今の欲は満たされない。

アメブロを書いている人なんて、大抵どこか意識高い系でしょ?

 

だったら、もっと意識低い時間も大切にしてあげていい。

頑張る時間。
休む時間。
遊ぶ時間。
学ぶ時間。
逃げる時間。
何もしない時間。

全部に名前を付ければいい。

  人生の時間にも、名前を付ければいい

最近は、お金の管理でも名前を付けるらしい。

貯金。
投資。
保険。
おこづかい。
生活費。
予備費。

 

だったら、人生の時間にも名前を付けていいんじゃないか?

毎日1時間だけ英語の時間。
週に3時間だけ未来のための時間。
週末の夜は意識低い時間。
月に一度は人と会う時間。
何もしない時間。
後悔しないための準備時間。
今を満たすための時間。

そうやって切り分ける。

 

今はこれをする。
未来の自分のためにはこれをする。
過去の自分がこれで後悔したから、次はこうする。

人生を全部まとめて考えるから苦しくなる。

今も、過去も、未来も、欲も、理性も、後悔も、全部一つの鍋に入れて煮込むから、味が分からなくなる。

 

なら、分ければいい。

 

今は今。
未来は未来。
過去は過去。

その区切りを持つことが、私にとってのマインドフルネスなのかもしれない・・・

 

今だけを見ることじゃない。
今と未来を切り分けること。
今と過去を切り分けること。
そして、今の自分に必要な時間をちゃんと選ぶこと。

  出来ない理由より、時間の使い方を決めたい

出来ない理由を責めても、たぶん人は動けない。

「言い訳するな」と言われても、言い訳したくなる時はある。
「行動しろ」と言われても、ビジョンがなければ足は止まる。
「未来のために頑張れ」と言われても、今が苦しければそんな余裕はない。

 

だから私は、出来ない理由を潰すより、時間に名前を付けたい。

 

今を満たす時間。
未来に積み上げる時間。
過去の後悔を繰り返さない時間。
何も考えずに休む時間。
誰かと繋がる時間。
一人で整える時間。

そうやって、自分の人生を少しずつ区切っていく。

出来るか、出来ないかだけじゃない。
やるか、やらないかだけでもない。

今は何をする時間なのか?

それを決めるだけで、言い訳は少し静かになる気がする。

 

完璧に生きるなんて無理だ。
そんなもん出来るなら、とっくに人生の攻略本を書いている。

 

でも、今の自分に必要な時間を選ぶことくらいは出来る。

意識高い時間も大切。
意識低い時間も大切。
未来のための努力も大切。
今を笑って過ごすことも大切。

 

その切り分けが出来た時、
「出来ない理由」は、ただの逃げ道ではなくなる。

 

それはきっと、
自分の人生を自分で管理するための、現実的な判断になる。

 シンプルフレーズ

出来ない理由を責めるより、今の時間に名前を付けろ。
人生は、意識高い時間だけでは続かない。

生きにくいって感じる。

どうしようもなく、生きづらさを感じてしまう。

理由も分からず、「みんな」と同じに出来ない。

周囲の人の普通が分からない。自分が変なんだっていう自覚がある。

それでも、繋がりを捨てきれない私は弱いんだろう・・・って思うのが、弱さなんだろうね。

「自分の苦しさの構造」

 

「気にしすぎだよ」

「優しすぎる」

そう言われることがある。
でも、その“気にしすぎ”をやめられないから苦しいんだと思う。

  人との距離感が分からない

私は、人との距離感がよく分からない。

誰かと話したい。
笑いたい。
時間を共有したい。
触れ合いや空気感を大切にしたい。

 

でも、その一方で会話が終わった後に考えてしまう。

「あれ余計だったかな?」
「不快にさせた?」
「距離近かった?」
「関わり辛いって思われたかな?」

って。

 

楽しかったはずなのに、あとから反省会が始まる。

しかも、一回や二回じゃない。
何度経験しても、同じ過ちを繰り返してしまう。

本当に自分で悲しくなる・・・

   「弱い」で片付けられる苦しさ

世の中って、こういう苦しさを簡単に片付ける。

「気にしすぎ」
「自信を持て」
「もっと楽に考えなよ」

確かに、その通りなのかもしれない。

 

でも、それが出来ないから苦しい。

私はずっと、「自分が弱いから」だと思っていた。

コミュニケーション能力が低い。
空気を読み過ぎる。
自意識過剰。

そういう問題なんだろうって・・・

  哲学者フーコーの言葉が私に刺さった

でも、フーコーの言葉に触れた時、少し感覚が変わった。

「自分の苦しさは、個人の弱さだけじゃない」

そう思えたからだ。

 

人は、常に“他人の目”を意識して生きている。

学校。
会社。
SNS。
レビュー。
空気感。

「どう見られるか?」
「変じゃないか?」
「嫌われないか?」

そうやって、自分で自分を監視している。

誰かに命令されているわけじゃない。

でも、自分から勝手に整えようとしてしまう。

ちゃんとした人に見られたい。
嫌われたくない。
空気を壊したくない。

だから、常に神経を使う。

 

それって、本当に“私だけの弱さ”なんだろうか?

そう考えた時、少しだけ救われた。

   それでも、人との繋がりは欲しい

ただ、難しい。

私は人が嫌いなわけじゃない。

 

むしろ逆だ。

誰かと話したい。
共有したい。
笑いたい。

でも、関わると疲れる。

薄い関係ほど苦手だ。

SNSみたいに、繋がっているのに孤独な感じ。
誰でも話せるのに、安心して話せない感じ。

現代って、「繋がり」は増えたのに、「安心できる関係」が減った気がする。

 

だから、人と繋がりたいのに、怖くなる。

近づきたいのに、ブレーキを踏む。

そんな矛盾を抱えたまま、人は生きているんだろう。

  ■ お金が欲しいのか?安心が欲しいのか?

面白いのは、神社で祈る時だ。

私は結構リアルに、「お金ください」って思う(笑)

 

本当に人間らしくて滑稽だと思う。

でも少し考えるてしまう・・・

本当に欲しいのは、お金なんだろうか?

もちろん、お金は欲しい。
無いよりあった方がいい。

でも、お金って結局、

「余裕」

を買うものなんじゃないかと思うんだ。

 

人間関係で傷つかない余裕。
選択できる余裕。
断れる余裕。
安心して人と関われる余裕。

そう考えると、私は“お金”を求めているようで、本当は「安心」を求めているのかもしれない。

 

  ■ 苦しさの構造を知りたい

私は、自分を完全に変えたいわけじゃない・・・

完璧になりたいわけでもない・・・

ただ、

「なんでこんなに苦しいんだろう?」

を理解したい。

 

なぜ人との距離感で悩むのか。
なぜ後悔を繰り返すのか。
なぜ繋がりたいのに怖いのか。

 

その“構造”を知りたい。

だって、構造が分かれば、自分を少し責め過ぎなくて済む気がするから。

 

 シンプルフレーズ

人はよく、「もっと自分らしく生きればいい」と言う。

でも、その“自分”が分からないから苦しい。

他人の目を気にして、
空気を読んで、
嫌われないようにして、
後悔を繰り返してしまう。

それでも、人との繋がりを求めてしまう。

そんな矛盾だらけの生き方を、人間らしいと思ってしまう自分が居る。

 

だから私は今日も、

「自分の苦しさの構造」

を探している。

「人は、繋がりたいから苦しむ。
でも、苦しいほど“本当は大切にしたい”のかもしれない。」