「今、目の前にある美しさより、
記憶の中の光と色に、私は心を奪われる。」

モネのこの言葉が、ずっと心に残っている。

 

見えているはずなのに、心に届かない景色。
そこにあるはずなのに、触れられない美しさ。

たぶん私は今、
現実ではなく、記憶にしか“光”を感じられない状態にいる。

モネの記憶と、私たちの現実

 

「見たままじゃない。感じたままが美しい。」

 

 

  「美しさ」は目に見えるものじゃない

 

美しいものを見て「美しい」と思えるのは、
それを受け取る“感受性”が生きているから。

でも、その感受性がすり減ってしまったら?
現実に何があっても、ただ通り過ぎていくだけになる。

美しさは、いつも心の状態とセットでやってくる。


目の前にある景色を、心が拒否しているとき、
私たちは「過去の光」にすがるようになる。

 

(今の現実が辛すぎる。面白さの欠片も、楽しさも魅力もない。只々辛いと感じるだけの日々が過ぎて、支払いに追われるだけの生活。私は未来を見ることを諦めたくなる。)

  哲学は言う。「現実を生きよ」と。

 

でも、私たちは「記憶に生かされて」もいる。

 

今を苦しみながら生きているとき、
「記憶」という名の暖かい場所があっていいと思う。
それは逃げじゃない。
記憶に救われている限り、私はまだ壊れていない。

 

(壊れていないのは私だからじゃないかな?壊れずあろうとするから、今があるけれど、綱渡りな気がしているのも事実

生きることを目的にするのか?「善く生きる」のか?誰かの言葉に染まれるほど私は柔軟じゃない。)

 

  幻の花にすがることは、弱さではない

 

「現実の景色よりも、思い出の中に咲いた幻の花の方が、私には美しく見える。」

それを「幻想」だと笑う人もいるかもしれない。
でも私は、自分がかつて見た光を信じている。

 

記憶にすがることは、過去に戻りたいのではなく、
「確かに在った自分の感性」に触れなおしたいだけ。

 

(光があったんだ。過去に縛られている私達は、どうしても、過去の辛さに苦しめられて、過去の光に縋ってしまう。未来なんて真っ暗闇なんだから、何も見えやしない。)

 

  現実とは、“今ここ”だけではない

 

ストア派は、**「感情に流されず、理性で生きよ」**と説いた。
でも私は、感情があってこそ、生きていると感じる。

 

感情が、世界を歪めてしまうこともある。
だけど、歪んだ世界の中にしか、私の真実がない日もある。

 

(真実と答えのないことが哲学の魅力。

それなのに答えを提示されたら価値を見失ってしまうのは私だけなのかな?)

 

  シンプルで静かな、私の真実

 

私は、記憶の中の光を選んでいる。

それは、今を捨てたわけじゃない。
今を、正しく感じられないから、
せめて美しさを覚えていたいという、ささやかな抵抗。

 

だから私は、
幻の花を、胸の中でそっと咲かせている。

 

 

 💬シンプルフレーズ

今が眩しくないとき、私は記憶の光に目を閉じる。

 

それが、私のやり方。
哲学は理屈をくれるけど、
記憶は、温度をくれる。

 

そして私は、今日も少しだけ、あの光に救われている。