へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -37ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。


【詩篇119篇】o19o(サメク)


psm119:113  私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。

psm119:114  あなたは私の 隠れ場 私の盾 。私は、あなたのみことばを待ち望みます。

psm119:115  悪を行なう者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る。

psm119:116  みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。

psm119:117  私をささえ てください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。

psm119:118  あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。彼らの欺きは、偽りごとだからです。

psm119:119  あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。

psm119:120  私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています。


 

。。。。。。。。。。


おはようございます。

日々、問題はおこります。少しづつ身体も疲れてきます。

かくまってくれる場所があれば助かるんだけど・・・。



今日はそんな箇所だね。

僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm119:114  あなたは私の 隠れ場 私の盾 。私は、あなたのみことばを待ち望みます。





素敵だね。

・・・隠れ場。そして盾。




僕らは一人じゃ一つ一つの問題に対して結構弱い。

自分の弱さに打ちのめされたら

隠れ場や、盾の必要を体感する。



弱さを体感しなければ、求める事もできない。

求める事ができ、神様自身が僕らの助けと知ることが出来れば

この作者の通り、隠れ場・そして盾の素敵さを味わう事が出来るようになる。





小さな声で求めてみませんか?

ほんの小さな声でいいから・・・上に目をあげて声を発してみませんか?

小さな声でも神様は何処にでも居てはるから大丈夫。

どんな空間でも、どんな時でも僕らの祈りは聞こえるから。


それは祈りを聴かれる方が

いつも耳を傾けて僕らが言葉を発する前から、いつも待ってる神様だから。




隠れ場、盾って素敵な神様を体験できますように。

今日も神様が創られた素敵な一日。

隠された素敵を探しに今日も一緒にでかけましょう。


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119:114「あなたは私の隠れ場、・・・わたしはあなたのみことぱを待ち望みます。」

  • 「あなたの私の隠れ場」という信仰告白、その意味するところはなにかを思い巡らします。「隠れ場」と訳されたことばは、セテルסֵתֶר(seter)です。旧約では35回、詩篇では10回登場しますが、信仰告白して用いられているのは5回です。以下はその聖書箇所とその内容です。
  • 91:1
    「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」
  • 61:5
    「私はあなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避ける。」(ここで「隠れ場」が「御翼の陰」となっています。)
  • 32:7
    「あなた私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」
  • 27:5
    「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を引き上げてくださるからだ。」
    (冒頭の「それは」とは、作者がただ一つのこととして願っていること、つまり主の家に住むことを意味しています。主の家に住むことと、隠れ場に隠され、かくまわれることが同義となっています。)
  • 神の「隠れ場」に身を避け、そこに住み(とどまり)、神のみことばを待ち望むことは、力を得ます。モーセもダビデも、エリヤも使徒パウロも、そしてイエス・キリストもみな「隠れ場」を知っていました。この「隠れ場」から自分の力に頼って外に出る時、大きな過ちを犯し、必ず、失敗します。多くの人はこの「隠れ場」の存在を知りません。しかし、それはいつも開かれているのです。
  • 「隠れ場」は英語で The covering place, The hiding place, The secret place と訳されています。神の御翼におおわれた、人の目には隠された、秘密の場所というわけです。しかし、そこは神の臨在の場所であり、神との親しい交わりの場所です。敵の攻撃から守られる場所だけでなく、大胆さと勇気を与えられる場所でもあります。
  • このサメクの段落には、そうした神との親しい親密なかかわりを示す語彙(動詞)があります。

    A. 礼拝用語
    ①「愛する 」(v.113,119、アーハヴאָהַב)
    ②「待ち望む 」(v.114、ヤーハルיָחַל)
    ③「守る 」(v.115、ナーツァルנָצַר)
    ④「目を留める」(v.117、シャーアーשָׁעָה )
    ⑤「恐れる 」(畏れ敬う)(v.120、ヤーレーיָרֵא)


    B. 恩寵用語
    ①「支える 」(V.116,119,サーマフסָמַך)
    ②「生かす」(v.116,ハーヤーהָיָה)
    ③「支える 」(v.117,サーアドסָעַד)
    ④「救う 」(v.117,ヤーシャーיָשַׁע)

  • 神の偉大な器たちはみな「隠れ場」を知っていました。それゆえ、「あなたは私の隠れ場」(סִתְרִי אָתָּה)「シトリー・アッター」という信仰告白を、私たちも自分のものとして告白できることが霊性の回復にとって大きな課題なのです。


「目を留める」(v.117、シャーアーשָׁעָה )''が聖書で最初に使われているのは創世記4章4節です。「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持ってきた。主は、アベルとそのささげものとに目を留められた。」と恩寵用語として使われています。これは関心と好意を持ってご覧になるという意味です。反対に、兄カインに対しては「目を留められなかった」とあります。シャーアーが礼拝用語として用いられる時には、神に対する関心と好意をもって見るということになるかと思います。そんな親しさが込められた用語です。

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【詩篇119篇】o19n(ヌン)


psm119:105  あなたのみことば は、私の足のともしび、私の道の光 です。

psm119:106  私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。

psm119:107 私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。

psm119:108  どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。

psm119:109  私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。

psm119:110  悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。

psm119:111  私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。

psm119:112  私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

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おはようございます。

ワーシップタイムは遅れていますが、勘弁してくださいね。


では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm119:105  あなたのみことば は、私の足のともしび、私の道の光 です。





捕囚の経験にであったからこそ、光を体験できたと下記の解説には記されてた。

暗闇を知らなければ、光を本当の意味で知ることは出来ないのかもしれない。


今暗闇を体感されている方は、多分。

その光の温もりと力強く照らされる道を体感できるに違いない。




僕も生きることを諦めた時期があった。

ちっぽけな僕ながらそんな時代を過ごした時があった。


それは・・・それは

本当に希望の無い世界。真っ暗でどうしようもない時だった。




psm119:109  私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。





僕も光に出会ったとき、

この光に温もりを感じ、力強い希望の光を体験する事ができた。

いつもいのちがけでいなければなりません。


この言葉は立派な言葉だとは思えない。そうする事でようやく生きることが出来るだけの事。

それほど、サタンの用意される世界の無情さを知ったから。

あなたのみおしえを忘れたくないんです。ホンマに。



暗闇を通る事は本当にシンドイ。

どうしようもなく虚しい。でも、僕らはその時この力強い希望の光に出会うことになる。

psm119:105  あなたのみことば は、私の足のともしび、私の道の光 です。



こんな体験できたら素晴らしいね。

僕らはいつでも知る事が出来る。

辛い経験をしなくともその経験を知ったこの作者と共にこの言葉を発する事が出来る。

今日も共に自分の心を重ねて発してみましょうね。



では、今日も神さまが用意された素敵な一日。

隠された素敵を捜しに今日も共にでかけてまいりやしょう~。


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  • 詩119篇には「光」という語は2回しか出てきません。 一つは「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節)。 もう一つは「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(130節)です。いずれも良く知られた味わい深い聖句です。ヘブライ人にとって「光」は単に暗さを明るくする光源以上の意味を持っています。結論的に言うならば、聖書の「光」は交わりという関係概念です。
  • すべての被造物は光の中に創造され、混沌と無秩序の闇の中にいのちがもたらされました。その「いのちの光」はまさに神と人とのかかわりのことです。やがてそのいのちは、新約時代には「永遠のいのち」という表現に換えられていきます。
  • 捕囚の経験を通った作者が出会った祝福は、神の律法(みことば)こそ、やみの中にいた自分をいのちへと導く「ともしび」であり、自分の道を照らすまことの「光」だと自覚できたことです。エルサレムにいた頃、神の民は神殿を中心とした礼拝でした。神殿の聖所には、神の臨在を示す燭台があり、夕から朝まで絶えず火が灯され続けていましたが、その本当の意味するところを知ることができたのは捕囚という苦しみの経験を通してでした。
  • 神の御子イエス・キリストこそ、すべての人を照らす「まことの光」です。 毎年、ユダヤ教では12月の中旬頃から8日間にわたって、「ハヌカ」という祭りがあります。別名、「きよめの祭り」とも、「光の祭り」とも呼ばれます。この祭りはある歴史的事件から生まれたものですが、もし、私たちがキリストにある者として、この時期に、8日間、「光についての瞑想」の時を持つなら、すばらしい祝福を得るのではないかと思います。
  • それほどに、聖書の「光」という瞑想のテーマは計り知れない深さを持っています。闇の中に「光よ、あれ」と言われたその神に出会うということは、その光の中に生きることを意味します。私たちは、光に照らされ、光の中に招かれ、光の中にとどまり、光の子どもとして、世を照らす光とされた者です。その光は、「闇を照らす光」であり、「いのちの光」、「愛の光」、「まことの光」、「天からの光」です。
  • 御父から遣わされた御子イエスは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)としてこの世に来られました。そして「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。「天からの光」を受 けたパウロも、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。 光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)と勧めています。
  • 詩119篇の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節)との告白は、自分の暗やみが何であるかを知っていることと密接な関係があるようです。

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【詩篇119篇】o19m(メム)


psm119:97  どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

psm119:98  あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。

psm119:99  私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。

psm119:100  私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。

psm119:101  私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。

psm119:102  私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。

psm119:103  あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

psm119:104  私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。


 

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おはようございます。

今日は日曜。素敵な一週間の始まりの朝ですね。

今週は先週の延長ではない。新たな1週間だ。

自分の頭で考えると制限された領域の支配者によって僕らの思考は制限されている。

惑わされず、与えられている将来を見つめる事が出来ますように。




では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm119:99  私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。





なんだろう。

バイブルには『 弟子は師以上になれない 』と記されているけど。。

 『 それはあなたのさとしが私の思い 』だからなんだよね。


僕らはいつもどんな時にも制限された肉体によって全てを考える。

特に将来を考える時、そこに正しさがいつも導かれるかは別問題。


それは、将来に身をおいていないから解らないのは当然。

でも、僕らは時を越えてる方と共に今生かされている。




今日は其処がポイントなのかも。

将来も全て共に生きて知っておられる方のお知恵を拝借ってこと。


そりゃ~、時を越えられた神様の考えと自分自身が繋がれば、敵よりも賢くもなるわな~。


 

この詩篇の作者はそれを知ってただけのこと。

立派なのは立派かもしれないけれども・・・知ってれば神様と繋がりたいと誰でも思えるはず。

人は撒いた種は必ず刈り取る事になる。

だから、

psm119:101  私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。




悪の道に入らないよう、神様の思いを満たしたいと願うのは当然だよね。

バイブルに記されてるのはなんら特別優れた人ではない。

立派になろうとする言葉ではない。



ただ、神様がみんな豊かに過ごす為に必要な真理を記してるに過ぎない。

それに気づく時

僕らはこんなに立派そうな言葉を発する事になる。



でも、ただ真理に気付いただけ。

真理に気付かされただけなんだよね。




なんら不思議ではない。

この言葉を守るだけでエエンやで~!ってジーザスがいうのも。



改めて聴いてみよう。

こんな言葉。


『 

mat22:35  そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家 が、イエスをためそうとして、尋ねた。

mat22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

mat22:37  そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし 、思いを尽くし 、知力を尽くし て、あなたの神である主を 愛せよ 。』

mat22:38  これがたいせつな第一の戒め です。

mat22:39  『あなたの隣人を あなた自身のように愛せよ 。』という第二の戒め も、それと同じようにたいせつです。

mat22:40  律法全体 と預言者 とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 』




バイブルは一歩引いてみると

こんな言葉が敷き詰められている。


全ては神様と繋がる事で僕らの問題はなくなるし、豊かに過ごす事が出来るようになる。

何故なら、本来僕らは神様に愛される為に創られた存在だから。

だから

僕らも神様が創られた「あなた自身」を愛する必要がある。

「自分はダメだ」という心の叫びは何処に向かうのか?

創られた神様かな?

神様は僕らも高価で尊く創られた。

僕ら肉体に制限のある考えで、いつまでも自分自身を理解しようとしないでイイ。

大丈夫。


まずは、神様と繋がろう。

そしたら、きっと本当に創られた素敵な自分自身を知ることにもなるから。




大丈夫。

僕もあながもとっても素敵な存在。




気付かせて下さる方の声に耳を傾けてみようね。

恐れないで・・・。大丈夫だから。




今週もいろんな事があるでしょうが

先ずは神様と繋がって、この詩篇の作者とともにその言葉を発してみましょうね。

今日も隠された素敵を捜しに一緒にでかけまよう~。




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  • このブロックでは愛の確証、つまり神に対する私の愛の確かさとは何かということを考えさせられます。作者は97節で「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中私の思いとなっています。」と述べています。岩波訳では「なんと私は愛していることか」と訳されています。その愛の証拠は、「一日中」(新改訳) 「絶え間なく」(新共同訳) 「ひねもす」(岩波訳) 「終日」(関根訳)、主のみおしえが私の思い(My meditation)となっているということです。要約すると、主を愛することは、絶えず、主が、(あるいは主のみおしえが)私の「思い」となっているということです。
  • 103節の「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。密よりも私の口に甘いのです」という表現も捨てがたい、味わいのある表現です。詩19篇10節にも同じような表現があります。「甘い」とは、美味しいということでしょう。美味しいもの食べ物は私の心を元気にし、力づけます。甘いものを美味しそうに無心で食べている子どもを思い浮かべます。甘いものは、すぐに私たちの体の中でエルネギーに換えられます。「密よりも甘いみことば」を日々味わいながら、神とのスイートな愛(sweet love)の交わりを楽しむ者でありたいと思います。 ⇒詩篇119篇の礼拝用語「甘い」
  • 詩篇には、みことばを知性的な領域だけでなく、感覚的な領域でも味わう表現が多く見られます。それは赤子が母親に抱かれている感覚に近いものだと思います。赤子は母親の愛を、理性ではなく、日々、五感を通して感じとっています。たとえば、視覚を通して母親の眼差しを、聴感を通して母親のやさしい声を、触覚を通して母親の温かいぬくもりを、臭覚を通して母親のにおいを、味覚を通して母親の愛を確かに感じ取っています。
  • 同様に、神の子どもとされた私たちも、視覚によって主のまなざしを見ます。「主の御顔を仰ぎ見る」(詩篇11:7/34:5/黙示録22:4)とは交わりの究極的な表現です。聴覚によって主の御声のささやきを聞き、触覚によっていやしや導きの御手を感じ、臭覚によってキリストのかおりを嗅ぎます。匂いはその人の存在そのものを意味します。また、味覚によってみことばの甘さを味わいます。ストレスを感じるとき、甘いものが食べたくなります。主のみことばが「甘い」という表現は、みことばが私たちを元気づけ、慰め、生かしてくれる即効的な力をもっているからです。
  • 神の子とされた者たちは、神の愛に満ちた懐の中で、五感のすべてを用いて、さらなる神の深い愛を感じ取ることができるのです。

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【詩篇119篇】o19l(ラメテ)


psm119:89  主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

psm119:90  あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。

psm119:91  それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。

psm119:92  もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

psm119:93  私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

psm119:94  私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。

psm119:95  悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。

psm119:96  私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。


 

。。。。。。。。。。


おはようございます。

今朝は雨もやんでるわあ。少し肌寒いけど体調管理には気をつけましょうね。



では早速共に詩篇を。

今日、僕の心に留まった言葉はコレ。

psm119:91  それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。




僕らは何処に立ってるのか?

何を基礎としているのか?

そこがとても大切なところじゃないかなって思ったんです。

王様がアホだったら、その民も共倒れ。

素晴らしい先見性をもつ王様で、徹底した管理をした王国は反映するだろうね。



そのベースが間違っていれば共倒れにナッチャウもんね。




何処に僕らは立ち、

誰に従って歩むのだろうか?


僕らはどんな指導者の声にしたがってるのか?ってのももう一度確かめる必要があるかも。

すべては、あなたのしもべだからです。




今日も囁く声がある。


もう・・・アカン。こんなん最悪や。

どうやっても問題は解決されね~ぞ。。なんてね。



結構、意識したらこの世を支配しているサタンの声に耳を傾けちゃってるのに気付く。






僕らを喜びに導くのはそんな声だろうか?

この詩篇の作者と共に、今日も自分の言葉として発してみませんか?発する!ハッスル!



では、今日も神様が備えられた一日。

隠された素敵を捜しに今日もでかけましょうね。



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  • この段落(v.89~96)の中心的なことばは、93節後半の「あなたは私を生かしてくださった」ということです。「私を生かした」神のことばの永遠性、確実性がこの段落のテーマだと思います。
  • 神の「ことば」「真実」「戒め」「みおしえ」は、とこしえの昔から、代々に至るまで、そして今も、天においても、地においても、不変であり、不動であることを告白しています。この世においてどんなにすばらしいと思われるものも、いつかやがて色あせ、終りがくることを知り、永遠に堅く立つものに信頼しようとする作者の気持ちが伝わってきます。
  • 89節の天に「定まっている」と訳されるナーツァヴנָצַב(natsav)は、本来は、「立つ」「まっすぐに立つ」「ずっと立ち続ける」ことを意味します。90節の「据えた」と訳されたクーンכּוּן(kun)も、90,91節で「堅く立っている」と訳されたアーマドעָמַד(`amad)、みな同じく「立つ」という類義語です。このように類義語を重ねることで、よりその確かさ(確実性)を強調しているようです。神のことばは天においても、地においても、そして永遠に不変であり、不動であり、決して崩れることがないことを告白しています。と同時に作者は、そこに堅く立つことにより、自分もブレルことのない不変・不動の信仰の歩みをしたいと願っているのです。
  • そうした願いを示すことばが、93節の「決して忘れない」、94節の「求めています」、95節の「聞き取ります」ということばです。
  • 94節の「求めています」と訳されたダーラシュדָרַשׁ(darash)は、「英知を得る」、「心を向ける」という求道性を表わす積極的表現です。原義は「熟考する」で、どちらかといえば、理性的な領域において、尋ね求める、捜し求めるという意味です。ちなみに、心情的な領域での求道を表わす「慕い求める」はバーカシュבָּקַשׁ(baqash)です。
  • 95節の「聞き取ります」と訳されたビーンבִּיןは、ことばの背後にある隠された知恵を見出そうとすることばです。作者は、日々、神のみおしえを学び、瞑想しながら、戒めの中に隠されている神の深い御旨を丹念に、しかもコツコツと捜し求め続けたのです。
  • 92節の「あなたのみおしえが私の喜び」とは自発性を表わす表現です。「喜び」と訳されたシャアシュイームשַׁעֲשֻׁעיםは(24, 77, 92, 143, 173節)は、動詞のシャーアーשָׁעַע(sha`a`, 119:16, 47)と共に詩119篇の特愛用語です。この「喜び」はある出来事にある特別な「喜び」ではなく、日常的に経験している「喜び」です。この「喜び」こそすべての動機、行為の源泉となるものです。詩篇119篇の作者は、苦しみを通して、その喜びという宝を神のトーラーの中に見出したのでした。
  • このように、作者を「生かし」た要因は、神のことばの「永遠性」と「堅固さ」、そしてそれらによって誘発された作者自身の「自発性」であることが分かります。ここに信仰の自立をみる思いがします。

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【詩篇119篇】o19k(カフ)


psm119:81  私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

psm119:82  私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。「いつあなたは私を慰めてくださるのですか。」と言っています。

psm119:83  たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、あなたのおきてを忘れません。

psm119:84  あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。

psm119:85  高ぶる者は私のために穴を掘りました。彼らはあなたのみおしえに従わないのです。

psm119:86  あなたの仰せはことごとく真実です 。彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。どうか私を助けてください。

psm119:87  彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。

psm119:88  あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。


 

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おはようございます。

今朝は寒かったですね。4度くらい低くなってるので体調には気をつけたいですね。



では早速今日も共に詩篇を。

僕の心に留まった言葉はコレ。

psm119:84  あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるのでしょうか。





どれだけ?!

ホンマ 何時なん?!


神様居るんやったら、早く助けてや~。ホンマに祈り聞いてくれてんの?




僕らはいつもそう思う。この詩篇の作者もそう。

だって、『 高ぶる者は私のために穴を掘りました。  』 なんだもんね。

そりゃあ、目の前でそんなんを見ながらヤッタラ早く~!って思う。




でも少しづつ祈りを体験していけば

祈りはいつも最適なタイミングだと気付いてくる筈。




今、そこを見つめる時

何故なのか?って解らない事のほうが多い。




でも、それは神様が隠された事なのかもしれない。

 

ecc3:1  天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

ecc3:2  生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。椊えるのに時があり、椊えた物を引き抜くのに時がある。

ecc3:3  殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。

ecc3:4  泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

ecc3:5  石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

ecc3:6  捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

ecc3:7  引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

ecc3:8  愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

ecc3:9  働く者は労苦して何の益を得よう。

ecc3:10  私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

ecc3:11  神のなさること は、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思い を与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。




神様がおこなわれるみわざを

僕らが初めから終わりまで見極める事ができない事を知ることで、僕らは時に囚われなくなる。


だって、時を越えた神様が最適なタイミングで用意されるんだから。

大丈夫。


僕らはいつも其処でどうしよう・・・こうしよう・・・なんて思うを任せて良い。

僕らは制限された肉体でしかソレを測れない。

だったら、どんなに考えてもわかり得ないもんね。




信頼するよう神様が与えられた隠された事なのかも。

大丈夫。


神様は必要なタイミングで私を慰めてくださるのですから。

だから、解らないのも楽しもう。

どんなタイミングで神様がされるのかを期待して。

きっと、最適だと後に気づく事が出来るから。



では今日も素敵な一日を神様が用意された。

隠された素敵を捜しながら、神様の最高のタイミングを期待して過ごせますように。



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  • このブロックでは、81,82節にある「慕って絶え入るばかりです」という言葉を味わいます。この表現は詩篇にしか出てきません。しかもその数は少なく(他に詩84篇2節)、詩篇119篇にまとまってあることが特徴です。(他に123節)。この表現の主語は、「私のたましいは」、「私の目は」とありますから、自分の全存在を通して、神ご自身の約束、救いを切望する霊的渇望を意味しています。「目」は存在全体を表すユダヤ的表現です(マタイ6章22,23節参照) 。
  • 「慕って絶え入る」と訳されたことばはカーラーכָּלָה(kalah)です。旧約では204回使われています。本来の意味は「完成する」、「実現する」、「成し遂げる」、「仕上げる」という目的実現思考の語彙です。と同時に、その完成を待ち望みつつもそれがなかなか実現しないので、たましいが疲れ果てて弱ってしまっているという意味もあります。この二つの意味が重なった「交錯」しているイメージ、それがカーラーכָּלָהで、新改訳では、81節も82節も同じく「慕って絶え入るばかりです」と訳していますが、新共同訳はこの言葉のイメージをうまくとらえて訳しています。81節のカーラーでは「~を求めて絶え入りそうです」と訳し、82節のカーラーכָּלָה(kalah)では「~を待って衰え果てました」と訳しています。
  • それゆえ、作者は、「いつ、あなたは私を慰めてくださるのですか。」(82節)、「あなたはいつ、私を迫害する者どもをさばかれるでしょうか。」(85節)と神に問いかけています。と同時に、「たとい私は煙の皮袋のようになっても、あなたを忘れません。」(83節)、「あなたの戒めを捨てませんでした。」(87節)と告白しています。ここに神を心を尽くして熱心に尋ね求める者の「待望」とそれを阻む現実の狭間がもたらす「憔悴」のアンビバレントな心情が見られます。
  • 「慕って絶え入る」という心情は、新約時代に生きるキリスト者にとっては、神の国の到来における「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中に生きるのと似ています。神の国の支配はすでにイエス・キリストの十字架と復活によって実現していますが、同時に、キリストの再臨までは、いまだ未完成なのです。完全な完成を待ち望む渇望が強ければ強いほど、憔悴感も強まるのかもしれません。
  • バビロンの捕囚となっていた詩篇119篇の作者は、すでにエレミヤの預言を通して捕囚から解放されることを信じていたに違いありません。そして神の民としての再建の取り組みは私たちの想像をはるかに超えるものでした。それゆえに神の救いを待つ思いは、たましいが衰えるのを禁じ得なかったほどだったのです。しかし作者は、現実の厳しい状況の中でも、神のトーラーを忘れることなく、それに従い、それを昼も夜も口ずさみ、また子どもたちに教え込み、安息日を守りながら、自分たちの「聖なる民」としてのアイデンティティを意欲的に回復していく営みを続けていったと思われます。これは今日のキリスト教会においても、良い教訓となると信じます。
  • 「主を知ることを切に追い求める」というイメージを新約的な表現でいうならば、使徒パウロがキリストを得るために捕えようと追求している姿にたとえられます。使徒パウロにとって、キリストとの出会いは、それまで彼が自分にとって得であったものがすべて損と思うようになるほどの価値転換をもたらしました。しかしパウロにとっては、「すでに得たのでも、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」(ピリピ3章12節)と述べています。「キリストを得る」というこの一時に励むこと、すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前の者に向って進み・・・一心に走っている」このようなパウロの姿も「慕って絶え入るばかり」の心情を人に与えるかもしれません。「慕って絶え入るばかり」・・詩篇の作者と共有したい感情でもあります。

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