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psm119:105 あなたのみことば は、私の足のともしび、私の道の光 です。
psm119:106 私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。
psm119:107 ★ 私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。
psm119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。
psm119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
psm119:110 悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。
psm119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。
psm119:112 私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。
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おはようございます。
ワーシップタイムは遅れていますが、勘弁してくださいね。
では早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm119:105 あなたのみことば は、私の足のともしび、私の道の光 です。
捕囚の経験にであったからこそ、光を体験できたと下記の解説には記されてた。
暗闇を知らなければ、光を本当の意味で知ることは出来ないのかもしれない。
今暗闇を体感されている方は、多分。
その光の温もりと力強く照らされる道を体感できるに違いない。
僕も生きることを諦めた時期があった。
ちっぽけな僕ながらそんな時代を過ごした時があった。
それは・・・それは
本当に希望の無い世界。真っ暗でどうしようもない時だった。
psm119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
僕も光に出会ったとき、
この光に温もりを感じ、力強い希望の光を体験する事ができた。
いつもいのちがけでいなければなりません。
この言葉は立派な言葉だとは思えない。そうする事でようやく生きることが出来るだけの事。
それほど、サタンの用意される世界の無情さを知ったから。
あなたのみおしえを忘れたくないんです。ホンマに。
暗闇を通る事は本当にシンドイ。
どうしようもなく虚しい。でも、僕らはその時この力強い希望の光に出会うことになる。
psm119:105 あなたのみことば は、私の足のともしび、私の道の光 です。
こんな体験できたら素晴らしいね。
僕らはいつでも知る事が出来る。
辛い経験をしなくともその経験を知ったこの作者と共にこの言葉を発する事が出来る。
今日も共に自分の心を重ねて発してみましょうね。
では、今日も神さまが用意された素敵な一日。
隠された素敵を捜しに今日も共にでかけてまいりやしょう~。
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- 詩119篇には「光」という語は2回しか出てきません。 一つは「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節)。 もう一つは「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(130節)です。いずれも良く知られた味わい深い聖句です。ヘブライ人にとって「光」は単に暗さを明るくする光源以上の意味を持っています。結論的に言うならば、聖書の「光」は交わりという関係概念です。
- すべての被造物は光の中に創造され、混沌と無秩序の闇の中にいのちがもたらされました。その「いのちの光」はまさに神と人とのかかわりのことです。やがてそのいのちは、新約時代には「永遠のいのち」という表現に換えられていきます。
- 捕囚の経験を通った作者が出会った祝福は、神の律法(みことば)こそ、やみの中にいた自分をいのちへと導く「ともしび」であり、自分の道を照らすまことの「光」だと自覚できたことです。エルサレムにいた頃、神の民は神殿を中心とした礼拝でした。神殿の聖所には、神の臨在を示す燭台があり、夕から朝まで絶えず火が灯され続けていましたが、その本当の意味するところを知ることができたのは捕囚という苦しみの経験を通してでした。
- 神の御子イエス・キリストこそ、すべての人を照らす「まことの光」です。 毎年、ユダヤ教では12月の中旬頃から8日間にわたって、「ハヌカ」という祭りがあります。別名、「きよめの祭り」とも、「光の祭り」とも呼ばれます。この祭りはある歴史的事件から生まれたものですが、もし、私たちがキリストにある者として、この時期に、8日間、「光についての瞑想」の時を持つなら、すばらしい祝福を得るのではないかと思います。
- それほどに、聖書の「光」という瞑想のテーマは計り知れない深さを持っています。闇の中に「光よ、あれ」と言われたその神に出会うということは、その光の中に生きることを意味します。私たちは、光に照らされ、光の中に招かれ、光の中にとどまり、光の子どもとして、世を照らす光とされた者です。その光は、「闇を照らす光」であり、「いのちの光」、「愛の光」、「まことの光」、「天からの光」です。
- 御父から遣わされた御子イエスは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)としてこの世に来られました。そして「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われました。「天からの光」を受 けたパウロも、「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。 光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)と勧めています。
- 詩119篇の「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節)との告白は、自分の暗やみが何であるかを知っていることと密接な関係があるようです。
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