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psm119:113 私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。
psm119:114 あなたは私の 隠れ場 、私の盾 。私は、あなたのみことばを待ち望みます。
psm119:115 悪を行なう者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る。
psm119:116 みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。
psm119:117 私をささえ てください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。
psm119:118 あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。彼らの欺きは、偽りごとだからです。
psm119:119 あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。
psm119:120 私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。私はあなたのさばきを恐れています。
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おはようございます。
日々、問題はおこります。少しづつ身体も疲れてきます。
かくまってくれる場所があれば助かるんだけど・・・。
今日はそんな箇所だね。
僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm119:114 あなたは私の 隠れ場 、私の盾 。私は、あなたのみことばを待ち望みます。
素敵だね。
・・・隠れ場。そして盾。
僕らは一人じゃ一つ一つの問題に対して結構弱い。
自分の弱さに打ちのめされたら
隠れ場や、盾の必要を体感する。
弱さを体感しなければ、求める事もできない。
求める事ができ、神様自身が僕らの助けと知ることが出来れば
この作者の通り、隠れ場・そして盾の素敵さを味わう事が出来るようになる。
小さな声で求めてみませんか?
ほんの小さな声でいいから・・・上に目をあげて声を発してみませんか?
小さな声でも神様は何処にでも居てはるから大丈夫。
どんな空間でも、どんな時でも僕らの祈りは聞こえるから。
それは祈りを聴かれる方が
いつも耳を傾けて僕らが言葉を発する前から、いつも待ってる神様だから。
隠れ場、盾って素敵な神様を体験できますように。
今日も神様が創られた素敵な一日。
隠された素敵を探しに今日も一緒にでかけましょう。
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119:114「あなたは私の隠れ場、・・・わたしはあなたのみことぱを待ち望みます。」
- 「あなたの私の隠れ場」という信仰告白、その意味するところはなにかを思い巡らします。「隠れ場」と訳されたことばは、セテルסֵתֶר(seter)です。旧約では35回、詩篇では10回登場しますが、信仰告白して用いられているのは5回です。以下はその聖書箇所とその内容です。
- 91:1
「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」 - 61:5
「私はあなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避ける。」(ここで「隠れ場」が「御翼の陰」となっています。) - 32:7
「あなた私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」 - 27:5
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を引き上げてくださるからだ。」
(冒頭の「それは」とは、作者がただ一つのこととして願っていること、つまり主の家に住むことを意味しています。主の家に住むことと、隠れ場に隠され、かくまわれることが同義となっています。)
- 神の「隠れ場」に身を避け、そこに住み(とどまり)、神のみことばを待ち望むことは、力を得ます。モーセもダビデも、エリヤも使徒パウロも、そしてイエス・キリストもみな「隠れ場」を知っていました。この「隠れ場」から自分の力に頼って外に出る時、大きな過ちを犯し、必ず、失敗します。多くの人はこの「隠れ場」の存在を知りません。しかし、それはいつも開かれているのです。
- 「隠れ場」は英語で The covering place, The hiding place, The secret place と訳されています。神の御翼におおわれた、人の目には隠された、秘密の場所というわけです。しかし、そこは神の臨在の場所であり、神との親しい交わりの場所です。敵の攻撃から守られる場所だけでなく、大胆さと勇気を与えられる場所でもあります。
- このサメクの段落には、そうした神との親しい親密なかかわりを示す語彙(動詞)があります。
- 神の偉大な器たちはみな「隠れ場」を知っていました。それゆえ、「あなたは私の隠れ場」(סִתְרִי אָתָּה)「シトリー・アッター」という信仰告白を、私たちも自分のものとして告白できることが霊性の回復にとって大きな課題なのです。
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「目を留める」(v.117、シャーアーשָׁעָה )''が聖書で最初に使われているのは創世記4章4節です。「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持ってきた。主は、アベルとそのささげものとに目を留められた。」と恩寵用語として使われています。これは関心と好意を持ってご覧になるという意味です。反対に、兄カインに対しては「目を留められなかった」とあります。シャーアーが礼拝用語として用いられる時には、神に対する関心と好意をもって見るということになるかと思います。そんな親しさが込められた用語です。
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