。。。。。。。。。。
【詩篇46篇】o19 指揮者のために。コラの子たちによる。アラモテに合わせて。歌。
psm46:1 ★ 神はわれらの避け所 、また力。苦しむとき 、そこにある助け 。
psm46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
psm46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
psm46:4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都 を喜ばせる。
psm46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
psm46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
psm46:7 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
psm46:8 来て、主のみわざを見よ。主は地に 荒廃をもたらされた。
psm46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ 、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
psm46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間で あがめられ、地の上であがめられる。」
psm46:11 万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
。。。。。。。。。。
おはようございます。
今日から子供は学校が始まる。朝からバタバタ久しぶりにしてる。
では早速今日も共に詩篇を。
今日僕の心に留まった言葉はコレ。
psm46:1 ★ 神はわれらの避け所 、また力。苦しむとき 、そこにある助け 。
psm46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
どんな事があっても
神はわれらの避け所 、であり、また力。苦しむとき 、そこにある助け 。 なんです。
なんです。
どんな事があっても・・・・。
だから、大丈夫なんです。
でも
なんで大丈夫と云えるんでしょうか?
・・・解りません。
ただ、神様がそういわれているから・・だけなんです。
今見える世界がどんなに失望を誘おうとも
僕らは失望を受け取ることは要らない。
見える世界から真実が見えるわけではないから。
だから
psm46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
と、見える世界と逆らっても、こう叫ぶ事が出来る。
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
・・・・・・・・・・
詩46篇「まなかにいます」 קֶרֶב ケレヴ
〔カテゴリー統治〕
5節「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。」(新改訳)
5節 God is within her, she will not fail. (NIV)
Keyword; 「真中」 among , within, in the midst of, inner part
- 「まなかにいます」と訳れたことばの原文には、動詞はなく、前置詞のべ(בְּ)と名詞のケレブקֶרֶב(qerev)とが結びついた語彙です。「真中」「ただ中」「最中」「心」「心の中」「(私の)うち」を表わします。詩110篇22節では「私の心は、私のうちで傷ついています」とあり、「心」と「うち」を別のものとしています。詩74篇11節では「ふところ」(新改訳)と訳しています。このように、ケレヴקֶרֶב(qerev)は、より中心的な部分、その人全体を支えている最も重要な部分を指し示しているようです。そうした深いところに神がおられるならば、決してゆるがされないと言えます。そんなシークレットなかかわりをもっていたモデルは御子イエス・キリストです。彼は御父の「ふところにおられた」方でした。
- 最も深い、内なる真中にあるものは、私たちの目には見えないものです。詩46篇4節の「川がある」(正確には、「一つの川がある」)とありますが、この川はおそらく、ヒゼキヤがエルサレムの町を守るために籠城用に造ったものであり、その源泉はギホンの泉でした。そこから555mものトンネルを掘って水路にしたのです。敵はそんなこととはつゆ知らず、エルサレムを包囲している最中に疫病でほとんどの兵士が死んだのでした。
- 「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。」(4, 5節)ここにある「川とその流れ」は、新約における聖霊のたとえと考えることができます。神は聖霊を通して、私たちの「まなかにおられる」のです。その聖なる住まいは私たちの身体であり、それは決してゆるがされることがないのです。
- もし反対に、私たちの心のうちに、神ではなく、思い煩いや恐れがあるとすれば、必ずや、ゆるがされて倒れるときが来るということになります。なぜなら、「恐れ」があるなら、力が与えられるどころか無力になるからです。良い知恵が与えられるどころか、愚かな決断を下してしまいやすいからです。さらに、神の臨在さえ感じなくさせてしまうからです。「愛」と「恐れ」は相入れません。むしろ、「愛は恐れを締め出し」ます。
- 神が私とともにおられるだけでなく、わたしの内に、その真中におられることを信じなければなりません。そうするなら、詩46篇の作者とともに、「われらは恐れない」と言えます。使徒パウロはその奥義を次のように語りました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs46
・・・・・・・・・・