。。。。。。。。。。
【詩篇45篇】o19 指揮者のために。「ゆりの花《の調べに合わせて。コラの子たちのマスキール。愛の歌
psm45:1 私の心はすばらしいことばでわき立っている。私は王に私の作ったものを語ろう。私の舌は巧みな書記の筆。
psm45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福し ておられるからだ。
psm45:3 雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。あなたの尊厳と威光を。
psm45:4 あなたの威光は、真理と柔和と義のために、勝利のうちに乗り進め。あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。
psm45:5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。
psm45:6 神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。
psm45:7 あなたは義を愛し 、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。
psm45:8 あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち、象牙のやかたから聞こえる緒琴はあなたを喜ばせた。
psm45:9 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ。
psm45:10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。
psm45:11 そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。
psm45:12 ツロの娘は贈り物を携えて来、民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。
psm45:13 王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。
psm45:14 彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。
psm45:15 喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、王の宮殿にはいって行く。
psm45:16 あなたの息子らがあなたの父祖に代わろう。あなたは彼らを全地の君主に任じよう。
psm45:17 わたしはあなたの名を代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。
。。。。。。。。。。
おはおうございます。
昨日は休日だったので、ヨッシャ子供達をプールにと浜寺公園へ車を向かわせたのですが・・・
スコール。
残念。
断念。
Uターン。
ま。
色々ありますね。近くの子供服の古着屋で買い物をして帰りました~。
では今日も早速共に詩篇を。
今日僕の心に留まった言葉はコレ。
psm45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福し ておられるからだ。
神様からの祝福。
唇からの優しさを味わったことありますか~?
ここでは、確かにそのように記されてますね。
僕らは直ぐに、それを受けた・受けないと判断を感覚で判断しようとする。
でも、もしかしたら
感覚がそう捉えていなくても、僕らは祝福されていると知ることが出来るのかもしれない。
神様が語られている言葉によって。
神様は僕らに語り続けた。
僕はあなたを愛しているよ。って。いつでも。昔から。
でも、言葉だけじゃ、みんな信じることが出来なかった。
そして言葉だけじゃ、神様もサタンに従って汚れる人たちの汚れを除くことが出来なかった。
だから、言葉として
ジーザスがこのチッチャな地に、しょうもない人を愛するが故に生まれてくださった。
jhn1:1 ★ 初めに 、ことばがあった 。ことばは神とともにあった。ことば は神であった 。
jhn1:3 すべてのものは、この方によって造られた 。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
jhn1:4 この方に いのちがあった。このいのちは人の光 であった。
jhn1:5 光はやみ の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった 。
僕らはサタンの支配下におかれ
日々空しさのなかで生活を強いられている。
しかし、ジーザスを信じるものは、誰もがこれを体験することになっていく。
jhn1:5 光はやみ の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった 。
あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福し ておられるからだ。
解ってきますね。
不思議です。
今、僕らは感覚的に神様の愛を感じられないかもしれない。
でも、イイんです。
何故か?
それは、神様のくちから出るのは約束だから。
感覚で受けたから、受けたのではなく
既に約束が与えられているから、僕らは祝福されている・・・という事ですもんね。
大丈夫。
だって。
jhn1:5 光はやみ の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった 。なんだもん。
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
・・・・・・・・・・
詩45篇(1)「流れ出る」 יָצַק ヤーツァク
〔カテゴリー賦与〕
2節「・・あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。
神がとこしえに祝福しておられるからだ。」
(新改訳)
2節「・・あなたのことばは優しさにあふれている。永遠にあなたは神様の祝福に
包まれる人。」(LB訳)
2節 ・・Grace is poured upon Thy lips; Therefore God has blessed Thee forever.(NASB)
Keyword; 「流れ出る」 pour out, cast, be anointd, 41:8/45:2
- この詩45篇は王をたたえる歌ですが、この王は、「あなた」とも「雄々しい方」とも、「神よ」とも呼ばれています。ヘブル人への手紙では6~7節を引用して、はっきりとこの「王」とは御子イエス・キリストのことであると述べています。つまり、この詩45篇は神の御子をたたえる預言的詩篇と言えます。
- この王をたたえる賛美は、作者の心の沸き立っているものが筆を通してあふれ出たものです。その最初の賛辞は「あなたは人の子らにまさって麗しい(beauty,ヤーファー''יָפֶה)。あなたのくちびるからは優しさ(grace, חֶן)が流れ出る。神がとこしえに祝福しておられる(バーラフבָרַך)からだ。」としています。
- 「流れ出る」(関根訳「湧き流れる」、岩波訳「あふれる」、バルバロ訳「(唇に)ただよう」と訳された動詞はヤーツァクיָצַק(yatsaq)です。旧約で51回ですが、、詩篇では2回しか使われていません。ヤーツァクיָצַק(yatsaq)の意味は、
- ①「金属を溶かして鋳造する」(出25:12, 38:27)、
- ②「記念セレモニーとして油を注ぐ」(創28:18, 35:14)、
- ③終末論的な意味でイスラエルの回復のために、聖霊の注ぎを象徴する意味で「水を注ぐ」(イザヤ44:3)という意味があります。これはやがて使徒の働き2章に記されている聖霊降臨の出来事によって実現されました。
- しかし詩45篇2節のそれは、神に祝福されたくちびるを通して流れ出てくることばによって人々を祝福するといったイメージです。
- 確かに、御子イエスのくちびるを通して流れ出た優しさは、神の恵みに満ちたものでした。彼は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」お方として、人々にかかわりました(マタイ12:20)。また、イエスの口から出る言葉を聞いた人々は、「その口から出て来る恵みのことばに驚いた」(ルカ4:21)とあります。私たちも日々、神が遣われた方のくちびるを通して語られた恵みのことばに養われる必要があります。なぜなら、主の恵みのことばこそ、私たちを力づけ、励まし、希望の光を与えてくれるものはないからです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs45%281%29
・・・・・・・・・・
詩45篇(2)「(油を)注ぐ」 מָשַׁח マーシャフ
〔カテゴリー賦与〕
7節「神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたに注がれた。」
(新改訳)
Keyword; 「(油を)注ぐ」 anoint, 45:7/89:20
- 油を「注ぐ」と訳されたマーシャフמָשַׁח(mashach)は、旧約で70回、詩篇には45:7と89:20の2回です。89:20には「わたしは、わたしはのしもべダビデを見出し、わたしの聖なる油を彼に注いだ」とあります。この出来事は、サムエル記第一16:13に記されています。イスラエルの最初の王サウルは、神から王となるための油を、サムエルを通して注がれましたが、神への不従順のために、次の王となるダビデに油を注がれました。
- 旧約では、王、祭司、そして預言者たちがその働きを神のみこころにそって務めることができるために、神からの任職の油が注がれました。この「油を注がれた者」は、マシーアッハמָשִׁיחַ(mashiach)、すなわち、「メシア」と呼ばれます。
- マシーアッハמָשִׁיחַ(mashiach)は旧約では39回、詩篇では10回この名詞が使われています(2:2/10:50/20:6/28:8/84:/89:38/89:51/105:15/132:10/132:17参照)。しかし、この三つ(王、祭司、預言者)の油注ぎを兼ね備えた者こそ真のメシアであり、御父が遣わされた御子イエス・キリストです。「イエス・キリスト」とは、「イエス」は「キリスト」(ギリシャ語でクリストス)という意味であり、「キリスト」は「マシーアッハ」(ヘ)、すなわち「メシア」のことなのです。
- 詩45篇に登場する「王」は、やがて来臨される御子イエスを預言していますが、その王であるイエス・キリストに、御父は他の王たちや祭司たち、および預言者たちにまさって注がれたとしています。しかもその任職の油を「喜びの油」と言っています。「喜びの油」とはなにを意味するのでしょうか。「喜びの油」―それはなによりも「神に愛された者、そしてその神に喜んで仕える霊」のことです。単に、神に仕えるというのではなく、神に選ばれ、神との深い愛のかかわりをもった権威ある存在としての油注ぎです。真の預言者としてのイエス、真の大祭司としてのイエス、真の王としてのイエスは救いのみわざを完全に実現するために、再びこの世に来られます。
- キリストにある者はすでにみなひとしく聖なる方の油注ぎにあずかっています(ヨハネの手紙第一、2:20参照)。ですから、使徒ヨハネはこう述べています。「・・キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・また、その油があなたがた教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(ヨハネの手紙第一、2:27)。ヨハネはここで「キリストのうちにとどまることと油注ぎの関係」を教えています。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9E%E6%83%B3Ps45%282%29
・・・・・・・・・・