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【詩篇42篇】o19 指揮者のために。コラの子たちのマスキール
psm42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
psm42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いて います。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
psm42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神は どこにいるのか。」と私に言う間。
psm42:4 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
psm42:5 ★ わがたましいよ 。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
psm42:6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。
psm42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて 行きました。
psm42:8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
psm42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
psm42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。
psm42:11 ★ わがたましいよ 。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
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おはようございます。
エアコンなしだとやはり中々練れないよね。
扇風機だけだと暑すぎる。甘かった。
今日もなんとか踏ん張ってガンバりやしょう。
では、今日も共に詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm42:5 ★ わがたましいよ 。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
psm42:11 ★ わがたましいよ 。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
たましいは絶望します。
思い乱れもします。
どーしようもないんです。
今朝数年前からの友人のブログでもう無理・・・って書かれていた。
なんとか、踏ん張って欲しい。
祈るしか出来ない。
辛い中で、踏ん張ること自体一番シンドイのは知ってるつもり。
生きてるほうが辛いと思える状況なんだから。
そんな思いから開放されることは人には出来ないのかもしれない。
サタンはこの世を、また僕らの身体を支配しているがゆえ
圧倒的なネガティブなイメージを僕らの頭の中に送り込み
イメージを通して心と身体をコントロールしようとする。
今までの負のイメージで
これからの将来を汚染し続ける。
でも、
間違っちゃダメだ。
ソレは、真実とはまた異なる。
サタンは過去の経験や、メディアで入れた情報を駆使して訴え続ける。
きっと・・・こうなる。
今更アカンぞ。
手遅れや。
アホ!!って怒鳴ってやって下さい。
サタンはそんな事しかできない。
しょうもない奴だ。
真実は神様にあるんだから。
だから
ダビデさんはたましいに訴えかける。
わがたましいよ!騙されちゃダメだ。って。
★ わがたましいよ 。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
今は見えないかもしれない。
今は想像できないかも知れない。
でも、神様はあなたを愛してサタンが働いている中でも必ずあなたを救う計画で助けられるんだから。
絶対大丈夫。
絶対大丈夫なんだ。
神様は裏切ることは無い。
人は裏切り、僕もさんざんと失望を繰り返してきた。
でも、神様は絶対僕を独りにはしなかった。
孤独でどうしようもない時も振り返ると、僕を包んで守ってくれた事が解ってくる。
身体にはたましいが宿っており
たましいだけで、判断すると間違いが起こる。
それは、
身体が自分の経験と、その小さな頭に入った情報だけでしか今・そして将来を計れないんだから。
ダビデさんも同じように苦しんでる。
どう考えても神様が助けてくれないのかも・・・なんて疑いもあったに違いない。
僕らと同じだね。
でも、最終的にはその選択権は僕らにある。
感情がどれだけ反対しても
僕らにどれだけ将来が暗く・そして辛く映ったとしても
僕らは神様が必ず将来必要を満たされるという事を選ぶことが出来る。
どんなに苦しく、辛くても
サタンの送ってくるイメージを「そうだ」と受け取らないで下さい。
神様の約束を踏ん張って受け取りましょう。
踏ん張る力も、その後の生きる力も必ず神様が与えてくれるんだから。
大丈夫。
一緒に神様の愛を信じましょう。
絶対大丈夫だからね。
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
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詩42篇「(恵みを)施す」 צָוָה ツァーワー
〔カテゴリー賦与〕
- 8節「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。」(新改訳)
- 8節「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。」(共同訳)
Keyword; 「施す、送る」 direct, command, order,
7:6/33:9/42:8/44:4/68:28/71:3/78:5, 23/91:11/105:8/111:9/119:4, 138/133:3/148:5
- 「施す」「送る」と訳されたツァーワーצָוָה(tsawah)は、旧約で502回、詩篇では15回使われています。ツァーワーצָוָה(tsawah)は、本来、「命じる」command 「定める」「任命する」を意味することばです。特に、モーセ五書、ヨシュア記、エレミヤの特愛用語です。しかし、詩42篇では、主が私たちに何かを「向ける」「注ぐ」という意味合いで訳しています(NIV訳ではdirectと訳しています)。その「何か」とは、ここでは「主の恵みחֶסֶד(ヘセド)」です。
- 異国の地にあることを余儀なくされた作者が、神を知らない者から絶えず「おまえの神はどこにいるのか」(42:3)という問いかけを契機にはじまった霊的葛藤、そしてその霊的渇望は他の詩篇にも勝って強烈です。ちなみに、「慕いあえぐ」(新共同訳、関根訳、岩波訳では「あえぐ」、典礼訳では「あえぎさまよう」)と訳されたアーラグעָרַג(`arag)という動詞は、この詩42篇にしか見られない珍しい動詞です。
- こうした状況の中で、作者は自分のたましいに対しても呼びかけています。「わがたましいよ。なぜ。おまえは絶望しているのか。思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(5節) 自分のたましに向かって呼びかけるこの作者の霊性はすばらしいものがあります。こうした呼びかけが私たちの信仰生活にはとても大切な気がします。なぜなら、失望落胆している自分のたましいを客観的な視点から呼びかけることで、見失っている神に目を向けさせているからです。「私のたましいよ、目をさませ。」と言わんばかりです。そうした文脈の中で、8節を受け止めることが必要だと思います。
- 「昼には、主が恵みを施す。」「昼、主は命じて慈しみをわたしに送られる」・・主が命じられるならば、だれもそれを阻むことはできません。「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じると、それは堅く立つ。」(詩33篇9節)からです。詩133篇3節にも、「兄弟たちが共に住む祝福」を「主がとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」としています。主の命令はそのいつくしみから、かつ権威をもって発せられます。この神の恩寵をどんなときでも信じられるかどうかか問われています。主が恵みを私に向け、注ぎ、施されていることを信じて、「主の恵みは、いつも、あるのだ。」(52:1)と確信できるならば、「夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。」(42:8後半)と告白できるはずです。これは神の恩寵によるかかわりのいのちのです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs42
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