へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -14ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇75篇】o19  指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。アサフの賛歌。歌


psm75:1  私たちは、あなたに感謝します 。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。

psm75:2   「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。

psm75:3  地とこれに住むすべての者が揺らぐとき 、わたしは地の柱を堅く立てる。セラ

psm75:4  わたしは、誇る者には、『誇るな。』と言い、悪者には、『角を上げるな。

psm75:5  おまえたちの角を、高く上げるな。横柄な態度で語るな。』と言う。」

psm75:6  高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。

psm75:7  それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。

psm75:8  主の御手には、杯があり、よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。主が、これを注ぎ出されると、この世の悪者どもは、こぞって、そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。

psm75:9  しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。

psm75:10  悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。しかし、正しい者の角は、高く上げられる。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

もうすぐ息子の運動会。

日頃履いてる靴底のゴムがペローンと剥がれてる事に気付かなかった。

昨日急いで靴を買いにでかけた。


甘い・・かもしれないが、やぱりイイものを買ってやりたいという思いがあるものです。

カッチョいい奴を購入できて満足満足。



では早速今日も共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm75:1  私たちは、あなたに感謝します 。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。






御名とは、名前の事。

名前は存在を現すもの。

神様はホンマに近くに居てる。

「近い」とは距離的概念ではなく、かかわりにおける親密さをあらわす概念です。それが人と人の場合に用いられるときには「隣人」(neighbor)という関係になります。



いつも必要を満たしたいから。

神様は僕らの必要を満たしたい。

僕らが何をしたか?何が出来るかではなく、僕らが神様に創られた素敵な存在だから。


甘いのかも。僕らが大切な人にとても甘いように。

それ以上に神様は僕らに甘い存在なのかもしれない。



素敵な関係ですよね。




実際にそんな関係は僕ら自身に無いように思えても

間違いなく僕らの関係は変わらない。

psm75:9  しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。



感情で捉えられる事が無くても事実は変わらないから、僕らはいつも神様を喜んで間違いない。

今日も詩篇の作者と共に

神様の御名を喜びませんか?





心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.

・・・・・・・・・・

詩75篇 「(御名は)近くにある」 קָרוֹב カーローヴ

〔カテゴリー愛顧〕

1節b「御名は、近くにあり」 (新改訳)
1節b「御名はわたしたちの近くにいまし」 (新共同訳)

Keyword; 「近い」 near, close, neighbor,
15:3/22:11/34:18/38:11/75:1/85:9/119:151/145:18/148:14

  • 「御名は、近くにあり」と訳された「近く」は動詞ではなく形容詞です。神は遠くにおられる神ではなく、近くにあってくださる神です。このことが私たちにとって恩寵です。私たちはしばしば神が遠くに、あるいは不在であるように思えることがあります。しかし、詩75篇の作者は「御名は、近く」にあることを経験したようです。
  • 「近く」と訳された形容詞のカーローヴקָרוֹב(qarov)は、旧約で77回、詩篇では9回使われています。動詞はカーラヴקָרַב(qarav)です。すでに詩65篇の恩寵用語として「神に近寄せられる」を取り上げています。名詞形のケレヴקֶרֶב(qerev)は、近寄せられて、神が私たちの「うちにある(within)」恩寵として用いられています。例としては、詩46篇5節の「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」に見られます。他に、名詞形で「近くにあること」を意味するキルヴァーקִרְבָה(qirvah)は詩73篇28節の「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」で使われています。
  • 「近い」とは距離的概念ではなく、かかわりにおける親密さをあらわす概念です。それが人と人の場合に用いられるときには「隣人」(neighbor)という関係になります。
  • さて、詩75篇では神が近くにおられることを歴史的な出来事として経験し、「神に感謝します」と述べています。その感謝の理由は、6節以降にあるように「人を高く上げるルーム (רום)のは神だから」です。おそらく歴史的な出来事というのは、アッシリアやバビロンといった、自らを誇り、神に逆らう高慢な者たちを対するさばきを表わしていると考えられます。神は彼らを滅ぼし、ご自身の民を顧みられました。そこに神が近くにおられたことを改めて知ったと言えます。
  • 私たちも神が遠くにいるように感じられる経験をすることがあります。しかし実は、神は常に私たちの近くにおられるのです。それゆえ、どんなときにも「御名は、近くにあり」と告白できる者となりたいものです。
    34篇 18節「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
    119篇151節「しかし、主よ。あなたは私の近くにおられます。」
    145篇 18節「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」
  • 「打ち砕かれた者(アニー)」、「主を呼び求める者」、「まことをもって主を呼び求める者すべてに」、主は近くあってくださることに心を留めるとともに、それを実生活の中で経験できるようになりたいものです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs75

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【詩篇74篇】o19  アサフのマスキール


psm74:1  神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。

psm74:2  どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られた 、あなたの会衆、あなたがご自分のものである部族として贖われた民 を。また、あなたがお住まいになったシオンの山を。

psm74:3  永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。

psm74:4  あなたに敵対する者どもは、あなたの集会のただ中でほえたけり、おのれらの目じるしを、しるしとして掲げ、

psm74:5  森の中で斧を振り上げるかのようです。

psm74:6  そうして今や、手斧と槌で、聖所の彫り物をことごとく打ち砕き、

psm74:7  あなたの聖所に火を放ち、あなたの御名の住まいを、その地まで汚しました。

psm74:8  彼らは心の中で、「彼らを、ことごとく征朊しよう。」と言い、国中の神の集会所 をみな、焼き払いました。

psm74:9  もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。

psm74:10  神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。敵は、永久に御名を侮るのでしょうか。

psm74:11  なぜ、あなたは御手を、右の御手を、引っ込めておられるのですか。その手をふところから出して彼らを滅ぼし尽くしてください

psm74:12  確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。

psm74:13  あなたは、御力をもって海を分け、海の巨獣の頭を砕かれました。

psm74:14  あなたは、レビヤタン の頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。

psm74:15  あなたは泉と谷を切り開き、絶えず流れる川をからされました。

psm74:16  昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは月と太陽とを備えられました。

psm74:17  あなたは地のすべての境を定め 、夏と冬とを造られました。

psm74:18  主よ。どうか、心に留めてください。敵がそしり、愚かな民が御名を侮っていることを。

psm74:19  あなたの山鳩のいのちを獣に引き渡さないでください。あなたの悩む者たちのいのちを永久に忘れないでください。

psm74:20  どうか、契約に目を留めてください。地の暗い所には暴虐 が横行していますから。

psm74:21  しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しい者が御名をほめたたえますように。

psm74:22  神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください。

psm74:23  あなたに敵対する者どもの声や、あなたに立ち向かう者どもの絶えずあげる叫びを、お忘れにならないでください。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

夜中に友人からのメールもあり、中々眠れずにいてます。

僕らの問題は絶える事は無いですね。


では、早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm74:11  なぜ、あなたは御手を、右の御手を、引っ込めておられるのですか。その手をふところから出して彼らを滅ぼし尽くしてください






神様はその問題に関わってくれないと思えるときがある。

それと同時に全ての問題の悪を滅ぼしつくす事の出来る力を神様は持っている事をしっている。



今、問題が解決される予兆すら思えなくても大丈夫。

神様が全てを解決する力さえあるんだ!と理解しているのなら。


でも、その理解が無ければ・・・。

神様から解決を受け取る前のサタンの攻撃により、それを諦めなくてはならなくなっちゃう。





信仰ってなんだろう?

それは、

神様がもし働かれたら・・・と仮定して信じるだけの話。



神様ができない事はないのだから、

祈りを聴かれる神様の愛を知れば、僕らは失望する必要はなくなる。




解決してくれる神様を信じないって事は、

サタンの攻撃に従うって事。



神様は僕のこんな問題なんか聴いてくれない・・・叶えるわけない・・・そう信じさせるのがサタンの働き。

僕らは陳腐なサタンの攻撃に屈してもいいのだろうか?

あほサタンに従うのをやめてみませんか?




今日も心が否定したとしても、詩篇の作者と共に言葉を発してみませんか?








心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.





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詩74篇 「目を留める」 נָבַט ナーヴァト

〔カテゴリー愛顧〕

20節a「どうか契約に目を留めてください。」 (新改訳)
20節a「契約を顧みてください。」(新共同訳)

Keyword; 「目を留める、顧みる」 look, see, consider,
10:14/13:3/33:13/74:20/80:14/84:9/94:9/102:19/104:32/142:4

  • 20節に「目を留める」と訳されたナーヴァトנָבַט(navat)は、旧約で69回、詩篇では17回、イザヤ書でも15回と使われています。いわば、ナーヴァトנָבַטは詩篇とイザヤ書の特愛用語と言えます。
  • 20節に「目を留める」と訳されたナーヴァトנָבַט(navat)は、旧約で69回、詩篇では17回、イザヤ書でも15回と使われています。いわば、ナーヴァトנָבַטは詩篇とイザヤ書の特愛用語と言えます。
  • このことばが聖書に最初に登場するのは創世記15章、主がアブラムに対して「さあ、天を見上げ(נָבַט)なさい。それを数えなさい。・・あなたの子孫はこのようになる」と語られたところです。つまり、このナーヴァトは礼拝用語にも恩寵用語としても使われています。詩篇だけでもその使用比率は、恩寵用語としての用例は礼拝用語に比べて3倍強です。そのうちの一つが詩74篇20節です。
  • ナーヴァトנָבַטの意味は、単に「見る」という意味ではなく、じっと見る、しかも深い考えと配慮をもって注視するという意味です。すべてのことを見通しておられる神が関心をもって、愛を持って注ぐ愛のまなざしとも言えます。詩74篇ではそのようなかかわりを神に求めています。
  • イスラエルの民たちのアイデンティティを象徴するエルサレムの「聖所」はことごとく廃墟にされています。いつまでそうなのか、神は沈黙しておられるように見えます。しかし神の沈黙には深い意味が隠されています。2節の「思い起こしてください」、および18節と22節の「心を留めてください」には、いずれも同じ動詞ザーハルזָכַר(zakhar)が使われています。これは、remember、忘れることなく思い起こす、思い出すことを意味する動詞ですが、作者が神にそのように嘆願していることは、同時に、自分もそのことをしていると考えるのが自然です。かつで神が自分たちになしてくださった奇しい神のみわざの数々、また、自分たちの失敗によって御名を傷つけてしまったことの「思い起こし」の作業を通して、あらたな神との絆が回復されることを願っています。
  • このような「思い起こし」によって、神の民に与えられていた契約の存在に目が開かれていったものと思います。20節に言われている「契約」は、シナイ契約のことではありません。もうひとつの別のサイトにある「契約」のことで、この契約はノア、アブラハム、ダビデを通して流れている神の一方的な恩寵による契約のことです。作者は、この契約に「目を留めてください」と神に祈っているのです。「なぜ」、「いつまで」続くのか分からない民の現状は大きなストレスです。しかし、神がアブラハムに約束された契約を民自身も「心に留める」ようになることが神の深いご計画であったようです。
  • 類義語として、シャーアーשָׁעַה(sha`ah)があります。旧約で13回、詩篇では2回(39:13, 119:117)です。恩寵用語としての意味では創世記4:4に出てきます。「アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持ってきた。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」とあります。ここでは、主が「好意をもって目を留められた」ことを表わしています。一方、兄のカインのささげ物には、主は目を留められませんでした。礼拝用語としてのシャーアーは、詩篇119:117で「私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。」とあり、作者は主の掟に対して、「好意と関心をもって目を留める」ことを意味しています。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs74

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psm73:1  まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。

psm73:2  しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。

psm73:3  それは、私が誇り高ぶる者 をねたみ、悪者の栄え るのを見たからである。

psm73:4  彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。

psm73:5  人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。

psm73:6  それゆえ、高慢が彼らの首飾り となり、暴虐の着物 が彼らをおおっている。

psm73:7  彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。

psm73:8  彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。

psm73:9  彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。

psm73:10  それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。

psm73:11  こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」

psm73:12  見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。

psm73:13  確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。

psm73:14  私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。

psm73:15  もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。

psm73:16  私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。

psm73:17  私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。

psm73:18  まことに、あなたは彼らをすべりやすい所 に置き、彼らを滅びに突き落とされます。

psm73:19  まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう。

psm73:20  目ざめの夢のように 、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。

psm73:21  私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、

psm73:22  私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

psm73:23  しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

psm73:24 あなたは、私をさとし て導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

psm73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

psm73:26  この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

psm73:27  それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者 をみな滅ぼされます

psm73:28  しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の 避け所 とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

。。。。。。。。。


おはようございます。

すっかり寒くなって・・・体調にはくれぐれもきをつけましょうね。



では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm73:23  しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。






神様は僕を捕まえてくださっている。


僕らが神様を捕まえて、なんとか頑張るってのが普通の宗教の考えなのかもしれない。

でも、

このバイブルの神様は僕ら自身を本気で愛してくれてて

僕ら自身が神様につながる事が出来なくても、

神様自身が僕らを覚えて、様々な問題に沈んでしまわない様に傍に居てつかまえて下さっている。



神様はそんな方。



そして、僕らはそんなに大切な存在。




色んな問題に心が沈んで神様との関係を忘れがちになる事が多いだろうけど

僕らと神様との関係は全く代わりが無いから

どんな問題でも僕らの関係を引き裂く事が出来ないから


僕らはいつでも大丈夫。って叫ぶ事が出来る。



だって、神様自身が僕らをつかんで下さっているから。







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.





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詩73篇 「つかまえる」 אָחַז アーハズ

〔カテゴリー愛顧〕

23節b「あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」 (新改訳)
23節a「あなたがわたしの右の手を取ってくださるので・・・」(新共同訳)
23節b「あなたはわが右の手をかたく取られる。」(関根訳)

Keyword; 「捕える、つかむ」 hold, grasp, grip, 48:6/56:T/73:23/77:4/119:53/137:9/139:10

  • 「しっかりかまえられる」と訳されたアーハズאָחַז(’achaz)の基本的な意味は「つかむ」ということです。文字どおりに使われている例としては、エサウとヤコブの双子が生まれたとき、ヤコブの「その手はエサウのかかとをつかんでいたאָחַז」(創世記25:26)という箇所です。ここにヤコブの性格と双子の運命が予告されています。
  • 神の恩寵用語としてのアーハズאָחַז(’achaz)の例は、詩73篇23節、詩119篇10節があります。神が私たちをしっかりとつかんで離さないというかかわりの概念で用いられています。それゆえ、私たちは神とともにいることができるのです。
  • 神が私たちをつかむ、捕えるという恩寵の表現をよく見てみましょう。詩73篇では、「あなたが私の右の手をしっかりとつかまれました。」とあるのに対し、詩119篇では作者がどこへ行っても、どこへ逃れても「あなたの右の手が私を捕えます」とあります。前者では「右の手」は作者にかかり、後者では「右の手」は神にかかっています。つまり、「右の手」とは神にも人にも使われることがわかります。その意味するところは、人の「右手」とは、その人自身、その人の命、その人の人生そのものを表わします。詩91篇5節にある「主はあなたを守る方、主はあなたの右の手をおおう陰」という表現も同様の意味で使われています。一方、「右の手」が神に使われる場合には、神ご自身とその力のすべてをあらわす表現です。
  • アーハズאָחַז(’achaz)は、比喩的な意味で、恐れや怒り、苦痛などに捕われるという意味でも使われています。しかし、そのようなものに私たちがひとたび捕えられるならばどうなることでしょう。おそらく、詩73篇の作者のように自分自身を見失い、神の臨在から離れることでしょう。
  • 神の力と愛に満ちた右の手が、私の右の手-つまり私自身、私のいのち、私の人生―をしっかりと捕えてくださっているというゆるぎない愛のかかわりがイメージされます。このような、「捕えられて、捕える」という愛のかかわりの中に生きたキリストのしもべパウロがこう言っています。

「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。・・・私は、ただこの一事に励んでいます。」(ピリピ3:12~13)

  • これは、神が私の右の手をしっかりとつかんでくださっているがゆえになせる追求です。パウロがこのところで追求しているのは、キリストとその復活の力を知ることです。換言するならば、それは神の「右の手とその力」と言えます。これを求めることが成人したキリスト者のすべての姿であるとパウロが述べていることを、私も受け入れて歩みたいと思います。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs73

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おはようございます。
先週はサボっちゃってホンマに勝手で申し訳ありません。本日も勝手にワーシップタイムをおおくりしますね。
時間があるとき読んでくださったら幸いです。

メッセージは横井正一さんの話から。終戦と云う大切な情報を知らされずにさまよい続けた横井さんは戦後28年後に「恥ずかしながら戻って参りました」と日本に戻ってこられた。28年も前に終わった事で、心おびえながら過ごした日々を考えると本当に可愛そうとしか言いようが無い。

終戦という事実は全ての人が知らなければならない事だった。

そんな知らなければならない事実にも関わらず
僕らに余り知られていない事実が実ははバイブルの中に記されている。


だから、パウロさんは
こう語っている。「あなた方は知らないのですか?!・・・」


知らなきゃ~検討違いの時を過ごすよ。損だよ。というメッセージ。
しかし、この箇所は実はクリスチャンもチャンと理解してる人は多くないかもしれない。
・・・・・・・・・・

rom6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

・・・・・・・・・・

それは、戦争が終了したと云う以上のもの。だって、僕らは既に死んでる?!というものだからだ。

「お前は既に死んでいる?」北斗の拳のような言葉。


訳わかん無いでしょ~。
でも、神様の視点に立つ事でこの意味がわかってくる。


先ずは第一に「時」と命の理解。
次のステップとして「罪」そして死の理解が必要。



先ず
「時」をみていこう。


先ず2つの「時」を理解しなければなら無い。
一つは僕らが一般的に云う時というモノ。僕らに平等に与えられている時だ。
コレと同時にもう一つの時を理解しなければなら無い。それは、全く何ものにも制限され無い神様側からの視点の「時」だ。


神は全てを創られた。
それは、時をも創られたという事。


時を創られたという事は、
神にとっては過去現在未来は同時に体験出来る超越した方だという事を理解する必要がある。


神様にとって今が過去であると同時に将来でもあるという事。あのノアの方舟の時代と同時に僕らのこの平成の時代を同時に居てるという事。
不思議だけど神様はそんな存在だもんね。



で。
続いて命について。

命は実は2通りある。
ん?と思われるかもしれないが、少しだけ耳を傾けて。
一つは僕らがいつも感じている肉体における命。そして、もう一つは、神様が初めに与えられた霊の命だ。


肉体の命は魂として僕らは理解しているけれども、人には特別にもう一つの命を神様は与えられていた。それが、神様と共に永遠に生きるための霊による命だ。神様は僕らを永遠の友として愛する存在として創られた為に与えられた命。それがバイブルでいう永遠の命。
この霊による命は、アダムとエバが、神様の言葉よりもサタンの言葉を信じて従った事により、僕らの内から取り去られている。

神様の計画はそれでは終わらなかった。大切な愛している人を取り戻す為に人の罪の罰を受けに地上で代償を払われた。ジーザスの十字架による死だ。
このジーザスの死によって、僕らの罪の罰(代償)は全て払われ、僕らはもう一度神様が与えられる本来の命(霊の命)を再び得る事になる。
その事実を信じるだけで。



次のステップとして「罪」そして死について。

では、
その罪について。
これは、原語の意味としては「的外れ」の意味があり、神様からズレてるという意味だ。ズレが生じたのは何処からなのか?それは、サタンだ。
サタンが存在しなければ僕らはズレることもなく、罪もバイブルも必要が全く無かったに違いない。しかし、サタンが居て僕ら人はそのサタンの言葉に従ってズレを選択し罪を犯し続けている。
神様にないズレた行為とは、嘘・妬みも含まれる実際に行う行為だけではない思いも含まれている。ズレて汚れている僕らはそのままでは神様の領域には入る事が出来ない。
だから、ジーザスが必要だ。ジーザスの十字架の血はその僕らが日々ズレちゃう「罪」の汚れを一掃する。


何故そう云えるのだろう?
囚人は同じ囚人の罰を背負う事は出来ない。それは、自分の罰を受けなくてはならないからね。ジーザスは、サタンによってズレる事が無かった為に、僕らの罪を背負う事が出来る唯一の方だからだ。

其処で「死」がどう働くのか?という事が理解のカギとなる。
命がなくなると其処には、何も残らなくなる。
だって、死んじゃったんだから。
もう罪を犯す事も出来ない。

何故なら
死んだ後には、何にも出来ないのだから。




少し見えてきたかも。。。ね。
・・・・・・・・・・

rom6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
・・・・・・・・・・


僕らがジーザスを信じるという事は、ジーザスの死を受け入れるという事。其処には、神様の時をもう一度思い起こす必要があるから気をつけて。
過去現在未来を同時に過ごすことが出来る神様の計画の中で、僕らの将来までに犯す全ての罪は、2000年前のジーザスの十字架の死によってその代償は払われた。・・・という事は、この神様の計画を信じた瞬間に、僕らはジーザスの死によって既に死んだという意味合いをもつことになる。

で・・・。
実はジーザスは死を体験したにも拘らず、復活して神様の領域である天に今おられる。
だから、僕らもその復活に預かって、本来の命(霊の命〔永遠の命〕)を得て生きる事が出来るという事。



不思議な世界を感じますね。
僕らは目に見えるものが全てだと感じて生きてきた。でも、目に見えないものによって僕らは生かされていることに目を向ける事が出来る。


もう一度復習の意味でこんな言葉を。
・・・・・・・・・・

rom6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
・・・・・・・・・・


どう?
なんとなく解ってきましたね。

将来の全て犯しちゃうだろう罪の罰をジーザスが負って死なれたから、僕らにはその代償を払う義務は既に無くなっちゃったって事だ。


僕らは日々ズレる。
僕らの肉体はサタンの遺伝子が組み込まれたように、したくない事でもしちゃう性質がある。また、この世の支配者であるサタンによって歪んだ世界で僕らは日々ズレる。

でも、神様の「時」に立って真実を見るとき、
ジーザスの死によって、僕らは既に死んだものであり、ジーザスの復活により僕らは生かされている事を知る事になる。

これは真実だ。



バイブルの世界は不思議が一杯。
それは、僕らが制限された肉体の中で全てを把握しようとするから。

創られた僕らが全てを把握する事なんて出来やしない。




もしかしたら・・・。
そんな思いで、少し神様を見上げてみれば解ってくる。

日々犯す罪。罪悪感で僕らは沈む必要がなくなる。
そもそもソンナ罪によって体が縛られなくなっちゃうんだから。

罪を解決してくれた神様によって。
僕らには神様が用意された驚くほどの希望が生まれてくる。



そのまま、今日も神様の前にいきませんか?
ジーザスはその全てを知り尽くした上で、僕らを愛しその代償を払われたんですから。

大丈夫!!
僕らは本気で愛されているから。


今週もそんな神様に祈りながら過ごせたらイイデスネ。
素敵な一週間を過ごせますように。




今週の箇所はコチラ。

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rom6:1  それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

rom6:2  絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

rom6:3  それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

rom6:4  私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに 葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光 によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

rom6:5  もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

rom6:6  私たちの古い人キリストとともに 十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷 でなくなるためであることを、私たちは知っています。

rom6:7  死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

rom6:8  もし私たちがキリストとともに 死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

rom6:9  キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく 、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。

rom6:10  なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられる のは、神に対して生きておられる のだからです。

rom6:11  このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対しては キリスト・イエスにあって生きた者 だと、思いなさい

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。。。。。。。。。。

 

【詩篇72篇】o19  ソロモンによる


psm72:1  神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。

psm72:2  彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。

psm72:3  山々、丘々は義によって、民に平和をもたらしますように。

psm72:4  彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。

psm72:5  彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。

psm72:6  彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。

psm72:7  彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。

psm72:8  彼は海から海に至るまで、また、川から地の果て果て に至るまで統べ治め ますように。

psm72:9  荒野の民は彼の前にひざをつき、彼の敵はちりをなめますように。

psm72:10  タルシシュ と島々の王たちは贈り物をささげ、シェバとセバの王たちは、みつぎを紊めましょう。

psm72:11  こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。

psm72:12  これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。

psm72:13  彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。

psm72:14  彼はしいたげと暴虐 とから、彼らのいのちを贖い出し、彼らの血は彼の目に尊ばれましょう。

psm72:15  それゆえ、彼が生きながらえ、彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のためにいつも彼らは祈り、一日中、彼をほめたたえますように。

psm72:16  地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで、町の人々は地の青草のように栄えますように。

psm72:17  彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。

psm72:18  ほむべきかな。神、主、イスラエルの神 。ただ、主ひとり、奇しいわざ を行なう。

psm72:19  とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。

psm72:20  エッサイの子ダビデの祈りは終わった。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

昨日はサボっちゃってすいませんでした。

ワーシップタイムを更新しようと頑張ったものの纏め上げる事が出来ず・・・

言い訳ばかりですいません。



では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm72:5  彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。






恐れる事ができるように。

怖がることではない。

恐れるという事は、心から大切にするという事。


ダビデは、その子供達に何を一番大切にして欲しいかを祈った。

それは、神様。




神は全てを創り、全てを治められる。

日常当然と思えてしまうが故に、僕らは神様の存在すら忘れがち。


この心臓が動き、血液を循環させる事も

肺が酸素を吸いこんで、呼吸している事も


太陽の周りをバランスよく回っている事も



全ては神様の創造の業。




僕らが一番大切にする方は、当然を当たり前にいつも与え続けておられる方なのかも。

忘れちゃいがち・・・だけど、

僕らはその方によって生かされている。


見えないんだけど、その方の愛に包まれながら。




ダビデさんはそれを知っていたから

自分の子供達に

一番大切にすることは何か?しっかりと考えて意識して欲しいと願った。



人は、限りのある存在。

裏切られる事も、期待に応えられない事も常時ある。


だけど、神様は違う。

いつでも僕らの最善を行われる方。

(希望を叶える方ではない・・・愛して最善を惜しまない方。)




そんな神様を体感してみませんか?

だって、僕達の神様なんだもんね。



だから、今日も詩篇の作者と共に言葉を発していきましょ。







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.









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詩72篇 「統べ治める」 רָדָה ラーダー

〔カテゴリー統治〕

8節「彼は海から海に至るまで、また、・・・・まで統べ治めますように。」 (新改訳)

Keyword; 「統べ治める、支配する、治める」 rule, 49:14/68:27/72:8/110:2

  • 詩72篇は「王の詩篇」であり、しかもタイトルあるように、「ソロモンに象徴される理想の王と王国について」述べられています。かつてイスラエルの歴史に王制が導入されましたが、ダビデもソロモンも、そしてそのあとに続く王もみな神の完全な代理者としての王とは言えませんでした。その多くは偶像礼拝に走り、理想な王とはほど遠い統治者でした。
  • しかしこの詩72篇にはやがて来られるまことの王とその王国のすばらしさが預言されています。8節の「統べ治める」と訳されたラーダーרָדָה(radah)、この詩72篇では神の王としての統治概念を統括している動詞と言えます。つまりこのラーダーרָדָהに理想的な王の恩寵的統治用語のすべてが収斂しているということです。
  • 王として「支配する」という意味での動詞はマーシャルמָשַׁל(mashal)が一般的で、旧約では80回、詩篇では10回使われています。それに比べるとラーダーרָדָה(radah)は、旧約で23回、詩篇では4回と神の統治用語としてはそれほど多くありませんが、詩72篇では重要なキーワードです。
  • 詩72篇には以下のように、理想的な王の数多くの恩寵用語を見出すことができます。

    (1) 2節「さばく」ディーンדִּין(diyn) 「義をもつて、・・公正をもってさばきますように」
    (2) 4節「弁護する」シャーファトשָׁפַט(shaphat) 「悩む者たちを弁護し」
    (3) 4, 13節「救う」ヤーシャーיָשָׁע(yasha`) 「貧しい子らを救い」「貧しい者たちのいのちを救います」
    (4) 4節「打ち砕く」ダーハーדָּכָא(dakh')「(貧しい者を)しいたげる者どもを、打ち砕く」
    (5)12節「救い出す」ツィールצִיל(tsiyl)「助ける人のない悩む者を救い出す」
    (6)13節「あわれむ」フースחוּס(chus)「弱っている者や貧しい者をあわれみ」
    (7)14節「贖い出す」ガーアルגָּאַל(ga'al)「彼らのいのちを贖い出し」
    (8)14節「尊ぶ」ヤーカルיָקַר(yaqar)「彼らの血は彼(王)の目に尊ばれましょう」―
    ※イザヤ書の有名な43:4にもこの動詞が使われています。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。」

  • 愛に満ちた王は、同時に、偉大な力ある神であるということは、私たちに終末論的な大きな希望を与えてくれます。「王の詩篇」といわれる詩篇のメッセージはそれを色濃く語ってくれています。
  • 一度来られた神の御子キリストは、再び王の王として威光と尊厳をもってこの地に来られます。この方こそ、私たちの信頼の的、希望の星、明けの明星です。「主よ。来りませ」(マ・ラナタ)

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs72

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