へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -11ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

【詩篇88篇】o19  歌。コラの子たちの賛歌。指揮者のため。

マハラテ・レアノテの調べに合わせて。エズラフ人ヘマンのマスキール


psm88:1  主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。

psm88:2  私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。

psm88:3  私のたましいは、悩みに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。

psm88:4  私は穴に下る者とともに数えられ、力のない者のようになっています。

psm88:5  死人の中でも見放され、墓の中に横たわる殺された者のようになっています。あなたは彼らをもはや覚えてはおられません。彼らはあなたの御手から断ち切られています。

psm88:6  あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。

psm88:7  あなたの激しい憤り が私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を悩ましておられます。セラ

psm88:8  あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌みきらう者とされました。私は閉じ込められて、出て行くことができません。

psm88:9  私の目は悩みによって衰えています。主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。

psm88:10  あなたは死人のために奇しいわざを行なわれるでしょうか。亡霊が起き上がって、あなたをほめたたえるでしょうか。セラ

psm88:11  あなたの恵みが墓の中で宣べられましょうか、あなたの真実が滅びの中で。

psm88:12  あなたの奇しいわざが、やみの中で知られるでしょうか、あなたの義が忘却の地で。

psm88:13  しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。

psm88:14  主よ。なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠され るのですか。

psm88:15  私は若いころから悩み、そして死にひんしています。私はあなたの恐ろしさに耐えてきて、心が乱れています。

psm88:16  あなたの燃える怒りが私の上を越え 、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。

psm88:17  これらが日夜、大水のように私を囲み、私を全く取り巻いてしまいました。

psm88:18  あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました。私の知人たちは暗い所にいます。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

台風により雨が続きますね。

近所の川はいつの間にか増水してて、こんなにも雨が降ったのか~と驚かされます。



では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm88:13  しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。






しかし・・・。私の祈りはあなたのところに届きます。


「 しかし 」 に行き着くまでの辛い孤独の状態が、シンドイ・・・と感じさせられます。


こんな経験した事ありますか?







孤独な状態が続くと、希望がもてなくなるものじゃないですか?



希望とは何でしょう?







将来のイメージが望むものになると期待する気持ちかな?



将来とは何でしょう?






時間的に僕らの一歩前からその先の事と云えるのかな?




僕らは将来を正確にとらえる事は出来ない。

将来は結構色んな心情によって左右される事がある事が、様々な本に記されている。

例えば、引き寄せの法則なんかが有名かも。

ザックリ、思い込んだモノが引き寄せられるから、肯定的な事を考えて過ごしましょうというモノ。


引き寄せの法則なんかは、

バイブルが語るこの箇所を基にした理論だと思える。

mar11:24  だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

しかし、

決定的に違う事はその法則には創った方が居ないという前提に立った理論だという事。

規則正しく創られた法則は、創った方の意図によるもの。

それは、『 全ての人が命を得、それを豊かに持つ為 』 と神様は語ってるけど

ソレを無視しちゃ・・・ダメだよね。


創られた方は愛そのものの方。

本当の意味を知って、僕らはその語られた事に耳を傾ける事が重要だ。

無責任なポジティブシンキングに妄信しているようなモンになっちゃう。

気をつけないとね。




神様はそんな愛をもって、僕らを見守っておられる。

限界と感じられるその孤独の状態の時でさえ

全ての時を超えて、僕らが見えない将来をも支えられるそのあたたかい手で支えられている。


ソレを知ったとき

ドンだけ孤独な状態であっても

失望のどん底であったとしても

この詩篇の作者のように、この言葉を発することが出来る。

psm88:13  しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。


何故なら、事実は変わらないから。





神様が居られ、僕らをいつも見えない手で支えておられるという事実。







だから、

僕らは将来を創り用意される僕らの神様に言葉を発することが出来るに違いない。

心が例え否定しても・・・事実は変わらないのだから。



きっと、僕らは全然大丈夫だし

本気で愛してくれる方に向かって、僕らは祈る(希望を告白する)事が出来るんだから。




楽しみですね。

将来を備えられる方に・・・本気で愛してくれる方に僕らは今日も祈る事が出来る。





是非、今日語られてる

神様の声に耳を傾け、選び、その言葉を口にしてみませんか?




心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.



・・・・・・・・・・

詩88篇「(耳を)傾ける」 נָטָה ナーター

〔カテゴリー愛顧〕

2節「・・どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。」

Keyword;「(耳を、身を、心を)傾ける」 give ear, turn your ears 17:6/31:2/40:1/71:2/8:2/116:2/141:4

  • 「(耳を)傾けてください」という祈りの「傾ける」ということばはナーターנָטָה(natah)で、神にも(恩寵用語)、人にも(礼拝用語)にも用いられます。旧約では215回、詩篇では29回使われています。礼拝用語として使われる場合には、神のことばに耳(心)を傾けるということであり、
    恩寵用語として用いられる場合には、神が人の祈りや叫びに耳を傾けられるということになります。ちなみに、「耳を傾ける」の類義語としては、アーザンאָזַן('azan)とシャーマー
    שָׁמַע(shama`)とがあります。
  • 恩寵用語としてのナーターנָטָה(natah)は、軽い意味での「少々、お耳を拝借!!」というような意味ではありません。「天を押し曲げて降りてきてください。」(144:5) の「押し曲げる」とか、「伸ばす」(102:11)、「広げる」(104:2)、「差し伸ばされる(腕)」(136:12)と訳されるように、心だけでく、身を乗り出すようにして耳を傾けるくださる、親身になってかかわってくださるイメージをもった語彙、それがナーターנָטָה(natah)です。
  • 詩88篇の作者の「どうか、あなたの耳を私の叫びに向けてください。」と祈る祈りの背後に、深い孤独と苦痛が表わされています。6節の「あなたは私を最も深い穴に置いておられます。それは暗い所、深い淵です。」とあるように、そこには作者の孤独感に打ちひしがれている様子が十分に表わされていると同時に、そこからその孤独がやがて「独りでいること」に変わっていく可能性をもっています。それは、様々な「偽りの結びつき」から解放されて、全く新しい形での神との結びつきを発見できるという可能性です。
  • ヘンリー・ナウエンは「孤独が独りきりでいることへ移り変わっていく動きは、あらゆる霊的生活の始まりである。」と述べています(『差しのべられる手』34頁。女子パウロ会、2002.)。「孤独であること」と「独りでいること」には違いがあります。人けのない場所で独りきりになるといたたまれない孤独感に襲われることもあれば、同時に、独りでいることの静けさを心から味わうこともできるのです。私たちはこの二つの極の間をいつも行ったり来たりする「揺れ」を経験しながら、孤独を奥深い意味での「独りでいること」にゆっくりと改めていく必要があります。
  • 特に、現代社会は孤独感のゆえに心病む者たちがきわめて多くなっています。そんな時代の中で「独りでいること」の価値を発見することは一つの召命です。詩88篇に見る作者の経験は、まさにその価値を見出させる神の計らいなのかもしれません。もし「独りでいること」の価値を見出すことができないなら、私たちは人とのかかわりの中で、まといついたり、依存したり、相手を利用したりすることになり、結果として、ますます疎外感を感じるようになっていくしかないのです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs88

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。。。。。。。。。。。

 

psm87:1  主は、ヤコブのすべての住まいにまさって、シオンのもろもろの門を愛される。

psm87:2  主は聖なる山 に基を置かれる。

psm87:3  神の都よ。あなたについては、すばらしいことが語られて いる。セラ

psm87:4  「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として。」

psm87:5  しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。

psm87:6  主が国々の民を登録されるとき、「この民はここで生まれた。」としるされる。セラ

psm87:7  踊りながら歌う者は、「私の泉はことごとく、あなたにある。」と言おう。

。。。。。。。。。。。


おはようございます。

昨日は詩篇のアップできなくてスイマセンでした。



では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm87:5  しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生まれた。」と。こうして、いと高き方ご自身がシオンを堅くお建てになる。






「だれもかれもが、ここで生まれた。」


シオンとは神様が住まう場所の象徴。

神様は僕らを創られた。って事だよね。

僕らはその事実を知らなくても、それを受け入れなくてもその事実は変わりない。



僕らは何を見るのか?

僕らはただ事実を事実として受け止めていけばいい。


それは、様々な嘘に取り巻かれている。

サタンは事実を曲げてるから、気をつけて。



僕らは騙すモノによって支配された世の中に居てるんだから。




でも

ジーザスを、神様の約束を信じたら、僕らには御霊が再び与えられる。

その御霊によれば、全ての真実が解ってくる。


バイブルがどれほど愛に満ちているか?

僕らが信じる前から、用意された神様の愛の素晴らしさを。





是非、今日語られてる

神様の声に耳を傾け、選び、その言葉を口にしてみませんか?




心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.



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付録:


ZION シオニスト という表現が飛び交っている。

実はこれは、サタンに支配された方々が利用している言葉。


って事はイスラエルを再構築しようとしているのは、神様じゃなくてサタン崇拝者?

そうかもしれませんね。


サタンは神様を恐れています。

そして、神様を愛する人を騙して殺す事を喜びとしています。

って事は

サタンは神様の言葉を利用する。って事。

素敵な宗教画に嘘を紛れ込ましてるのもそう。

カトリックの腐敗もそう。

プロテスタントの宗教指導者の誘導による戦争もそうだよね。



サタンは神様の言葉を利用している。

でも、恐れる事は一切無い。


神様に属するもの。神様の領域に住まう人には手を出せないから。

だから、

僕らは詩篇を言葉にして発していく必要がある。

だって、僕らはサタンの支配下にあるんだから。

サタンの領域で無防備に生きることは、サタンの策略なんだから。


だから、僕らは賛美を通して神様の領域に入っていこう。

感情に支配されず。

安心感のあるかのような世の中で神様を忘れないように。

シンド過ぎる日常の中で神様を見失わない為に。



今日も僕らの口から神様の賛美(神様の実際)を発する事が出来ますように。

・・・・・・・・・・

今日はゴメンなさい。

メンテ と気づいたときには遅く

僕の心も折れてました。



では

僕がメルマガで送ってくれてるメッセージを今日は共有しましょ。


ココカラ

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愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

1コリント13章4節

寛容とは相手を無条件で受け入れることです。
わたしに寛容はありません。たとえあったとしても貧弱なものです。
寛容はイエスキリストにあります。信頼したときイエスさまは無条件で赦し受け入れてくださいました。
イエスキリストの愛は今日もあふれています。


<祈り:イエスさま、私を受け入れてくださったことを感謝します。
イエスさまがして下さったように人を受け入れる心を与えて下さい。>




◎今日のみことば
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http://bn.mobile.mag2.com/bodyView.do?magId=M0026738

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凄くシンプルでしょ。

僕はこのメッセージを受けてこう思ったんです。。


皆さんはどうだろう?

愛は寛容で・・・僕自身は寛容でない。。




他の見方からすれば、コレは嘘だとも言える。


ウソ?



もう一つの見方からすれば、

ジーザスを信じた僕自身は 『 愛 』 である。


ただ、表にまだ現れていないだけだ。という事。



何故?

それは、僕らは誰に似せて創られ、

僕らはその方になんと呼ばれているかを考えれば解ってくるのかも。。




僕らは『 愛 』そのものである神様に似せて創られた。

そして、その神様は僕らの事を「 高価で尊い 」と云われている。



だから・・・

僕らは愛であり、寛容であり、親切だ。

人をねたまず、自慢せず、高慢にならない存在なんです。




実際の自分自身から出ているものを見ると恥ずかしいくらいですけどね。


でも、間違いない。

僕らは神に似せて創られた素晴らしい「 愛 」溢れる人なんだ。



ただ、僕らはサタンの支配の中で過ごしているから

日々ズレちゃうし、愛そのものが溢れていないようにも見えるかもしれない。


それは、肉のせい。

アル箇所では肉の責任を肉で負ってはならない。と記されている。



僕らが感じるその責任こそ、僕らのジーザスが負われたのだから

僕らの肉によってその責任を感じ、自分を責めることはアカンのじゃ!!ってバイブルに記されている。



日々、僕らは自分を責める事の出来る自分の行動と出会う。




その度に・・・何をする?


自分を責めますか?






それとも

ジーザスに感謝する?



僕らはジーザスに感謝することが出来る。

そして、まだ現れていない素晴らしい本来の自分自身は「 愛 」だと宣言することが出来る。



どんなに今日の自分自身が許せなくても

是非、ズレを認めながら、ジーザスを見上げ、感謝をささげながら

もうすぐ現れるだろう本来の自分自身(愛)を期待して過ごしませんか?




僕らは大丈夫。

どんなに責める理由が心にドッシリしてても

肉の責任はジーザスが負ってくれたんだから。




そのことを考えて

いつも喜んで入れますように。




明日から、また頑張りますね。

また明朝よろしくお願いいたします。では。また。



バイバイき~ん。

。。。。。。。。。。


【詩篇86篇】o19


psm86:1  主よ。あなたの耳を傾けて 、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。

psm86:2  私のたましいを守ってください。私は神を恐れる者です。わが神よ。どうかあなたに信頼するあなたのしもべを救ってください

psm86:3  主よ。私をあわれんでください 。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。

psm86:4  あなたのしもべのたましいを喜ばせてください。主よ。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

psm86:5  主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。

psm86:6  主よ。私の祈りを耳に入れ、私の願いの声を心に留めてください。

psm86:7  私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。

psm86:8  主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。

psm86:9  主よ。あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御吊をあがめましょう。

psm86:10  まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。

psm86:11  主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

psm86:12  わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。

psm86:13  それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。

psm86:14  神よ。高ぶる者どもは私に逆らって立ち、横暴な者の群れは私のいのちを求めます。彼らは、あなたを自分の前に置いていません。

psm86:15  しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。

psm86:16 私に御顔を向け 私をあわれんでください 。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。

psm86:17  私に、いつくしみのしるしを行なってください。そうすれば、私を憎む者らは見て、恥を受けるでしょう。まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰め てくださいます。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

人それぞれに問題はありますね。

今日も祈ります。



今日も共に詩篇を。

今日僕の心に留まった言葉はコレ。

psm86:16 私に御顔を向け 私をあわれんでください 。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。





あわれんでください。

その言葉は、対価が無いにも関わらず、必要を求める時に発する言葉。



自分に何もない。

他のものが必要にも関わらず、それに対して価値のあるものがない。という事。

何にも無い。


でも、必要。

だから、あわれんで下さい。という言葉をダビデさんは発した。




何故か?

神様は哀れみ深く、愛そのものの方だから。

ダビデさんは知っていた。



今がどんなにサタンが支配していようが

僕らの叫びは届いている。

だって、神様は大好きな大好きな僕らの声を耳を傾けてきかれるんだから。



今、僕らは限界の様でも大丈夫。

サタンの支配から神様の時に脱せて下さる。


その時は誰も解らない。

解らないけど、ホンマに大丈夫だから祈り続けよう。



希望をサタンに奪われちゃダメ。

今の先に必ず神様の時が用意されているから。

感情で判断しないで過ごしたいですね。





是非、今日語られてる

神様の声に耳を傾け、選び、その言葉を口にしてみませんか?




心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.





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詩86篇(1) 「(心を)一つにする」יָחַד ヤーハド 

〔カテゴリー賦与〕

11節「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」(新改訳)
12節「御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与え」(新共同訳)

Keyword; 「(心を)一つにする、一筋の心にする」 give me an undivided heart, join, make me single-hearted, unite my heart,

  • 心を「一つにして」と訳されるヤーハドיָחַד(yachad)は、旧約聖書で3回(Gen49:6, Ps86:11, Isa14:20)しか使われていない貴重な動詞です。名詞のヤハドיַחַד(yachad)は45回です。詩133篇1節の「見よ。兄弟たちが一つになって(together in unity)共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」は、その良い例です。
  • 「心を一つにしてください」(新改訳、口語訳、関根訳)は、新共同訳では「一筋の心」、岩波訳では「心を集中させてください」と訳している。それは「真理のうちを歩むため」「御名を恐れるため」とその理由を作者は述べています。ある人は「集中力とは脳のパワーが向上している状態ではなく、むしろ必要なこと以外はしていないクルーズ・コントロール状態だ」と言いましたが、まさにそのとおりだと思います。知性、感情、意志を司る場です。それぞれがバラバラであっては心と体が調和しません。私たちの心が、神に対して、あるいは「神を恐れるために」、知性と感情、そして意志とが筋の通ったものでなければなりません。
  • ヤコブはその手紙の中で、二心のある人はその歩む道のすべてに安定を欠いた人だと述べています。そして「二心の人たち。心を清くしなさい。」(4章8節)と命じています。主イエス・キリストも「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」と語っています。
  • 使徒パウロはキリストと出会ってから、自分の内に矛盾する心があることを知りました。そしてその矛盾に悩みました。
  • 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。・・・私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。・・もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7章15~24節)
  • この矛盾を解決し、私たちの人格を統合してくださる方こそ主イエス・キリストです。人格が統合することは神との豊かなかかわりをもつための条件と言えます。その統合は神の御霊によって可能とされます。神に愛されている者であることを知り(知性)、神を喜ぶ者となり(感情)、自ら神を愛していく者となる(意志)ことは、御霊なる神、「神の賜物」としての御霊のみわざです。罪と死の原理から「いのちの御霊の原理」の中に生かしていただける恵みがすでに備えられているのです。それゆえ、「私の心を一つにしてください」という祈りはきわめて大切な祈りと言えます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs86%281%29

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詩86篇(2) 「あわれむ」 חָנַן ハーナン

〔カテゴリー愛顧〕

3節「主よ。私をあわれんでください。」 15節「あなたは、あわれみ深く・・」
16節「私に御顔を向け、私をあわれんでください。」

Keyword;「憐れむ、情け深く・・施す」 show favor, have mercy,
4:1/6:2/9:13/25:16/26:11/27:7/30:10/41:4,10/51:1/56:1/57:1/67:1/86:3, 16

  • 「あわれんでください」と嘆願する「あわれむ」ハーナンחָנַן(chanan)は詩篇特愛用語です。旧約では78回、詩篇では33回でほとんどが嘆願形で用いられています。その嘆願のほとんどが、「私を」と個人的です。神が主語でも、人が主語でも、「あわれむ」とか「情け深くして人に施しをする」という意味で使われます。反対に、「あわれまなさい」ことは「容赦しない」という意味になります。イスラエルの戦いにおいてカナンの民に「あわれみを示さず」に聖絶するとは、「容赦せず」と同義でした。
  • ルカの福音書18章にイエスが語った「パリサイ人と取税人が神殿で祈った祈り」の話がしるされています。パリサイ人の祈りは「私が・・のような者ではないことを感謝します。私は・・のものをささげております」と祈りましたが、取税人は目を天に向けようともせず、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と一言、祈りました。ところが、この取税人の方が義と認められて帰りました。このことはパリサイ人にとってまさに青天霹靂でした。それほどに「あわれんで下さい」という祈りは神を喜ばせる祈りだということが分かります。なぜなら、神のあわれみを求めることは、自分が罪のゆえに悲惨な状況にあることを認め、具体的な助けを神に要求することだからです。このことが神の「はらわた」を動かすのです。
  • ちなみに、「主よ。あわれみたまえ」というフレーズは中世のカトリック教会の典礼においては、「キリエ・エレイゾン、クリスト・エレイゾン、キリエ・エレイゾン」(ラテン語)として常に(通常文として)歌われてきました。礼拝者にとって自分が神のあわれみなしには立つことができないことを表わす祈りとして、連綿と歌い続けられてきたのです
  • 詩篇の中には主ご自身が「あわれもう」という言葉はありませんが、出エジプト記33章19節には「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者あわれむ。」とその主権性を宣言していますが、イザヤ書30章18節では「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもう(חָנַן)と立ち上がられる。」と今にもその思いが行動となってあらわしたい熱い心情を述べています。
  • このように、神が「あわれむ」とは、単に心情だけにとどまることなく、必ず具体的なことが施されるのです。新改訳ではイエスのあわれみ(スプラングニゾマイ)は「かわいそうに思う」と訳されています。この動詞は「同情+具体的行動」をその内容としています。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs86%282%29

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【詩篇85篇】o19  指揮者のために。コラの子たちの賛歌


psm85:1  主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕われ人を、お返しになりました。

psm85:2  あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ

psm85:3  あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。

psm85:4  われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。

psm85:5  あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。

psm85:6  あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。

psm85:7  主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。

psm85:8 私は、主であられる神の仰せ を聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。

psm85:9  まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。

psm85:10  恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和 とは、互いに口づけしています。

psm85:11  まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。

psm85:12 まことに、主は、良いものを下さる ので、私たちの国は、その産物を生じます。

psm85:13  義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。

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おはようございます。

昨日は久しぶり友人と会ってゆっくり話すことが出来た。

久しぶりとも感じさせない自然な会話が出来感謝だったわ。


では早速今日も詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm85:9  まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。





恐れるとは何じゃ??

神様こそ凄いぞおって感じる心。


神様の本質を知る人が、救いに近いって事かな?

霊である神様の本質を知ることが出来るのは、求める人しか知りえない。


人の知恵では・・・

肉体で制限された僕らは、その視界から見えるのは限界がある。

だから、

先ず僕らが人間に過ぎない事を知り

神様自身を知ることも求める事が必要だよね。



神様を知ろうとする事は神様が喜ばれる。

その祈りは神様はいつでも大歓迎!!



是非、祈ってみよう。




知ろうとすることで、僕らは神様の凄さに驚く事になるんだから。







是非、今日語られてる

神様の声に耳を傾け、選び、その言葉を口にしてみませんか?




心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。



ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.









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詩85篇「恵みを施す」 רָצָה ラーツァー

〔カテゴリー愛顧〕

1節「主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。」(新改訳)
1節「神よ、あなたの国を豊かに恵み、」(典礼訳)

Keyword;「恵みを施す、愛する、お気に召す、受け入れる」 show favor, accept, delight,
40:13/44:3/49:13/50:18/51:16/62:4/77:7/85:1/102:14/119:108/147:10, 11/149:4

  • 「恵みを施す」訳されたラーツァーרָצָה(ratsah)は、すでに詩44篇でも取り上げています。そこでは「あなたが彼らを愛された」と訳されています。ラーツァーרָצָה(ratsah)は、旧約では52回、詩篇では13回です。
  • ちなみに、名詞のラーツォンרָצוֹן(ratson)は、旧約で56回、詩篇では13回使われています。例としては、詩5篇12節「主よ。まことに、あなたは・・・大盾で囲むように愛(רָצוֹן)で彼を囲まれます。」などです。30:5,7/51:18/89:17/では「恩寵」(この訳語は新改訳だけ)、favor(NIV訳)と訳されています。他には「みこころ、(御旨)」(40:8/103:21/143:10)、「豊かな恵み」(69:13)、「愛」(106:4)、「願い」(145:16, 19)というように訳されています。
  • 名詞の訳からも推察できるように、ラーツァーרָצָהは、私たちに対する神の一方的な恩寵を表わす動詞だということが分かります。そこには喜びがあり、豊かな恵みが溢れています。
  • 詩85篇における神の恩寵はイスラエルの回復のみわざ(捕囚からの解放)に表わされました。しかし、帰還した民が今や新たな試練の中にあります。そして、再び、「われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ・・てください。」(4節)。「主よ、・・あなたの救いを私たちに与えてください。」(7節) と神の救いを求めています。そして9節では「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い」との信仰の確信を述べています。
  • 9節以降には、やがて神の御子イエス・キリストによって実現する神の恩寵用語(名詞)が対句で羅列されています。しかも、これらの恩寵の対句は、やがて互いにしっかりと御子イエスによって結びあうことが預言的に語られています。

    (1)「救い」(イェシャー) יֵשַׁע と「栄光」(カーボード) כָּבוֹד
    (2)「恵み」(ヘセド) חֶסֶד と「まこと」(エメス) אֱמֶת
    (3)「義」(ツェデク) צֶדֶק と「平和」(シャローム) שָׁלוֹם

  • 「救い」と「栄光」、「栄光」のカーボードの原義は「重い」というということです。つまり人間の救いは、この宇宙の中で最も重い事柄ということです。「恵み」と「まこと」、および「義」と「平和」は決して簡単には結びあわされないものです。たとえば、戦争はお互いの「正義」によってもたらされます。自分の立場が正義を主張し合えば、平和は成り立ちません。「まこと」(真実)は互いの約束を破らないという誠意で成り立っています。ところが、神との関係においては、神の民イエスエルは何度も神との約束を破れました。本来ならば、そこで互いの関係は終りです。ところがその関係は途切れることなく続いています。それは神の「恵み」によって民の不信実が赦されたからです。このように、「恵み」と「真実」、「義」と「平和」は、本来、結び合えないものが、この詩篇では「互いに出合い」(典礼訳では「めぐり合い」)、「互いに口づけしている」(典礼訳では「いだき合う」という表現でしっかりと強く結びあっています。これはやがてイエス・キリストによつて実現することになる「恩寵」(救いと栄光)を表わしています。
  • 詩85篇11, 12節でも、「天と地の呼応」が良い実りをもたらすことがたとえられています。「まことに、主は良いもの(ここでは「雨」のこと)をくださる(נָתַן)ので、私たちの国(地)は、その産物(実り)をもたらします(נָתַן)。まさに神の恩寵の賦与そのものがとても「重い」価値のある救いといえます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs85

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