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【詩篇85篇】o19 指揮者のために。コラの子たちの賛歌
psm85:1 主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕われ人を、お返しになりました。
psm85:2 あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪を、おおわれました。セラ
psm85:3 あなたは、激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられました。
psm85:4 われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。
psm85:5 あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。
psm85:6 あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。
psm85:7 主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。
psm85:8 ★ 私は、主であられる神の仰せ を聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。
psm85:9 まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。
psm85:10 恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和 とは、互いに口づけしています。
psm85:11 まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。
psm85:12 ★ まことに、主は、良いものを下さる ので、私たちの国は、その産物を生じます。
psm85:13 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。
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おはようございます。
昨日は久しぶり友人と会ってゆっくり話すことが出来た。
久しぶりとも感じさせない自然な会話が出来感謝だったわ。
では早速今日も詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm85:9 まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。
恐れるとは何じゃ??
神様こそ凄いぞおって感じる心。
神様の本質を知る人が、救いに近いって事かな?
霊である神様の本質を知ることが出来るのは、求める人しか知りえない。
人の知恵では・・・
肉体で制限された僕らは、その視界から見えるのは限界がある。
だから、
先ず僕らが人間に過ぎない事を知り
神様自身を知ることも求める事が必要だよね。
神様を知ろうとする事は神様が喜ばれる。
その祈りは神様はいつでも大歓迎!!
是非、祈ってみよう。
知ろうとすることで、僕らは神様の凄さに驚く事になるんだから。
是非、今日語られてる
神様の声に耳を傾け、選び、その言葉を口にしてみませんか?
心が否定しても、バイブル(神様)
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17
どうか、私たちの主イエス・キリストの神
、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に
eps1:18
また、私の心の目
がはっきり見えるようになって、
eps1:19
また、
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
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詩85篇「恵みを施す」 רָצָה ラーツァー
〔カテゴリー愛顧〕
1節「主よ。あなたは御国に恵みを施し、ヤコブの繁栄を元どおりにされました。」(新改訳)
1節「神よ、あなたの国を豊かに恵み、」(典礼訳)
Keyword;「恵みを施す、愛する、お気に召す、受け入れる」 show favor, accept, delight,
40:13/44:3/49:13/50:18/51:16/62:4/77:7/85:1/102:14/119:108/147:10, 11/149:4
- 「恵みを施す」訳されたラーツァーרָצָה(ratsah)は、すでに詩44篇でも取り上げています。そこでは「あなたが彼らを愛された」と訳されています。ラーツァーרָצָה(ratsah)は、旧約では52回、詩篇では13回です。
- ちなみに、名詞のラーツォンרָצוֹן(ratson)は、旧約で56回、詩篇では13回使われています。例としては、詩5篇12節「主よ。まことに、あなたは・・・大盾で囲むように愛(רָצוֹן)で彼を囲まれます。」などです。30:5,7/51:18/89:17/では「恩寵」(この訳語は新改訳だけ)、favor(NIV訳)と訳されています。他には「みこころ、(御旨)」(40:8/103:21/143:10)、「豊かな恵み」(69:13)、「愛」(106:4)、「願い」(145:16, 19)というように訳されています。
- 名詞の訳からも推察できるように、ラーツァーרָצָהは、私たちに対する神の一方的な恩寵を表わす動詞だということが分かります。そこには喜びがあり、豊かな恵みが溢れています。
- 詩85篇における神の恩寵はイスラエルの回復のみわざ(捕囚からの解放)に表わされました。しかし、帰還した民が今や新たな試練の中にあります。そして、再び、「われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ・・てください。」(4節)。「主よ、・・あなたの救いを私たちに与えてください。」(7節) と神の救いを求めています。そして9節では「まことに御救いは主を恐れる者たちに近い」との信仰の確信を述べています。
- 9節以降には、やがて神の御子イエス・キリストによって実現する神の恩寵用語(名詞)が対句で羅列されています。しかも、これらの恩寵の対句は、やがて互いにしっかりと御子イエスによって結びあうことが預言的に語られています。
(1)「救い」(イェシャー) יֵשַׁע と「栄光」(カーボード) כָּבוֹד
(2)「恵み」(ヘセド) חֶסֶד と「まこと」(エメス) אֱמֶת
(3)「義」(ツェデク) צֶדֶק と「平和」(シャローム) שָׁלוֹם
- 「救い」と「栄光」、「栄光」のカーボードの原義は「重い」というということです。つまり人間の救いは、この宇宙の中で最も重い事柄ということです。「恵み」と「まこと」、および「義」と「平和」は決して簡単には結びあわされないものです。たとえば、戦争はお互いの「正義」によってもたらされます。自分の立場が正義を主張し合えば、平和は成り立ちません。「まこと」(真実)は互いの約束を破らないという誠意で成り立っています。ところが、神との関係においては、神の民イエスエルは何度も神との約束を破れました。本来ならば、そこで互いの関係は終りです。ところがその関係は途切れることなく続いています。それは神の「恵み」によって民の不信実が赦されたからです。このように、「恵み」と「真実」、「義」と「平和」は、本来、結び合えないものが、この詩篇では「互いに出合い」(典礼訳では「めぐり合い」)、「互いに口づけしている」(典礼訳では「いだき合う」という表現でしっかりと強く結びあっています。これはやがてイエス・キリストによつて実現することになる「恩寵」(救いと栄光)を表わしています。
- 詩85篇11, 12節でも、「天と地の呼応」が良い実りをもたらすことがたとえられています。「まことに、主は良いもの(ここでは「雨」のこと)をくださる(נָתַן)ので、私たちの国(地)は、その産物(実り)をもたらします(נָתַן)。まさに神の恩寵の賦与そのものがとても「重い」価値のある救いといえます。
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