今日はゴメンなさい。
メンテ と気づいたときには遅く
僕の心も折れてました。
では
僕がメルマガで送ってくれてるメッセージを今日は共有しましょ。
ココカラ
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愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
1コリント13章4節
寛容とは相手を無条件で受け入れることです。
わたしに寛容はありません。たとえあったとしても貧弱なものです。
寛容はイエスキリストにあります。信頼したときイエスさまは無条件で赦し受け入れてくださいました。
イエスキリストの愛は今日もあふれています。
<祈り:イエスさま、私を受け入れてくださったことを感謝します。
イエスさまがして下さったように人を受け入れる心を与えて下さい。>
◎今日のみことば
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凄くシンプルでしょ。
僕はこのメッセージを受けてこう思ったんです。。
皆さんはどうだろう?
愛は寛容で・・・僕自身は寛容でない。。
他の見方からすれば、コレは嘘だとも言える。
ウソ?
もう一つの見方からすれば、
ジーザスを信じた僕自身は 『 愛 』 である。
ただ、表にまだ現れていないだけだ。という事。
何故?
それは、僕らは誰に似せて創られ、
僕らはその方になんと呼ばれているかを考えれば解ってくるのかも。。
僕らは『 愛 』そのものである神様に似せて創られた。
そして、その神様は僕らの事を「 高価で尊い 」と云われている。
だから・・・
僕らは愛であり、寛容であり、親切だ。
人をねたまず、自慢せず、高慢にならない存在なんです。
実際の自分自身から出ているものを見ると恥ずかしいくらいですけどね。
でも、間違いない。
僕らは神に似せて創られた素晴らしい「 愛 」溢れる人なんだ。
ただ、僕らはサタンの支配の中で過ごしているから
日々ズレちゃうし、愛そのものが溢れていないようにも見えるかもしれない。
それは、肉のせい。
アル箇所では肉の責任を肉で負ってはならない。と記されている。
僕らが感じるその責任こそ、僕らのジーザスが負われたのだから
僕らの肉によってその責任を感じ、自分を責めることはアカンのじゃ!!ってバイブルに記されている。
日々、僕らは自分を責める事の出来る自分の行動と出会う。
その度に・・・何をする?
自分を責めますか?
それとも
ジーザスに感謝する?
僕らはジーザスに感謝することが出来る。
そして、まだ現れていない素晴らしい本来の自分自身は「 愛 」だと宣言することが出来る。
どんなに今日の自分自身が許せなくても
是非、ズレを認めながら、ジーザスを見上げ、感謝をささげながら
もうすぐ現れるだろう本来の自分自身(愛)を期待して過ごしませんか?
僕らは大丈夫。
どんなに責める理由が心にドッシリしてても
肉の責任はジーザスが負ってくれたんだから。
そのことを考えて
いつも喜んで入れますように。
明日から、また頑張りますね。
また明朝よろしくお願いいたします。では。また。
バイバイき~ん。