価値観の境界線って難しいね、というお話。
価値観ってひとそれぞれだけれど、その違いって結局は、
境界線をどこに引くのか、が違うことがほとんどだと思います。
人は色んな物事を、それこそ色んなものさしで計ります。
人によってものさしの種類や大きさ、メモリの間隔、単位が違うと思います。
さらには、複数のものさしを同時にごちゃまぜにして、計る事もたくさんあると思います。
例えば、美しい美術品を見た時の感想は、
「美しい」と感じるにも色々な美しさがあります。
その種類や角度は人それぞれですよね。
でも、その中の一つを取れば、皆、同じようなものさしがあると思うんです。
もちろん、境界線は違うでしょうが。
以前記事にしましたが、現代の人は、言葉にしばられた生き物なので、
言葉で価値や間隔を表そうとすると、たちまち言葉によって支配されます。
言葉には共通の認識として共通の意味合いがあるはずですよね。
わかりやすいところでは、
気温が暑いか寒いか、のものさしの種類は、人によって(多くの場合は)違いはないですよね。
ただ、暑いと感じるか寒いと感じるか、といった基準、ものさしで言うと目盛りの大きさや長さに通じる部分、が人によって違うということだと思います。
少し解釈を広げると、、、
「極論」を持ち出して、極端な例を挙げて共感を得ようとする行為。
これは、同じものさしを使おうよ、という歩み寄りなわけです。
例えば、
「他の人が嫌がる事はしちゃだめよ」ってよく子供達を躾けますよね?
でもこれって、人によって基準が違うじゃないですか。
極端な例として、暴力を振るう、殺す、とか挙げますよね。
もしくは「○○ちゃんが大好きなケーキを勝手に食べられたら嫌でしょ?」といった身近な例を出すでしょう。
まぁ、以上の例には賛否両論あると思いますがw例は例なのでw
さて、ものさしのあり方について、考えを述べたのですが、
その物差しの両端にある感覚・意識・価値というのは、大体の場合、対極なものですよね。
暑い と 寒い、もそうですし。
ではどこからがその変わり目になるか、と聞かれると、困りますね。
ものさしの真ん中付近では、極端に言うとどっち?強いて言うとどっち?ってなっても困りますよね。
この境界線。
もっと対象を絞って言えば、
快 と 不快 の境目。
良 と 悪 の境目。
納得 と 不服 の境目。
この曖昧さが、人とのコミュニケーションを難しくしていると思います。
暑さ 寒さ のものさしに対しても、人は「本能的な感情=快・不快」に近しい物差しを並べることが多いです。
暑い・寒い、と感じる事柄に対して、無意識の中で、快・不快も感じている事が多いと思います。
・・・厳密には、不快な部分でより強く感じていると思います。
この基準が、ある種の「価値観」ですね。
どちらかといえば、狭義の価値観ですか。
何か物事をとらえるときに、意識して、この「快・不快」という物差しを並べるのをやめて、もとのものさしだけで計ってみませんか?
そうすると、客観的に物事を捉えたり、自分の感情を整理したり、などなど、
やりやすくなると思いますよ。
食べ物の好き嫌いも減るかもしれません。
嫌いな物を食べるときに、
「好き」「嫌い」と感じる部分を封じて、
「どんな味か」というものさしでその食べ物を分析してみてください。
「好き」「嫌い」の評価が変わるかもしれません。
価値観には、色んな境界線があります。
厳密には、線というより曖昧な領域で存在しているような帯だと思いますが、、、
この境界や、ものさし(価値観)そのものを、少し意識してみませんか?
人を理解したり、自分自身を見つめ直すきっかけになるかもしれませんよ。
疑う事無く、今回の記事もスルー推奨です(w;
社会とは人ありきです。
社会とは 人 と 人同士の関わり で構成されています。
※この場合の「社会」は 人間社会 のこととします
つまり社会の中で生きるということは、人との関わりの中で生きるということで。。。
人との関わりは、とても大事なことだと思います。
人との関わりの中では、感情や理性を働かせ、主観を以て言動することになります。
少し話題を変えます。
善し悪しは別にして、
今の社会で「正しいこと」とは、より多数の人からそれぞれの主観で「正しい」と判断されること、
が多いと思います。
また、今の社会では、法(ルール)を以て社会を統率しようとしています。暗黙的なルールとして倫理という概念もあるかもしれません。
したがって、法(ルール)という絶対的価値観と倫理という曖昧な価値観に従って、
どれだけ理性的に物事を捉えていくかが社会の中で「正しい」と認められることかもしれません。
さて、今私は、法と倫理を、価値観として区分しました。少し強引でしたが、広い意味で価値観であると言えると思います。基準となる価値観、客観的価値観、と言ってもよいでしょうか。
本来、個人の価値観、というと主観的なニュアンスなので、違和感があるかもしれませんが。。。
もちろん「焼きそばが500円で売っているのを見て、高いと感じるか安いと感じるか?」という日常の中にある命題も、価値観ですね。ここではこの価値観を、金銭的な価値観、とします。
話を戻します。
人との関わりで重要な事は、価値観を知ること理解すること、だと思います。
感情も価値観の一部かもしれませんね。何に対して喜怒哀楽の感情を湧かせるのか。
これは人によって違いますよね。
少し話が逸れますが、人の個性、も価値観かもしれませんね。価値観が個性だ、という主張の方がしっくりくるかもしれませんがw
ともかく、感情、理性、個性、考え方、
極端な話、全ての人間が、広い意味での価値観を共有していれば、いざこざや問題は起きないかもしれません。(同価値の対象に対する取捨選択、については起きるかもしれませんが・・・w;)
現実として、そんなことは起こらないでしょう。
ドラえ○んを用意すればあるいは・・・げふげふ。
私の主張は、
価値観を広く解釈し、できる限り理解しよう
※納得する必要は無い
ということです。
広く価値観を捉える。
たぶん、普通に「価値観が同じ」と聞くと、
同じものを楽しいと思う、とか、
安い高いと感じる基準が同じ、とか、
趣味が同じ、とか、
正しいと信じる事が同じ、とか。。。
色々ありますよね。
人とつきあう上で、
相手がどういう価値観であるのかを知って下さい。
そして、その価値観が、自分の価値観とは全く違ったもの、ズレたものであっても、
「理解」してください。
この理解について、法的、倫理的、感情的、あるいは生理的な納得は不要です。
ぶっちゃけていえば、
自分には共感できないけれど、そういう人もいる
って思って下さい。
注意してほしいのは、
思い込みや、決めつけは、できるかぎりやめてくださいね。
そして、広く『価値観』をとらえてください。
本記事もスルー推奨ですw;
社会とは 人 と 人同士の関わり で構成されています。
※この場合の「社会」は 人間社会 のこととします
つまり社会の中で生きるということは、人との関わりの中で生きるということで。。。
人との関わりは、とても大事なことだと思います。
人との関わりの中では、感情や理性を働かせ、主観を以て言動することになります。
少し話題を変えます。
善し悪しは別にして、
今の社会で「正しいこと」とは、より多数の人からそれぞれの主観で「正しい」と判断されること、
が多いと思います。
また、今の社会では、法(ルール)を以て社会を統率しようとしています。暗黙的なルールとして倫理という概念もあるかもしれません。
したがって、法(ルール)という絶対的価値観と倫理という曖昧な価値観に従って、
どれだけ理性的に物事を捉えていくかが社会の中で「正しい」と認められることかもしれません。
さて、今私は、法と倫理を、価値観として区分しました。少し強引でしたが、広い意味で価値観であると言えると思います。基準となる価値観、客観的価値観、と言ってもよいでしょうか。
本来、個人の価値観、というと主観的なニュアンスなので、違和感があるかもしれませんが。。。
もちろん「焼きそばが500円で売っているのを見て、高いと感じるか安いと感じるか?」という日常の中にある命題も、価値観ですね。ここではこの価値観を、金銭的な価値観、とします。
話を戻します。
人との関わりで重要な事は、価値観を知ること理解すること、だと思います。
感情も価値観の一部かもしれませんね。何に対して喜怒哀楽の感情を湧かせるのか。
これは人によって違いますよね。
少し話が逸れますが、人の個性、も価値観かもしれませんね。価値観が個性だ、という主張の方がしっくりくるかもしれませんがw
ともかく、感情、理性、個性、考え方、
極端な話、全ての人間が、広い意味での価値観を共有していれば、いざこざや問題は起きないかもしれません。(同価値の対象に対する取捨選択、については起きるかもしれませんが・・・w;)
現実として、そんなことは起こらないでしょう。
ドラえ○んを用意すればあるいは・・・げふげふ。
私の主張は、
価値観を広く解釈し、できる限り理解しよう
※納得する必要は無い
ということです。
広く価値観を捉える。
たぶん、普通に「価値観が同じ」と聞くと、
同じものを楽しいと思う、とか、
安い高いと感じる基準が同じ、とか、
趣味が同じ、とか、
正しいと信じる事が同じ、とか。。。
色々ありますよね。
人とつきあう上で、
相手がどういう価値観であるのかを知って下さい。
そして、その価値観が、自分の価値観とは全く違ったもの、ズレたものであっても、
「理解」してください。
この理解について、法的、倫理的、感情的、あるいは生理的な納得は不要です。
ぶっちゃけていえば、
自分には共感できないけれど、そういう人もいる
って思って下さい。
注意してほしいのは、
思い込みや、決めつけは、できるかぎりやめてくださいね。
そして、広く『価値観』をとらえてください。
本記事もスルー推奨ですw;
掲示板やブログの炎上って・・・私は嫌いですね。
好きな人もたくさんいるとは思いますが。「お祭りだー」って感じでw
インターネットの『匿名性』『開放性』を、意識的なの無意識的なのか、
悪いように利用されていると思いますね。
晒し上げる、という表現が妙にしっくりきますね。
デモ行進など、自分たちの主張を他に知らしめる行為は昔からありますし、
必要なことですよね。
主張をしないと、「自分が何を考えてるか」なんて誰にもわからないですし。
さて、Web上の掲示板やブログで、その『不特定多数の人間が記事を見たりコメントしたりする』という性質から、
ある1つのコメントが書かれていれば『他にも同じ意見の人が「たくさん」いるんだ』と思ってしまうことがよくよくあると思います。
まぁ、今の表現は少し誘導的でしたね、「たくさん」ではなく「少なくとも1人は」という正確な認識で留まることも多いと思います。
ですが、そのコメントの主張する内容が、特に自分の主義主張と合致する意見なら、
「自分だけじゃない」「他にもいる」と感じることもあるでしょう。
そして「自分以外も『皆』こう思ってるんだ」と拡大解釈してしまうことも多いのではないでしょうか。
また別の話ですが、
ある主張Aと別の主張Bがあったとします。
あるブログで主張Aを強く推す記事が投稿されました。
すると、たくさんのコメントがつき、その割合は次の様になりました。
・主張Aを擁護するコメント・・・10%
・主張Aに反発するコメント・・・70%
・その他・・・20%
この記事を見たブログの読者は、「世の中の多くの人はみんな主張Aに反対なんだ」「主張Bが多数派なんだ」と思うのではないでしょうか?
でも、このブログをみている人の内訳は、
・主張Aの人・・・30%
・主張Bの人・・・30%
・その他の主張or無関心・・・40%
だったりするわけですね。
別に主張Aが少数なだけでも、主張Bが多数なわけでもないんです。
匿名性が気を大きくさせ、開放性が無責任な多数派心理を植え付ける、ということが少なくないのではないでしょうか。
統計的、確率的に、ある程度の物事は判断できると思います。
結果論だけ論ずればまったく意味のないことでしょうが。。。未来の事柄を考えるときに、皆さん、統計や確率を無意識に判断材料として使ってますよね?
例えば、
・マークシート試験で「A」ばっかりを回答してたら「多分どこか間違ってる」と思う
・宝くじを買う時に当選者の多い宝くじ売り場で買う
・テレビで紹介されてたランキングNo1のスイーツを買う
・万引き、飲酒運転、信号無視などの軽重犯罪
などなど。
ですが、予測、判断するときには、その母数と前提条件を間違えないように吟味してください。
多数派・少数派という概念自体、勘違いされやすいですから。
簡単な例をあげると、
・・・例えば選挙などで、
簡単化のため1人は1つの政党しか支持できないとします。
A~Eの5つの政党があり、それぞれの支持者の割合は以下の通りとします。
A党 30%
B党 25%
C党 20%
D党 15%
E党 10%
この時、一番支持されている政党はA党ですね。
でもこれって、A党の支持率は30%しかなく、
A党を支持しない人の割合は70%なんです。
多数決で言えば、A党は支持されていないわけですね。
これは、母数が5から2へと、論理の前提に転換があったからですが・・・、
ようするに、統計や確率は
「人の感覚」とズレることが多々あるんですね。
ここで、掲示板やブログのコメントの話に戻りますね。
結局、掲示板やブログで炎上するのは、
投稿した人、コメントした人、の中で、
価値観や背景や前提といった「人の感覚、意識のズレ」があるからだと思うんです。
みんなの思惑がズレズレで、論点もズレズレで、意識的にズラしてる人もその前提の変化を説明することはしないで、どんどんズレズレで。
コメントでそのズレを指摘する人も現れるんですが、その指摘自体が「その記事のコメント」という前提からズレた物で。
・・・匿名的だろうが開放的だろうが、議論や言葉の押収には、マナーがあります。礼節、作法があるんです。でも、知らない人もたくさんいます。
某大型掲示板独特のルールもありますが、一般的に正しいとされるマナーもありますが、
そういったルール・マナーを知らない人から見れば、たとえその他の多数の人がルール・マナーを守っていると思っても、ルール・マナー違反なんです。
同じコメントを読んだ人でも、人が違えば受け取り方も違うんです。
少しの指摘が、大反論として受け取ってしまう人も居るんです。
フォローのつもりが、指摘ととらえる人もいるんです。
インターネットってそういう場なんです。
だからこそ、些細なルール・マナー違反に対するいわゆる『大人な対応』。
スルー。
これ、大事。
ルールやマナーを知らない人に知らせてあげるのは大事ですし、
知ってて放置するのは無責任かもしれませんが、
ですが炎上してるところで無関係な指摘をしても火に油です。
本当に鎮めたいと思うのなら、スルーは大事。
心からそう思います。
炎上ではないですが、ブーシュカのスタッフブログのコメントをみて思ったことでしたw
・・・また話がそれますが、興味深かったのが、
『ブーシュカ廃止記事では存続の声が多く、賛成が少なかったのに、
ブーシュカ継続記事では存続する上での要望・クレームが多かった』
ことを指摘するコメントがありました。。。わがままなユーザが多い、と。
確かにそうとも言えるんですが・・・。
これも統計的な感覚のズレですねぇ。『ユーザの総意』という、実態のない何かを、作っちゃたんですねぇ。
存続にクレーム入れる人は、ブーシュカ廃止記事にコメントしてなかっただけだと思うんですが・・・w
各記事のコメントはあくまでその記事毎のコメントで、集約しても『ユーザの総意』ではないのに。。。
むしろ、全部の記事のコメントも集約して、ようやく総意に近づく気もしますね。
ブーシュカ廃止に反対する人もいれば、納得する人もいる(後者はあまりコメントしないですよね)。
現状の運営に不満な人もいれば、継続に満足してる人もいる(後者はあまりコメントしないですね。今回はありがとうコメントが多かったみたいですがw)。
片方の記事だけで総意は取れないですよ。
と、いうことで。
スルー大事。
スルー大事!
この長い記事もスルーしてください(ぇ
好きな人もたくさんいるとは思いますが。「お祭りだー」って感じでw
インターネットの『匿名性』『開放性』を、意識的なの無意識的なのか、
悪いように利用されていると思いますね。
晒し上げる、という表現が妙にしっくりきますね。
デモ行進など、自分たちの主張を他に知らしめる行為は昔からありますし、
必要なことですよね。
主張をしないと、「自分が何を考えてるか」なんて誰にもわからないですし。
さて、Web上の掲示板やブログで、その『不特定多数の人間が記事を見たりコメントしたりする』という性質から、
ある1つのコメントが書かれていれば『他にも同じ意見の人が「たくさん」いるんだ』と思ってしまうことがよくよくあると思います。
まぁ、今の表現は少し誘導的でしたね、「たくさん」ではなく「少なくとも1人は」という正確な認識で留まることも多いと思います。
ですが、そのコメントの主張する内容が、特に自分の主義主張と合致する意見なら、
「自分だけじゃない」「他にもいる」と感じることもあるでしょう。
そして「自分以外も『皆』こう思ってるんだ」と拡大解釈してしまうことも多いのではないでしょうか。
また別の話ですが、
ある主張Aと別の主張Bがあったとします。
あるブログで主張Aを強く推す記事が投稿されました。
すると、たくさんのコメントがつき、その割合は次の様になりました。
・主張Aを擁護するコメント・・・10%
・主張Aに反発するコメント・・・70%
・その他・・・20%
この記事を見たブログの読者は、「世の中の多くの人はみんな主張Aに反対なんだ」「主張Bが多数派なんだ」と思うのではないでしょうか?
でも、このブログをみている人の内訳は、
・主張Aの人・・・30%
・主張Bの人・・・30%
・その他の主張or無関心・・・40%
だったりするわけですね。
別に主張Aが少数なだけでも、主張Bが多数なわけでもないんです。
匿名性が気を大きくさせ、開放性が無責任な多数派心理を植え付ける、ということが少なくないのではないでしょうか。
統計的、確率的に、ある程度の物事は判断できると思います。
結果論だけ論ずればまったく意味のないことでしょうが。。。未来の事柄を考えるときに、皆さん、統計や確率を無意識に判断材料として使ってますよね?
例えば、
・マークシート試験で「A」ばっかりを回答してたら「多分どこか間違ってる」と思う
・宝くじを買う時に当選者の多い宝くじ売り場で買う
・テレビで紹介されてたランキングNo1のスイーツを買う
・万引き、飲酒運転、信号無視などの軽重犯罪
などなど。
ですが、予測、判断するときには、その母数と前提条件を間違えないように吟味してください。
多数派・少数派という概念自体、勘違いされやすいですから。
簡単な例をあげると、
・・・例えば選挙などで、
簡単化のため1人は1つの政党しか支持できないとします。
A~Eの5つの政党があり、それぞれの支持者の割合は以下の通りとします。
A党 30%
B党 25%
C党 20%
D党 15%
E党 10%
この時、一番支持されている政党はA党ですね。
でもこれって、A党の支持率は30%しかなく、
A党を支持しない人の割合は70%なんです。
多数決で言えば、A党は支持されていないわけですね。
これは、母数が5から2へと、論理の前提に転換があったからですが・・・、
ようするに、統計や確率は
「人の感覚」とズレることが多々あるんですね。
ここで、掲示板やブログのコメントの話に戻りますね。
結局、掲示板やブログで炎上するのは、
投稿した人、コメントした人、の中で、
価値観や背景や前提といった「人の感覚、意識のズレ」があるからだと思うんです。
みんなの思惑がズレズレで、論点もズレズレで、意識的にズラしてる人もその前提の変化を説明することはしないで、どんどんズレズレで。
コメントでそのズレを指摘する人も現れるんですが、その指摘自体が「その記事のコメント」という前提からズレた物で。
・・・匿名的だろうが開放的だろうが、議論や言葉の押収には、マナーがあります。礼節、作法があるんです。でも、知らない人もたくさんいます。
某大型掲示板独特のルールもありますが、一般的に正しいとされるマナーもありますが、
そういったルール・マナーを知らない人から見れば、たとえその他の多数の人がルール・マナーを守っていると思っても、ルール・マナー違反なんです。
同じコメントを読んだ人でも、人が違えば受け取り方も違うんです。
少しの指摘が、大反論として受け取ってしまう人も居るんです。
フォローのつもりが、指摘ととらえる人もいるんです。
インターネットってそういう場なんです。
だからこそ、些細なルール・マナー違反に対するいわゆる『大人な対応』。
スルー。
これ、大事。
ルールやマナーを知らない人に知らせてあげるのは大事ですし、
知ってて放置するのは無責任かもしれませんが、
ですが炎上してるところで無関係な指摘をしても火に油です。
本当に鎮めたいと思うのなら、スルーは大事。
心からそう思います。
炎上ではないですが、ブーシュカのスタッフブログのコメントをみて思ったことでしたw
・・・また話がそれますが、興味深かったのが、
『ブーシュカ廃止記事では存続の声が多く、賛成が少なかったのに、
ブーシュカ継続記事では存続する上での要望・クレームが多かった』
ことを指摘するコメントがありました。。。わがままなユーザが多い、と。
確かにそうとも言えるんですが・・・。
これも統計的な感覚のズレですねぇ。『ユーザの総意』という、実態のない何かを、作っちゃたんですねぇ。
存続にクレーム入れる人は、ブーシュカ廃止記事にコメントしてなかっただけだと思うんですが・・・w
各記事のコメントはあくまでその記事毎のコメントで、集約しても『ユーザの総意』ではないのに。。。
むしろ、全部の記事のコメントも集約して、ようやく総意に近づく気もしますね。
ブーシュカ廃止に反対する人もいれば、納得する人もいる(後者はあまりコメントしないですよね)。
現状の運営に不満な人もいれば、継続に満足してる人もいる(後者はあまりコメントしないですね。今回はありがとうコメントが多かったみたいですがw)。
片方の記事だけで総意は取れないですよ。
と、いうことで。
スルー大事。
スルー大事!
この長い記事もスルーしてください(ぇ