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しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼の日常などを書いてます

夏目友人帳に出てくる妖怪で三つ目の妖怪なるものが

登場したとき

ネットでどんな妖怪なのかなと思って検索したことが

前にあった。

その時は何も情報が出てこなかったので、まあいいや

で終わってた

 

最近、自分がやってるゲームで山本五郎左衛門という

妖怪キャラが出てて、どんな妖怪なのかなと検索して

いたら

・高位の妖怪(魔王らしい)

・目が三つ

・籠に乗ってる絵がある(足だけ出てる)

・驚かなかった少年に力を貸す約束

などのような情報が出てきた。

 

それで、前に検索してた夏目友人帳の三つ目の妖怪を

ふと思い出して、この妖怪がモデルなんじゃないかな

と思ったところ。

 

どうなんだろうね(笑)

 

 

私は岡山県新見市に住んでいますが、岡山に土着した経緯に

ついて簡単に書いていこうと思う。

○大まかな流れ

義清→清光→基義→惟義→義重→義俊→光義→満清→万寿丸

→小十郎
※万寿丸の二男が小十郎

・義清・清光から義重までは、甲斐国逸見郷に居た
・惟義が和泉守護になり、義俊を連れて赴任
・満清の時に建武政権に属した
・万寿丸の次男小十郎が足利将軍家に仕える
・足利義稙の時に主君を大内氏に替え、後に毛利氏に仕える
・戦国末期には、現在の岡山県新見市に土着
・関ヶ原合戦の後、本家を矢戸逸見と蚊家逸見の2つに分割

○万寿丸以後について
 万寿丸の動向は、紀伊の伝承とは異なり、北朝側に味方す

る記載となっており、また名前も違うため、さらに調べる必

要がある。
 万寿丸の二男小十郎は、「俊義」、若しくは写し間違いの

場合は、「重義」といい、嫡子が通称の小十郎と小源太の名

を引き継いでいく。
 万寿丸の頃から源太を称していることから、逸見氏嫡系が

こちらに移ったと思われる。

※これ以上は、道成寺さんに怒られそうなので、書かない

○古戦場備中府誌の記載
 現在の岡山県新見市に土着したことについては、「古戦場

備中府誌」の越山城の記載に

「元亀年中領主逸見和泉守先祖は甲州源氏にて父豊後守作州

久米郡の領主たり。豊後守作州より川上郡東油野村田尻に蟄

居。其後毛利家の郡代として、小田郡・阿賀郡の検地奉行た

りと也」

と書かれている。

ちなみに越山城は新見市哲多町矢戸にあった山城。

 私の家にある系譜は、江戸初期に本家の分割の際に書き写

されたものであり、原本のもうひとつの系譜があれば、写し

間違えなどを確認することができるが、現在のところ、行方

不明で捜索中となっている。

今日はここまで

○逸見惟義
 逸見冠者3代目、逸見太郎。
 こちらの系譜では、「逸見太郎 承久乱之時関東守護為
其勧進賞賜摂州三條院勅旨田」と記載。
 尊卑分脈とほぼ同様の内容となっており、承久の乱の時
に関東守護(鎌倉の守備大将)となり、恩賞として和泉守
護と摂津後三条勅旨田を賜る。
  法名は西忍

この他に調べて出てきた情報が以下のとおり
・母は曽根禅師厳尊の娘
 (本朝武家諸姓分脈系図79)
・承元5年甲斐源氏同族の安田義高へ家系図の写本を渡す
 (安田義定  祖宗の史蹟と宗族より)
・六波羅御教書の中に逸見入道がおり、惟義と思われる
・和泉守護在任は1221~1248年となっている

 承久の乱で鎌倉の守備大将になっていることから、将軍
家や北条家などの警護していたかもしれない。(負ければ
北条氏と一緒に滅びることになる)
 北条重時の後見又は補佐を行っていたかも。(和泉守護
の時の北条重時との関係や、後に逸見又四郎義俊の北条重
時の流鏑馬の代役(被官)より)


○逸見義重
 逸見冠者5代目、逸見太郎
 こちらの系譜では「承久乱時従美濃国大井戸為其賞拝領
同国大桑郷 法名白蓮」と記載され、おおむね、尊卑分脈
との差異はない。
 承久の乱の時、美濃国大井戸の渡しで活躍し、美濃国大
桑郷を受領、大桑郷は三男重氏に引き継がれる。

その他調べたことは以下の通り
・母は佐原氏の娘
 (本朝武家諸姓分脈系図79より)
・大桑郷を拝領した年に死去
 (寛政重修諸家譜より)
・三男の重氏の祖父が和田義盛との情報
 そうなると義重の妻が和田義盛の娘となるが、真偽不明
 (児島宮考古学研究室というHPより、現在閲覧不可)

 よく、和田合戦で逸見五郎、二郎、太郎が討死したこと
から和田氏側についたため、没落したとの話があるが、承
久の乱での基義、惟義、義重の活躍もあるため、それが没
落の理由ではなく、承久の乱直後に義重が死去したことが、
逸見氏が歴史の表舞台から退く理由になったと考える方が
正しいのではないかと思う。

 義重には系譜より6人男子がいたことがわかる。これに
ついては、また後に書くとして。惟義は家を存続するため
に色々と苦労したであろう。

今回はここまで
 

 今回は逸見基義、光長の嫡男となります。元々逸見氏そのも

のの、資料がほぼない。
 

承久兵乱記の大井戸の渡しの記載にある
 「へん見のにうだう」
がおそらく基義だと思われる。

尊卑分脈の記載では
 ・本名義経依為九郎判官義経同名改名云々
 ・皇嘉門院判官代
と記載されている。

・本名が義経であったため、九郎判官義経と同名になること

 から改名
・皇嘉門院(崇徳天皇中宮藤原聖子)の判官代であった

こちらの系譜では、
 ・逸見判官
 ・建久四年富士御狩之顕名誉
と書かれている

 「建久4年の富士の御狩りにて名誉あきらか」を色々調べてみ

たところ、甲斐国志という地誌にたどりついた。

「甲斐国志 巻九十五 人物部四 武田親族部」

 逸見光長の記載より

「異本曽我物語ニ建久四年鎌倉殿三原ヘ有ニ御越云云斯ル處ニ五

ツ列レタル鹿出来ル大鹿一ツ女鹿二ツ鎌倉殿射之残ハ佐原十郎義

連並ニ甲斐国甲斐国住人逸見冠者有義射之トアリ」

 今のところ、曽我物語でこの記載を見つけることはできなかっ

たが、昔の曽我物語には記載があったかもしれない。

 これが基義の書き違いであれば、たぶんこれのことだろう。

※甲斐国志は文化11年(1814年)に松平定能が編纂した地

 誌で 国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。

 前回、武田有義は逸見を名乗っていないことを書いたが、そも

そも逸見冠者でもない。
 さらに、頼朝が面罵した相手を狩りに随行させるとは考えづら

く、佐原義連がいれば、なおさらで随行できないであろう。やは

り、基義のことであると思われる。

 そうなれば、諸系譜第33冊の光長の欄に「属鎌倉右大将家」

の記載もあり、基義は頼朝の近くに仕えていたと考えられる。

※諸系譜は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

 です。

今回はここまで

逸見氏についてブログに書いていく上、どう書いていくか

迷っていているうちにだいぶ時間が空いてしまいました。


この後に書く予定である、逸見基義に関連する部分が多くあ

るため、先に武田有義について、調べたこと、個人的な見解

を書いておきます。

 

武田有義は、逸見光長の弟武田信義の庶長子です。

私の家の家系図には記載はありません

色々活躍はしていたようですが、文治4年の鶴岡八幡宮での

大般若経の供養の場で頼朝によって面罵され、その後、梶原

景時の変で行方不明になったようです。

 

実際に武田有義は逸見氏を名乗った形跡はないようです。

 

有義は、武田氏を継いでいたと思われますが、逸見氏には組

み入れられていません。弟の石和信光が武田氏の頭領を相続

する上で謀られ失脚していったと思われます。

 

しかし、彼の曾孫にあたる吉田有綱が逸見に組み入れられた

ことから、遡って有義が逸見の養子になってしまったように

伝えられたようです。

 

吉田有綱は逸見重氏の養子となり、重正に改名しており、そ

の子孫が甲斐に残った逸見の衰退に伴い、取って替わったと

考えられ、鎌倉大草紙における逸見有直は、有義の系統であ

ると考えます。

 

また後で書こうとおもいますが、吉田有綱が逸見に組み入れ

られたのは、承久の乱後に逸見義重が早世したことによる、

逸見氏の勢力衰退を危惧した、逸見惟義が甲斐国に残る逸見

又太郎惟長及び逸見又二郎義継を補佐させるためであると考

えています。

 

今回はここまで