逸見基義について | しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼の日常などを書いてます

 今回は逸見基義、光長の嫡男となります。元々逸見氏そのも

のの、資料がほぼない。
 

承久兵乱記の大井戸の渡しの記載にある
 「へん見のにうだう」
がおそらく基義だと思われる。

尊卑分脈の記載では
 ・本名義経依為九郎判官義経同名改名云々
 ・皇嘉門院判官代
と記載されている。

・本名が義経であったため、九郎判官義経と同名になること

 から改名
・皇嘉門院(崇徳天皇中宮藤原聖子)の判官代であった

こちらの系譜では、
 ・逸見判官
 ・建久四年富士御狩之顕名誉
と書かれている

 「建久4年の富士の御狩りにて名誉あきらか」を色々調べてみ

たところ、甲斐国志という地誌にたどりついた。

「甲斐国志 巻九十五 人物部四 武田親族部」

 逸見光長の記載より

「異本曽我物語ニ建久四年鎌倉殿三原ヘ有ニ御越云云斯ル處ニ五

ツ列レタル鹿出来ル大鹿一ツ女鹿二ツ鎌倉殿射之残ハ佐原十郎義

連並ニ甲斐国甲斐国住人逸見冠者有義射之トアリ」

 今のところ、曽我物語でこの記載を見つけることはできなかっ

たが、昔の曽我物語には記載があったかもしれない。

 これが基義の書き違いであれば、たぶんこれのことだろう。

※甲斐国志は文化11年(1814年)に松平定能が編纂した地

 誌で 国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。

 前回、武田有義は逸見を名乗っていないことを書いたが、そも

そも逸見冠者でもない。
 さらに、頼朝が面罵した相手を狩りに随行させるとは考えづら

く、佐原義連がいれば、なおさらで随行できないであろう。やは

り、基義のことであると思われる。

 そうなれば、諸系譜第33冊の光長の欄に「属鎌倉右大将家」

の記載もあり、基義は頼朝の近くに仕えていたと考えられる。

※諸系譜は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

 です。

今回はここまで