○逸見惟義
逸見冠者3代目、逸見太郎。
こちらの系譜では、「逸見太郎 承久乱之時関東守護為
其勧進賞賜摂州三條院勅旨田」と記載。
尊卑分脈とほぼ同様の内容となっており、承久の乱の時
に関東守護(鎌倉の守備大将)となり、恩賞として和泉守
護と摂津後三条勅旨田を賜る。
法名は西忍
この他に調べて出てきた情報が以下のとおり
・母は曽根禅師厳尊の娘
(本朝武家諸姓分脈系図79)
・承元5年甲斐源氏同族の安田義高へ家系図の写本を渡す
(安田義定 祖宗の史蹟と宗族より)
・六波羅御教書の中に逸見入道がおり、惟義と思われる
・和泉守護在任は1221~1248年となっている
承久の乱で鎌倉の守備大将になっていることから、将軍
家や北条家などの警護していたかもしれない。(負ければ
北条氏と一緒に滅びることになる)
北条重時の後見又は補佐を行っていたかも。(和泉守護
の時の北条重時との関係や、後に逸見又四郎義俊の北条重
時の流鏑馬の代役(被官)より)
○逸見義重
逸見冠者5代目、逸見太郎
こちらの系譜では「承久乱時従美濃国大井戸為其賞拝領
同国大桑郷 法名白蓮」と記載され、おおむね、尊卑分脈
との差異はない。
承久の乱の時、美濃国大井戸の渡しで活躍し、美濃国大
桑郷を受領、大桑郷は三男重氏に引き継がれる。
その他調べたことは以下の通り
・母は佐原氏の娘
(本朝武家諸姓分脈系図79より)
・大桑郷を拝領した年に死去
(寛政重修諸家譜より)
・三男の重氏の祖父が和田義盛との情報
そうなると義重の妻が和田義盛の娘となるが、真偽不明
(児島宮考古学研究室というHPより、現在閲覧不可)
よく、和田合戦で逸見五郎、二郎、太郎が討死したこと
から和田氏側についたため、没落したとの話があるが、承
久の乱での基義、惟義、義重の活躍もあるため、それが没
落の理由ではなく、承久の乱直後に義重が死去したことが、
逸見氏が歴史の表舞台から退く理由になったと考える方が
正しいのではないかと思う。
義重には系譜より6人男子がいたことがわかる。これに
ついては、また後に書くとして。惟義は家を存続するため
に色々と苦労したであろう。
今回はここまで