東京大学史料編纂所のHPのデータベースをなんとなく見返していたら、ふと気づいたことがある。
5代目にあたる逸見義重の法名が尊卑分脈と系図算要の記載が違うことに気づく。
2つは、ざっとこんなものらしい。
・尊卑分脈は南北朝から室町時代に洞院公定らが編纂
・系図算要は江戸時代末期に飯田忠彦が、水戸藩の大日本史
を編纂する上で集めた資料を再編纂
話を戻して、逸見義重の法名が
尊卑分脈→白蓮
系図算要→勾蓮
となって違っている。
うちのは、句蓮か勾蓮(読みづらいのでどっちかわからないが)
となっており、系図算要とほぼ同様となる。
系図算要は何を見て勾蓮とされたかを考えてみた
まず、うち(蚊家、矢戸、新見)などから系譜を見せていないと
思う。矢戸、新見は早い時期に失われている可能性があるし、ましては備中の山奥まで水戸藩がわざわざ見にくることもないだろう。
可能性があるとすれば、どこかの時代で分家していった時に書き写されたものを見たくらい
そうすると、可能性があるのが、喜連川の逸見くらいか?
どっちにしても、うちの「句蓮か勾蓮」が間違っていると思っていたが、実は正しいのかも。






