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しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼の日常などを書いてます

東京大学史料編纂所のHPのデータベースをなんとなく見返していたら、ふと気づいたことがある。

5代目にあたる逸見義重の法名が尊卑分脈と系図算要の記載が違うことに気づく。
 

2つは、ざっとこんなものらしい。
・尊卑分脈は南北朝から室町時代に洞院公定らが編纂
・系図算要は江戸時代末期に飯田忠彦が、水戸藩の大日本史

 を編纂する上で集めた資料を再編纂

話を戻して、逸見義重の法名が
 尊卑分脈→白蓮
 系図算要→勾蓮
となって違っている。

うちのは、句蓮か勾蓮(読みづらいのでどっちかわからないが)

となっており、系図算要とほぼ同様となる。


系図算要は何を見て勾蓮とされたかを考えてみた

まず、うち(蚊家、矢戸、新見)などから系譜を見せていないと

思う。矢戸、新見は早い時期に失われている可能性があるし、ましては備中の山奥まで水戸藩がわざわざ見にくることもないだろう。

可能性があるとすれば、どこかの時代で分家していった時に書き写されたものを見たくらい
そうすると、可能性があるのが、喜連川の逸見くらいか?

どっちにしても、うちの「句蓮か勾蓮」が間違っていると思っていたが、実は正しいのかも。


備前軍記の令和改訂版が出たの購入して、さらっと眺めている

ところ。

これは基本、宇喜多氏の軍記物で、当然ながらうちは出てこな

い。ただ、宇喜多氏が中心ではあるが備前、備中、美作の戦に

ついて書かれている。

備中古戦場記にある逸見豊後守こと清勝が作州久米郡の城主で

落去したのが何時なのか、わかるかもと考え読んでいる。

毛利氏が作州(現在の津山市周辺)に進出したのが永禄8年

(1565年)くらい。
ちなみに豊後守は元亀元年8月(1570年)に亡くなって

おり、それ以前の作州の戦となる

読み流していくと、永禄12年(1569年)に尼子勝久が

作州に侵攻するのだが、そこに宇喜多が尼子側に加勢し、元

亀元年に宇喜多が毛利勢を押さえたとある。


城主であった城はどこであるかは不明ではあるが、この戦で

はないかと思う。戦の後、川上郡(現在の高梁市備中町)に

蟄居している。
そうすると蟄居後、間もなく亡くなったこととなり、戦での

怪我が原因かもしれない
 

今日はここまで

うちの直接の祖先となる義重の四男となる義俊、前にも書いた

ようにうちの系譜では
「弘安四年蒙古災沸時忠節若于」
との記載があり、元寇の弘安の役に参加したようで、宇都宮貞

綱率いる六波羅派遣軍に従軍したと思われ、京都近辺や和泉国

の辺りに居住していたのではないか?と思われる。

ほかに、葉黄記寛元五年(一二四七)二月二十八日新日吉社の
小五月会での流鏑馬において一番手北条重時の射手として逸見
の四郎義利の名があり、義俊であると思われる。

祖父が和泉守護として赴任する際に同行、その後、北条重時が
和泉守護になり、そのまま和泉に居り、重時に被官して和泉国
内の統治に関係していたと可能性がある。

義俊には2人の男子がいて
・泰義 逸見小四郎
・光義 逸見小五郎 ※尊卑分脈では四郎と記載
    法名浄義
とある。おそらく、泰義が庶子、光義が嫡男。
光義の子が四郎太郎満清となり、満清の子が守王丸と万寿丸と

なる。

満清については、うちの系譜に興味深い記載があり
「建武二年伊豫凶徒退治時武功」
とある。
最初何のことかわからなかったが、自分の解釈では

「建武2年の西園寺公宗の謀略において武功を立てた」

と解釈している。
伊予は、当時西園寺氏の領地であり、憚って伊予と記載?

もしかしたら、捕縛に直接関わっていたかも。

また、紀伊続風土記における万寿丸の説明に
「万壽丸は新羅刑部小輔源義光の二男武田刑部小輔源義清の嫡男
甲斐国城主逸見源太清光八代の後胤、逸見四郎太郎源満清の二男
である。」
とある。満清は名が通っていたかも

守王丸と万寿丸については、和歌山の伝承と全く逆の話を
書かないといけないから、気が乗らないな~(笑)

 

今日はここまで
 

義重には系図上6人の男子がいる。


これについては、基本的にうちの系譜や尊卑分脈などの

違いはない。
うちの系譜の記載ではそれぞれ以下の記載となる
○惟長 逸見又太郎 子孫別系
○義継 逸見又二郎 子孫別系
○重氏 大桑又三郎 大桑荘傳子孫別系 法名定心
○義俊 逸見又四郎 弘安四年蒙古災沸時忠節若于
○義直 逸見又五郎 子孫系圖別
○重継 逸見又六郎 同断

又四郎義俊がうちの先祖になので色々とあとで
・又太郎惟長
 代々谷戸城に住み、10代続いたとされる。
 その後、有義系逸見が取って代わられ鎌倉大草紙の話

 になると思われる。
・又二郎義継
 渋谷氏を名乗ったとされ、子孫は渋沢も名乗ったよう

 である。
 こちらも早い時代に血脈が絶えたと思われる。

 余談だが、全く違うが渋沢栄一のルーツとか
・又三郎重氏
 義重が承久の乱での勲功として大桑郷を受領して、相

 続した。大桑城を構築。(美濃国諸旧記より)
 溝口氏が重氏の子孫を称しているが、詐称だろう。
・又五郎義直
 推測だか、子に時直というものがいて、武田信時か時

 綱より時の字をもらったとすれば、武田氏に被官して

 いたのではないかと思う。
 系図が別の記載もあり、長く存続していた可能性があ

 るかも(現在は不明)
・又六郎重継
 重綱と改名したとも
 太平記だったか、信濃の逸見又六入道とかの記載があ

 ったが、この子孫かどうかは不明。

義俊の兄弟については、重氏が逸見冠者を称してしたよ

うであり、正妻の子で嫡男であったと考えられる。

この時代での逸見の惣領は重氏であろう。
いずれにしても他の家については今も存続しているか?

と言われれば、全くわからない。

 

又四郎義俊については、後日

今日はここまで

仕事ばかりしていて、休暇があまりまくっていたので11月23

日から休暇を取り、喜連川に行ってきた。

系譜の中で1580年辺りの人物の記載に
「喜連川出仕」
の記載があり、前から調べてみようと思っていた。
事前にさくら市ミュージアムに問い合わせをしており喜連川の

逸見氏の屋敷跡の記載された地図と家紋等を教えていただいた
・屋敷は神社の近く
・家紋は三階菱

宇都宮のホテルに宿泊して、24日に氏家駅からバスで喜連川

へ、バスを下車後、観光案内所らしき場所(和い話広場)の前

にちょうど人がいたので話しかけて中で事情を話したが、現在

喜連川に逸見という人はいない模様。
歴史のパンフに逸見丹波(へんみたんば)の記載があった。

無理を言って、観光ボランティアの会会長にお会いすることが

でき、お忙しい中、喜連川藩関連の史跡の案内をしていただい

た。

大手門(ふるさと創生1億円で建築されたもの)

 

大蔵ヶ崎城(喜連川城)跡

 

喜連川神社

 

社務所の南側に逸見丹波の屋敷があったらしい

 

御用堀

堀の神社側(堀の北側)が上級家臣の屋敷が立ち並ん
でいたそうだ。

龍光寺(喜連川足利家の菩提寺)
非公開の足利尊氏の木像(鎌倉の模写像)が安置されている

喜連川足利氏の墓所内にも入れることができた

奥の四角い供養塔には、歴代の藩主、奥方、足利本家の戒名が

彫られていました。

 

さくら市ミュージアム、和い話広場、観光ボランティア会長
の皆様、お忙しい中ありがとうございました。


○喜連川藩士の逸見のまとめ
・逸見の読み方→へんみと読む
・家紋→三階菱

・上級家臣で家老(次席)職についていた。
へんみと読んでいることから、基本的に源姓であると思われる。
家紋については、うちからの分家であれば二階菱を使わせるが、
三階菱を使用している。(三階菱は小笠原氏)
仮定だが二階堂氏に配慮してうちの家紋を変形させて三階菱?

また、3年ほど前に問い合わせをした資料では
・家臣団家譜より
  逸見 百五拾石 上総より御供
  逸見山城之三郎 山城守
 とある

どちらにしても、情報が無く、決め手がないが
おそらく、うちの分家筋にはなると思う。

足利と逸見の関わり合いについては、

またそのうち書こうと思う。

今日はここまで