( 再生注意! 本物の処刑映像が含まれています )
こんにちは、吉高です
前の記事で言及された人物、ムッシュー・ド・パリについて触れてみたいと
思います。
死刑については、これを読んでいただいている読者の方々もそれぞれ意見を
お持ちかと思いますが、これから書くことは、死刑がこの世から無くなること
を、恐らく他のどんな人々よりも切実に願っていた一族の話です。
『一族』と言ったのは、ムッシュー・ド・パリは、特定の個人を差すのでは
無く、それはフランスの死刑執行人組織の最高位であり、親から子へ代々伝え
られる職業を差してるからです。
当時の死刑執行人は国王直属の、いわば役人であり、収入もそれなりに豊か
ではありましたが、社会的身分で言えば不可触賎民も同然の呪われた存在で、
社会から隔離された存在でした。 結婚は同業者同士の間で行われ、この家に
生まれた子供は死刑執行人になる以外、生きる道はありませんでした。
ラ・ヴォワザンの夫が胡散臭い人間であったということは、ムッシュー・ド・
パリと友人であったということからも窺えます。 一方で、ムッシュー・ド・パリ
からは、数少ない一般の友人として相当な厚情を受けていたことでしょう。
ラ・ヴォワザンが夫を毒殺できなかったというのも理解できます。
ラ・ヴォワザンの夫の友人は、アンドレ・ギョームであったと考えられます。
ヴランヴィリエ侯爵夫人の死刑執行に立ち会ったピロ神父は、ギョームの
達人技について詳細に記録に残しています。
「執行人の剣が振り下ろされても、夫人の姿には何の変化も見られなかった。
まずい、斬首に失敗したのか、と思ったが、やがて僅かに夫人の首が横に傾い
だように見えたと思ったら、そのまま肩から転がり落ちた」
しかし、ムッシュー・ド・パリを本当に有名にしたのは、サンソン家七代に
渡る『サンソン回想録』を書いたアンリ=クレマン・サンソンです。
アンリは特に文才に優れ、広い屋敷と大勢の使用人に囲まれた幸福な子供
時代を過ごしました。 しかし、十五才の時、友人たちが自分から離れていくの
を不思議に思ったアンリは、友人を問い詰めました。 その友人はアンリに一枚
の絵を描いて手渡しました。 そこにはギロチンの絵が描かれていたのです。
この時、初めてアンリは自分の家業が何であるかを知ったのでした。 家に
帰ったアンリはそのまま失神したといいます。
後に死刑執行人となったアンリは家業の心理的負担に耐えられず、後年は
酒に溺れ、財産を食いつぶし、商売道具のギロチンを質入れまでしたという
駄目人間になりましたが、『サンソン回想録』を書いて一族の苦しみを後生
に伝え、人が人を裁いて殺すことの意味を世に問い掛けました。
回想録のハイライトは、何と言ってもサンソン家四代目当主、
シャルル=アンリ・サンソン (1778-1806) です。
シャルルはその生涯で国王ルイ十六世と三回会っています。 その二回目は
初めてギロチンを導入するに当たって、発明者と共にルイ十六世に設計図の
説明をしに行った時でした。 当初、刃は中央の窪んだ円形をしていましたが、
機械好きだったルイ十六世が斜めの直線の刃を提案しています。 実験の結果、
ルイ十六世の考えが正しいことが証明されました。 驚くべきことに、ギロチン
の発明にはルイ十六世が直接、関わっていたのです。
三回目にルイ十六世に会ったのは断頭台の上でした。
ルイ十六世は自分の発案でもあるギロチンで首を落とされたのです。
「ルイ十六世の首を刎ねた男」 それがシャルル=アンリ・サンソンだったのです。
フランス革命の並に呑まれたシャルルは内心の葛藤で気が狂いそうになりな
がらも、マリー・アントワネットを含む無数の人々の首を切り落とすことにな
ります。
死刑執行人の仕事は恐るべき難行で、死刑に失敗して、怒った観衆に殺された
例すらあります。 罪人といえども、無用な苦しみを与えずに首を刎ねるために、
剣の一振りには全身全霊が込められていました。 一方で、刑によっては罪人を殺
さずに、骨を叩き折り、皮を剥がし、体に穴を空けて溶けた鉛を流し込む等の
技術が必要とされました。 そのため、日頃から人体に関する研究は怠りなく、
恐らくは医者よりも人間の体について熟知していました。 この知識により死刑
執行人たちは病気や怪我の治療も行い、しばしば貧しい人からは金を受け取ら
ずにこれを行っています。
( 記事が長くなったため、後編に続きます )