娘離れできない母親の肖像 セヴィニエ夫人 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録


 
 


 こんにちは、吉高です。 
 
 前回記事の中に現われた人物のひとり、セヴィニエ夫人こと、
 
「マリー・ド・ラビュタン=シャンタル」 について、少し触れておきたいと
 
おもいます。 ルイ十四世の時代について書かれたものを読めば、間違いなく
 
セビィニエ夫人の名前に行き当たるはずですので、知っておいて損はありません。 
 
 
 
 セヴィニエ夫人は幼少に両親を無くし、 『まじめでやさしく、教育熱心な叔父』
 
クリストフ・ド・クーランジュに育てられました。 
 
 18 才で、アンリ・ド・セヴィニエ侯爵と結婚、一男一女をもうけるも、
 
自堕落な夫のために結婚生活は破綻、夫はゴンドラン夫人という女に入れ揚げ
 
た挙句、その女の片相手シュヴァリエ・ダルブレと決闘して命を落としました。 
 
 こうしてセヴィニエ夫人は 25 才にして、未亡人となり、以後は文学と子供
 
の愛のために生きることになります。 
 
 息子のシャルルは父親譲りの金遣いの荒い軽薄な 『困った息子』 だったこ
 
ともあり、『美しく成長した、淑やかで、内省的で、教養豊かな娘』 は夫人
 
の幸福の源となりました。 特に息子が遠征の途について親元を離れた後は、
 
セヴィニエ夫人の愛は娘だけに注がれることになります。 
 
 余談ですが、困った息子のシャルルは、当時の世相を反映した冗談交じりの
 
自己弁護の言葉を残しています。 
 
「世間の人は私のことを、今時、母親を毒殺しようとしないなんて、なんてできた

 

息子さんなのだ、と言ってくれています」
 
 
 
(ビュッシー伯爵宛の手紙、1668年12月4日)

 
「あなたに一つ新しいお知らせをしなければなりません。 きっと喜んで下さる
 
ことでしょう。 実は、とうとう、フランスで最も美しい娘が結婚するのです」

 
 
 
 娘の結婚後、ひとり取り残された母親は寂しさのあまり、以後、25年に渡り、
 
1500通もの手紙を書きまくりました。 内 800 通は娘に宛てたものです。
 
期せずして、このことが不朽の名前をフランス文学史に刻むことになりました。 
 
 夫人の手紙は既に生前から有名で、1673年から書簡は複写されて回覧されて
 
いました。 最も個人的な書簡である手紙という形式でありながら、夫人は人に
 
読まれることを意識していたはずです。 それが特異なジャーナリスト魂となって
 
現われています。 その結果、夫人の手紙は、財相フーケの汚職事件、
 
ブランヴィリエ侯爵夫人の毒殺事件、シャンブル・アルダンテ (火刑裁判所) の
 
一連の裁判の顛末を後生に伝える不朽の記録文学となったのです。 
 
 
 

(プルースト「失われた時を求めて」)
 
「祖母が常に持っていたあの幾冊かのセヴィニエ夫人の手紙抄もまた母の
 
手離せぬものになっていた。 そのママから受け取った三通の手紙には、みんな
 
セヴィニエ夫人が引用されていた。 まるでこの三通の手紙は、母から私に宛て
 
られたものではなく、祖母から母に宛てられたもののように」

 
 
 
 晩年のセヴィニエ夫人は経済的に困窮し、1694年、愛するパリを離れ、
 
再び娘と生活を共にしましたが、1696年、70才でこの世を去りました。 
 
娘のグリニャン夫人はその時、病の床にあり、母は娘に看取られることなく、
 
この世を去ったということです。 
 

 
 * プルーストの箇所は、岩波文庫「セヴィニエ夫人手紙抄」後書きから取ったものです。