こんにちは、吉高です。
今日はベルサイユについての補足記事です。 本編続きは明後日に公開します
世界で最も有名な観光名所の一つ、ベルサイユ宮殿には、これを読んでい
ただいている方の中にも訪れたことがあるという方が少なからずいらっしゃ
ると思います。
しかし、現在、私たちが目にしているベルサイユは抜け殻のようなもので、
本物は良い意味でも悪い意味でも、もっと鮮烈な存在でした。
良い意味で言えば、現在は木製に置き換えられているパネルは、かつては
大理石であったり、床も最盛期の宮殿は、現在の安っぽい寄せ木細工などでは
ありませんでした。 今は市民公園のような庭園も、かつては真冬でも季節外れ
の花が咲き乱れる夢のような場所でした。 千人の庭師が温室で育てた花をせっ
せと植え替えていたからです。
悪い意味で言えば、トイレも無い所に数千人の人が暮らしていたわけです
から、宮殿の一角は文字通り糞尿の海に沈んでいました。
同時代を生きた思想家サン・シモンは口を極めてこの宮殿を罵ってています。
曰く 「暗く居心地の悪い王や王妃の居間、悪趣味な庭園、巨大な霊柩台のよう
な礼拝堂。 それらをこの世で最も陰湿で劣悪な国の一地方であるかのように、
城壁が周囲を囲んでいる」 勢い余って「小径の砂利は脚を痛めるが、それが
無ければ泥に脚を取られる」 と道の小石にまで文句を付けています。
サン・シモンが何をそんなに怒っているのか良く分かりませんが、「ばか
げた豪壮と単調さ」 という意見は、分かるような気がしませんか?
壮麗な外観とは対照的に、煙突の煙は室内に流れこんでくるわ、隙間風は
入り放題だわ、寒いわ、臭いわで、住むには最悪の場所でした。 なぜこんな
ことになったかというと、ルイ十四世にとっては、宮殿は自らの威光そのもの、
見た目を何より優先して、他のことは全てその犠牲にされたのです。
フロンドの乱で母后アンヌ・ドートリッシュと命からがらパリを逃げ回った
ルイはパリの街を終生、嫌っていました。 丘の上の狩猟館で過ごした子供の頃
の楽しい思い出とルイーズ・ド・バリエールの恋の舞台となったベルサイユ。
「ここに宮殿を作るんだ」 と言った国王に、誰もが懸念を感じましたが、国王
の意思に逆らうことはできませんでした。 財相コルベールが「ルーブルがある
から、それでいいでしょ」 と必死で説得しましたが、「作ると言ったら作るんだ」
と全く動じることはありませんでした。
その結果は破壊的なもので、以後、三十年間、国庫の三分の一がこの宮殿の
建設に充てられることになりました。 それを可能にしたのが名相コルベール
で、新税の新設などで財政破綻危機に取り組むことになります。
ベルサイユの土地は宮殿の建設には全く向いていない場所で、湿地帯で平坦
でもなく、水利用も困難という場所です。 水利対策として、セーヌ川から
巨大なポンプで水をマルリの丘まで汲み上げ、それを八キロ先のベルサイユに
送るという壮大なプロジェクトが行われました。 これが「マルリの機械」 と呼
ばれるものですが、この無謀な大事業は、大して役に立たなかったという
間抜けな結果に終わりました。
こうまでして作った宮殿なのだから、ルイはさぞご満悦で宮殿暮らしを楽し
んだのだろうと思いきや、実はそうでもなくて、ルイ自身が馬鹿げた豪壮さ
に嫌気が差して、晩年は田舎風の小さなマルリの宮殿にいる方を好みました。
この宮殿はフランス革命後、破壊されましたが、今は再建されたものが建って
ています。
ベルサイユの持つ文化的な意味は別の記事に譲りたいと思いますが、ベル
サイユ宮殿が、後のフランス革命の遠因となる、破壊的で傲慢な事業であった
ことは間違いありません。 しかし、建設から約三百年、かつて憎しみの的とな
ったベルサイユは、後生のフランス人に莫大な利益をもたらす世界遺産となり
ました。 ベルサイユについて文句のような記事を書いてはみたものの、現在の
私たちにそれを笑う資格があるのか、とは思います。 私たちが一体なにを後生
に残すことかできるのかと思わずにはいられません。
いずれにしても、近世フランスの歴史の舞台となったベルサイユは、知れば
知るほど興味の湧く場所です。 もしベルサイユに行く機会があるのなら、現わ
れては消えていく英雄や美女たちに思いを馳せながら、国王の歩いた廊下や
小径を歩いてみては如何でしょうか。 その時、この記事が少しでもお役に立て
れば幸いです。