2006年から年に1~2回の不定期で配信している「時空を超えて~歴代肖像画1千年」というメールマガジンの創刊号に掲載した「織田信長の肖像画(二)」を紹介します。アメブロでは信長の関しては4つめになりますね。文字数は10,400ほど、原稿用紙にすると26ページです。

 

今回の肖像画は、本絵ではなくてデッサンといえるものですが、生前の信長の面前で狩野光信が描いたと思われる唯一の作品なのです。

 

(※正しくは、早稲田大学の紹介するように江戸時代の写しとすべきかもしれませんが、筆者には写しではなく原画そのもののように思われてなりません。)

 

 


 

時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0001

 


 

2019年09月05日発行


★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を一緒に読み解いていきましょう。

□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 織田信長の肖像画(二)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について 
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 


◆◆【1】織田信長の肖像画(二)◆◆

 織田信長の御前において、現身(うつしみ)の姿を写生したと記録されるのは、筆者の知る限り狩野右京光信ただひとりである。光信は、安土城障壁画作事の総責任者であった絵師、狩野永徳洲信(くにのぶ)の嫡男であった。

 今回紹介する肖像画は、早稲田大学図書館に「織田信長肖像」(江戸時代の写本)として伝わるものであるが、筆者はこれこそが狩野光信の描いた信長の寿像そのものではないかと考えている。

 

 なお、本稿は2006年12月18日にまぐまぐから配信した原稿を元に、2019年09月05日に加筆改定したものである。

 



★織田信長肖像画(『芸海余波』早稲田大学図書館)は参考画像ページはこちら
⇒⇒⇒ http://www.shouzou.com/mag/p1.html

 

 

 


◆◆【2】肖像画データファイル◆◆

作品名:信長公像
作者名:狩野光信(直筆であると推定)
材 質:紙本墨画淡彩、綴本(とじほん)に貼込
寸 法:54.0×40.8cm
制作年:1581年(筆者の推定)
所在地:早稲田大学図書館(洋学文庫)
注文者:不詳(光信が信長に申し出たものか)

意 味:『芸海余波』という貼込帖(はりこみちょう)の中に貼られた一枚。

『芸海余波』とは美作国、津山藩主・松平斉民(1814-1891)が自ら収集した中国伝来品の商標や西洋版画の模写、高名な蘭学者の筆跡など資料を貼り込んだ冊子であった。

織田信長の安土城は、1576年から79年の間に築城されたが、その天守閣を飾る障壁画は、狩野永徳一門によって足掛け5年を費やして完成された。これに対する織田信長の評価は高く、永徳に「天下一」の称号を与えた。

1581年、永徳と光信は信長に謁見して、褒美を賜っている。このような機会に信長と永徳や大工の棟梁らが談笑する傍らで、光信が申し出て持参の和紙に筆を走らせ写生することがあったかもしれない。信長の上機嫌の表情がそんな雰囲気をかもし出している。


◆◆【3】像主・織田信長(1534-1582)と安土城について◆◆

 信長が初めて安土城の構想を持ったのは不惑を越えた頃だろうか。

 天正元年(1573年)足利義昭を追い 室町幕府を滅亡させた信長は、天正3年武田軍を三河長篠の戦いで撃破し、越前の一向一揆を鎮圧したが、まだ北に上杉謙信、西に石山本願寺、中国に毛利が控えているという状況下にあった。

 同年11月、朝廷から大納言・右大将の任官を受けた信長は、嫡男信忠に家督と岐阜城を譲り渡している。

 明けて 天正4年(1576年)正月、琵琶湖の東岸安土山の上に壮大な城の建設が始まった。

 


 城普請役は丹羽長秀。 2月になるとただちに本丸の築城がなり、早速信長は移り住む。4月、石垣そして天守閣の建立が着工する。

 石垣普請には石工・坂本穴太、天主普請には熱田大工岡部又右衛門、屋根瓦作りは、唐人・一観をあたらせた。

 諸国から集められた数千の侍・大工・職人たちが働く様は、昼夜、山も谷も動くがごとくであったという。

 11月には天守閣の輪郭が完成。天正7年(1579年)5月に城は竣工した。高さ46メートル、安土山と併せれば 湖面から158メートルになる。信長は天主を居館とした。

 4世紀のちの 1971年、東京新宿に最初に建てられた高層ビル・京王プラザホテルが 165メートルだったというから、当時この高さを一人で独占していた信長が、天上の神を自称したというのも尤もなことに思える。

 


 このような巨大な天守閣はかつてなかったものである。

 その構造は、外部五層・内部七重で、底面が不等辺八角形。

 地下一階から三階までが吹抜けで、中空にせり出した吊舞台を設け、その下部には多宝塔が鎮座する。六階に八角形の朱塗りの望楼を設け、最上階は総金箔貼りだった。

 内部の装飾絵画については、太田牛一が『信長公記』に書き残している。

一重目 土蔵のため絵は無し。

二重目 床は漆黒。絵の周囲は金で全て縁取り。

 

西十二畳敷『墨絵に梅』、書院『遠寺晩鐘図』、次四畳敷棚『鳩図』、十二畳敷『鵞鳥図』、次八畳敷奥四畳敷『雉の子を愛する図』、南十二畳『唐の儒者達』

三重目

 

十二畳敷『花鳥図』、四畳敷『花鳥図』、南八畳賢人の間『瓢箪より駒の図』、八畳敷『呂洞賓(実在の神仙)と仙人の図』、北二十畳敷『牧の駒図』、次十二畳敷『西王母(不死薬を持つ仙女)図』

四重目

西十二間『岩の間、岩に木々』、西八畳敷『龍虎之戦図』、南十二間『竹の間;竹色々』、次十二間『松の間;松の根色々』、東八畳敷『桐に鳳凰図』、

次八畳敷 『許由・巣父及び故郷の図』(きょゆう・そうほ;皇帝より天下を譲ると言われた許由は滝の水で耳を洗い、そこへやってきた巣父はけがれた水を牛に飲ませられぬと立ち去った)、

十二畳敷の内西二間『手まり図』、次八畳敷『庭子の図』『鷹の間』

五重目 絵は無し。

六重目 外柱朱色、内柱金。

『釈迦十大弟子』、『釈迦成道説法の図』、縁輪『餓鬼と鬼の図』、縁輪のはた板『鯱(しゃちほこ)と飛龍の図』、
高欄・擬宝珠(こうらん・ぎぼうし;手摺と柱頭飾り)彫り物。

七重目 三間四方座敷内金。外側金。

四方の内柱『昇り龍と降り龍の図』、天井『天人影向(来臨)の図』、座敷内『三皇五帝』『孔門十哲』『商山四皓(しょうざんしこう;漢の時代世を捨て商山に隠れた四人の老人)の図』『七賢人の図』、
狭間戸漆黒。座敷内外内柱漆黒。

 


 画題は、日本的美意識と、道教・仏教・儒教思想が混然一体となっている。最上階の絵画群からは、信長が儒教思想に最も重きを置いていたことが読み取れる。

 また『公記』には、城内の御殿装飾についても言及があり、三国名所の濃絵(だみえ;彩色画)が描かれていたことが分かっている。

 ひとつひとつ書き写していると、まさに豪華絢爛というほかはない。さらに信長愛蔵の茶器の名を加えれば日本一の膨大なコレクションといえるだろう。

 信長はこのように芸術作品に囲まれて暮らしていたが、この城は、同時に他者に見せるためのものという透徹した意思に貫かれていた。

 それは現代の富豪たちが、美術品のコレクションを誇る姿と異ならない。自分はこのような一流の芸術の理解者であり、推進者なのだ、と。


◆◆【4】肖像画の作者について◆◆

 絵師の名は狩野右京光信(1565-1608)。狩野永徳洲信(1543-1590)の長男である。弟には狩野右近孝信(1571-1618)がいた。

 江戸時代の画人伝『本朝画史』には興味深い光信に関する人物評が書かれていた。以下に全文を引用する。
 

狩野光信者永徳嫡子也、称右京進。画様不如父意、故未伝家法、永徳没後従家族及諸門生、孜々(しし)得家法。為花草禽虫、倭画風情軽柔可愛、又倣玉澗(ぎょくかん)之山水、雖不及父不凡。慶長壬寅(みずのえとら)年死寿四十二歳令。洛下相國寺法堂天井蟠龍図乃光信之墨痕也。

 

 筆者の意訳では、
 

狩野光信は永徳の嫡子であり、右京進と称する。絵様が父の意に沿わないものであった故に家法を伝授されなかったが、一族の者や父の門人に従って懸命に努め家法を得た。

花草鳥虫を描く、やまと絵の風情は軽く柔かで愛すべきものである。また玉澗(破墨山水画で知られる中国南宋の画僧)に倣い、父に及ばずといえども並大抵な才能にあらず。慶長7年(1602)42歳で死去。

京都相国寺法堂の天井画「蟠(ばん)龍図」は光信の墨画である。

 


 (ここでは、光信は1602年に数えの42歳で死去と記されており、1561年生まれということになる。)

 この本の著者は京狩野の絵師・狩野永納吉信(1631-97)であるが、永納は父である狩野山雪光家(1589-1651)が企画した「画人伝」の遺稿を受け継いで完成させている。

 山雪の師匠で養父であったのが、狩野山楽光頼(1559-1635)である。山楽といえば永徳門下における光信の兄弟子にあたり、数百人を数える歴代狩野派絵師の中でも、三本の指に入る天才肌の画人だった。

 永納は、光信とは生きた時代が異なっているからその人となりを知らぬ。

 山雪は同時代人ではあるが、光信が狩野宗家の長(おさ)であるのに対して自分は弟子筋の京狩野であって、かつ一世代下であった。

 したがって『本朝画史』の光信評は、山雪のものというより、山楽の考えをよく伝えているものと思われる。

 そう考えると、長命だった兄弟子・山楽が、師匠の倅(せがれ)をどう見ていたのかが、生きた言葉で書き表されていて非常に面白い。
 


 安土城の作事が始まった1576年、父永徳に従う光信は11才(本朝画史によれば15才)であるからこれが“初陣”であったろう。

 完成した安土城普請に大いに満足した信長は、1581年大工棟梁・絵師その他計13名ほどを城に招き、全員に小袖を賜った。永徳は「天下一」及び「法印」の称号と知行300石を与えられた。息子の光信もこの席に連なっている。

 1582年信長の死によって、安土城天守閣は灰燼に帰したが、永徳一門は新たな天下人秀吉によって、また宮中や大寺院の要請によって息つく暇もないほどの障壁画作事に忙殺されることになった。
 

1584年~大坂城御殿
1586年~正親町院御所
1587年~聚楽第
1590年~内裏(この年永徳は48才で死去)
1592年~肥前名護屋城
 

 これらを彩った障壁画には失われたものが多い。
 

1595年~法然院方丈「槇に海棠図(まきにかいどうず)」「桐に竹図」
1600年~園城寺勧学院客殿「四季花木図」「深山瀑布図」
1602年~都久夫須麻(つくぶすま、竹生島)神社本殿「花木図」
1603年~京都徳川秀忠邸「大内裏図」
1605年~高台寺御霊屋(秀吉・ねねの霊廟)「浜松図」
1605年~相国寺法堂天井画「蟠龍図」
 


 これ以外には
 

「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県立名護屋城博物館)
「春秋花鳥図屏風」(個人像)
「豊臣秀吉肖像画」(宇和島伊達文化保存会/高台寺/逸翁美術館等)
「三十六歌仙図扁額」(宗像大社)
 

など。

 光信の門人であった狩野一渓重良(1599-1662)は、日本で最初の画人伝『丹青若木集』を残しているが、師匠の光信を評して、
 

家法を伝え図絵に長じ、筆力は軽妙自在でありながら強靭かつ重厚なり。人物の手足は小さく為し、于花(うのはな)禽鳥の描写に長ずる。 関白豊臣秀吉公の御殿に花草図に画いたところ、胡蝶が来りて画花に遊び戯れ、これを見た人が皆感称したものだ。
 

という。
 


 『丹青若木集』には続けて光信の妻についての記述もある。
 

右京光信は、土佐将監の聟(むこ)也。
 

 やまと絵の系譜を継ぐ土佐家は、中興の祖であり足利義政の御用絵師だった土佐光信のあと、光茂、光元と続いたところで絶えたが、門人だった土佐光吉(1539-1613)が光元の子女を引き取って宗家を継いだ。

 狩野光信は、亡き土佐将監光元の娘(光吉の養女)を妻に迎える。

 これは曽祖父・狩野元信(1477-1559)が、土佐光信の娘を娶ることでやまと絵を家法に取り入れ、同時にこの姻戚関係を利用して、禁裏の仕事に進出した前例に倣ったものだった。

 光信夫婦の間には、のちの左近貞信(1597-1623)が生まれたが、貞信は後継ぎを残すことなく没したため、狩野宗家は、光信の弟・右近孝信の三男・安信によって引き継がれることになった。

 1608年夏、右京光信は徳川氏の仕事のため江戸に東下した帰途、桑名で病没した。享年44とも42とも伝わる。

 父永徳と同じく、光信もまた過労が早世の原因になったと思われる。光信は兄弟子の山楽と共に、織田・豊臣・徳川に仕えた稀有の画人だった。
 


 後世、「狩野光信兄弟は親に似ず至極の下手にて候」(木村探元著『三暁庵雑志』)と書かれ、「下手右京、下手右近」と噂された光信ではあるが、近年これらの悪評は覆されてきている。

 筆者が現存する作品の図版を見る限りにおいても、当を得ているとは思えない。むしろ、永徳に認められなかった光信は、父とは一線を画する様式を生涯を通じて目指したのだと思える。

 永徳の「巨樹」に代表される荒々しさ、豪快さ、一転して「洛中洛外図」に見られるような乾いた緻密さ。

 これに対して光信は、「花木図」に見られる柔らかな潤いを帯びた表現、優美で繊細、かつどこまでも構成的な画面を追及した。

 父と子は相反する表現を、狩野派の伝統として決定づけたのである。

 山楽の天才も、光信の芸術には瞠目した。

 とはいうものの、『本朝画史』に山楽・山雪・永納ラインが一点だけ特記、紹介した光信の作品は、相国寺法堂の天井画「蟠龍図」であった。

 これは珍しく、豪快で重厚な、永徳ばりの蟠龍である。


◆◆【5】肖像画の内容◆◆

 本作品を語る前に、下に掲載した資料『桂林漫録』を見てもらいたい。これは1803年に出版された考証学的な雑文集で、作者は戯作者・桂川甫粲(ほさん;本名森島中良)である。(兄は高名な蘭学者・桂川甫周)



 左に「平信長像」とあり、信長の上半身胸像が拙い筆で写し取られている。右ページに目を移すと、の3行目から6行目にかけて、
 

此二図遠山氏ヨリ得タリ。秀吉ノ像ハ筆者ノ姓名ヲ伝エズ。
信長ノ像ハ右京光信 公ノ世ニ存セシ時御前ニテ写シタル物ナリトゾ。
原図ハ画史何某法印ノ家ニ在。
 

と書かれ、「平信長像」と併せて「豊関白像」も掲載されていた。

 ここでいう「画史」とは、先に紹介した狩野一渓の著作『丹青若木集』を所有していた中橋狩野宗家のことを指している。
 


 桂川甫粲は、遠山という人物が狩野家において写し取ったと思われるこの2枚の拙い模写を入手した。

 それらの元絵である光信作の「平信長像」原図は、彼の子孫である江戸中橋狩野宗家の某法印の家にあるというのだが、

 『桂林漫録』が出版された1803年当時は、光信→貞信→安信と続いた中橋狩野家に法印はおらず、同時代に法印と呼ばれた絵師は、木挽町狩野家の養川院惟信(1753-1808)だけだった。

 或いは『桂林漫録』著者・桂川甫粲の勘違いかもしれない。

 いずれにせよ1803年頃、原図は中橋狩野家か木挽町狩野家のどちらかにあり甫粲は遠山を通じて、それが「光信作の信長の寿像である」という狩野家代々の口伝を耳にしたということであろう。
 


 さて、狩野光信が信長の面前で写生したというこの「原図」は、画像ページのトップに掲載した「信長公像」であるのかどうか。

 この肖像画は、津山藩主(現在の岡山県津山市)だった松平斉民(1814-1891)が『芸海余波』と自ら名付けた、綴本(とじほん)に貼り込まれた素描であり、

 全部で17冊ある内の第7集の5ページ目に貼り込まれている。

 貼り込まれた素描の紙寸法は、54.0×40.8cm。

 これは早稲田大学蔵書アーカイブの『芸海余波第7集』の表紙写真のページに添えられた30cmの定規を基準にして割り出した。

 このサイズは、信長の死後繰り返し描かれる桃山期の遺像とほぼ一致するのではないだろうか。

早稲田大学蔵書目録『芸海余波』

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i05/i05_01646/index.html

請求記号:イ05 1646 07 23カット(5番目)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i05/i05_01646/i05_01646_0007/i05_01646_0007_p0005.jpg
 


 次に、本作の右上に記された覚え書きを見てみよう。

 筆者はこの部分をPHOTOSHOPで拡大し、コントラストとシャープ補正をした上で、くずし字検索とくずし字解析を行った。(専門家でないため読み違いの可能性がないとはいえない。)
 

 

信長公像

モエキ上下
空色小袖
(一行不明)
金扇子
 

と、筆者は解読したのだが、これらの意味するところは、信長の着衣に関する留め書き(メモ)である。
 

信長公像

裃(かみしも)は萌葱色(緑)
小袖は空色
(一行不明)
扇子は金色
 


 つまり、これらはあとで本制作を行うときに必要な彩色の情報なのだ。(不明の一行の示すところは刀の柄の色であろうか。)

 光信は、おそらく信長の人物写生の際に、墨と朱以外は携帯しなかったはずである。また現在でもごく短い時間で写生を終えなければならない場合には、こうした留め書きはよく行われている。

 そして、この光信の素描の留め書きは、100年後に描かれた狩野常信による「織田信長像」(名古屋市総見寺所蔵)の配色と完全に一致する。

 



 この肖像画は、織田信長の孫・貞置(1617-1705)が、狩野永徳のひ孫・常信(1636-1713)に発注したものであり、永徳が描いたといわれる織田信長像を忠実に模写したものであった。
 


 再び、墨線に淡彩を施した早稲田本の信長公像を検討しよう。

 装いは普段着らしく、情感の細やかな表情をしている。

 酒をたしなまない武将ではあったが、顔には赤みが差し、いかにもくつろいだ風情が感じられ、機嫌のいいときの信長はかくやと思わせるような生々しいリアリティがある。

 信長自身には、肖像画を描かれているという意識はなさそうである。

 これは御前に控える絵師・狩野永徳や大工の棟梁・岡部又右衛門らと、満足げに歓談している姿を思わせるものではないだろうか。

 逆にいえば絵師の、像主に対する共感が見えるのである。

 さらに、像主を形作る線の動きを子細にたどってみると、早稲田本と総見寺本の性質の相違が明らかになる。
 

左:早稲田本 右:名古屋市総見寺本

 


 信長の容貌の一方は柔軟で、他方は杓子定規である。

 着衣の線描を見ても、早稲田本では筆が自在に走る感があり、絵師の自然な息遣いをも感じさせるが、総見寺本では機械的に正確な線が引かれているだけで、緩急がなく、まったく生き生きとしたところがない。

 もし早稲田本が、現在の所有者・早稲田大学図書館の主張する通り、江戸時代の写本であるなら、その線描は、正確ではあるがたどたどしい、総見寺本に近いものであったはずである。

 また早稲田本に記された留め書きの書体や筆勢が、光信の作業の必然性を感じさせるのである。これが後世の絵師による模写だとしたら、空前絶後の驚嘆すべき腕前といえるのではないだろうか。

 筆者には、上に述べたような線描の性質や絵のサイズ、さらに情感あふれる容貌の描写から判断して、早稲田本こそが信長の寿像と思えてならない。

 この早稲田本信長像を収集した松平斉民(1814-1891)は、第11代将軍徳川家斉の14男である。

 藩主生活の半分は江戸の藩邸にあり、時代的にも経済的にも政治的理由においても、光信の「原図」をしかるべき費用を払って狩野家絵師から入手したと推測することに無理はないはずである。
 

 

 

 

 

 


〈参考文献〉

「絵師 ものと人間の文化史63」武者小路穣著(法政大学出版局)1990年

「障壁画史 荘厳から装飾へ」水尾比呂志著(美術出版社)1978年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

「狩野永徳展図録」京都国立博物館(毎日新聞社)2007年

「三井寺秘宝展図録」東京国立博物館(日本経済新聞社)1990年

「日本美術史事典」(平凡社)1987年

「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年

「日本古寺美術全集25 三十三間堂と洛中・東山の古寺」(集英社)1981年

「世界大百科事典」(平凡社)

「日本百科大事典」(小学館)

『藝海余波(第7集)』松平斉民収集 【早稲田大学図書館WEB展覧会】No.32館蔵「肖像画」展 -忘れがたき風貌- Part.2

「桂林漫録(上巻)」桂川忠良著(浪花書林)1803年 【国立国会図書館デジタルコレクション】

「本朝画史(下巻/専門家族)」狩野永納撰(佚存書坊)1833年 【国立国会図書館デジタルコレクション】

「丹青若木集」狩野一渓著1655年(下記に収録) 「日本画談大観(下編伝記)」(目白書院)1917年 【国立国会図書館デジタルコレクション】

 


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