「そんなに大きくないですけど、
とてもいいところです」
と、広島県出身の知人から
『縮景園』を勧められていましたので
宮島観光の翌日に訪ねてみました。
広島駅からほど近い、縮景園は安芸
浅野家42万6千石の大名庭園です。
橙色の葉と、湖面のくすんだ黄緑色の
対照が、美しいです。
何と比べて、そんなに
大きくないのかといえば、
「日本三名園」と呼ばれている、
水戸の偕楽園
加賀の兼六園
備前の後楽園
ですね。
たしかに、水戸様や前田様や池田様
に規模は及びませんが、
浅野様もなかなかのものですよ。
中ほどの太鼓橋は跨虹橋(ここうきょう)
虹(にじ)にまたがる橋という意味で
しょうか。
江戸勤めに向かう藩主が
船から見た大阪までの
島々や海景を縮小して
造らせたので
縮景園と名付けたそうです。
鳥居が見えます。
私は祺福山(きふくざん)の上から
撮影しています。この小高い丘には
かつて稲荷神社がありました。
昭和20年8月6日のアメリカによる
原爆投下によって縮景園も壊滅。
広島市によって少しずつ復元されて
今日にいたりましたが、宗教施設である
神社は、除外されたのだそうです。
小高い山、迎暉峰(げいきほう)から
跨虹橋を望む。
広島城の天守閣
縮景園から500メートルほどの距離です。
広島城は
毛利輝元(元就の孫)によって
1599年に築造されました。
けれども、
1600年の関ヶ原の戦いにより
輝元は国替えとなります。
新たに入った福島正則も1619年
第2代将軍徳川秀忠の逆鱗に触れ
転封となります。
このあと、浅野長晟(ながあきら)が
安芸浅野家の初代藩主となりました。
長晟は、秀吉の五奉行で家康とも親しい
浅野長政(長吉)の次男でした。
浅野家はこのあと12代まで続いて
明治維新を迎えることになります。
忠臣蔵で有名な
赤穂の浅野内匠頭(たくみのかみ)は
分家に当たります。
真下から撮影したら面白いかなと思った
のですが、何と!エアコンの
屋外機が写っています。
原子爆弾によって
国宝広島城も焼失しましたので、
戦後復興された広島城は、地元の
ゼネコンによって鉄筋コンクリートで
再建されたものでした。
戦争は文明の損失です。