前回からの続き(令和5年11月3日のこと)です
丸太町通りを東へ歩いて行きます
鴨川に来て、Googleマップで印してた所へ着きました
鴨川、丸太町橋下流左岸の地点です
京都市電 丸太町橋待避所となってます
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/62/a1/j/o1024076815391889370.jpg?caw=800)
その辺りをうろついてみましたが、石碑などは設置されていないので、ハッキリしたことは分かりません
┐(´~`;)┌
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/c5/5b/j/o1024076815391889371.jpg?caw=800)
その辺りは、現在では公衆トイレ(画像左端)や、休息スペースとなっています
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/ab/fc/j/o1024076815391889373.jpg?caw=800)
京阪・神宮丸太町駅入り口の1つ
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/09/a8/j/o1024076815391889376.jpg?caw=800)
向こう(公衆トイレ側)にお地蔵さまが祀られてますが、それはその頃からあったもののようです
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/46/c8/j/o1024076815391889378.jpg?caw=800)
そのお地蔵さまは丸太町橋で紹介してました→丸太町橋
こんな本がありますが
橋の近くにあるお地蔵さんが唯一残っているものというとこでしょうか⁉🤔
丸太町通りを挟んで反対側には、以前紹介した「梁川星巌と紅蘭の寓居跡」の解説があります
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/24/b8/j/o1024076815391889380.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/3d/83/j/o0768102415391889383.jpg?caw=800)
![指差し](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/602.png)
更に川端通りを挟んだ反対側の店先にはこんな橋の高欄柱のようなものがありました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/43/6c/j/o0768102415391889384.jpg?caw=800)
解説などないので、ハッキリしませんが、丸太町橋と関係があるものかな?🤔
前回、橋の袂にある梁川星巌の解説を見つけたとき、寓居跡は見ていなかったんです
探してみると、そこから少し上がったとこにありました
梁川星巌邸址碑
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/01/8b/j/o1024076815391889386.jpg?caw=800)
住所・京都市左京区川端通丸太町上る東側
コインパーキングになっていて、その片隅に石碑と駒札がありました
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/8d/aa/j/o0768102415391889389.jpg?caw=800)
梁川星巌邸址
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/ff/90/j/o0768102415391889391.jpg?caw=800)
駒札
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/12/8c/j/o1024076815391889392.jpg?caw=800)
梁川星巌(やながわせいがん)邸跡碑
梁川星巌は寛政元年(1789)、郷士稲津家の長男として、美濃国安八郡曽根村(現岐阜県大垣市)に生まれ、幼少のころから華渓寺(かけいじ)の太随(たいずい)和尚について学問に励んだ。十二歳の時、両親が相次いで病死し、向学心に燃える星巌は、家督を弟にゆずり、江戸に出て山本北山(やまもとほくざん)の塾に入門した。
その後、大垣に帰り、私塾「梨花村草舎(りかそんそうしゃ)」を開いて、子弟の教育に打ち込んだ。その弟子の中にのちの妻、紅蘭(こうらん)の学ぶ姿もあった。紅蘭との結婚後、 夫婦連れだって西国の旅に出て多くの文人墨客と交わり、四十四歳の時、江戸に出て天保5年(1834)に、詩塾「玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)」を開き、漢詩人として名を大いに高めた。また、佐久間象山や水戸の藤田東湖らと国の将来について議論し、弘化2年(1845)大垣に帰り、白鴎社(はくおうしゃ)の人々と詩会を催したり、 小原鉄心(おはらてっしん)らと国事を談じたりした。
五十八歳の時、京都に移住し、尊王攘夷を唱え、 梅田雲浜、西郷隆盛、頼三樹三郎らと活動した。 この時期、南朝の史跡を懐古し詠んだ「吉野懐古(よしのかいこ)」 は有名で、勤王詩人としてのイメージを確立した。
尊攘派に対する幕府の弾圧が厳しくなった安政5年(1858)、星巌は京都で大流行していたコレラに罹り、9月2日東三本木「老龍庵(ろうりゅうあん)」で永眠した。
この邸跡碑は、八年間暮らした「鴨沂小隱(おうきしょういん)」跡を示すものである。
京都市
(原文のまま)
再び丸太町通りへ戻り、東へ向かいます
すると、京大寮?の敷地内に石碑を発見しました![ひらめき](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/591.png)
![ひらめき](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char4/591.png)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240121/09/shouta09/5b/a0/j/o1024076815391889393.jpg?caw=800)
白河北殿は、白河上皇(1053〜1129)の院御所で、南本御所に対して北殿や北新御所と称された。その後は上西門院(1126〜1189)の御所となっていたが、保元元(1156)年7月に崇徳上皇(1119〜1164)が移り住み、保元の乱の勃発とともに平清盛(1118〜1181)らの軍勢によって焼失した。
(いしぶみデータベース参照)
史跡を巡りながら東へ
次回はモダン建築祭で公開されたとこのことになります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ