丸太町橋周辺の石碑など(女紅場跡)(梁川星巌・紅蘭寓居跡) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続き(3月21日のこと)です
今回は前回の丸太町橋周辺の石碑などのことです
スレスコと丸太町橋の間に石碑があります
本邦高等女学校之濫觴 女紅場址(にょこうばあと)
住所・上京区丸太町通河原町東入南側(丸太町橋西詰)
女紅場とは、明治期の女子教育機関
明治5(1872)年、九条家河原町別邸内に設けられる
英学・女工(手芸・手工)の二科を置く
英国人・イーバンス夫妻を教師に招き、新英学校女紅場と呼ばれる
同7(1874)年、英女学校女紅場のちの京都府立京都第一高等女学校となる
現府立鴨沂高校の前身
なお、女紅場と名付けられた女子教育機関が明治初期にはたくさんつくられたということです
(いしぶみデータベース参照)

横にはちょっとした解説があります

次は丸太町橋を渡り、左岸・上流にあるプレートです
梁川星巌と紅蘭の寓居跡
住所・京都市左京区東丸太町

左側には
この川端丸太町上ル東には美濃大垣出身の勤王詩人 梁川星巌・紅蘭夫妻の寓居の「鴨沂小隠」があったとあります

文字の部分のアップ
梁川星巌(1789〜1858)は、和漢の詩文を学び、従妹の紅蘭(1804〜1879)と結婚し、長らく夫婦連れ立って西日本の各地を歴訪し、やがて江戸に出て詩塾玉池吟社を営み、斬新な漢詩人として名声を博した。
 しかし、尊王の志を懐く夫婦は、弘化3(1846)年から京都へ移り、鴨川べりの当所「鴨沂小隠(おうきしょういん)」に10年近く住んだ。ここで朝廷の公家や天下の志士たちと自由に交流を深めた、維新回天の功労者である。ただ、星巌は安政の大獄直前に病没し、紅蘭は夫君の顕彰に努めている。
 令和4年(2022)9月2日(星巌の旧暦命日)
   寄贈 公益財団法人 霊山顕彰会 岐阜県支部
   梁川星巌・紅蘭顕彰碑建立委員会
(原文のまま)
近くに石碑もあったようですが、それには気付かなかったので、また機会があれば確認してみたいと思いますf(^^;

丸太町通りを西へ戻り、鴨川沿いの一筋横の道・東三本木通りを上がって(北上)行きます

では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ