【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】⑥失われた皇位継承者と大和出雲族の期待の星 | 螢源氏の言霊

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】⑥失われた皇位継承者と大和出雲族の期待の星


反逆のロックスター「ミカボシ」の謎

このシリーズは、日本神話で唯一の星の神にして、実在した古代人・アマツミカボシ(天津甕星)と、日本建国史の謎を究明することを使命とする!!


目次

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】①日本書紀に封殺された「悪神」の正体!!

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】②宿敵・タケハヅチの正体と忌部氏の最終兵器

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】③東国の覇者と常陸王朝の都・大甕の秘密

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】④大和出雲族の貴公子と中島連の伝説の祖

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】⑤尾張氏のふたつの起源とタカクラジの隠し子



大神神社おおみわじんじゃ





それは、奈良県桜井市(大和国の三輪みわ)にある日本最古の神社。


大神神社とニギハヤヒ


ここは、初代天皇・ニギハヤヒが即位して皇居とした場所、つまり日本の最初の首都であり、日本が建国された場所なのだ。





それから百数十年後、日本最初の神社となり、御神体である背後の三輪山みわやまとともに、現在でもパワースポットととして崇敬を集めている。


そしてこの三輪の地は、ニギハヤヒの孫であり大和出雲族の相続者・ミカボシが生まれた場所でもあるのだ。





大神神社の祭神は、オオモノヌシ(大物主神)という神だが、その正体はニギハヤヒである。


長きにわたり、あのオオクニヌシ(大国主)と同一神だという深刻な勘違いをされてきたが、それは歪んだ信仰だとしか言いようがない。


ミカボシと大和出雲族


ニギハヤヒは大和出雲族の祖であり、族長だ。


この大和出雲族とミカボシの深すぎる繋がりについては、これまで述べてきた通りだ。



●ミカボシは、初代天皇・ニギハヤヒの次男、タカクラジの子であり、214年頃に生まれた。

●ニギハヤヒの崩御後、大和出雲族の相続者・族長を継いだのは、原田説のいうように末子のイスケヨリ姫ではなく、実はミカボシである。




これらが私の説である。

そして、いよいよ核心だ。


大和出雲族の相続者たち


その前に、まずは原田常治はらだつねじ氏の説のおさらいをしておこう。


当シリーズでは、原田説を根底にしながらも、それに反証するような新説を展開しているが、その目的は原田氏の歴史究明の補完である。



歴史研究家・原田常治(1903-1977)



もし、原田氏がミカボシを知っていたらなら、重視していたなら、私と同じような考察をしていただろうか。


原田氏は私が生まれる前にこの世を去ったが、私は氏の後継者になったつもりで当シリーズを書いている。


原田説


まずは、原田説による相続順である。





①ニギハヤヒ
②イスケヨリ姫
③イワレヒコ(神武天皇)



当時は末子まっし相続であり、後に生まれた子どもが家を相続する、つまり族長になるという前提があることは覚えておきたい。


ちなみに「大和出雲族」は私の造語なのだが、原田氏の著作では「大和一族」と書かれていることは念のために言っておく。



①初代天皇のニギハヤヒ、大和出雲族の祖に。

②イスケヨリ姫、ニギハヤヒの崩御後に族長を相続するも、女なので皇位継承者になれず。

③日向族のイワレヒコ、イスケヨリと結婚し、故・ニギハヤヒの婿養子となって皇位を継承、次代(第2代)天皇として即位。




という流れである。



ニギハヤヒの死後、末子であるイスケヨリ姫に相続権があったので相続したという、きわめて単純な話である。


まぁ、ミカボシの存在がなければ、このような結論になるのは全くもって当然だ。



原田氏は、直接的に「イスケヨリ姫は女なので皇位継承者になれず」とは書いてはいないが、事実関係はその通りである。


歴代天皇には女性天皇の例もあるが、あくまでそれはやがて男性天皇が即位することが前提の〝つなぎ〟としての即位であった。



また、原田氏は「族長」という言葉も直接的に使ってはいなかったが、部族の長という概念はあったはずだ。


なので、私は「先代が死亡し、部族の統率権を相続した者」という意味で、族長という概念を原田説に補足している。


鬼将軍説


そして、当シリーズの総括、鬼将軍説である。


原田説を基礎としながらも「ミカボシ」というキーパーソンも存在によって、まったく新たな日本建国史を展開することになった。



ミカボシが、タカクラジの子であり214年頃に生まれたと明らかになった(考察した)以上、このように結論づけるほかない。





①ニギハヤヒ
②ミカボシ
③イワレヒコ(神武天皇)



結論から言おう。


ニギハヤヒの崩御の後、第2代天皇になるはずだったのは、ミカボシなのである!!!


アマツミカボシ(天津甕星)


大和出雲族の族長を相続したのが男子ならば、それはもう皇位継承者のほか何者でもない。


わかりやすく皇位継承者と私はいっているが、正確には「皇位継承資格者」である。



ミカボシは、イスケヨリ姫が生まれた次の年に生まれたので、ミカボシが末子である。


この時まだ、ニギハヤヒは存命中だったので、イスケヨリ姫が相続する間もなく、ミカボシが相続者となった。



そもそも、イスケヨリ姫が生まれる以前なら、ニギハヤヒの次男・タカクラジが末子だった。


その息子であるミカボシが相続者になるということは、至って自然な流れである。



ミカボシの身位は、皇位を継承すべき天皇の孫という意味で「皇太孫こうたいそん」と呼ばれる。


大切なのは、ミカボシは大和出雲族で初めての皇位継承者に選ばれ、大和再興の兆しとなったということである。



ウマシマジ



・長男なので、相続者としてではなく、摂政や祭主として政治と祭祀を担った。


タカクラジ



・生まれた頃、まだニギハヤヒの子が生まれる可能性があったので、皇位継承者にはならず。


イスケヨリ姫



・女子なので、皇位継承者にはならず。


ミカボシ



・男子であること、すでにニギハヤヒが老齢であったことから、皇位継承者に選ばれる。



イスケヨリ姫が生まれる前後、万が一の場合はタカクラジが皇位を継承する予定だったのかも知れない。


だが、すでにニギハヤヒも老境に入っており、大和はかつての勢いを失っていた。



そんな中、ミカボシが生まれたことによって、大和出雲族はニギハヤヒの相続者、そして初の皇位継承者という未来を得たのである。


214年頃、まだ存命中であったニギハヤヒは、生まれたばかりのミカボシを祝福して、自らの継承者としたのだろう。



①初代天皇のニギハヤヒ、大和出雲族の祖に。

②ミカボシ、ニギハヤヒが崩御した後、族長を相続し、皇位継承者となる。

③日向族のイワレヒコ、イスケヨリと結婚し、故・ニギハヤヒの婿養子となって皇位を継承、次代(第2代)天皇として即位。




失われた皇位継承者


これまでの記事では、以下のようなミカボシの謎について述べてきた。


・ミカボシは何者なのか?
・なぜ、日向から狙われたのか?
・なぜ、出雲侵攻より先に狙われたのか?
・なぜ、抹殺計画は実行されなかったのか?
・なぜ、星の神とされているのか?
・なぜ、悪神と断じられているのか?
・なぜ、中央を去って常陸国に渡ったのか?
・なぜ、歴史上で封殺されたのか?


もはやこの謎は、完全解明することができた。



まず、ミカボシが生まれた前後の歴史的背景をおさえておこう。


ここから先は、九州王朝(日向)の参謀にして黒幕、真の闇帝王のタカミムスビからの目線で私の考察を述べ、謎を紐解いていきたい。





王朝名は、以下のように略称する。


・九州王朝:日向
・出雲王朝:出雲
・第一次 大和連合王朝:大和


タカミムスビの日本制覇


タカミムスビは、日向の祭祀を司る一族であるレビ族(忌部いんべ氏)の人物ゆえ、日向族が日本を制覇することを最大の政策としていた。


記紀神話では、この政策は「葦原中国あしはらのなかつくに平定」と呼ばれている。



その方針は、一貫して出雲排斥。


すなわち、出雲族を中央から排除し、迫害するということである。


出雲と日向の対立(215年頃)





盟主・オオクニヌシの死をきっかけに、日向は九州王朝として独立し、出雲王朝と決別した。


すべては、日向が日本を制覇するためであり、日向を権益を守るためにも必要なことだった。



出雲・日向連盟といえども、盟主は出雲族から輩出されており、政治的には〝戦勝国〟である出雲が主導権を握っていたからだ。


独立により、出雲・日向連盟は完全に崩壊し、日向と出雲は〝冷戦状態〟に突入した。


ニギハヤヒの崩御(220年頃)


ニギハヤヒが死んだ。


これで大和の勢いが弱まることは確実なので、日向にとっての懸念材料はひとつ減った。



なぜなら大和は、おなじ出雲族である出雲とは同盟関係にあり、日向にとって仮想敵国であることには間違いなかったからだ。


そしてタカミムスビは、いざ出雲と戦になったとしても、日向に勝算があると考えていた。



なぜなら、出雲・日向連盟の中心地は、温暖な日向の西都原さいとばるに置かれており、多くの人と物は日向に集まっていたからだ。


それが分裂した結果、出雲よりも日向のほうが強国になったのは必然である。





そして日向は、九州の大部分を支配するなど、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していた。


もはや、日本制覇も夢ではなくなった。



だが、出雲も大和もまだ滅んだ訳ではない。


決して油断はできないし、両国が一気に日向に攻めて来たらなかなか厄介なので、先手を打つ必要があるだろう。


大和侵攻計画(220年年頃)


そこでタカミムスビは、日向最強の武将であるフツヌシタケミカヅチを呼んで軍議を開き、作戦を練ることにした。



タケミカヅチ



どうか、まずは大和を攻めさせて頂きたい。出雲はその後でも遅くはありますまい。



フツヌシ



聞けば、大和にただならぬ皇子みこありと。その名はカガセオ。いずれこの者が天皇スメラを継げば、必ずや災いとなりましょう。



フツヌシとタケミカヅチとしては、出雲よりも先に、大和を攻めるべきと進言したのである。


なぜなら、大和にはカガセオ、つまりミカボシという、非凡な皇位継承者がいたからだ。



彼はまだ6歳だが、唯一の皇位継承者なので、いずれ即位した暁には、大和はふたたび勢いを盛り返してしまうだろう。


いくらニギハヤヒが死んだとはいえ、いまだに大和の軍事力は強大であるに違いない。



まだミカボシが天皇ではない今、つまり政情が安定する前に、大和を潰しておくべきである、そうフツヌシとタケミカヅチは考えている。


大和を侵攻し、ミカボシの即位を阻止せねば、後から厄介なことになるからだ。


ミカボシ抹殺計画の真相


そう、フツヌシとタケミカヅチのこの進言が、後世で日本書紀の記述①「ミカボシ抹殺計画」として記されることになるのである。


しかし実際は、ミカボシ個人を抹殺するという局所的な計画ではなく「大和侵攻計画」とでも呼ぶべき大局的な計画だったのである。



ある書によれば、天津神(タカミムスビ)はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国(出雲王朝)を平定させようとした。

その時、二神は

天(大和連合王朝)に悪い神がいます。

名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。

どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国(出雲王朝)を治めさせていただきたい。

と言った。

大和朝廷『日本書紀』(720年、舎人親王編・藤原不比等監修)巻第二 神代下 第九段一書(二)



記紀神話では、ニギハヤヒが初代天皇であったことだけではなく、第一次 大和連合王朝の存在自体がなかったことにされている。


なので、大和侵攻計画とは書けない代わりに、ミカボシを抹殺しようという征討話にすり替えられていたのである。



記述の中にある、ミカボシのいた「天」とは、大和のことだったようだ。


それと、アメノカガセオという名前からして、ミカボシが高貴な身分であることがわかるが、皇族、皇位継承者なのだから当然だ。



日向にとって重要なのは、ミカボシ個人の抹殺というよりも、大和を攻略し、ミカボシ即位を阻止することにあった。


実際にミカボシを抹殺するつもりだったのかはわからないが、いずれにしても大和の攻略さえすれば、後からどうにでもできる。


出雲挟撃策


日向から距離的に近いのは出雲ほうだが、なぜ出雲より先に大和を攻めたほうが有利であると考えたのだろうか。


それはおそらく、まずは大和を攻略したうえで出雲を挟み撃ちにするつもりだったのだろう。



この時、出雲を率いていたのはタケミナカタ





もし出雲を攻めて攻略できたとしても、負けたタケミナカタは、助けを求めて同盟国の大和に逃げるに違いないと踏んでいた。



ならば、先に大和を攻略しておいて、それから出雲のタケミナカタを追い詰めれば良い。


なんといっても、大和は日本で一番の米の産地であり、大和を支配すれば、莫大な富と繁栄が手に入るのである。



だが、結果的に大和侵攻は行われなかった。


なぜなら、タケミナカタは、日向との交渉には応じず、今にでも日向に攻めこむような構えを見せたからだ。



タカミムスビとしても、出雲に攻めこむ準備は徹底しつつ、交渉によって出雲の〝国譲り〟を実現させるに越したことはなかった。


だが、こうなった以上は大和に手を回すより、先にタケミナカタを討伐する必要がある。


大橋川の戦い(国譲り・220年年頃)


そして、フツヌシとタケミカヅチ率いる日向は出雲に侵攻し、大橋川の戦いが起きた。


日向は、圧倒的な軍事力をもって出雲を占領、勝敗はあっという間に決し、出雲は滅びた。



また予想外なことに、敗北したタケミナカタが逃げたのは大和ではなく、なんとはるか遠くの信濃しなの国(長野県)だった。


予想どおり、大和に逃げこんでいれば、大和を攻める口実もできていたはずだが、こうなった以上は信濃のタケミナカタを追うしかない。





フツヌシとタケミカヅチは、タケミナカタ軍を追撃するために信濃に遠征した。


だが、全力で出雲の残党を壊滅させたものの、タケミナカタを討伐することができず、それに日向軍の遠征疲れも頂点に達した。



戦争において、奥地に逃げこんだ敵を遠征して追うことほど骨が折れることはないし、却って自軍を壊滅させる危険性さえある。


そして、フツヌシとタケミカヅチは、これ以上戦いを続けることは困難と判断したのである。



互いに侵攻しあわないという〝不可侵条約〟をタケミナカタと結ぶことで、手打ちとした。


その後、タケミナカタは信濃の大開拓を行い、民の崇敬のもと「信濃王朝」を樹立したとか。






連合への転換(230年頃)


この一連の出雲との戦いにより日向は、領土の拡大には成功したが、それだけ犠牲も大きく、大和を侵攻することは困難になった。


もしこのまま大和との全面戦争になった場合、日向といえども圧勝できるとは限らない。



こうなった以上、日向は出雲との「対立」から「連合」に方針を転換するしかない——。


タカミムスビはそう考えた。



この時、タカミムスビには、イワレヒコという14歳になる孫がいた。





彼は日向族の末子なので、やがて族長、そして王となることが定められている。



そして、大和には、亡きニギハヤヒの娘であるイスケヨリ姫がいて、17歳になっていた。





彼女は未婚であった。



ならば、イワレヒコが婿としてイスケヨリ姫と結婚すれば、すべてうまくいくのではないか。


戦争が無理なら、政略結婚である。



婿入り婚するということは、亡きニギハヤヒの養子になるということで、つまりイワレヒコが天皇を継ぐことができるのである。


となれば、日向が大和を乗っ取ったも同然で、表向きは、日向族と大和出雲族の連合として、血を流さずして日本を制覇できるのである。


日向の圧力


厄介になるのは、ミカボシの存在である。


このまま彼が天皇を継いでしまえば、すべてが絵空事になる。



おそらく、日向と出雲の交戦中に、ミカボシが天皇になれば、日向を過度に刺激させてしまうことは大和もわかっていたはずだ。


なので、幸いミカボシが16歳になる現在まで、即位を保留にしていたのだろう。



彼が天皇に即位すれば、日向と大和の力関係が変わってしまう可能性があり、いずれにしても大和を手に入れることは難しくなる。


君主がいない不安定な大和よりも、まだ日向が勢力的にも優位にあるうちに、なんとしてでも連合を成さなければならない。



タカミムスビは、大和に交渉人を送り、以下の内容を提示した。


大和のイスケヨリ姫に、日向のイワレヒコを婿入り婚させて、再び両族の和合を成したい。遺憾だが、ミカボシの即位は諦めてほしい。



大和にとってこの連合案は、日向からの助け舟であると同時に〝圧力〟に他ならなかった。


これが事実上の乗っ取り策であること、簡単に飲んではいけないことが分からないほど大和もバカではないので、相当に議論したはずだ。


第二次連合条約の締結(230年頃)


当時、大和を統治していたのは、ニギハヤヒの長男であるウマシマジである。





ここからは、彼の目線で語っていこう。


彼は、大和の実質的な政治を執る摂政として、日向からの連合案に同意するか否かを決断するために、さまざまな意見を聞いた。



連合賛成派の意見としては、日向側の言い分も一理あるというものだ。


たしかにミカボシは、ニギハヤヒの次男であるタカクラジの子であり、ニギハヤヒの子という訳ではない。



その一方で、イスケヨリ姫はニギハヤヒの末子なので、「末子相続」ということを考えれば、真っ当な相続者である。


そのイスケヨリ姫と婿入り婚したイワレヒコが君主(天皇)を継ぐのは、正当な行為であり、すでにオオクニヌシの先例があるではないか。



一方、連合反対派の意見も根強い。


もともと大和は、ミカボシが天皇になることを待望していたからだ。



そもそも、ミカボシは「男系男子」である。


つまり、正統な皇位継承者ということであり、しかも、大和出雲族では最も若い末子なので、これほどふさわしい相続者はいない。



それに、皇族である大和出雲族の出身でもないイワレヒコが、天皇を継ぐなど論外である。


連合を受け入れれば、スサノオ—ニギハヤヒと続いた出雲族の男系の血筋は途切れてしまい、この大和という王朝も断絶することになる。





ミカボシが天皇に即位して、日向の邪な陰謀を断ち切らねば、大和に明日はない。


ウマシマジとしても、事実上の乗っ取りである連合案には反対で、イワレヒコなどではなく、ミカボシが即位すべきだと考えていた。



だが、日向と全面戦争になれば、大和は多大な犠牲を払うことになり、下手をすればそれこそ大和出雲族の断絶の原因となってしまう。


すでに大和の母体である出雲は、日向に抗ったことによって滅ぼされたのだ。



それに、(大和)出雲族と日向族が和合して、ともに日本を統治するという、アマ族としての使命があることも忘れてはいけない。


現実的に考えて、大和を守るためには、もはや日向の連合案を受け入れるしかなかった。



そうしてウマシマジは、「第二次連合条約」に合意した——。


これで、ニギハヤヒが樹立した第一次連合が、終わりを迎えたのだ。






大和出雲族・期待の星


そして、もうひとつ残る謎が「なぜミカボシは星の神とされているのか?」ということだ。


「天津甕星」という神号に表されてるように、ミカボシは日本で唯一の星の神である。



では、このミカボシの「星」とはなにか。


その正体は、出雲族・大和出雲族の紋章である「八芒星はちぼうせい」に他ならない。





ミカボシはこの八芒星、すなわち大和出雲族の星を背負った存在だったのである。


なぜ、出雲族は八芒星を紋章としているのか、八芒星はどの星を意味しているのか、といった疑問はこれからの記事で述べたい。



そして、これまでの謎を解いて分かったのは、ミカボシは大和出雲族の〝期待の星〟であったということだ。


ニギハヤヒ亡き後の唯一の皇位継承者であり、大和再興の兆しとなるはずだったからだ。



また、星を冠した名の人物は他にいないので、いかにミカボシが出雲族・大和出雲族にとって特別な存在であったかもわかる。


まとめ


これまでの考察により、ミカボシの謎の多くを解き明かすことができた。



●ミカボシは何者なのか?

→大和出雲族の皇位継承者。第2代天皇になるはずだった人物である。


●なぜ、日向から狙われたのか?

→大和再興の兆しであるミカボシの即位を阻止することこそ、日向による大和侵攻計画の目的だったから。


●なぜ、出雲侵攻より先に狙われたのか?

→日向はまず、大和を攻略してから出雲を挟撃しようと考えていたから。


●なぜ、抹殺計画は実行されなかったのか?

→そもそも抹殺計画という訳でもなかったが、タケミナカタの予想外の動きに日向が疲弊し、大和侵攻計画が中止されたから。


●なぜ、ミカボシは星の神とされているのか?

出雲族と大和出雲族の紋章・八芒星を背負った特別な存在として期待されたから。




従来の異端なイメージとは裏腹に、ミカボシは実に由緒正しき存在だったのである。


今の時代でいえば、唯一の若い皇位継承資格者である悠仁ひさひと親王殿下のような存在だろうか。



しかし、なぜ皇位継承者・ミカボシは、やがて悪神として〝堕天〟してしまったのか。


それは次回、明らかになる。


ミカボシが生まれた場所


ミカボシが生まれたのは、大和の首都であった三輪、つまり今の大神神社だろう。


この大神神社の境内に、久延彦くえひこ神社という少し変わった末社がある。





祭神は、クエビコ(久延彦、久延毘古)という『古事記』にのみ登場する神である。


大神神社とクエビコは、これといって繋がりはないはずだが、なぜここに祀られているのか。





船場俊昭氏によれば、なんとクエビコの正体はミカボシであるという。


以下、読み流すことを推奨するが、念のためにそれについて書かれた著作を引用する。



案山子にされた星神



天津甕星が貶められた姿が、実は『古事記』に載っているという説がある。


天津甕星の名は『日本書紀』のみに登場し、『古事記』にその名は見えない。

しかし、古代史家の竹内健氏や沢史生氏は、天津甕星が名前を変えられて、『古事記』に登場していると述べている。


その神は「久延毘古くえびこ」という神で、『古事記』の大国主神おおくにぬしのかみに関する神話で、たった一度登場する。

ざっと説明しよう。

「大国主神が出雲いずも美保みほという岬にいるとき、海から非常に体の小さな神がやってきた。


大国主神はその小人神に名をいたが、答えてくれなかった。

そこで、お供の神々にも訊いたが、だれも知らなかった。


ところが、一匹のたにぐぐ(蟇蛙がまがえる)が、『これは久延毘古なら、きっと知っているでしょう』といったので、久延毘古を呼んでたずねると、久延毘古は『この神は神産巣日神かみむすびのかみ御子みこ少名毘古那神すくなひこなのかみです』と答えた。

そこで、カミムスビ神に確認を取ると、その通りだといい、一緒に国作りを進めなさいと命令した。


ふたりは協力して国作りを進めていたが、あるとき、スクナヒコナ神は常世国とこよのかみ(海の向こうにあるという理想郷)に渡ってしまった」


『古事記』では、このスクナヒコナ神の常世国行きの後に、いきなり次の記述が載っている。


「(中略)さてスクナヒコナ神の名を明かした、いわゆる久延毘古は、今では山田の曾富騰という。

この神は歩くことはできないが、天下のことは残らず知っている神である(中略)」


あまりに唐突に描かれているが、この記述によると、久延毘古は山田の曾富騰であるとされている。

「そほど」とは鳥を追う人形を意味し、俗にいう「案山子かかし」のことである。

確かに、案山子は歩くことはできない。


しかし「案山子」のどこが、「星」と関係あるのか?


これの関係を表す重要な歌として、竹内健氏は『古今集』に詠まれた次の歌を挙げている。


足引あしびきの山田のそほづ己さへ 我をほしといふ嬉はしきこと」


「山田のそほづ」は「山田のそほど」と同意である。


竹内氏は、この歌の重要な点として、「そほづ」が「ほし」の掛詞かけことばになっていることを指摘している。

つまり「山田のそほど」は「星」と結ばれる語なのである。


(中略)


また「ソホド」を「ソホ」と「ド」に分けて考えると、「ソホ」は万葉まんよう時代まで「赤」を指し、また辰砂しんしゃしゅも意味した。

その証拠に、硫化水銀りゅうかすいぎんの朱は万葉集で「まがね丹生にう麻曾保まそほ」と詠まれている。

また朱に塗った船を「赭船」と書き「ソホフネ」とも読む。

これは古代朝鮮語に由来しているといわれている。


そして「ド」は落人おちうど狩人かりゅうどと同じく「人」である。

つまりソホドとは「赤人」だ。


また「カカシ」の「カカ」は、天香香背男の「カカ」と同じく「嚇」であり、「シ」は「子」。

これは子供の意味ではなく、「人」という意味での「子」である。


すなわち、「曾富騰=案山子=赤人=嚇子」となり、さらに「曾富騰」は「星」につながる。

「赤」と「星」。

まさしく、天津甕星のことだ。


カカシが天津甕星だということを踏まえて、久延毘古も考えてみよう。

「クエ」は「崩ゆ」の連用形で、「ビコ」は「ヒコ」の意で男子を表す。

よって「崩彦」となる。

つまり、「体型の(醜く)崩れたる男」という名をつけられたことになる。

『古事記』で、天津甕星はこのような不名誉な名をつけられ、貶められているのである。

船場俊昭『消された物部氏「天津甕星」の謎』(2004年、学習研究社、pp.98-102)


(↑文字数制限のため、文中の難読漢字以外のルビは省略している)



もう少し説得力をもって、ミカボシ=クエビコということを主張できなかったのだろうか。


これではもはや、コジツケにもならない。



しかし私の想像だが、久延彦神社がミカボシの生家だとすれば、これはなかなか面白い。


神社の創建は神代じんだいとされているので、時代的に一致はしている。





当然ながら、史実でオオクニヌシとミカボシは会ったことはないので、古事記のエピソードは創作か、あるいはクエビコとは無関係か。



ちなみに、クエビコは知恵の神とされており、久延彦神社は学業向上のご利益で知られる。


ミカボシも秀才だったのだろうか。






つづく。