【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】⑤尾張氏のふたつの起源とタカクラジの隠し子 | 螢源氏の言霊

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】⑤尾張氏のふたつの起源とタカクラジの隠し子


反逆のロックスター「ミカボシ」の謎

このシリーズは、日本神話で唯一の星の神にして、実在した古代人・アマツミカボシ(天津甕星)と、日本建国史の謎を究明することを使命とする!!


目次

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】①日本書紀に封殺された「悪神」の正体!!

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】②宿敵・タケハヅチの正体と忌部氏の最終兵器

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】③東国の覇者と常陸王朝の都・大甕の秘密

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】④大和出雲族の貴公子と中島連の伝説の祖



尾張氏おわりうじ


それは、タカクラジを祖とする氏族である。



高倉下タカクラジ尊、天香山アメノカグヤマ命)



タカクラジとは、初代天皇・ニギハヤヒの次男であり、大和出雲族と日向族の連合において、大きな役割を果たした人物でもある。


大豪族・尾張氏


尾張氏とは、その名の通り尾張国おわりのくに(愛知県)を主な拠点としており、あの熱田神宮あつたじんぐうの大宮司を代々つとめていた大豪族である。





何人か皇后を輩出していること、熱田神宮には三種の神器のひとつ草薙剣くさなぎのつるぎがあることから、皇室とゆかりが深い氏族としても知られる。


ミカボシと尾張氏


この記事の主題は、ミカボシと尾張氏の関係についてである。


ミカボシの子孫は、愛知県の尾張大國霊神社おわりおおくにたまじんじゃの神主家である、中島連なかしまのむらじという氏族だという話を前回は述べた。





そして、その尾張大國霊神社の伝承によれば、アメノセオ=ミカボシは「尾張族」の先祖でもあるという。


この尾張族とは、尾張氏のことだろう。



しかし、尾張氏の祖はタカクラジのはずだ。


先代旧事本紀せんだいくじほんぎ』にさえ、タカクラジは尾張連おわりのむらじ(尾張氏の旧称)らの祖とある。





なのになぜか、ミカボシが尾張氏の祖とされているのである。


この謎を解明する前に、まずは尾張氏について述べたい。


真清田神社


尾張氏とゆかりの深い神社といえば、先ほどの熱田神宮のほかには、真清田神社ますみだじんじゃという神社が有名である。





これまた尾張国(愛知県)の神社で、尾張国で一の宮ということから、所在地である一宮いちのみや市の由来にもなっている。



この神社の歴史書である『真清田神社史』に、尾張氏のことが書いてある。


それによれば、尾張氏はもともと大和国が拠点だったが、やがて尾張国に進出したとか。





そして、第10代・崇神すじん天皇の時代の人物であるエタマヒコ(倭得玉彦命)の頃、真清田神社が創建されたと想定しているらしい。


『真清田神社史』(1994年、pp.144-145)


大和国の高尾張邑


尾張氏は、尾張国に移住したからそう名乗ったという訳ではなく、逆に尾張氏が移住したから「尾張国」となったといわれている。


このことについて、原田常治はらだつねじ氏も述べている。


出雲大和系の人々


(前略)


また、天香山あめのかやま尊の子供たちは、大和の南のほうにある南葛城郡、いまの御所ごせ市の辺りに住み、尾張連おわりのむらじといった。

いまの東海道の尾張国はこの人の領地だったわけで、当時高尾張邑たかおわりむらに住んでいたところから、その領地を尾張国と名づけたと記されている。


(後略)

原田常治『上代日本正史―神武天皇から応神天皇まで』(1977年、婦人生活社、p.65)







・タカクラジの子孫たちは、大和国の高尾張邑たかおわりむら(現:奈良県御所ごせ市)に住んでおり、尾張氏と呼ばれた。

・尾張国の国名の由来は、尾張氏が移り住んで領地としたことにある。





ということだが、この尾張氏の由来は高尾張邑であるというのは、原田氏の見解というより、昔から有名な説である。


大和尾張氏


タカクラジは元々、皇居であった大和国の三輪みわ(現:奈良県桜井市、大神神社)にいた。



私の推測では、タカクラジの子孫(尾張氏)が高尾張邑を拠点としたのは240年代、それから彼らは大和国で活躍した。


そして、尾張氏がすでに尾張国に移住していた時期が、崇神天皇の時代なので350年代。





つまり、尾張氏が愛知県に移住したのは、割と後の時代になってからで、少なくとも1世紀は大和国の氏族であったということなのだ。


尾張氏という名前の先入観からして、てっきり愛知県が発祥だと誤解しそうだが、実質的には「大和尾張氏」とでもいうべきである。


尾張氏の祖は誰か


さて、尾張氏は、タカクラジを祖としており、大和国から尾張国に移住した氏族であるということはわかった。


他の文献では、ホアカリ、つまりニギハヤヒが尾張氏の祖と記されていることもあるが、父か子かの違いなので大差はない。






だが、尾張大國霊神社の伝承では、ミカボシが尾張氏の祖であると伝わっていた。


この違いはなにを意味しているのか。



もしや、これはミカボシ自身が、タカクラジやニギハヤヒと極めて近しい人物、あるいはその一族だったことの証なのではないか。


尾張氏系図


そこで、先代旧事本紀の記述に基づく尾張氏の系図を見てみよう。




天孫本紀尾張氏系図 - 天璽瑞宝
http://mononobe.webcrow.jp/kujihongi/tenson/owarikeizu.html



だが、この系図のどこを見てもミカボシらしき人物がいない。


そもそも、尾張大國霊神社の伝承も、尾張氏の子孫が神主になったと書いているが、具体的に尾張氏の誰が初代神主なのかは書いていない。



上記の系図のなかにミカボシ、そして彼の子孫である初代神主の名前ぐらい、書いてあっても良いはずである。


時代でいえば、ミカボシはタカクラジのひとつ下の世代である可能性が高いので、そのあたりだと思うのだが。


系図にいないミカボシ


また、オキツヨソ(瀛津世襲命)という人物が「尾張連おわりのむらじの祖」だと系図にはあるので、当初は彼がミカボシか?と浅はかに考えた。


だが、これは単に彼が初めて大連おおむらじという役職に就いたために、彼の代から一族が尾張〝連〟と名乗ったというだけのことだった。



世代的にも下すぎるので、彼はミカボシでないことは確かになった。


では、ミカボシはいつ生まれたのだろうか?


ミカボシの生年と出自


前々回の記事で、『日本書紀』に記されているミカボシの記述①を取り上げた。


これを手がかりにしよう。


ある書によれば、天津神(タカミムスビ)はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国(出雲王朝)を平定させようとした。

その時、二神は

天(王朝)に悪い神がいます。

名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。

どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国(出雲王朝)を治めさせていただきたい。

と言った。

大和朝廷『日本書紀』(720年、舎人親王編・藤原不比等監修)巻第二 神代下 第九段一書(二)



この記述は、まさに大橋川の戦い(国譲り)の直前の話である。


いうなれば、九州最強の武将であるフツヌシとタケミカヅチが、「ミカボシ抹殺計画」を進言したことを意味する。





時期的に、215年頃(盟主後継問題の勃発)〜220年頃(大橋川の戦い)の間と思われるが、私は220年頃の出来事であると推定する。


その理由は後述しよう。



つまり、ミカボシは220年頃には既に生まれていたことが分かる。


日向が九州王朝として独立したばかりの頃で、出雲王朝との対立が決定的となった時であり、また、ニギハヤヒ崩御の前後でもある。



では、ミカボシはこの時、何歳だったのか。


ミカボシはタカクラジの子


ズバリ言おう。


ミカボシは、タカクラジの子である。


すなわち、ニギハヤヒの孫にあたる。





もし、タカクラジの孫の世代なら、220年頃はまだ生まれていないだろうし、上に世代や同じ世代ということも考えられない。


となれば、ミカボシが尾張氏の祖だと伝わっている以上は、タカクラジの血縁者、つまり息子であると考えるのが必然的である。






いや、ミカボシの子孫も、タカクラジの子孫もどちらともたまたま尾張国に住んでいたので、尾張氏と名乗っただけで、まったく無関係。


という考え方もできるかもしれないが、先述のように、尾張国より尾張氏のほうが先なので、たまたまということはまず無いだろう。


ミカボシは214年頃生まれ


主要人物の推定生没年を表にした。





・ウマシマジ:180年年代
・タカクラジ:190年年代
・ミカボシ:214年頃




これは、原田常治氏の推測を元にしているが、氏が述べていないところは私が補足している。



ちなみに、原田氏が推測しているのは、


・ニギハヤヒ
・イスケヨリ姫
・オオクニヌシ
・アマテラス
・イワレヒコ
・タカミムスビ(原田説より+10歳)
・フトダマ(原田説より+10歳)
・フツヌシ


であり、もちろんミカボシについてはまったく述べられていない。



基本的に、親子の年齢差は25〜30歳、それと情勢から鑑みて計算した。


タカクラジは、ニギハヤヒが大和国に移住した181年頃より後に生まれていることは確かで、弟のタカクラジの生年は、その約5年後に。





そのタカクラジの生年に、約25歳プラスすればミカボシの生年、つまり214年頃となる。


それではなぜ、キリの良い215年頃ではなく、214年頃という微妙な数字なのか。



それは、ミカボシの生れた年が、イスケヨリ姫(213年頃生)より後であったほうが、歴史の流れとして必然的だからだ。


その理由も後述する。





ちなみに、先ほどの記述①の時(220年頃)、ミカボシは6歳だったということになる。



つまり、ミカボシはわずか6歳にして、すでに日向(九州王朝)から危険人物とみなされて、その命を狙われていたのである。


この異常事態は、何を意味するのか。


ミカボシと尾張氏


ところで、まだ尾張氏問題が残っている。


伝承ではミカボシは尾張氏の祖だというのに、先代旧事本紀の系図には載っていない。



先述のように、ミカボシはタカクラジの子だ。


しかし、系図にはミカボシではなく、ムラクモ(天村雲命)という人物が、タカクラジの子と書いてある。


ならば、ミカボシとこのムラクモは、同一人物なのかといえば、タカクラジの子であるという以外に共通点がないので、それは違う。





となれば、ミカボシとムラクモは兄弟であると考えれば辻褄が合うのではないか。


おそらく、先に生まれたのがミカボシ、その後しばらくして生まれたのがムラクモだ。


ミカボシは「中島尾張氏」


世に知られている尾張氏といえば、ムラクモの子孫である。


しかし、ミカボシの子孫の尾張氏は、これとはまた別系統の氏族だったということになる。



・ミカボシの子孫=中島尾張氏(中島連なかしまのむらじ
・ムラクモの子孫=大和尾張氏




と名付けよう。



後に中島連となった尾張氏なので中島尾張氏、大和国で発祥した尾張氏なので大和尾張氏だ。


尾張氏もふたつあったのである。



もちろん、このふたつの尾張氏に共通する祖がタカクラジであって、ミカボシは中島尾張氏の祖ということだ。


そして、いずれも大和出雲族の後裔である。





中島尾張氏と大和尾張氏


ミカボシの子孫である中島尾張氏は、どこかの時点で尾張大國霊神社の神主家となり、やがて中島直なかしまのあたい(中島連)を名乗った。


ムラクモの子孫である大和尾張氏は、大和国の高尾張邑から、350年代以降に尾張国に渡り、尾張国を領地とした。



厳密にいえば、中島尾張氏のなかではおそらく誰も尾張とは名乗っていなかったはずなので、尾張氏と呼ぶのは不適切かもしれない。


だが、久多神社や尾張大國霊神社の伝承では、尾張族と呼ばれているので仕方ない。






その伝承には、ミカボシは「尾張族の先祖」と記されてあるが、これは大和尾張氏ではなく、「中島尾張氏の祖」という意味だったのだ。


おそらく、ミカボシの子孫(中島尾張氏)は、世に知れた尾張氏(大和尾張氏)と同族だったために、伝承で「尾張族」とされたのだろう。



この同族というのは、どちらともタカクラジやニギハヤヒを先祖とした氏族(大和出雲族)、という意味である。


また、先代旧事本紀の系図にミカボシの名前、中島尾張氏の系譜がないのは、存在が隠されているからだが、神社の伝承までは隠せない。


まとめ


以上、ミカボシにもちゃんと子孫がいて、その痕跡も神社の伝承という形で今に残り、やはり実在する人物であることが分かった。


子孫や伝承といった痕跡によって、ミカボシの出自や生年まで逆算することができた。


アマツミカボシ(天津甕星)


前から、ミカボシが尾張氏だと知っていたが、なぜか違和感があったのだ。


だが、ミカボシは有名な尾張氏(大和尾張氏)ではなく、中島尾張氏だったということを解明したことで、その違和感は消え去った。



ちなみに、ムラクモやオキツヨソなどといった新顔も出てきたが、大して重要人物でもないしもう登場しないので、忘れて大丈夫である。


いずれにせよ、この記事で一番大切なことは、ミカボシはタカクラジの息子ということ。



そうなれば、ニギハヤヒの次に天皇になるはずだったのは誰だったか、それが明かになる。



つづく。


中島尾張氏


●始祖
・アマツミカボシ(アメノセオ)



●本貫地
・尾張国中島郡(現:愛知県稲沢市、一宮市)

●後裔
・中島連(中島直、尾張大國霊神社 神主家)→
久田氏→野々部氏
・尾張海部氏(海部直)

●関連神社
・尾張大國霊神社(尾張国中島郡)
・久多神社(尾張国中島郡)

●典拠
・『先代旧事本紀』天神本紀




大和尾張氏


●始祖
・ムラクモ(天村雲命)



●本貫地
・大和国 高尾張邑(現:奈良県御所市)

●後裔
・熱田神宮 神主家
・丹後海部氏

●関連神社
・熱田神宮(尾張国愛智郡)
・真清田神社(尾張国中島郡)

●典拠
・『先代旧事本紀』天孫本紀
・『海部氏系図』