【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】③東国の覇者と常陸王朝の都・大甕の秘密 | 螢源氏の言霊

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】③東国の覇者と常陸王朝の都・大甕の秘密


反逆のロックスター「ミカボシ」の謎

このシリーズは、日本神話で唯一の星の神にして、実在した古代人・アマツミカボシ(天津甕星)と、日本建国史の謎を究明することを使命とする!!


目次

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】①日本書紀に封殺された「悪神」の正体!!

【反逆のロックスター「ミカボシ」の謎】②宿敵・タケハヅチの正体と忌部氏の最終兵器



大甕おおみか神社


それは、茨城県日立市にある神社。





主祭神は、タケハヅチ。

地主神は、アマツミカボシ。



間違いなく、大甕神社はこのシリーズのなかでもっとも重要なスポットと言えるだろう。


なぜなら、この地こそミカボシの拠点であり、彼が君臨した「常陸ひたち王朝」の首都だからだ。


大甕神社の伝承


この大甕神社には、ミカボシ解明の手掛かりになるであろう、重要な伝承が残されている。


だが、神社の伝承や由緒書の文というものは、決まって読みづらいものなので、まずはじめに私なりに要約してみた。



当シリーズでは、伝承や書籍からの引用を多く載せているが、それは文献こそが証拠であり、記事の情報の質を保証するものだからだ。


大事なところは要約して先に書いておくので、伝承の本文は読み飛ばしても大丈夫である。


要約


●日向最強の武将・フツヌシタケミカヅチの遠征によって出雲王朝は滅ぼされ、日向ひむか主導の第二次連合が日本を制覇しようとしていた。








●しかし、東国には〝悪神〟アマツミカボシが君臨しており、常陸国(茨城県)の大甕を中心として、陸海におよぶ一大勢力を率いていた。


アマツミカボシ(天津甕星)


●フツヌシとタケミカヅチが率いる第二次連合(大和王朝)軍でさえ、ミカボシの勢力を攻略することができなかった。


●そして、第二次連合軍の知将・タケハヅチの参戦によって、ミカボシの勢力は攻略された。





●ミカボシ(の荒魂)が変化した巨石のことを「宿魂石しゅくこんせき」といい、大甕神社に現存する。





●ハヅチが宿魂石を蹴り砕くと、太平洋にまで飛び散って、神磯の「おんねさま」になった。





●残りの石は、石神いしがみ石塚いしつか石井に落ちた。


●ハヅチは、ミカボシの勢力を攻略したのち、大甕に拠点をおいて製塩や織物の技術を広め、東日本の生活レベルを向上させた。


●ハヅチは死後、大甕山に葬られた。


本文


読むとすれば、こう脳内変換すると良い。


・鹿島=タケミカヅチ

・香取=フツヌシ

・甕星香々背男=ミカボシ

・武葉槌命=ハヅチ



御祭神の御事


(前略)


鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫、あるいは掃蕩する任を負わされておりました。


武神として誉の高い二神は国津神等の国譲り、荒ぶる神々の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神がおり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。


さすがの鹿島・香取の神もこの勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。

その時にこの武神である二神に代って甕星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。


命は武神としてもさることながら、知恵の神としてことに優れており、(我国において織物を始めとする組織的な産業を最初に起された神であります)命の知恵を駆使した巧な戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢えない最後を遂げることとなり、その様は今に様々な伝説となり伝えられております。


その一つに武葉槌命が大甕山にて甕星香々背男の変じたる巨石を蹴ったところ、その一つは海中に落ちて今に伝わるおんねさま、または神磯と呼ばれる磯になり、あとの石は、石神・石塚・石井に飛んだと伝えられております。


また現在の大甕神社の神域を成しております宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられております。


斯くて、甕星香々背男の勢力を掃蕩された武葉槌命は、此の大甕の地に留り命の優れた知恵の産物である製塩の術・織物の術をはじめ様々な生活の術を常陸地方は無論のこと、東日本の一帯に広められ人々の生活の向上に貫献されたのであります。


今に、武葉槌命はおだて山、即ち美しい山と人々から敬愛の念を持って呼ばれる大甕山上に葬られていると伝えられております。

大甕倭文神社のしおり(大甕倭文神社社務所)



ミカボシは「常陸王朝」の王


ハヅチが、ミカボシが化けた巨石を蹴り砕いたという伝説は、明らかに後世の作り話なので、なにかの暗喩であると解釈しておけば良い。


だが、大神神社の伝承によって、以下のようなミカボシについての新事実が明かになった。


歴史上の英雄・ミカボシ


・ミカボシは〝王朝〟を去ったあと、常陸国を拠点にしていた。


・ミカボシの勢力は、第二次連合に対抗できるほどの軍事力、自立した勢力範囲をもっていたことから「独立国家」であったといえる。


・ミカボシは、統率した勢力の強大さ、治めた領域の広さから、もはや「王」と呼べるほどの統治者であったと考えられる。


・第二次連合とミカボシの勢力のあいだでは、少なくとも二度の戦いがあった。


・一度目の戦いでは、フツヌシとタケミカヅチ率いる第二次連合軍が敗れ、ミカボシの勢力の攻略に失敗した。


・二度目の戦いでは、ハヅチが参戦したことで第二次連合軍が勝利し、ミカボシの勢力を攻略することに成功した。


・ハヅチは戦いの際、ミカボシの勢力の中心地である大甕を陥落させ、勝利した。


・ミカボシの勢力が敗北し、攻略されたことは確かだが、ミカボシ自身は討伐されておらず、その行方は不明。





ミカボシが治めていた場所、ミカボシの統治者としての実力、ミカボシの勢力の規模…。


という、日本書紀の記述にはなかった具体的な情報が明かになった。



ミカボシが単なる悪党や土豪の類いではなく、れっきとした統治者、君主であったからこそ、ここまで強大な王国を築けたことは確かだ。


なにより、この伝承によって神話の世界の住人などではなく、実在した歴史上の英雄としてのミカボシの実像が、ぐっと鮮明になってきた。



それにしても、直接的にミカボシが討伐されたという記述がないことが、日本書紀と共通しているのでおもしろい。


もし本当にミカボシが討伐されていたのなら、巨石伝説のような抽象的な話ではないはずで、生きていたと考えるほうが自然だ。


独立国家・常陸王朝


以下、このように名付けることにした。



・ミカボシの勢力:「常陸王朝

・一度目の戦い:「常陸の戦い

・二度目の戦い:「大甕の戦い



伝承を史実としてとらえれば、こうなる。



・常陸王朝は独立した王国であり、ミカボシが王として君臨していた。


・第二次連合軍のフツヌシとタケミカヅチが、常陸に侵攻するも敗退したのが、常陸の戦い。


・ハヅチの参戦によって、首都の大甕の陥落、常陸王朝の敗北と滅亡、第二次連合軍の勝利がもたらされたのが、大甕の戦い。


・ハヅチは、常陸国(第二次連合領)の新たな領主となった。



第二次連合vs常陸王朝


もちろん、ミカボシが最初にいた王朝(天)と常陸王朝は別であり、どちらかというと常陸のほうが〝地方〟だと思う。


日本書紀では、最初にいた王朝が「天」と形容されている以上、日向側からもそっちのほうが〝中央〟とみなされていたのだろう。



地方といえども、日本書紀の記述から考えて、常陸王朝は日本で唯一、第二次連合に服従していなかった独立勢力だった。


厳密にいえば、熊本の球磨くま族、鹿児島の曽於そお族などもいたが、言っても弱小勢力である。



常陸王朝が、東国を制覇するほどの力を持った大国だったとすれば、ミカボシは日本で唯一、第二次連合に対抗できる存在だったのだろう。


第二次連合からすれば、常陸王朝は自らの存在すらも危うくする敵国であり、ミカボシが悪神として警戒された理由もわかる。


大甕神社


大甕は常陸王朝の首都であり、ここを攻略することでハヅチは勝利した。


しかし、現在の大甕神社は江戸時代に移されたものであり、それよりも前は200mほど離れた「大甕山」の上に神社があったという。


古宮がミカボシの牙城


そこは「大甕神社 古宮」と呼ばれており、今は日立研究所の敷地内になっている。



ただ石碑が残るのみ。



つまり、厳密にいうと今の大甕神社ではなく、古宮のあった大甕山(丘)こそミカボシの牙城であり、常陸王朝の首都だったのだ。


大甕山とはいっても小高い丘だが、常陸台地と太平洋を見下ろす見晴らしの良い場所であり、都としてふさわしい。


今の大甕神社=宿魂石


ここで位置関係を整理しておこう。





昔、大甕神社周辺は「石名坂いしなざか」と呼ばれていたようであり、他の伝承にもちらほらこの地名が登場している。


そして江戸時代、もともと宿魂石(ミカボシが変化したといわれる石)があった場所に、遷移されたのが今の神社のようだ。





宿魂石という名の単体の石があるというより、神社の敷地内の多くを占める岩山全体のことを宿魂石と呼んでいるらしい。


むしろ、宿魂石のうえに後から神社を移した、という表現が正しいだろうか。



本殿は宿魂石の上にある。



では、今の大甕神社(宿魂石)がミカボシとは無関係かというと、そうでもないとは思う。


とはいえ、宿魂石は斎場、おんねさまは航海の目印といったところで、祭祀の跡や交通の要衝以上でも以下でもないのだろう。


常陸王朝の支城たち


本当に重要なスポットは、はじめの大甕神社の伝承にもあった、以下の場所である。



いし神社(石神):茨城県那珂郡東海村石神



風隼かざはや神社(石塚):茨城県東茨城郡城里町石塚



石井いしい神社(石井):茨城県笠間市石井



手子后てごさき神社茨城県水戸市田島町



巨石飛来地


すべて、ミカボシが変化した巨石が、ハヅチによって蹴り砕かれて飛び散った場所、すなわち「巨石飛来地」で、今では神社になっている。


大神神社の伝承には書いてなかったが、最後の手子后神社にも、巨石が飛来したという伝説が残っているのだとか。



茨城県内の伝承地(巨石飛来地)



実際、それぞれの神社には石が現存しており、御神体として祀られているらしいが、なんとも不可思議な話である。


花崗岩なので隕石でもないし、この巨石の話を鵜呑みにすればまったく意味がわからない。



だが面白いことに、これらの神社がある場所は古代からの交通の要衝であり、後に古代道路や街道となるルート沿いにある。


風隼神社(石塚)は、このルートにはないが、那珂なか川の水運を監視できる位置にある。


巨石飛来地は支城跡だった


では、この巨石伝説の真相はなにか?


私はこう考えてみた。



①巨石飛来地は、もともとミカボシ時代からの戦略上重要な要衝であった。


②常陸の戦いで、第二次連合の侵攻を阻止した常陸王朝は、次なる侵攻への備えとして、後に巨石飛来地となる場所に支城を築いた。


③常陸王朝を滅ぼし、常陸国の新領主となったハヅチは、主戦場であった支城の鎮魂・慰霊をするべく、呪術的な儀式を行った。


④それが、もともと斎場があった石名坂の岩山(後の宿魂石)を砕いて採った石をそれぞれの支城に安置するという〝地鎮祭〟であった。


⑤上記のことが、人々の記憶の変化のなかで、巨石伝説になった。





このように、ミカボシの軍事的な施策、そしてハヅチの呪術的な仕掛けこそ、巨石伝説の正体であると私は推測している。


巨石飛来地は、常陸王朝の支城跡だったのだ。



そう解釈するのがいちばん現実的だと思うし、巨石飛来地は不自然なほどに地政学的に重要な場所にあり、どう考えても伝説は後付けだ。


もちろん本城が大甕で、それを防衛するように各支城が置かれた形になっている。



また、現代でも家を建てる前に地鎮祭をやっているが、これが古代であれば尚更であり、逆にやっていないと考えるほうが不合理だ。


いわば支城に置かれた石は〝鎮魂石〟といったところだろうが、忌部氏のハヅチからすれば、呪術的な施しなどお手の物だろう。


オカルト本


巨石伝説について、この世で唯一、ミカボシの名を冠した書籍(オカルト本)から引用する。



船場俊昭ふなばとしあき『消された物部氏「天津甕星」の謎』



これも読み流して結構。



地元に残る天津甕星の痕跡


(前略)


さて、天津甕星の大岩に戻ろう。


神社の縁起によれば、大岩が飛び散ったのは石神・石塚・石井という場所である。

これら「石」を含む地名は、天津甕星の岩が飛来した地であるからこそついたと思われる。


(中略)


まず石神だが、ここは原子力発電所で有名な東海村のあたりである。


ここに飛んできた石は、東海村石神外宿の久慈川べり、国道6号のさかき橋のたもとに落ちたといわれている。


現在は石神社という神社が鎮座ちんざし、石は拝殿はいでん裏のブロック囲いの土中にまっていて、わずかに石の頭が見える。

社伝にも石名坂の香香背男の巨石が3つに割れて飛んだうちのひとつがここに落ちて、石神の地名のもととなったとされている。

ただし、祭神は天手力雄命あめのたぢからおのみことで、アメノタヂカラオ命が天神の命を受けて香香背男を退治たいじしたということになっている。


石塚の飛来地には建てられた神社は、風隼かざはや神社という。

この地名もまた神体石が由来となっている。


祭神はタケミカヅチ神で、この神がタケハヅチ命と石船いわふね神社の神と協力して香香背男を石名坂に追いつめ、そこで魔王石となった香香背男をタケハヅチ命が蹴り割って倒したとされている。

なお、神体石は公開されていない。


(中略)


最後の飛来地である石井にも石井神社が鎮座している。

社伝よれば、タケハヅチ命が蹴り割った石のひとつがこの地の井泉せいせんに落ち、この石がたたりりをさないようにタケハヅチ命を祀ったとされている。


前記の伝承にはないが、東茨城郡内原町田島の手子后てごさき神社にも石名坂の石が飛来した伝承が残っている。

神社の縁起では、石名坂の石はくだかれたあと、5つに分かれ、そのうちのひとつがこの地に落ちたとしている。


また、茨城県内には香香背男を祀る神社が、友部町中市原の星宮神社をはじめとして数社存在する。

封じられてなお、香香背男=天津甕星の影響力がこの地域に残っていたということであろう。


地元に根を張る天津甕星の勢力が、タケミカヅチ神とフツヌシ神を退しりぞけるほどの巨大なものだったことは間違いない。

船場俊昭『消された物部氏「天津甕星」の謎』(2004年、学習研究社、pp.84-90)



茨城県日立市の伝承


ネットで調べごとをしていると、大甕神社とはまた別バージョンの伝承が載っているサイトを見つけた。


ここでは、ふたつの伝承が紹介されている。



だが、ただただ「茨城県日立市の伝承」としか書いておらず、何の伝承を出典としているかが不明など、情報の正確性は微妙なところだ。


まだ文章としては読みやすいので、私の解説は本文の後に載せる。


本文


茨城県日立市の伝承


大甕倭文神社(茨城県日立市)の社伝や地域の伝承では、天津甕星(アマツミカボシ)はこの辺り一帯を治めていた元々の統治者として伝わっています。

そこへ高天原から武甕槌神(タケミカヅチ)・経津主神(フツヌシ)が遣わされますが、自分の国を侵させてなるものかと、天津甕星(アマツミカボシ)は岩に変化して戦い、見事に退けます。

ところが、調子づいた天津甕星(アマツミカボシ)が変化した岩はどんどん大きくなり、高天原にまで届く勢いでした。

おそれをなした天つ神ですが、 靜の里(茨城県那珂市瓜連)で機織を生業していた建葉槌命(タケハヅチノミコト)が、これを見て「無礼だ!」と怒り、武装して金の靴を履いて岩を蹴り砕いたといいます。

岩の破片は三方に飛び散り、根っこの部分が、大甕倭文神社(茨城県日立市)の「 宿魂石(しゅくこんせき)」という岩山になったと伝えられています。

日本書紀とは違い、建葉槌命(タケハヅチノミコト)は武力で天津甕星(アマツミカボシ)を制圧しています。

別のお話では、武甕槌神(タケミカヅチ)が討ち取りにやってきた際、元々ここを治めていたみかの原の神はそうとは知らず、ご馳走をふるまいもてなします。しかし自分を殺そうとしていることを知り、その場から逃げ去ります。 武甕槌神(タケミカヅチ)は後を追い、矢を放ちますが、風にもまれて命中しなかったためその場所を「もめや」といい、いつの間にか”茂宮”という地名になった。

また、矢を放つと今度は命中して、みかの原の神が倒れ、しとめたので”留”という地名になった。

縛り上げて、久慈川の河口まで下り、武甕槌神(タケミカヅチ)が「最期に言い残すことはあるか」と聞くと、「なにも言い残すことはない」とみかの原の神と言い、大笑いして首を討たれたので、その場所はなまって”大洗”という地名になった、という地名由来説話が残っています。

倭文神社(静岡県富士宮市)も同様、当社が鎮座する星山一帯を元々治めていた神様として伝えられており、悪しき神という表現は出てきません。

天津甕星-古事記と日本書紀の神様 | 日本の神様辞典
https://yaoyoro.net/mikaboshi.html



解説①


ミカボシは岩に変化することで勝利したこと、その岩が巨大化して、金の靴を履いたハヅチに蹴り砕かれたことが敗北を表していること。


そこがこの一つ目の伝承と大甕神社の伝承との相違点だが、大筋は同じである。



岩(石)は、ミカボシの屈強さの象徴といったところだろうか。


ついでに出典はともかく、この記事には色々と補足したいところがある。



「静の里(茨城県那珂市瓜連)で機織を生業していた建葉槌命…」とあるが、ハヅチがそこで倭文織を生産するのは戦いの後のことである。


もともと、しずの里となる場所は常陸王朝の領内であり、忌部氏であるハヅチがミカボシの配下だったとはまず考えられない。





次に「日本書紀とは違い、建葉槌命(タケハヅチノミコト)は武力で天津甕星(アマツミカボシ)を制圧しています。」とある。


だが、日本書紀の記述にも、ハヅチは非武力でミカボシの勢力を攻略した、などとはどこにも書いていないし、先述の通りこれは戦争だ。


解説②


そして、二つ目の「別のお話では」から始まる別バージョンのミカボシの伝承は、全くもってアホらしすぎて笑える。


ミカボシが討伐されてしまっているし、しかもそれがハヅチではなく、なぜかタケミカヅチの仕業にされているではないか。



それだけでなく、矢が風に揉まれたから茂宮もみや、仕留めたからとめ、大笑いしたから大洗おおあらいなど…。


ダジャレに走りすぎというか、これではまるで江戸時代の安直な言葉遊びだ。



そもそもだがミカボシの時代、茂宮町と留町は海の底である(笑)





大洗の話も、昔から景勝地で有名だったので、面白おかしくミカボシの話に付けたのだろう。


というかこの伝承、悪の首領が旅の者に扮した武将をもてなして討たれるという流れが、あの酒呑童子しゅてんどうじの伝説の丸パクリではないか…。





鉄壁の首都・大甕


では、この大甕はどのような場所だったのか、なぜミカボシはここを首都としたのか、そんな地理的な視点から検証していきたい。



まず、現代の大甕(茨城県日立市)



なんということはない、海辺の町である。


当然、常陸王朝時代の面影はまったくないが、今は日立製作所という名の王国が栄えている。


古代の大甕


それでは、ミカボシの時代の大甕はどんな姿をしていたのだろうか。


そこで、国土地理院の地図を参考にしながら、当時(3世紀)の地形をわかる範囲で再現したグラフィックを作成してみた。



古代の大甕(常陸国久慈郡)



興味深いことに、大甕は半島だったのだ。


この地形図を見るだけで、いかに大甕が鉄壁の首都だったかがよく分かるが、その理由を順に挙げてゆきたい。


交通の要衝


ひとつ、関東と東北につながる主要なルートの通り道にあり、交通の要衝であったこと。


このルートは、やがて古代道路(駅路)として飛鳥時代から平安時代にかけて、朝廷によって整備されることになる重要な交通路である。





もちろん、道路として整備はされていなかったはずだが、ミカボシの時代にも既にその原型があったことは確かだろう。


もしもここに関所を設置して通行税をとれば、莫大な利権をあげることができるし、あるいはもう既にあったかもしれない。


貿易と水産業の拠点


ふたつ、太平洋と久慈くじ川の河口に面しており、海上貿易と海路の拠点となっていたこと。


しかも、久慈川の河口は入り江になっており、波の穏やかな良港だったはずで、多くの商船が行き交う貿易港だったと思われる。



加えて、港が淡水と海水が混ざり合う汽水域きすいいきにあるので、魚もたくさん獲れたことだろうし、水産業の利権も凄まじかったことだろう。


ミカボシが陸だけでなく、海上を制覇していたことも納得できる環境である。





大甕の周辺は台地なので、あまり農業に適していないが、八溝やみぞ山地沿い丘陵であれば当時から田畑が多く、食料供給は大丈夫だったと思う。


また、開発や干拓が進んだ現代では、茨城県の耕地面積は日本で二位となっていることから、昔から開発する甲斐ある土地だったのだろう。


image


天然の要害


最後に、大甕の背後には多賀たが山地が続いていることから、いざ攻められても山の尾根を伝って逃げられる、という地の利があること。


そして、大甕の東・西・南が海に面しており、天然の堀のような地形になっていることから、敵の侵攻を防ぐのに適していること。



背後には山地、前面には水域が広がっている、という場所は軍事的にも風水的にも、好条件の立地なのだとか。


よくもハヅチは、大甕を陥落させることに成功したものだなと感心するレベルである。



大甕のような半島の首都といえば、難攻不落で有名な東ローマ帝国のコンスタンティノープル(現:トルコのイスタンブール)がある。





交通の要衝である、半島の大きさがほぼ同じ、難攻不落と言われていたが、最終的には名将によって攻め落とされたという一致もある。



地形もよく似ている。



あとがき


どうだろうか、これでミカボシの実像がかなり明らかなったのではないだろうか。


以下、今回の記事の内容をまとめた。


まとめ


●ミカボシは中央を去った後、常陸王朝の王となって東国に君臨し、ただひとり第二次連合に対抗できる存在となっていた。


●第二次連合は、常陸王朝の影響力を警戒し、フツヌシとタケミカヅチを派遣するも、敗退を余儀なくされた(常陸の戦い)。


●次に派遣されたハヅチは、難攻不落の首都・大甕を攻め落とすことで、常陸王朝を滅亡させ(大甕の戦い)、後に常陸国の領主となった。


●戦いの後、ミカボシは行方不明になったが、死んでいなかったと考えられる。



完全解明


しかし、依然として根本的な謎は残る。


なぜミカボシは、常陸以前にいた王朝=中央を去ったのか、はたして常陸王朝の影響力だけが第二次連合(日向)に狙われた理由なのか。



そもそも、ミカボシは何者なのか、なぜ後から東国を制覇できたのか。


実はもう、私の中では完全解明している。


いかに従来のミカボシ考察が的外れだったかがよく分かったし、もはや誰かの下らない考察に水を差される余地もないほどになった。


あとは、順を追って答え合わせしていくだけの段階である。



歴史究明は、出来るだけたくさん情報を集めて考察するものだが、究極的には天からの情報が肉体に降ろされているのだろう。


つまり、私の頭だけで考えたものではないし、もはや学問というより祭祀そのものだが、この感覚は他者に伝えがたいものがある。



普段はまったく願い事をしない私だが、神社に行くたび、こう唱えていた。



——日本建国史の真実をお教え賜う。

——アマツミカボシの真実をお教え賜う。



そして今では、真実を知り得たことへの感謝の言葉を述べてる。



つづく。