日向坂は何と読む?。袖振坂と袖摺坂。袖振り合うも多生の縁。渋沢栄一と清水建設。御田八幡宮と釜鳴神事。日向坂46。元神明社・當光寺・龍原寺。日向守。

 

 

みゆきの道(5)
お日向さまと 多生の縁 / 芝・三田.3


コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士 / 芝・三田.2」では、赤穂浪士、綱坂、綱町三井倶楽部、慶応大学などをご紹介しました。
今回のコラムは、その続きをご紹介します。

コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」の中で使用した地図の一部を下に拡大しました。
今回の芝・三田巡りは、黒色の点線部分を歩いています。

前回コラムでは、慶応仲通り商店街をスタートし、下の地図の8番あたりの山の頂上までたどり着きました。
今回は、そこから坂を下って、スタート地点の赤羽橋まで戻ります。
地図の中の、緑色⑧の有馬家屋敷跡の場所で、黒点線の凹みの箇所がありますが、この箇所だけは、次回のコラム「みゆきの道(6)」で別途ご紹介します。

①が、薩摩藩の上屋敷で、江戸幕府が焼き討ちをした屋敷です。
②が、薩摩藩の蔵屋敷で、西郷隆盛と勝海舟が、二回目の会談を行った場所です。
⑧が、有馬家の上屋敷だった場所です。


◇坂の上の江戸

前回コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士」では、司馬遼太郎さんの有名な歴史小説「坂の上の雲」のことを思い出しながら、綱坂を登って、この山の頂上あたりにたどり着きました。
綱町三井倶楽部や旧社会保険庁ビルなどの明治から昭和の近代建築、各国大使館などが建ち並ぶこの地域ですが、わずかに江戸時代に建てられた建物が残っています。

下の写真は、「龍原寺(りゅうげんじ)」です。



門が山の頂上の位置にあるため、本堂や鐘楼などの建物へは、門から坂の階段を下っていくことになります。
門の奥に見える白色の建物が、めずらしい土蔵づくりの本堂です。

もともと、江戸の八丁堀にあり、この地に移転したようです。
建物は皆、江戸時代の建立だというから驚きです。

通りをはさんで、オーストラリア大使館の目の前にある江戸時代のこの門は、まさにそこだけ江戸時代が突然あらわれたように見えます。
ちょっと不思議な江戸時代の異空間が、ここにあります。

* * *

この龍原寺のお隣に、前回コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士」の中で書きました、「渡辺綱(わたなべつな)」ゆかりの當光寺(とうこうじ)があります。
當光寺は、平成の時代に大きく整備されたようです。
山の頂上の通り沿いには、綱正会館(こうしょうかいかん)が建っています。

* * *

龍原寺の隣には「神明坂(しんめいざか)」という坂がり、龍原寺から向かうと坂を下っていくことになります。
その中腹に、「元神明社(もとしんめいしゃ)」という平安時代からの由緒あるお社があります。


◇御田の釜鳴

その他に、今の「東京さぬき倶楽部(讃岐会館)」のあたりは、「御田(みた)八幡神社」があったとされ、今は、「三田八幡宮古跡」の石碑と狛犬が残っています。
狛犬マニアには、よく知られているそうですね。

前回コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士」で、渡辺綱は、今の埼玉県鴻巣市の箕田(みた)で生まれたとか、この東京の三田で生まれたという伝説があるなどと書きました。

このあたりには、綱坂、綱の手引き坂、綱の井戸、前述の當光寺…、渡辺綱の関連がめじろ押しですね。
そこに来て、源氏といえば、この「八幡さま」です。

今の東京の「三田」の地名は、この「御田」から来たともいわれています。

そして 今、この「御田八幡神社」は、ここから少し南に行った高輪(たかなわ)の地にあります。
なんと そこには、古代の神事である「釜鳴(かまなり)」の神事が残っています。

* * *

私は、昔から、この「釜鳴」という神事が不思議でなりません。
実際に目にしたことはありませんが、テレビでは何度か見ました。
先般、釜鳴神事で有名な、岡山県の「吉備津(きびつ)神社」の釜鳴神事を、NHKテレビの「ブラタモリ」でも紹介していました。

日本全国に今、この釜鳴神事を行っている神社はどのくらいあるのでしょうか。
前述した「三田八幡宮古跡」のある讃岐会館は、もちろん香川県の関連施設です。
香川県さぬき市の「造田神社(ぞうたじんじゃ)」でも、釜鳴神事を行っているそうです。
造田、三田、御田…、なにか「ご縁」がありそうです。

吉凶を占う神事は、古代からたくさんの種類があり、今でも残っているものがありますが、私は、はたして占いだけなのかと感じています。
神事をたどると、何かの歴史の真実にたどりつくような気がしてなりません。

* * *

前述のNHKテレビの「ブラタモリ」の放送回では、桃太郎の伝説についても紹介していました。
ひょっとして、この釜鳴神事と、渡辺綱を輩出した渡辺一族、桃太郎伝説は、何かの綱でつながっているということはないでしょうか。

渡辺党が、瀬戸内の大きな水軍になっていったことは、前回コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士」でも書きました。
瀬戸内、岡山、香川…、場所はそろっていますね。
渡辺一族は、源氏にも朝廷にも近い存在でした。

コラム「神話のお話し」でも書きましたが、神話や伝説は、たいていモデルになったお話しがあるのが自然です。
桃太郎伝説のモデルになったお話しは、相当に古い時代のお話しだと思いますが、平安時代以前の渡辺一党と桃太郎伝説は、何か絡んでいないのでしょうか。
釜鳴と桃太郎と渡辺一族…、何か「ご縁」があるかもしれませんね。

歴史ファンからすれば、好奇心がわく、ゾクゾクするようなお話しのオンパレードです。
今は不明点がたくさんありますが、絶対に、真相はあったはずです。
このお話しは、また、あらためて書きたいと思います。


◇三田共用会議所

さて、お話しは龍原寺のある、山の頂上付近に戻ります。

龍原寺の前の通りを西の方向に向かいます。
下の写真の左側には、「三田共用会議所」の建物があります。
結構、そのまんまの武骨な名称ですね。

今は、中央官庁共用の会議場です。
警備しっかりしていました。

2008年には、世界各国から要人が集まる「財部大臣・中央銀行総裁会議(G7)」が行われました。

もともと この場所は、たくさんあった渋沢栄一の私邸のひとつであった深川の私邸(今の清水建設が建築)が移築された場所でもありました。
その建物は、渋沢の秘書であった杉本行雄が、1991年に青森県六戸町にさらに移築しました。
青森県十和田市には、渋沢財閥の農場もありました。

* * *

渋沢栄一は、江戸、明治、大正、昭和を生きた大実業家ですね。
渋沢は、たくさんの企業をつくり、企業人も育てました。
明治以降の日本の近代化に、渋沢の功績ははかりしれません。

昭和の戦後に、渋沢家の青森県の土地の整理などで、杉本行雄は青森に向かいます。
杉本は、青森県の小牧温泉をたて直した人物でもあります。
小牧温泉は、2000年代初期に経営破綻し、ゴールドマンサックスが買収し、いろいろあった後、今、星野リゾートの高級リゾート地になっています。

その場所には、東京深川で建てられ、東京三田に移されていた渋沢の私邸が、さらに青森のその場所に移され、残されていました。
和洋折衷の、味わいのある立派な建物です。

* * *

2021年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け(つけ)」の主人公は、渋沢栄一ですね。
明治の財界人が、初めて主人公になります。
普通の商人や実業家の成功物語ではありません。
おそらく、日本の近代商業、ビジネス社会を築いた人物として描かれるのだろうと思います。

江戸時代の幕府の役人でもありましたから、武士思想も持っていたはずです。
おそらく徳川慶喜もドラマに登場するでしょう。
二つのまったく違う時代をまたいだ異色の実業家像を、大河ドラマで見ることができるのかもしれませんね。


◇清水建設

この青森に移築されていた渋沢の私邸は、もともとの場所の東京深川に、清水建設のチカラで2022年頃に戻ってくる予定だそうです。
スーパーゼネコンの「清水建設」の二代目経営者の清水喜助が残した建物は、もはやこの渋沢邸だけのようです。
渋沢栄一は清水建設の相談役でもありました。

清水建設は、自社に関係する偉大な先人たちの功績を、東京深川の地に、しっかり残そうということなのかもしれません。
二代目 清水喜助も、大河ドラマに登場する?

私は、東京深川のその移転場所がどこなのか知りませんが、江東区内のどこかのビジネス区画の中に、この私邸を移築するそうです。
今、東京江東区にある渋沢栄一邸跡の周辺には、「渋沢」の名前が残る建物がたくさん残っています。
そのあたりを再開発でもするのでしょうか。

このあたりは、奥の細道の松尾芭蕉のゆかりの地でもあります。
渋沢の私邸が戻ってきたら、さらに観光地化するでしょうか。
私も、まずは、戻って来た私邸に行かないわけにはいきません…。

渋沢の遺構や記念施設は、東京はもちろん、故郷の埼玉県深谷市にも多数残されていますね。

* * *

三田の三田共用会議所のある場所に、渋沢の私邸を戻すのも悪くはない気もしますが、清水建設は東京下町、神田の創業ですからね。
実は初代の清水喜助は、三田の日向坂とは関係ありませんが、「日向」という名前の使用を幕府から得ています。
ご縁とは不思議なものですね。

さて、清水建設は、宮大工の神事である「手斧始め(ちょうなはじめ)」を今でもしっかり行っていると聞いたことがあります。
先般の、皇居の大嘗宮(だいじょうきゅう)をつくったのも清水建設です。
この会社…、超高層最先端ビルも、古式の建造物も、両方こなせる、渋沢栄一が残した遺産のひとつですね。


◇渋沢栄一

2024年に始まる新一万円札の顔は、渋沢栄一ですね。
諭吉さんから栄一さんに変わります。
学問の英雄から、商業ビジネスの英雄へのバトンタッチですね。

2021年の大河ドラマは、ちょっとタイミングが早すぎる気もしないわけではありませんが、これから数年は、渋沢栄一に光があたるのは間違いなさそうです。

なにしろ、彼が残した有名企業はたくさんありますし、その子孫も有名な方々がたくさんおられます。
来年くらいからは、関連各企業の記念イベントや、テレビの特別番組など、多数始まることでしょうね。
テレビCMでも、渋沢の顔を見るようになるのかもしれません。

* * *

日本では、欧米ほど、財界人や企業人が有名になることは少ないような気がします。
あるとしたら、スキャンダルや不祥事、長者番付、羨望のまなざし、くらいでしょうか。
社会貢献や、政治家への転向も、欧米よりは少ない気がします。

渋沢が望んだように、一般社会全体から、財界人や企業人の役割や仕事が、しっかり評価される時代が本当にやってくる、そんなきっかけになるかもしれませんね。
企業人の側も、新しい時代に向かって、少し行動が変わっていくようになるのかもしれません。

渋沢栄一…、今の時代に、どのように評価されることになるのでしょう。
もちろん、新しい大河ドラマのスタイルに対する評価も…。


◇日向坂

さて、お話しを三田に、もう一度戻します。

この三田共用会議所を通り過ぎると、急な坂を、渋谷川が流れる「二の橋」に向かって下ることになります。

そうです。この坂が「日向坂(ひゅうがざか)」です。
あのアイドルグループと同じ名ですね。
アイドルのお話しは、後で書きます。



 

◇ひゅうがざか

写真にある木製の碑には、次のような説明の文言が書いてあります。
「ひゅうがざか。江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。袖振坂ともいった。由来は不明である。誤って ひなた坂とも呼んだ。」

歴史ファンからすると、結構、ツッコミどころ満載の省略しすぎの文章です。
なにか腑(ふ)に落ちません。

まずは、「江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。」という部分です。
この文章は、「毛利日向守(もうりひゅうがのかみ)の屋敷があった」としか表現していませんので、この「日向守(ひゅうがのかみ)」と「日向坂(ひゅうがざか)」がつながっているとは言っていません。

* * *

実は、江戸時代後期、この日向坂の坂の頂上には、薩摩藩島津家の士藩である佐土原(さどわら)藩(日向国〔今の宮崎県〕の一部)の島津淡路守(しまづあわじのかみ)の屋敷がありました。
実際の日向国に密接に絡んでいるのは島津家のほうです。
ただし、お名前は「淡路守」です。

江戸幕府がはじまった時には、すでに佐土原の地に島津家は入っています。
毛利家と島津家を比較すると、数段、島津家のほうが歴史は古いですね。

渡辺綱が平安時代の武将なら、同じ頃に、島津家は関東の有力な武家だったかもしれません。
コラム「よどみ(9)金次郎と酒匂川」でも書きましたが、島津氏や酒匂氏が、関東の地から九州に制圧に向かうのは鎌倉時代です。
そのまま移住しました。
この三田に、「綱坂」や「綱の手引坂」があるのなら、島津家にちなんだ坂名をつくっても不思議はありません。

「徳山藩毛利日向守」の徳山藩とは今の山口県の東南部で、「日向」は、ただの地名だけのつながりだと思います。
「毛利日向守の屋敷があった」と表記するのであれば、「日向国の一部を実際におさめていた島津淡路守の屋敷があった」と併記してもいいような気がします。

日向坂の「日向」は、ひょっとしたら、「日向守」というよりも、島津家がおさめた「日向国」の日向だったのかもしれません。
この周辺は、島津家はもちろん、島津家と親戚関係にある武家の屋敷がたくさんありました。

この坂に最初に名前をつけたのが誰かは知りませんが、もし江戸初期であれば、南側に屋敷があった毛利日向守から「日向(ひゅうが)」と名付けられても、たしかに不思議はありませんが、ひょっとしたら、島津家の日向国に由来する「日向坂」だったのかもしれませんね。

* * *

次は、「日向」の読み方です。

「日向」は、ひゅうが、ひなた、ひむか、ひるか、ひうが、にこう、などと読みますね。
ゴルフ界の新星、渋野日向子さんの場合は「ひな」です。

地名、人名、会社名、小説のタイトル、仏教界の人名、軍艦名など、多彩に使われています。
読み方もそれぞれにあります。
どの読み方が正しくて、どれが正しくないというわけではありません。

漢字の由来は、日本書紀の「日出づる方に向けり」です。
天の岩戸から見て、宮崎県は日出づる方にありますね。

碑にある「誤って ひなた坂とも呼んだ」という記載は、誤ってはいないでしょうか。
本当に、多くの人が誤って、そう呼んだのでしょうか。
わざわざ「誤って」と書く以上は、たしかな確証でもあるのでしょうか。

* * *

毛利家だったにせよ、島津家だったにせよ、坂名の読みを、こんなに有名な地名の「ひゅうが」と同じであったなら、どうして誤って読むことがあるでしょうか。
江戸時代初期であれば、織田信長が討たれた「本能寺の変」でさえ、それほど昔のことではなかったでしょう。
明智光秀のことであった「日向守(ひゅうがのかみ)」の文字を誰が読み間違えるでしょうか。

江戸初期に、たいていの庶民は漢字の読み書きなどできません。
庶民は、クチ伝えで、名称を伝えていったことでしょう。

教養を備えた一部の人たちが、漢字を間違って読むとは、少し考えにくい気がします。
寺の僧侶や武家が、明智光秀を嫌って、「ひゅうが」の読みを、わざと「ひなた」と、庶民に教えたと考えられないこともないですが…。

現代の人名や地名もそうですが、同じ漢字で読みを変える、あるいは読みは同じで漢字を変えるということは、しょっちゅうあります。
お父さんのお名前…、何度も漢字表記が変わったりしていませんか。
何かの転機であったり、縁起であったり、開運であったり、いろいろあります。

よくない出来事や、武家の勢力争いがきっかけだったら、漢字はそのままで、縁起が悪いから、「ひゅうが」の読みを今から「ひなた」に変更するよ…、だって起こりえます。

江戸時代とはいえ、明智家とのつながりは気にしたでしょう。
ただ、三代将軍 家光の乳母の春日局(かすがのつぼね)は、明智光秀の重臣の斉藤利三の娘ですから、明智家への徳川家の思いは、それほど強くなかったのかもしれません。
とはいえ、家康は光秀に命を狙われています。

二代将軍 秀忠の隠し子の養育も、徳川家のかつての宿敵である武田信玄の娘に、一時期させています。
徳川家は、かつての宿敵とか、宿縁とかは、あまり気にしなかったのかもしれませんね。
むしろ、何か深い思惑により、宿縁をつなげようとしたのかもしれません。

とはいえ、各地の大名家はそうはいかなかったでしょう。
徳川の前で、「ひゅうが」なんて、クチにも出せない…?

* * *

実は、後で書きますが、この日向坂の南側には、織田信長の子孫の屋敷がやって来るのです。
彼らからしてみれば、明智光秀を意味する「日向(ひゅうが)」なんて文字は、見るのも聞くのも嫌だったかもしれませんね。
幕府は、何とも酷なことをします。

* * *

こんな重要な大名屋敷地域の坂名を、それも官職名や国名にちなんだ坂名を、「誤って呼ぶ」ということが、本当にあるのでしょうか。

いずれにしても、この毛利日向守の屋敷は、その後、この地から消滅します。
左遷なのか、栄転なのかはわかりません。
島津家が何か絡んでいたのかもしれません。
「毛利日向守など、この場所からどかせろ。日向はわれわれ島津の領地である…」とか何とか…。

* * *

「日向坂」を「ひなたざか」と呼ぶのは、決して誤りではなかったのかもしれません。
「ひゅうがざか」も、「ひなたざか」も、ひょっとしたら正解なのかもしれないですね。

管理する教育委員会は、しっかり つきとめてほしいですね。
そんな暇は、坂でひっくり返っても、ないない…?
碑の説明文に、あえて疑問や神秘性をたくさん残したのでしょうか?


◇袖振坂・袖摺坂・袖引坂

この木製の碑には、「袖振坂ともいった。由来は不明である。」と書かれています。

実は、ネットで調べていましたら、この日向坂を、「袖振坂(そでふりざか)」ではなく「振袖坂(ふりそでざか)」と表記されているものもたくさん見つけました。
おそらく「袖振坂(そでふりざか)」のほうが正しいのだと思いますが、何とも言えません。
あくまで、日向坂の別称です。

「振袖坂」という名称は、私は聞いたことがありません。
それこそ、何かの誤りでしょうか。

* * *

歴史ファンには当たり前なのでしょうが、「袖振(そでふり)」と「振袖(ふりそで)」はまったく意味が違いますね。
実は、これによく似た言葉に「袖摺り(そですり)」という言葉があります。

万葉集にも登場する「袖振り」という言葉ですが、「袖摺り」はあきらかに袖どうしが触れあっている状態のように感じます。

私が知るかぎり、東京都23区内には2か所の「袖摺坂(そですりざか)」があります。
東京では、神楽坂(かぐらざか)の近くにある袖摺坂が有名ですね。

現在は、それなりに幅がありますが、かつては両側を高い壁に覆われ、まさに着物の袖が擦れ合うような、狭い細い坂だったようです。
非常に幅の狭い坂を、一般的に、このような名称で呼んだという説があるようです。
日本各地に、「袖摺坂」は、あるのかもしれません。

個人的には、何となく、「袖振坂」を、あえて変えて「袖摺坂」にしたのかもしれないとも感じてしまいます。

* * *

「ゲゲゲの鬼太郎」には、「袖引き小僧」という妖怪が出てきたと思います。
調べましたら、「袖引坂(そでひきざか)」という坂が、なんと、これも九州は長崎県の国見町と、東京の文京区にあるではないですか。
文京区の坂は、今は、「団平坂(丹平坂)」と言うそうです。

長崎のほうの坂の伝説は、戦国時代に、多くの兵や民が、ある坂に追い詰められ、敵兵に討たれたそうです。
その後、その坂を通る人の袖を引っ張る幽霊が出るというものです。
袖を引っ張る幽霊という点では、「袖引き小僧」の妖怪話しとも、よく似ていますね。
実はなんと、この時の敵兵こそが、有馬家の兵士たちなのです。

三田の「袖振坂(日向坂)」の北側のすぐ近くにあったのは、有馬家の大きな屋敷です。
この大名屋敷地域北部で、島津家と有馬家は特別な存在です。

まさか、この「袖振坂」というのは、本当は「袖引坂」を名称変化させたものということはないでしょうね?
島津の「日向坂」と、有馬の「袖引坂」が、同じ坂…?
何だか、頭が混乱してきましたが、面白すぎる「ご縁」です。

* * *

「袖振坂」という別称を信じて、とりあえず、話しを進めます。


◇袖振の多生の縁

「袖振坂」は、「袖摺坂」のような通行人の着物の袖が触れ合うほど、狭くて細い坂という意味ではありません。

「袖振坂」の「袖振」は、見知らぬ者どうしが一瞬でもすれ違う、その縁や、運命のようなことを意味しています。
何か人間の世代を越えた宿縁を感じるような過去の出来事が存在したり、宿縁に関連する建物が、坂の近くにある場合もあります。
この日向坂の周辺も、宿縁だらけです。

* * *

日本各地から来た大名家の人々が通ったであろう、この坂道です。

標準語のない時代に、それぞれのお国なまりで、しっかりと会話ができたかどうかはわかりませんが、島津家の鹿児島弁と、有馬家の福岡弁の会話が、この坂で交わされていても不思議はありません。

「どうですか、薩摩の焼酎はうまいですよ」
「久留米の焼き鳥で一杯やりますか。親戚から有馬温泉の温泉水と三田牛肉も届いているんですよ」
「土佐の龍馬にも、かつおを持って来てもらいましょう」

「袖振り合うも多生の縁」とは、こういうことかもしれませんね。

* * *

「袖振り合うも多生の縁」とは、非常に些細な出来事ではあっても、前世からの深いご縁がこの出会いをつくってくれたもので、それはたいへん意味のある大切な瞬間だというような意味です。

「袖摺」のような、袖が触れ合うほど狭い距離感という意味ではありません。
まして「多少の縁」ではありませんよ。
若い方々の中には、「多少の縁」の意味で使う方がいますが、正確には「多生の縁」です。

袖振り合うも多生の縁
袖摺り合うも多生の縁
袖触れ合うも多生の縁

どれも間違いではないそうですが、「袖振り合うも多生の縁」がなんとなく、しっくりくる気がします。
「袖振坂」と「袖摺坂」も、意図的に漢字を変えてある気がしますし…。

「多生」と「他生」も仏教用語ですが、若干、意味あいが異なるそうです。
「他生」でも間違いではないそうですが、私は「多生」派です。

「多生」とは、何度も生死を繰り返して生まれてくる因縁や、前世でつながった縁などを意味しています。

いずれにしても、この日向坂が、別称で「袖振坂」と呼ばれたのには、必ず理由があったはずだと思います。
何かの宿縁が宿る坂だと、みな感じていたのかもしれませんね。


◇恐ろしいほどの宿縁

ここで、この「日向坂(袖振坂)」の南側にあった宿縁の三つの屋敷をご紹介します。

前回コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士 / 芝・三田.2」で、日向坂の南側にある「綱町三井倶楽部」をご紹介しましたが、この土地は、幕末の頃に、二つ大きな大名屋敷が並んでいました。

北側は、前述の佐土原藩島津淡路守です。
島津家の支藩です。

そして、南側は会津藩(今の福島県と新潟県の一部)の松平肥後守(まつだいらひごのかみ)の屋敷です。
幕末のいろいろな重要な場面で登場する、幕府側の中枢にいた松平容保(かたもり)はこの藩の9代藩主です。

薩摩長州の官軍と激しく戦った会津戦争での「白虎隊」はたいへん有名ですね。
幕末における松平容保の存在感は、それはたいへんなものでしたね。

薩摩の島津(鹿児島県)と、会津の松平(福島県)の関係は、今でも、何かと話題を提供してくれますよね。
もちろん、今は敵対関係ではないでしょうが。

この島津と松平の屋敷が、この日向坂と綱坂に囲まれた地域で並んでいたとは驚きです。
松平肥後守の屋敷には、鳥羽伏見の戦いの負傷兵がたくさんいたようです。

幕末最後の時期に、綱坂や日向坂には、ぜったいに近寄りたくないですね。

* * *

もともと、コラム冒頭の地図の黄色の大名屋敷地域は、九州や四国、中国などの西日本の外様大名の屋敷がたくさん集まっています。
そこに、徳川家に近い、多くの松平家の屋敷が、分断・監視するような配置で置かれていました。
まさに、「袖振」が複雑に絡み合うような地域でしたね。

* * *

さて、もうひとつの大名屋敷のことを書きます。
下の写真は、日向坂を横から撮影したものです。
結構な急坂です。

この坂の向こう側のマンションには、かつて織田山城守の屋敷がありました。
そうです。織田とは、あの織田信長の織田家のことです。

織田信長の次男(本当は三男だが、次男扱いとなる)の織田信雄(のぶかつ)の子孫の織田家です。
「本能寺の変」で、信長と、長男である信忠の死後、信雄は、豊臣側についたり、徳川側についたりしながら、それ以降の時代を乗り切りますね。
「日の出づる方を向けり」をしっかり実践したことと、それぞれの政権の中枢に、織田家の血を引く女性がしっかりいてくれたことが、生き残れた要因だったのかもしれません。

前述のとおり、織田家家臣団の中で、「日向守(ひゅうがのかみ)」といったら明智光秀をさします。
多くの時代劇ドラマでも、信長は、明智光秀のことを、「日向(ひゅうが)」と呼びますよね。

日向坂の目の前に、織田信長の次男の子孫の織田家の屋敷がやって来るとは、いったいどんな「ご縁」なのかと思ってしまいます。
誰が何と言おうと、この織田家の方々は、この坂を「ひなた坂」と呼んだかもしれませんね。
私なら、そうするかも…。

それにしても、急坂の土地をくれたものです。
織田家は、「日向」の坂で再び転落しなくてよかったですね。


◇振袖を見たい

ここまで書いておいて何ですが、この際、日向坂が「振袖坂(ふりそでざか)」だと考えられないこともありません。
「振袖」とは、もちろん着物の「振袖」の意味です。

今は、一般庶民でも、着物の「振袖(ふりそで)」を持っている女性は多いと思います。
今は、若い女性か、女性演歌歌手くらいしか着用しませんが、江戸時代は、貧乏な庶民が振袖を持てるはずがありません。

今でも、婚礼時に、花嫁衣装として黒色の振袖を着用する方もいますね。
昭和の戦後くらいまでは、黒色の花嫁衣装は当たり前でした。
今は、白無垢願望が圧倒的です。
とはいえ、京都や奈良などでは、その家伝来の黒色の花嫁衣装を着て、自宅で婚礼を行う家も少なくないと思います。

江戸時代の大名屋敷から出てくる振袖の花嫁行列では、それは見物人が多かったことでしょう。
こんな大名屋敷の地域でしか、お目にかかれなかったかもしれません。
今でも、地域によっては、花嫁姿を周辺住民に披露する行列やイベントを行ってるところがあるかもしれません。

花嫁にこんな急坂を実際に歩かせたかどうかはわかりませんが、庶民があこがれた振袖を着た大名家の花嫁から、「振袖坂(ふりそでざか)」と名がついても不思議はないかもしれませんね。

もう、「袖振(そでふり)」でも、「振袖(ふりそで)」でも、どちらでもよくなってきました。

* * *

ちなみに、大名屋敷の中には、朱塗りの赤色の門「赤門」がある屋敷がありますね。
これは、将軍家から嫁いできた、あるいは将軍家を経由して嫁いできた、または、それに近い婚礼があって、特別な花嫁がその大名家にやって来たことを意味しています。
東京大学(旧加賀藩屋敷)の赤門は有名ですね。
一夫多妻制の世です。その人数もたいへんなものでしたね。

江戸時代、門が朱色に塗られたら、庶民は、「なんだ なんだ」と騒いだことでしょうね。
その逆も、大ごとですが…。
寺に、不似合いな赤門があったら、その寺に関連した大名家に何かあった証拠かもしれません。

袖を振るにしても、摺れ合うにしても、振袖の花嫁衣装にしても、赤い門にしても、どれにも「ご縁」はつきものです。
つまりは、日向坂は、何かの「ご縁」が深い坂だということですね。


◇お日向さまパワー

今、アイドルグループの中に、「けやき坂46」を改名し「日向坂(ひなたざか)46」というグループがあります。
今、猛烈にプッシュしていますね。
この「日向坂46」は、この三田の「日向坂」から名称をつけたそうです。

* * *

中高年世代に、アイドルの坂名の説明を少しだけ…。
「乃木坂46」の他に、「欅坂(けやきざか)46」という漢字表記のアイドルグループがあり、それとは別に「けやき坂46」というひらがな表記のグループがありました。
そのひらがな表記のグループを、漢字表記の「日向坂(ひなたざか)46」に、近頃 改名したそうです。

ですから、東京に実在する、乃木坂、けやき坂、日向坂の坂名と同じ呼び名のアイドルグループが、今、存在しているということになります。

「欅坂46」のほうは、実在の坂名は、ひらがなの「けやき坂」なのですが、何かの手違いで漢字にしてしまったら大成功しました。

この「間違い」からの成功法則の運に乗ろうということかもしれませんが、「日向坂」の漢字の読みを変えて(間違えて)、「日向坂(ひなたざか)」としたということなのかもしれません。
今年のNHK紅白歌合戦に「日向坂46」は出場します。

お父さんたちも、大晦日の晩に、こんな、ちょっとした「うんちく」を家庭で語ってみてはいかがでしょう。
「お父さん、どうして知ってるの…」。久しぶりに娘の尊敬のまなざしが…。

でも、「46」を「よんじゅうろく」と言ったら、うんちくが台無しですよ。
若者には、「袖振坂」の話しは、「ちょっとムリ…」と言われるかも…。

「46は、赤穂浪士の切腹した人数で、一人は生き残って…」の話しも、「うざい」と言われるかも…。

次回のコラムで書く、有馬家の水天宮さんや有馬温泉のお話しは、おじいちゃん、おばあちゃんたちにしましょうね。
「ん。息子が、有馬温泉に連れていってくれるんだとよ…」。
「ありま…泣」。

* * *

ちなみに、来年のNHK大河ドラマの主役は「日向守(ひゅうがのかみ)」こと明智光秀です。
今年大ブレイクしたゴルフの女子選手は、渋野日向子(しぶのひなこ)さん。
NHKは、「日向」人気にあやかろうとしたわけではないでしょうが、何だか今、坂を転げ落ちそうです。
光秀がらみは、昔から何かが起きますね。
坂で足を滑らせたら、あっという間に、織田信長の二の舞です。

いずれにしても、来年、「日向」の名の赤ちゃんが、たくさん誕生するかもしれませんね。
きっと愛犬や愛猫にも「日向ちゃん」がたくさんいるはず…。


◇渋谷川にそって…

さて、日向坂の急坂を下ると、そこには渋谷川が流れています。
下の写真のように、左側からの坂を下りきったところに川は流れています。
ここは「二の橋」が架かっています。

川の上には、首都高速道路です。
1964年の東京オリンピックに間に合わせるため、川の上に道路を短期間でつくっていきました。
ちょっと、川が かわいそうにも見えてきます。

 

下の写真では、右側が山側です。

 

こんな都会のど真ん中ですが、下の写真のように、小さな橋のたもとに、野菜などを売る露店がありました。
江戸時代も、このような店が、川っ淵や、橋のたもとに立ち並んでいたのでしょうね。
ちょっと、ホッとした風景でした。

 

渋谷川は、下の写真の右側から流れてきて、90度右に折れ、写真奥の高速道路の下を流れていきます。
都会では、高速道路が、街に覆いかぶさるように通っていますね。

 

下の写真は、「麻布十番駅」の周辺です。
その向こうは、また坂を登っていきます。
ようするに、渋谷川は、小高い山をすり抜けるように曲がりくねり、低地を探しながら、東京湾に向かって流れていきます。

 

下の写真の場所に見覚えのある方は、古くからのテレビドラマ通ですね。
ここは「新 一の橋」交差点です。
遠くに六本木ヒルズが見えます。
江戸時代にもありました「一の橋」もこの手前に架かっています。

右側の薄茶色の建物は、「麻布永坂更科本店」です。
写真右奥に向かって、急な上り坂の「永坂(ながさか)」があります。
「更科(さらしな)」という老舗のソバ店は、永坂の上から、その坂の下におりてきました。

江戸のソバ屋さんには、「蕎麦御三家」というものがあり、この「更科(さらしな)」、「藪(やぶ)」、「砂場(すなば)」のことです。
「更科」は、もちろん信州からやって来た商人がつくったソバ屋さんです。
今でも、東京では、この三つの屋号をたくさん見ることができますよ。

 

ここで、渋谷川が右に90度曲がったのと同じように、私も、環状三号線道路を右に90度曲がって歩いていきます。

一瞬、振り返った時の写真が下のものです。
ローマ帝国の城壁のような高速道路の壁が、街の中を蛇のように通っていますね。
私たちは、何かから守られているのでしょうか。
何かにさえぎられているのでしょうか…。

コラム「みゆきの道(3)御蔵と御浜 / 芝・三田 1」で書きました、落語「芝浜」の魚屋さんが行商に来ていた場所はこのあたりだと思います。
「中の橋」と「赤羽橋」の間にあった「ちょろ河岸」です。

 

コラム冒頭で書きましたが、ここで渋谷川の流れを見るためと、もうひとつの ある理由で、進行を右にきるのですが、その風景は、次回コラムで紹介します。

今回の芝・三田地域の大名屋敷地域巡りの、スタート地点であった赤羽橋駅に戻って来た時には、もうすっかり日が傾いていました。
東京タワーが、より赤色に染まって、海老のようです。
増上寺も、そろそろ閉門でしょうか。

いろいろなことを書いてきましたが、江戸時代、芝・三田の大名屋敷地域で大活躍していたのは、「薩摩パワー」の島津家だけではありませんでした。
武力や政治力とは違うかたちで、存在感たっぷりの「有馬パワー」が炸裂していたのです。
江戸時代、そんな大名家もいたのです。

次回からの「みゆきの道」シリーズでは、この地域のもうひとつの強大パワーの「久留米藩有馬家」のことをご紹介します。

今回の芝・三田巡りでは、江戸時代、明治時代、大正時代、昭和から現代まで、ついでに平安時代まで、さまざまな遺構を見てきました。
幕末ファン、忠臣蔵ファン、落語ファン、アイドルファン?にも楽しめるスポットがありましたでしょうか。
皆さまも、機会がありましたら、どうぞ散策してみてください。

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次回のコラム「みゆきの道(6)有馬さまの火と水」からは、この地域の有馬家屋敷のこと、そして東京下町の人形町に足を運びたいと思います。
西郷隆盛が、江戸東京で暮らした街…、それは人形町です。

日比谷の「鹿鳴館(ろくめいかん)」や、「みゆき通り」には、その後に戻ります。

次回の「みゆきの道(6)有馬さまの火と水」へ続く

 

 

2019.12.11 天乃みそ汁

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