二宮尊徳(二宮金次郎)の戦い。足柄山の金太郎。酒匂氏と秦氏。伊奈忠順と田中丘隅。飯泉取水堰の戦い。箱根山戦争と小田急。酒匂川と栢山。金時山。小田原提灯。

 

 

よどみ…(9)金次郎と酒匂川


コラム「よどみ…(8)芦ノ湖のよどみ?」では、富士山の噴火や箱根のお話しなどを書きました。
今回は、相模湾に流れ込む関東南部の川について、歴史もまじえて、ご紹介いたします。


◇金次郎の戦い

前回コラムで、宝永4年(1707年)の富士山の大噴火の後、大雨により、酒匂川流域が洪水や泥流、土石流などで、幾度もたいへんな被害を受けたということを書きました。

宝永噴火の80年後、1787年に、神奈川県小田原市の山間部の「栢山(かやま)」という地域に生まれた、「二宮尊徳(にのみや そんとく)〔二宮金次郎・二宮金治郎〕」も、酒匂川の洪水を何度も体験し、たいへん苦労したそうです。

酒匂川の川沿い、小田原中心部の少し北の中流域に、「栢山(かやま)」はあります。
ある意味、噴火から80年しか経っていません。
酒匂川流域は、依然として、洪水などの自然災害の危険にさらされたままの地域でした。
原因はもちろん、富士山の火山灰です。

* * *

近年、おかしな理由をつけられて小学校から次々に撤去される、二宮金次郎さんですが、この像は、もしかしたら、洪水で崩壊した土地を、本を読んで勉強しながら、薪を背に、復旧開墾作業を手伝っている姿なのかもしれませんね。
そしてそれは、まさに自然災害の被災者が、懸命に立ち上がろうとする姿と同じなのかもしれません。

勉学・努力・奉仕・志し・貧困・芸術表現、そして被災・復興も…、金次郎像の中にはたくさんのものが詰まっていますね。
銅像や石像の表面づらだけを語るのではなく、その中味をきちんと子供たちに教えてほしいものです。
撤去理由は他にもあるのかもしれませんが…。

* * *

金次郎は、子どもの頃の話しをしなかったそうですが、両親を早くになくし、家が没落後は、いつも貧困に悩まされ、一家が離散した原因に、度重なる洪水被害も一因であるのは間違いないと思います


金次郎は独力で立身出世を果たしますが、今でも残る酒匂川堤防の松林は、金次郎が子供の頃に植えた松の苗が起源だという話もあるようです。
真偽はわかりませんが、金次郎は、松の苗一本一本に、バラバラになった家族を思いながら植えていったのかもしれませんね。

勝海舟は、金次郎を称して、「きびしい環境や時代が、このような人物を輩出させる」という意味あいの言葉を残していますが、富士山と箱根と酒匂川が、二宮金次郎という人物を生んだのかもしれませんね。
まさに時代は激動の幕末に突き進んでいました。

* * *

二宮金次郎さん…、かんたんに小学校から撤去していい人物像ではないような気がします。
小学校でなくても、被災地の目立つ場所にあったら、多くの人に勇気を与えてくれるような気もします。

二宮尊徳(二宮金次郎・二宮金治郎)が、本当は、どのような性格や人間性の人物だったのか、私にはよくわかりません。
ですが、私は、二宮金次郎の像には、その人物像とは関係ない、ある種の思想や志し、努力精進という精神性を感じます。

スマホなんて、いつかは時代から消えていきますが、守るべきものは別にありそうな気がします。
正しいことが何か、正しくないことは何か、子どもたちにも、しっかり区別して理解できるはずです。
教育現場で、伝えることを、怠ってはいけない気がしますね。

ちょっと固い話しになってしまいましたので、「金次郎さん」から、「金太郎さん」のお話しにチェンジ!


◇三人の金さん

箱根には、「足柄山(あしがらやま)」という呼称の山域があります。正確には、箱根の火山の外輪山の一部です。
この足柄山の山域の中に、「金時山」があります。
前回コラムの挿入写真を、もう一度掲載します。
芦ノ湖の少し北、早川の上流域に、金時山はあります。


 

「足柄」とは、「足柄山の金太郎さん」のあの「足柄」です。

実在したかどうかわかりませんが、「坂田公時(さかたのきんとき)〔坂田金時〕」という平安時代の武将ともいわれています。
子供時代の、その姿やエピソードは有名ですよね。
熊の背に乗って、赤い腹掛け、赤い顔、マサカリ(斧に似た古代の武器)をかついだ姿の人形や置物は、今でもたくさん見かけます。
日本を代表するキャラクターのひとりですよね。

自分の幼子に、赤い腹掛けをつけさせて、写真を撮る方は、今でも非常に多いです。
足柄山の金太郎さんのように、強く立派に育ってほしいという親の願いが詰まっていますね。

金太郎さん以来、次に、箱根の足柄山のすぐ近く、江戸時代の酒匂川に生まれた、「金」の文字のお名前のヒーローが誕生しました。
ひょっとしたら、金次郎さんのお父さんも、息子に、金太郎さんのようになってほしかったのかもしれませんね。
そのとおりに、なりました。

金時山の「金時」は、、まさに「坂田公時(さかたのきんとき)〔坂田金時〕」のことです。
金時豆、金時にんじん、宇治金時…、みな金太郎の顔の赤色からきています。
赤色の食物なのに「金」とは、こうしたことで、つながっています。

* * *

ちなみに、金平ごぼうの「金平(きんぴら)」は、江戸時代のエンタメ業界が作り出した、坂田金時の息子の「坂田金平(さかたのきんぴら)」というチカラ持ちのキャラクターの「金平」のことで、ピリッと辛いごぼうの新メニューを表現するのに、利用されたものだとも聞いたことがあります。
エンタメ業界も、食品業界も、おそらく「金毘羅(こんぴら)さん人気」にも便乗したのでしょう。
親子そろって、料理名とは、江戸時代のヒット商品仕掛人もけっこうやりますね。

金太郎さんと金次郎さん、それに金平さん。
まさに、「金のたまご」たちですね。
若い世代の方々…「金のたまご」の意味は、調べてください。


◇栢山(かやま)

今回の「よどみ」シリーズのコラムで、川や治水、防災の話しを書くきっかけは、もちろん、先般の東日本の台風や大雨での大被害です。
二宮金次郎のことは概要しか把握はしていませんでしたが、おそらく何十年ぶりかで頭に浮かんだお名前でした。

実は、前述の「栢山(かやま)」という地域には、私鉄である小田急小田原線の「栢山駅」という駅がしっかりあります。
小田原駅の四つ手前に栢山駅はあります。
私はうかつにも、「栢山」という地名も駅名も、まったく知りませんでした。
金次郎は小田原の人という認識しかありませんでした。
小田急線で栢山を通り過ぎ、小田原や箱根方面に行ったこともあるのにです。
お恥ずかしい話しです。

まさか、二宮金次郎が生まれ、活躍した場所が、乗り換えはあったとしても、東京の新宿から電車線路で直結していたとは、想像もしていませんでした。一日旅にはなりますが、東京から日帰りだって可能な範囲です。
小田急線沿線に、まさか、こんな歴史的な場所があったとは…。

* * *

小田急電鉄さんは、たいへん素晴らしいです。
下記のサイトで、栢山周辺の観光ガイドも行ってくれています。

小田急沿線「自然ふれあい歩道」

この小田急のサイト内の写真ではありませんが、このあたりの、ある風景写真をネットで見ました。

手前に酒匂川が流れ、堤防には金次郎ゆかりの松林、その向こうに少し低めの箱根の山々、その向こうに富士山の上半身が見えているのです。
富士山の噴火による大土石流や泥流、洪水の被害を知らなければ、風情ある美しい風景に見えます。
ですが、こうした災害を知っていると、この風景はなんとも切ない思いにかられます。

被災者でしたら、なおさらだったでしょう。
富士山や酒匂川を恨んでも、仕方のない話しなのかもしれません。
とはいえ、前述の平穏な日々で見る穏やかな風景との落差が大きすぎて、なんとも複雑な思いになります。

大量の火山灰、大量の雨、激流と洪水、こんな三重苦と、これほど長い歴史をかけて戦っている地域は、そうそうないと思います。
勝海舟が言った「環境」とは、まさにこのことなのですね。

ですが、今度、一度は訪れてみたい場所になりました。
酒匂川には、信玄堤のひとつである「霞堤(かすみてい)」が、今でもしっかり残っているようです。
前回コラムでも少しだけ書きましたが、今、洪水問題で注目の「霞堤」です。

金次郎さんの生家や記念館があることも、今回初めて知ることができました。
神奈川県にお住まいの大半の方々は、ご存じなのかもしれませんが、隣の東京人の大半は知らないのかもしれません。


◇大小田急

そうだ!
そういえば、小田急の「小田」は、小田原の「小田」でした。
東京の新宿から小田原に線路が伸びていったわけではなく、小田原からスタートして東京と結んだのでしたね。
すっかり忘れていました。

遠く昔に聞いた記憶が、少しよみがえってきました。
小田急は、戦前に、あの「大東急(だいとうきゅう)」に組み入れられます。
戦後の「大東急」解体で、東急、小田急、京王、京急、相模鉄道などの鉄道会社に分割されましたね。

小田急という鉄道会社は、もともと水力発電の会社が、大正時代につくったものでしたね。
つくった電気で、電車を走らせ、稼ごうといったところでしょうか?
そういえば、小田急グループが経営しているのは、箱根の登山電車も、ロープウェイも、みな電気走行ばかりですね。
バスやタクシーは、今のところ違いますが、そのうち…。
今は、電力会社はありません。
小田原に目をつけたのも、「先見(せんけん)の明(めい)」がありましたね。

今はなき向ヶ丘遊園地などのレジャー施設や、百貨店経営、旅行ビジネス、ホテル経営、などは、みな電車に人を乗せて運ぶところから始まりますね。
もちろん不動産売買や建設自体も、自前で行っています。

小田急は昔、砂や砂利を採取して販売していたことを聞いたことがあります。
ひょっとして、この酒匂川の砂や砂利?
日本の高度経済成長期には、使いまくったセメントですね。
小田急は、なかなかすごい企業です。
もはや「大小田急」ですね。


 

上の写真は、酒匂川を渡る、少し古い時代の小田急ロマンスカーです。
富士山の手前にある山々が、箱根の山域です。
金次郎さんも、この風景を、いつも見ていたことでしょう。


◇箱根山戦争

実は箱根という場所は、江戸時代以前からそうであったように、まさに「天下の険(けん)」の場所で、厳しさ、苦しさ、困難、災難、争いが絶えません。
箱根駅伝には、文字通り、ふさわしい場所ですが…。

箱根一帯は、昭和の戦前戦後に、鉄道会社どうしの、ある大戦争が何十年にもわたって起きた場所です。
「箱根山戦争」という呼ばれ方もしますね。

前述の「大東急」の動向も、戦国時代の武将の動きによく似ていますが、この「箱根山戦争」はまさに、戦国時代の戦いにそっくりです。
これは、武将どうしの戦いではなく、鉄道会社の戦いでした。
ある意味、今でも、完全終息したわけではありません。

たとえると、武田信玄と北条氏康と今川義元が、箱根の争奪戦を繰り広げたような印象です。
今川義元が、早めにいなくなったことも似ています。

それは、現代の、小田急電鉄、西武鉄道、東急電鉄の戦いでした。

そこに地元の有力政治家グループ、中小の地元武士が加わって、壮絶そのものでしたね。
今でも、提携するだの、連携するだの、解消するだのという話しを聞きます。

箱根は火を噴くだけではありません。金も噴くのです。
金太郎も、金次郎も、天国から、面白がって見ていたかもしれませんね。

「箱根山戦争」の詳細は書きませんが、ある意味、戦国時代の小さな戦よりも、はるかに面白いし、企業経営者には、とてもいい参考書だと思います。
今現在、小田急も、西武も、東急も、日本を代表する企業グループですので、あまり詳しく、この戦争を知ることはできませんが、何百年後には、「関ヶ原の戦い」のように研究対象にされるのだろうと思いますね。

* * *

現代は、もちろん戦国武将などいません。
ですから戦国時代の武将たちの様相を、現代の中で例えるのは非常に難しいことです。

政治家のライバル関係や闘争は、比較すると、意外と遠いのではと思っています。
一般の企業どうしの競争も何かピンときません。

私が、一番、イメージに近いと感じるのは、明治時代以降、現代も含めて起きている、鉄道会社間のライバル関係や競争ではないかとも思っています。
勢力拡大、領土拡大、連携、裏切り、謀反、放念なども、戦国時代に似ています。
生き残りをかけたビジネス拡大戦略も、戦国武将の政策や調略に似ている気がします。

鉄道をおさえることは、その地域の社会や経済をおさえることにも似ています。
時に政治家や地元勢力とも連携します。
なにより、企業間の戦いが、武将どうしの戦いのように、相当に激しいのです。
箱根山戦争の時の、ライバルへの対抗心のすごさは、戦国時代そのものです。

東京スカイツリーは「東武鉄道」が奪取しましたね。
東京お台場は「JR東日本」の支配地?
箱根は言うに及ばず、軽井沢と秩父は西武、日光や栃木・群馬は東武、東京横浜間は東急など、支配地の奪取や拡大は熾烈です。
この奪い合いは、戦国武将たちの領土の奪い合いにそっくりですね。

重要拠点の争奪戦もすごいですね。
東京都中心部の拠点では、池袋は西武と東武、新宿は小田急と京王と西武、渋谷は東急、浅草は東武と京成、江戸東京の地下は東京メトロ、そして全地域を制圧する大勢力はJR東日本といったところでしょうか。
中小の武将たちは、隙間をねらって、大勢力に立ち向かいます。

JRを将軍クラスと考えれば、大手私鉄は織田や武田などの国守クラス、とはいえ天下取り候補です。
地元で光る存在の小さな鉄道会社は、さしずめ真田幸村、後藤又兵衛、山中鹿之助あたりでしょうか。
例えが敗れていった武将ばかりですみません。光るという意味です。源義経もそうですね。
これがまた、いい光を放っています。

鉄道会社の戦国乱世のお話しは、あらためて、本物の戦国時代にたとえて、書いてみたいと思っています。


◇徳をもって、徳に報いん

先般の台風19号でも、金次郎さんへの感謝がネットで話題になったそうです。

農機具をたくさん発明し、被災農家だけでなく、日本の農家の方々からたくさん感謝された金次郎です。
金次郎は、経済学や農業、治水に精通しており、幕府の役人も務めました。
財政再建にも活躍しました。
「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼ばれる経済思想も残しました。

世の中には「報徳」という思想がありますが、二宮金次郎は経済や社会と結びつけて、別の思想学問をつくりあげました。
いきすぎた理想論や建前論ではない、現実的で、バランスのとれた、人間的な思想も多く、金次郎が残した名言の数々は、多くの企業家や教育者、政治家に影響を与えていますね。現代でも、好きな方が多いです。

豊かさへの欲望、自由、倫理、道徳、報恩、奉仕など、宗教とも違う、ある意味、日本人的なバランス感覚が生み出した思想のようにも感じます。
それが経済学や経営学とも結びついているというのも面白いですね。

幕末から明治維新の激動期や、その後の猛烈な近代化、昭和の戦後復興期など、日本人がたいへんなチカラで時代を動かした時期に、こうした思想が後押ししたのかもしれませんね。

* * *

「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」(現代訳)も有名な言葉ですね。

「貧者は昨日のために今日働き、富者は明日のために今日働く」(現代訳)というものがありますが、防災という視点で言い換えれば、 「貧者の防災は、被災した昨日のために、今日 防災活動を行い、富者の防災は、明日あうかもしれない被災のために、今日 防災活動を行う」といったところでしょうか。

「徳をもって、徳に報いん」。
古い中国から伝わってきた言葉ですが、今の日本にもしっかり生き続けている気がしますね。
防災も、災害復興も、みな同じなのかもしれませんね。


◇先人に感謝

私たちの少し前の時代には、防災という面で尽力、活躍した先人たちがたくさんいて、そのおかげで、現代の私たちの暮らしが、安全に成り立っているといって間違いありません。

酒匂川は、江戸幕府八代将軍の徳川吉宗が、大掛かりに整備しましたが、これも、富士山の宝永噴火で脆弱になった酒匂川の復旧と、江戸防衛の一環のものです。
箱根の山と関所、酒匂川は、江戸城のもっとも外側にある、土塁と櫓(やぐら)と水堀と考えていいのかもしれませんね。

あの小田原城は、酒匂川の西側(江戸とは反対側)にあります。
酒匂川は、江戸を西からの攻撃から守り、北条氏のいる小田原城を北東から来る上杉軍から守りました。
酒匂川は、防衛上でも大切な川だったと思います。
江戸幕府は、箱根と酒匂川を脆弱なままで放っておくことはできなかったと思います。

* * *

前述した通り、酒匂川には、「信玄堤(しんげんづつみ)」のさまざまな機能も、たくさんつくられました。
前々回コラム「よどみ(7)隅田と墨田・住吉の反橋・白ひげの翁」でも少しだけ書きましたが、「信玄堤」の武田信玄や、東京でいえば徳川家康、埼玉県伊奈町の祖である伊奈一族など、防災の観点で、現代人が感謝しなければいけない歴史上の人物は、たくさんいます。

おそらく、日本各地で、地震や噴火、津波や洪水、土石流や泥流、氾濫や渇水などの自然災害や、農地開拓や街道整備などに、立ち向かった先人たちが、たくさんいたと思います。
皆さんの地元にも、そうした偉人たちがいると思います。

酒匂川の治水や防災という視点でいえば、二宮金次郎(二宮尊徳)、徳川綱吉、徳川吉宗、武田信玄、大久保忠世、大久保忠隣、伊奈忠順、田中丘隅などが、関係の深い人物です。


◇伊奈忠順と田中丘隅

伊奈忠順(いな ただのぶ)は、伊奈氏の一族です。
江戸時代の江戸の治水と橋づくりといえば、埼玉県伊奈町の祖である伊奈氏一族を欠かせません。
伊奈氏は、今の長野県伊那市ともつながりがあるようです。

彼は、酒匂川復興の最高責任者としてやってきました。
彼は幕府に無断で食料を被災者に配り、切腹を命じられます。
復興半ばで死去しましたが、被災者たちからは慕われました。
明治時代になってから、今の静岡県小山町の伊奈神社に、大功労者として祀られました。

* * *

戦国時代や江戸時代では、武士の死に方として、死期を悟った時点や、死に場所を決めた時点などで、自分の家を守るため、領民を守るため、名を残すため、本懐をとげるためなど、現代人とは少し異なる選択肢がありました。
忠順も、この酒匂川で、何かの道を選択したのかもしれませんね。

忠順は、酒匂川にやってくる直前まで、江戸の隅田川の浅草周辺の改修を行っていたようです。
江戸幕府が、伊奈氏一族を軽く扱うはずがありません。
大きな家系ですので、後継者が絶えることはありません。
食糧の無断配布事件では、幕府と伊奈家の間で、何かの話しあいがあったのかもしれませんね。

現代では、被災者の支援や、ボランティア活動は、比較的、個人の自由で行えますが、江戸時代はまず不可能です。
独裁政権とは、とかく面子(めんつ)や、身分の階級があります。
忠順にとっては、命と引き換え覚悟の、被災者支援だったと思います。
これも、当時の武士の生き方のひとつですね。
死に方は、その武士の生き方を示すと言われることがありますが、現代人には、なかなか想像がおよばない世界です。

伊奈氏のお話しは、あらためて、江戸の隅田川の橋のお話しの時に…。

* * *

田中丘隅(田中休愚)〔たなかきゅうぐ〕は、農家出身ですが役人となりました。
治水事業や堤防づくりが得意で、酒匂川の「文命堤(ぶんめいづつみ)」もつくりました。
今でも残っています。

彼は、数々の有名な治水防災事業に関わった人物で、相当に、頭の良い人物だったようです。
「丘隅」や「休愚」という、その名をみても、なかなか、しゃれた名前を使っていましたね。
「隅」の文字の話しは、コラム「よどみ(7)隅田と墨田・住吉の反橋・白ひげの翁」で書きましたね。
隅田川の「隅」と同じでしょう。
おそらく、二宮金次郎さんと同じように、教養や知識が、クチからあふれ出るような人物だったことでしょう。


◇酒匂氏と秦氏

ちなみに、酒匂川の「酒匂(さかわ)」とは、桓武平氏の流れの鎌倉氏や梶原氏から分かれた、「酒匂(さこう)氏」の一族のことです。
鎌倉時代に島津氏と一緒に、九州の薩摩に移住しました。
鹿児島県の志布志(しぶし)や姶良(あいら)に、子孫が残っているそうです。

子孫の方々、一族の故郷の川が、小田原の近くに、その名を残して今でも流れていますよ。
佐良さん、相楽さん、相模さんも、その流れのようです。
自分の一族のルーツの川が、名前とともに残っているなんて、ちょっとうらやましいですね。

* * *

相模湾の「相模(さがみ)」の語源は、諸説ありすぎで、よくわかりませんが、その中には、箱根の坂から見下ろす「坂見(さかみ)」というものがあります。
「相」とは、樹木を目で見る、まさに「見る」や「観察する」という意味もあります。

語源には、その他、「酒醸(さけみ)」というものもあります。
古代に大陸から渡来した「秦(はた)氏一族」の中に、「秦酒公(はたのさけのきみ)」という人物がいたそうで、この酒匂川あたりで酒造りを始めたという話もあります。川に酒の匂いが漂っていても何の不思議もありませんね。

* * *

京都にある秦氏の建立した広隆寺と、そこにある弥勒菩薩像は非常に有名ですね。
蘇我氏と並んで秦氏は、飛鳥時代の有力な一族でした。

私は、「秦氏」と耳にすると、弥勒菩薩のお顔とあの指先が、いつも頭に浮かんでしまい、秦氏のすべてが何か美化されて見えてしまいます。
秦氏の顔が、あの表情であるはずないのに…。
私は、「蘇我氏」と耳にすると、あの「首ちょんぱ」(入鹿〔いるか〕の暗殺の絵)をすぐに思い出してしまいます。
イメージとは怖いものです。
神奈川県…、秦氏でよかったですね。

秦氏は、どこの国から来た人たちだったのかわかっていませんが、神奈川県の地域は、秦氏が開拓した土地で、古墳も多数残っています。
秦野市(はたのし)という市もありますね。そのまんまの市名です。

秦氏と酒匂氏のつながりを、私は知りませんが、何かつながっていても不思議はありませんね。
神奈川県には、鎌倉幕府があったこともあり、敵の征伐など、日本各地に出向いたり、移住した一族が少なくありません。
ルーツを神奈川県に持つ一族も少なくないと思います。
ちょっと、ルーツを調べたくなったら、京都や奈良の関西地域だけでなく、神奈川県も調べてみると面白いかもしれませんよ。


◇飯泉取水堰(いいずみしゅすいぜき)

さて、前回コラム「よどみ(7)芦ノ湖のよどみ?」で、次のように書きました。

「この酒匂川を渡るとき、左手に酒匂川ならではの光景を見る事ができます。 私は、今回のコラムのために、新幹線の車窓動画を見て、初めて気がつきました。 新幹線のスピードでは見ることができなかったものを、車窓動画を停止させることで見つけることができました。」

ユーチューブで見た、東海道新幹線の車窓動画で、酒匂川を渡る時、その上流側、東京からですと右側、名古屋からですと左側に、酒匂川を横切るように、ある構造物がつくられているのです。

水色の横長の構造物で、オレンジ色の部分も見えます。
あきらかに橋ではありません。

さっそく、グーグルマップの航空写真でたしかめてみました。
いろいろ調べていくうちに、これは「飯泉取水堰(いいずみしゅすいぜき)」だということがわかりました。

そして川岸には「飯泉ポンプ場」がありました。
全体の構造物が、さまざまな用途に使う水を、この酒匂川から取り入れる施設ではないかと思います。
オレンジ色に見えたものは「洪水吐き(こうずいばき)」のゲートでした。

「洪水吐き」とは、ダムや貯水池などにある設備で、水を放流する、止めおくために機能するゲートです。
いろいろな形式があります。

まさか、新幹線の車窓から見ることができる「洪水吐き」があるとは思ってもいませんでした。
どうしてここにあるのか?
河口付近ですので、ひょっとしたら海からの津波による、酒匂川の逆流にも備えたものなのかもしれません。

* * *

実は、驚かされたのは、洪水吐きの設備ではありません。
車窓映像でも、グーグルの航空写真でも、はっきり見えるのですが、新幹線とこの堰の間にある、砂山のような巨大な中洲です。

川の堰(せき)の前後に、土砂がたまったような場所があるのはめずらしくありませんが、ここまで大規模で灰色のものは見たことがありません。

航空写真をよく見てみましたら、この堰の前後の中洲に、複数の大型車両が、この砂らしき土砂を取り除いている作業が見えます。
川では土砂がたまりますので、それを排除する作業は、それほど珍しくはありませんが、車両の数も多く、かなり大規模に見えます。

グーグルマップの航空写真で、酒匂川を上流にわたって見てみましたら、なんと山北町あたりの山あいの谷まで、断続的に大小の中洲が続いているのです。
それも灰色です。
灰色の中洲だらけです。
お隣の早川や、相模川と比べてみても、あきらかに色が違っています。
前述の黄瀬川はどうだろうかと思い、見てみましたら、灰色ではないですが、こちらは、ごろごろした石や岩だらけです。

酒匂川は、黄瀬川のような大きな石は見えないのですが、全体が灰色なのです。
この灰色は、もしかして…、火山灰?
今でも、この地域では、日夜、火山灰と戦っているのでしょうか?

私は、実際に酒匂川の河川敷に立ったことはありません。
今回、航空写真で見ただけですが、ここまで灰色の川の中洲は、他所(よそ)では、あまり見たことがありません。
新幹線の車窓から見える、巨大な砂だまりは、何なのでしょう?

もし火山灰なら、川底で固まってしまったら、たいへんです。
川の機能さえ果たさなくなってしまいます。
川の洪水の原因にもなりますね。
ひょっとしたら、この「飯泉取水堰(いいずみしゅすいぜき)」は、取水だけでなく、砂を取り除く「浚渫(しゅんせつ)」作業の役割も担っているのかもしれません。

航空写真に写っている大型車両で、この砂を取り除くには、何年かかっても無理なほどの量に見えます。
小田急が、砂や砂利を採取して販売していたことを思い出しました。

酒匂川では、今でも、火山灰との壮絶な戦いを続けているのかもしれませんね。
何とも厳しい自然環境に感じます。

よくよく考えれば、小田原あたりの地は、昔からそうしたものだと理解できるのでしょうが、今回 目にするまでは、なかなか実感できませんでした。
今回、思わぬものを、ネット上から発見できました。

* * *

この砂や砂利の浚渫(しゅんせつ)作業のことを、少しだけ調べてみましたら、神奈川県による、かなり大きなプロジェクトのようです。
大型台風の度に、大量の火山灰が富士山方面から押し寄せてくるようです。
そして、もはや、この大掛かりな浚渫工事は、小田原の冬の渇水期の風物詩だと呼ばれているそうですから驚きです。
やっかいな風物詩です。
かつて江戸幕府がやっていたことを、神奈川県が行っているとは…。

私は治水の専門家でも何でもありませんので、堰(せき)の役割については承知しておりません。
酒匂川に、もし火山灰が堆積しやすいのであれば、その原因が、川の形状にあるのか、人間が川に行う さまざまな行為にあるのか、わかりません。
いっそ、酒匂川から相模湾に、一気に砂が流れて運ばれればいいのにと勝手に思ってしまいます。
ですが、それには大量の川の水が必要です。
それはそれで、また流域が危険にさらされます。

一気に相模湾に流したら、漁業にも多大な影響が出るでしょう。
砂浜が大きくなったらなったで、砂の害もおきるでしょう。

この「火山灰」というやからは、とにかく始末が悪い。
砂になったり、石になったり、岩になったり、泥になったり、風で遠くまで飛んだり、水と妙に仲がよい…。
人間の肺や、精密機械の隙間に入り込んだら、それはたいへんです。
自動車や飛行機、電車も止めてしまいます。
自然とは、どこまでやっかいなものなのでしょう。
人間のチカラが及ばないもの、それが自然なのかもしれません。

これは、川の土手で、酒でも飲まなければ、やっていられないかもしれません。
(注)特別な場合以外に、やってはいけません。
私にとって、これから、今までと違う視点で注目していきたい、そんな酒匂川になりました。


◇マジか~、箱根

さて、箱根駅伝では、「早川」のすぐ横を、選手が走って、箱根に上っていきます。
早川は、酒匂川のお隣で、この両川は、箱根や丹沢の山々の水を相模湾まで送る役割を果たしています。
芦ノ湖の水だけは、前回コラムの通りです。

浜名湖のある浜松あたりから、東海道を江戸へ上るときは、三つの大きな湾を越えていきます。
駿河湾、相模湾、江戸湾です。
相模湾には、前述の酒匂川、早川のほか、相模川という大きな川が流れ込んでいます。

* * *

酒匂川のお話しで、すでに長文になってしまいました。
本当は、今回のコラムで、相模川までたどりつきたかったのですが…。

「まだ、酒匂川あたりで、よどんでいるの…」と言われそうですが、なんとも遅い新幹線ですみません。
それにしても、新幹線「のぞみ」なら、名古屋から小田原まで1時間10分あまり、東京からなら30分です。
「マジか~。俺の通勤時間は何なんだ。時間を返せ。」と怒鳴りたくもなりますね。
現代では、時間とは意外と高価なものです。
江戸時代の庶民には、時間はいくらくらいの価値だったのでしょうね。
今度、旅の時の籠(かご)代、川の渡しの料金、宿代、旅のガイドブックや絵ハガキの料金、旅支度の費用、ワラジ代、提灯代、飛脚の料金などを、総合的に、現代の旅の費用と比較して書いてみたいと思っていますが、少し先になります。

新幹線の中で、この「映像&史跡 fun」をゆっくり読んでおられる読者も多いと聞き及んでいますが、小田原や富士、箱根あたりで、車窓を見ながら、今回の内容を思い出してもらえましたら幸いです。
小田原城のお話しは、コラム「旅番組とお城(4)どこから見てるの」でも、少し書いています。

私にとって、小田原は、小田原城、北条氏、石垣山城、かまぼこ、ういろう、魚の干物、提灯(ちょうちん)でしたが、金次郎の故郷「栢山(かやま)」と「酒匂川」がしっかり加わりました。

* * *

「小田原提灯」は、東海道の旅人のために改良された、持ち運びやすい、旅の携帯用提灯が、その起源だそうです。
まさに箱根の産物といえますね。

江戸時代では、東海道を夜間に歩いて移動するなど、危険すぎる行為です。
ですが、箱根越えは、そうはいきません。途中で、どんなトラブルが起きるかわかりません。
日没、崖崩れ、火山ガス、道に迷う、山賊、猛獣に出会う、腹痛、発熱、ねんざ、ワラジの鼻緒が…。
昼間のうちに、安全に通り抜けられる保証はありません。
提灯を携帯せずに箱根に入るのは、現代の今、ヘッドライトを持たずに、連泊の山登りに行くようなものですね。

小田原の「提灯愛」の灯は、今も消えていません。


 

小田原駅の大提灯は、台風で大きな被害を受けたときいています。

小田原提灯祭りは、今年も台風で中止だったようです。

それでも、小田原の提灯の灯は消えることはないと思います。

 

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「マジ」、「やばい」という言葉は、江戸時代のエンタメ業界用語から広まったと、前回コラムで紹介しましたね。
箱根は、昔から、非常時の対応や、防災意識とは切っても切り離せない、そんな「マジか~」の場所だったのですね。

次回のコラムは、相模湾にそそぐ最大の川、相模川などについて書いてみたいと思います。
江戸東京までは、まだまだです。

それでは次回に。

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コラム「よどみ…(10)」へつづく

 

2019.11.7 jiho

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