鹿鳴館。薩摩藩島津家。芝・三田・高輪の大名屋敷。松平姓と官職名。西郷と勝の会談。荒城の月。西郷隆盛・西郷従道・勝海舟。江戸無血開城。生麦事件

 

 

みゆきの道(2)薩摩どん



◇日比谷門から出発

コラム「みゆきの道(1)運命の桜田門」の中で、「祝賀御列の儀(祝賀パレード)」の帰りに、皇居の桜田門から、霞が関を通り、日比谷公園までの道のりのことを書きました。
今回と次々回のコラムでは、その続きで、日比谷公園の日比谷門のすぐ近くにある「鹿鳴館(ろくめいかん)」に関して、歴史のいろいろを加えながら書きたいと思います。
その後は、「帝国ホテル」などを見ながら、「みゆき通り」のスタート地点である「山下門跡」に向かいたいと思います。


 

◇鹿鳴館跡

上の写真は、日比谷公園の中から、日比谷・銀座方面を見た写真です。
明治時代、真ん中のガラス張りのビルの場所に、「鹿鳴館(ろくめいかん)」がありました。

下の写真の、日比谷通りに面した樹木が多くある場所が、鹿鳴館の正門があった場所です。
樹木のすぐ左側の、ビルのガラス面に他の建物が写り込んでいます。
日比谷公園の日比谷門から眺めた風景です。




 

◇薩摩藩島津家

上の写真の場所に、鹿鳴館の正門がありました。
もともと、江戸時代の終わり頃は、この辺りに薩摩藩島津家の中屋敷(桜田屋敷)がありました。
「装束屋敷(しょうぞくやしき)」ともいいます。

装束屋敷とは、登城の前に装束を整えるといった意味の用語です。
もうひとつ、江戸時代に薩摩藩の支配下に組み入れられた琉球王国が、江戸城登城の際に、装束を整えたという屋敷でもありました。

薩摩藩とは、今の鹿児島県です。

幕末の薩摩藩の絶大な権勢や役割は、皆さまご存じのとおりです。
コラム「みゆきの道(1)運命の桜田門」で「桜田門外の変」のことを書きましたが、その事件の後に、絶大だった彦根藩井伊家のチカラは完全に弱体化しました。
幕末の数年、江戸幕府は、もはや絶対的な支柱がいないような状態でしたね。
徳川御三家は、それぞれの道を進んでいきます。各地の松平家も同様です。

江戸城周辺の大名屋敷の大半は、上屋敷なのですが、日比谷の薩摩藩邸は中屋敷(桜田屋敷・装束屋敷)でした。
薩摩藩くらいになると、上屋敷・中屋敷・下屋敷とはいっても、かなりの数の屋敷や敷地を江戸に所有していました。
おそらく外様大名では、最大級だったと思います。
薩摩藩のいろいろな名称の屋敷名が、この後、本コラムでも登場してきます。

* * *

幕末の頃の薩摩藩の権勢はたいへんなものでしたが、軍事力としては、江戸幕府が総力をあげれば、対抗できないものではありませんでした。
ですが、軍事力は、それに応じた指揮官と、兵器や軍のシステムがなければ、まったく機能しません。
いつの時代も、物量だけでは測れないのが、軍事力ですね。

この頃の薩摩藩の突破力、爆発力は、戦国時代の関ヶ原の戦いの時の島津義弘を思い起させますね。
島津義弘のことは、コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ヶ原」で書きましたが、個人的には、島津家は「鎌倉武士(鎌倉幕府の臣下の武士)」の精神をいつまでも残している、数少ない武家だったのではないかと感じています。

幕末に、戦国時代に使っていた武器を、蔵の奥から出してきて使っても、何の役にもたちませんね。
島津家は江戸時代においても、戦国武将のような精神と姿勢、備えを、最後まで崩すことはなかったように感じます。


◇松平姓と官職名

時代劇ドラマによっては、島津家のことを、「松平修理さま」とか「薩州どの」とかで呼ばせていることがありますね。
「松平」とは、もちろん徳川家の本姓です。
戦国時代、島津義久(義弘の兄)に松平性が下賜(かし)されています。

ちなみに、多くの松平家の中で、江戸時代当初は、「徳川」姓を使っていい人物は特定の者に限られていました。
その後、限られた範囲で使用されます。

ついでに書いておきます。
使用できるのは八つの家です。
徳川宗家(将軍家)、御三家(尾張・紀州・水戸)、御三卿(一橋・田安・清水)、松戸徳川家(水戸徳川家の分家)です。
駿河徳川家、甲府徳川家、館林徳川家、徳川慶喜家は、歴史のある段階で消滅していきました。

* * *

徳川家康は、もともとは松平姓です。
家康によって、世の中にたくさんいる松平家一族の中で、松平の上の家格として「徳川」を置き、そして「松平」を名乗れる家の範囲も定めていきます。
ですから、松平姓の家は、徳川家の家臣であり、家臣の中でも特別中の特別の家格の家となります。
今現代でも、「松平です」と聞くと、私は びくっとします。
徳川家とは何かの…と、つい尋ねてしまいますね。

家康の血筋によって松平姓を名乗れるようになった家、松平姓を許された「〇〇松平家」という譜代大名家、それから外様大名ではあるが有力で特別な大名家に松平姓が下賜されました。

薩摩の島津家以外にも、松平姓を下賜された主な家は、加賀の前田家、仙台の伊達家、長州の毛利家、筑前の黒田家、安芸の浅野家、肥前の鍋島家、備前の池田家、阿波の蜂須賀家、土佐の山内家、越後の堀家、伊予の蒲生家など多数です。
そうそうたる大名家が並びます。

時代劇ドラマや文献、江戸古地図などでは、松平という公式の名前で登場することもありますが、本当の名前はそれぞれにあります。
「松平肥後守」とは、今の福島県の会津の松平家のことを意味します。
「肥後」は今の熊本県ですが、実は福島県の松平家です。
熊本県とは、まったく関係ありません。
そうです。あの白虎隊(びゃっこたい)の会津藩のことです。
もともと2代将軍 秀忠の隠し子だった保科正之から始まる松平家です。
正之のことは、コラム「よどみ(2)群馬vs.山梨」で少しだけ書きました。

* * *

江戸の古地図に書かれている松平姓の屋敷の土地には、たいてい「松平〇〇守」と書いてあります。
〇〇には地域名が入っていることが多いです。

時代劇ドラマでは、豊問秀吉を「筑前守(ちくぜんのかみ)」とか、明智光秀を「日向守(ひゅうがのかみ)」とか呼んでいますね。
筑前は福岡県、日向は宮崎県ですが、これも意味はありません。
織田信長軍は、結局、九州を配下に置くことはできませんでしたね。
「いずれ、あなたたちに、その土地をあげるよ」という意味で、軍団の士気をあげさせたのかもしれませんね。
それほどの意味はないですが、重要な家臣を意味していることには間違いありません。

* * *

「〇〇守」の地域名にも、格付けのような意味がありましたが、戦国時代は主君が勝手に付けていた場合が大半です。
「〇〇守」の地域名の意味は別として、使い方は、今の感覚でいう、総理、大臣、都知事、府知事、県知事、市長、社長、部長などのような使い方に近いかもしれません。
今でも、自身の会社の社長を「〇〇さん」ということはまずありません。〇〇社長と言いますよね。
部課長も、たいてい名前の次に付けます。
「営業部長」、「人事課長」とだけで呼んでも、誰のことかはすぐにわかります。
単なる役職名のようなものかもしれませんが、現代の会社組織もそうであるように、その部署名で序列がわかるときもあり、重要な意味がある場合もあります。
〇〇部分に地域名が入る「〇〇守」と「〇〇介」は、実は意味に違いがありますが、ここでは割愛します。

吉良上野介と浅野内匠頭は、今の感覚では、「吉良〇〇県知事」と「浅野〇〇庁長官」と言っているようなことです、
幕府の老中あたりの役職の武士が、赤穂事件を語る場合であれば、「上様が、吉良上野介と浅野内匠頭に御裁断された」でしょうか。
庶民ではなく、家臣の武士が、「徳川綱吉将軍」などと絶対にクチにしてはいけません。
時代劇では、結構 正確に、当時の呼び名を使っていることが多いので、ちょっと気にしておくと面白いですよ。

ちなみに、吉良家は、徳川家が「徳川姓」を獲得したときの大恩人で、各種の格式高い行事の指南役。
浅野家は、前述の「松平姓」を持つ大名家から派生した家柄。
上様は、それはたいへんな判断が必要でしたね。

* * *

では、島津家が「松平修理(まつだいらしゅり)さま」と呼ばれたのはなぜか?
「修理」とは、平安時代から続く、宮中が与える官職のひとつです。
もともとは宮中の宮殿の修理や造営を行っていた官職だそうですが、その後の歴史では、たくさんある官職の中のひとつです。

よく時代劇では、「大納言〇〇」、「関白〇〇」、「内大臣〇〇」とか登場してきますよね。
「修理」もそれと同様です。
ですから、地域名の「〇〇守」よりもはるかに格が上ですし、その意味が違います。

時代劇にはよく、「主膳(しゅぜん)」「典膳(てんぜん)」、「大膳(たいぜん)」という呼び名も登場します。
これも「修理」と同様に官職です。
その字のごとく、宮中の食の御膳担当です。
食料品や食器の調達、食事の準備などの官職です。
江戸時代に、どの程度まで、そうした活動を行っていたかは、よくわかりませんが、宮中からみたら、官職を与えた家臣の家であるのは間違いありません。名誉ある官職名ということです。
官職がなければ、宮中に近づくことさえできなかったはずです。
それぞれの官職名で、宮中から見た、家の格順が決まっていました。

こうした官職の一部は今でも残っていますね。
近年、皇室に「摂政(せっしょう)」を置いたらどうかと議論もされました。
昭和天皇も、皇太子の頃に、摂政をされていましたね。
皇室の歴史は絶えることなく、しっかり続いています。
いつ官職名が復活しても不思議ではありませんね。

* * *

信長、秀吉、家康などの、名前の下の部分は、「諱(いみな)」と呼ばれる部分で、公式や正式な場面で人を指すとき、その名を絶対に呼んではいけない慣習でした。もちろん、身内どうしは、場合によりけりです。
手紙や文書も内容によりけりです。

時代劇ドラマでは、「信長さま」、「家康さま」と呼んでいる場合も多くありますが、これは現代のドラマの内容をわかりやすくするためのもので、実際に家臣や庶民が、公式や正式な場所で、そのように呼んではいません。
その時代の呼び方としては、下位の者からは、
信長なら、上様、殿、右府様(うふさま)など。
家康なら、上様、殿、内府様(だいふさま・ないふさま)、大御所様(おおごしょさま)など。
石田三成なら、治部少輔(じぶのしょう)。三成よりも上位からは「治部」。
大谷吉継なら、刑部少輔(ぎょうぶのしょう)。吉継よりも上位からは「刑部」。
これらは、有名な呼称ですので、時代劇ドラマにもよく登場します。

もし赤穂事件の二人を本名で呼ぶなら、吉良義央(きらよしひさ)と浅野長矩(あさのながのり)です。
下の名前は公式の場であまり使いません。
この二人も、ほとんどのケースで、吉良上野介殿と浅野内匠頭殿です。


◇言葉の授業

ちなみに、「様」と「殿」も、現代同様に、使い分けられています。
翁、公、尊、さん、ちゃん、氏、君、室、御中、局、奥、嬢、女史、夫人、刀自、卿など、日本には、それはたくさんありますね。
そこにさらに、別の敬称が付いてきます。クチで言う場合、文書の場合も違います。
誰に教わることなく、自然に使い分けられるようになっていくのが、日本人ですね。

大名家どうし、家臣どうし、「あの御方を、どのように呼んだらいいだろうか」と、そこらじゅうで話し合っていたことだと思います。
この場合はこれ、この場合はこれと、使い分けたことでしょう。
徳川家康の呼称の種類の多さは、たいへんなものです。
空気を読むことの大切さは、今も昔も変わっていませんね。

個人的には、学校の国語の授業のほかに、言葉の授業が、そろそろあってもいいと感じています。
私は、いわゆる「女子高生ことば」を肯定的に歓迎する立場ですが、微妙な感覚の違いや、より感情を伝えたいという気持ちのあらわれだと思っています。
「この気持ちを伝えたいのに、的確な言葉が見つからない、知らない」ということは、誰にもあります。
簡単な漢字二文字が付いていなかったために、気持ちが伝わらなかったということもあります。
絵文字もその一種だと思いますが、近年は、あえて古い時代の用語を探し出してくる若者さえいます。

一方、「肉」と聞いて、東日本は豚肉をイメージしますが、西日本は牛肉をイメージします。
お年寄りは、カレーライスを、どうして「ライスカレー」と呼んで、ソースをかけるの?
若者はみな不思議に感じます。
お年寄りからしたら、「カレー」と「カリー」は何が違うんじゃ?となります。
「レトルト」って、「ボンカレー」のことか?
学生が授業で、お年寄りのかつての時代を理解し、彼らに現代との違いをやさしく教えてあげて、また微妙な気持ちを表現できる いい言葉を歴史の中から見つけてほしいと思っています。
社会で生きやすくなりますし、前向きにもなります。腹も立たなくなる気がしますね。
言葉の授業なんてあったら、いい気がします。
女子高生ことばの変化も、彼らの思いも理解しやすいですし…。

* * *

今、ローマ教皇が来日されています。
どうして政府が、これまでの「法皇」を「教皇」に変えたのか、今回、理解できました。
歴史的、宗教的に、しっかりとした理由と意味があったのですね。
38年ぶりの来日にあわせるなど、政治的にも、なかなか良いタイミングでしたね。
いい気分で、帰国されることでしょう。
呼称は、時代によって変わっていくものだと、あらためて認識しました。


◇間違いのない呼称

さて、江戸時代に話しを戻します。
現代でも、(名前を忘れてしまった)相手の名前を入れずに、役職名だけで呼ぶことも多くありますよね。
名前や役所名、地名を入れずに、「大臣」、「知事」、「市長」などと呼ぶこともあります。
お母さん方も、子供の学校の校長の名前を知らなくても、顔を見かけて「校長先生」と呼んでいませんか。
本名や、役所名、県名、市名を忘れていても、これで通用しますね。
なにかと「間違い」も起こしません。

「〇〇守」、「修理さま」などの、役職名や官職名での呼び方は、格付けという意味だけでなく、何かと間違いを起こしにくい仕組みだと考えていいのかもしれませんね。
名前を忘れても、地域名や役職名、官職名はそうそう忘れませんね。
初対面、行事、異動、昇進左遷時にも便利…。

ちなみに、織田信長の正式名は、「平朝臣織田上総介三郎信長(たいらのあそんおだかずさのすけさぶろうのぶなが)」です。
信長は、上総の国(今の千葉県の一部)とは関係はありません。
ですが、平氏一族にとっては、上総守ではなく、上総介が非常に重要な意味を持ちます。
豊臣秀吉は、「羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉」です。
徳川家康は、「徳川次郎三郎内大臣源朝臣家康」です。
名前のお話しや「朝臣(あそん)」のことは、コラム「長者さまと成願寺」で書いています。

* * *

さて、「松平」姓の外様大名たちの名前は、明治政府により、本来の名前に戻されます。
もちろん江戸時代が終わったからで、松平姓に意味がないためです。
「松平」のままでいく家も、もちろんありました。
島津、伊達、毛利…、みな本来の名前に戻っていきました。


◇江戸湾近くの大名屋敷地域

さあ、島津家の屋敷の話しに戻ります。
大名家の江戸藩邸(上屋敷・中屋敷・下屋敷)の説明は、コラム「よどみ(1)淀橋・内藤新宿・高遠」で書いています。
上・中・下の位置づけは、各家の中で入れ替わる場合もあります。


上の地図の、赤色の部分が、江戸時代に薩摩藩島津家の屋敷があった場所です。
明治時代に、この島津家の中屋敷(桜田屋敷・装束屋敷)の敷地だった場所に、「鹿鳴館」は建てられます。

薩摩藩島津家の上屋敷(三田藩邸・芝屋敷)〔上記地図①〕は、増上寺の南側、今の芝や三田あたりに広大な敷地がありました。
幕末に江戸幕府が襲撃して火をかけたのは、この上屋敷です。

下屋敷は、高輪〔地図③ 今の品川駅前の高輪のホテル群や旧竹田宮邸あたり〕、白金〔地図④ 今の八芳園〕、渋谷〔地図⑤ 今の常陸宮邸〕にありました。
13代将軍 家定の正室になった「篤姫(あつひめ)」は、薩摩から、上屋敷に入り、大地震の後、渋谷の下屋敷に移ります。
その後、江戸城にあがります。
あがるときは、五摂家筆頭の近衛家の娘として、徳川家に嫁ぎます。

幕末、官軍の江戸総攻撃について、薩摩藩の西郷隆盛と、江戸幕府代表の勝海舟が会談を行いますが、一度目が高輪屋敷〔地図③〕、二度目が蔵屋敷〔地図②・上屋敷が消失していたため〕でした。
今の田町駅は、蔵屋敷の敷地内です。

屋敷の敷地の広さのイメージがしにくいかと思いますが、それぞれの屋敷は大小あり、大きいものでしたら、大きな公園ほどはありました。
今の大きな駅舎がすっぽり入ってしまうくらいは当たり前です。
薩摩藩上屋敷くらいになると、今の高層ビルの十数本は敷地に入ります。

* * *

薩摩藩の上屋敷の周辺地域は、今、首都高速道路に三方を囲まれています。これは後に、川や水路、海岸線に首都高速道路を造ったためです。
東京の渋谷駅のすぐ近くに渋谷川という川があります。
今までは、ほぼ暗渠か建物の裏側になっていましたが、近年は渋谷の街の整備で、川がよく見えるようになり、渋谷駅周辺の一部はおしゃれな川沿いの街に変わりました。

* * *

渋谷川は新宿御苑から始まり、渋谷や恵比寿(えびす)を流れ、広尾(ひろお)や白金(しろがね)を流れ、麻布十番で大きく曲がり、芝公園や増上寺の南側を通って、東京湾に出ます。
ある意味、江戸城の西側の外堀(今の新橋・虎ノ門・赤坂・四谷の外堀通りライン〔地図の「鹿鳴館」の文字のすぐ上にあり濃紺色の線〕)の、さらに外側にあるお堀です。
そのさらに外側に目黒川があります。
江戸城本丸までは、目黒川も含めると、五重の大きな堀や川があったことになります。

地図の薄緑色の部分が、現在も内堀に囲まれた皇居の範囲で、その中もいくつかの堀で区分けされています。
江戸城本丸と、今、天皇陛下がおられる かつての江戸城西の丸の間も堀で区切られています。
今は、ほとんどが緑に囲まれていますが、これだけ巨大な人工構造物は、世界でも稀かと思います。

江戸時代は、今の田町駅あたりから品川駅の南までのJR東海道線(新幹線もこのラインです)がほぼ海岸線でした。
今の品川駅は完全に海の中でした。
上記地図の黒色の線はJRの鉄道線路です。

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前述の渋谷川から目黒川の間の東京湾よりの地域〔地図の黄色の地域〕には、前述の松平姓を持つ多くの譜代や外様の大名の屋敷が建ち並んでいました。
泉岳寺をはじめとする多くの寺もありました。寺は戦時には防衛戦闘拠点にもなります
ここには重要な街道の東海道が通っています。
増上寺から南側の海沿いの地域を、彼らの屋敷で守りを固めているといっていいかもしれません。

この東海道のライン以外は、外堀にそって、徳川御三家、徳川御三卿たちが、江戸城を取り囲むように配置されています。
このお話しは、後にこの「みゆきシリーズ」で銀座のお話しを書くときに、ご紹介します。

幕末には、この黄色の地域に、大砲を設置した台場という構造物をつくりますが、これは海からの外国勢力に備えようとしたものです。
もちろん、今のあの「東京お台場」もその範囲です。江戸時代は海の中です。

この黄色の地域は、幕府の味方であれば心強いですが、ひとたび敵に回わるようなことがあったら、たいへんな脅威ですね。
個人的には、他の大名屋敷の地域と比べると、結構、きわどくピリピリ感たっぷりの屋敷配置のように感じなくもありません。

この地域には、自然教育園は高松藩松平家、慶応大学は松平主殿頭(松平主殿家は徳川家康と祖先とつながる家)、目黒雅叙園と畠山記念館は熊本藩細川家、イタリア大使館は伊予松山藩の松平隠岐守、他にも、徳川家剣術指南役の柳生対馬守、会津藩の松平肥後守、川越(河越)藩の松平大和守などの屋敷もありました。
これらの屋敷も、かなり大きな敷地で、他にも多くの大名屋敷がありました。
幕府の信頼の厚い松平家や譜代大名らが、外様の有力大名らを監視・分断するように上手に配置されています。

* * *

この地域には、変わったところでは、「黒鍬組(くろくわぐみ)」の屋敷もありました。
結構、謎めいた集団で、江戸城の雑用係です。
土木、消火、掃除、埋葬、戦闘、隠密行動まで行う「何でも屋」のような存在で数百人はいたようです。
この大名屋敷の地域にいたのも、うなづけます。

浅野内匠頭の屋敷はこの地域ではありませんでしたが、赤穂浪士討ち入りの義士たちが、熊本藩細川家や松平隠岐守らの屋敷に、切腹までの間、預けられました。この両家から浅野家の菩提寺である泉岳寺はすぐ近くです。
赤穂浪士たちは、下町の吉良邸から歩いて、この泉岳寺にやってきましたね。
泉岳寺のすぐ南には、イギリス公使館があった東禅寺です。


◇外国人がらみで大混乱

また、この地域には、「城南五山」と呼ばれる、五つの山(高台)があり、いろいろな意味で重要な意味を持っていました。
今も高台のまま残っていたり、地名に残っています。
島津山、池田山、御殿山、八ツ山、花房山です。

幕末の頃は、池田山は松平内蔵頭(くらのかみ・○○長官のようなこと)である備前岡山藩池田家の屋敷、島津山は今の清泉女子大学で松平陸奥守 仙台藩伊達家(島津家の屋敷になるのは明治期)の屋敷〔地図⑥〕、八ツ山は今の三菱開東閣、花房山は今の目黒の花房山通りあたり、御殿山は今のホテルや美術館のある地域です。

「御殿山下台場」などの多くの砲台は、この地域のほか、江戸湾内の各所に築かれました。
外国軍艦からの砲撃に備えた江戸防衛です。、
地図の「御殿山」が、御殿山のあった場所です。
幕末の頃は、山というよりも高台の農耕地です。
江戸時代のいわゆる「品川宿」といわれる場所は、この御殿山の東側(海側)のあたりです。

* * *

新しく建設中だったイギリス公使館を焼き討ちした事件も、御殿山です。
襲撃したのは、長州藩士の尊王攘夷派(高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上薫ら)です。
イギリス公使館は泉岳寺の南の東禅寺にありました。
東禅寺でも、御殿山の焼き討ち事件の前に、2回のイギリス人への襲撃事件が起きています。
一度目は水戸藩脱藩浪士、二度目は信州の松本藩士です。

御殿山の焼き討ち事件は、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件(なまむぎじけん)」に負けじと行われたものですが、この生麦という場所は、上の地図のもう少し南(下)側の横浜あたりです。
この事件は島津久光の行列に、馬で乱入したイギリス人を殺傷したものですが、この「生麦」の名の由来は、2代将軍 秀忠の行列の際のあるエピソードからきています。こちらはある意味、平和なエピソードです。
250年あまり後、また行列がらみの大事件となりました。
横浜市鶴見区生麦には、今、キリンビールの工場があるというオチまでついていますね。

1862年から63年までの、1年あまりの間に、この地域では、外国人がらみの歴史的重大事件が次々に発生しました。
順番は、第一回東禅寺事件、第二回東禅寺事件、生麦事件、イギリス公使館焼き討ち事件です。

この前後数年は、とにかく外国人襲撃事件が日本全国で頻発します。
尊王攘夷という思想だけでなく、外国人警護で多大な負担を強いられる各藩の藩士の不満、外国人を警護することで日本人どうしが戦うことへの疑念や不信など、もはや ぐちゃぐちゃの状況でしたね。

この時代、尊王攘夷思想が、徳川幕府を終わらせ、西欧列強の日本侵略を防いだのは事実です。
「尊王」と「攘夷」は、結びつきやすい思想でもあります。
いつの時代も、それぞれについて考えておくことは、「ガラパゴス日本」の平和につながる気もします。

このあたりの事件のことは、時代劇ドラマでは、さらっと簡単に流されてしまうことが多いですが、ドラマの題材としてはたくさんのものがあると感じています。
この四つの事件だけでも、重厚なドラマが一本つくれるような気がしますね。
でも、ちょっと深すぎ…。


 

◇荒城の月

地図の⑦には、今、西側に「菅刈(すげかり)公園」、東側に「西郷山公園」が並んでいます。
江戸時代には、豊後(今の大分県)の岡藩中川家の屋敷がありました。

楽曲「荒城の月」の荒城とは、大分県竹田市に残る岡藩の名城「岡城」のイメージにも重なります。

実は、この楽曲は、曲は滝廉太郎ですが、歌詞は仙台出身の土井晩翠です。
ですから、歌詞からのイメージでは、仙台の青葉城です。

この歌詞に曲をつけるために、応募し、採用されたのが滝廉太郎でした。

滝廉太郎は、東京の新橋の出身ですが、父親の仕事の関係で、富山市や大分県竹田市にも暮らしました。
滝家は、もともと、豊後(今の大分県)の日出藩(ひじはん)の上級武家です。
ですから曲としては、岡城だけでなく日出城であってもおかしくありません。

明治時代は、青葉城も、岡城も、日出城も、どの城も、ある意味役割を終えた荒城でしたね。

* * *

明治時代に、岡藩はこの敷地を去り、西郷隆盛の弟である西郷従道(つぐみち・じゅうどう)が、この敷地を購入し別邸とします。
もともと、この敷地は、兄の隆盛が東京で暮らすために、従道が購入した敷地でした。
ご存じの通り、隆盛は江戸東京に戻ることはありませんでした。
この場所は、そんな従道の思いが残る場所です。

「菅刈(すげかり)」という名称は、相当に歴史のある名称です。
由来のことは割愛しますが、「菅刈」と「西郷」の名称がここに並んで残されていることは、たいへん素晴らしいことだと感じます。

* * *

「荒城の月」の歌詞は、全体的には、時代の栄枯盛衰に深く思いをはせた内容です。
非常に古い言い回しの歌詞ですので、現代人には難解ですが、最後の四番の歌詞だけご紹介します。
「天上影は変わらねど、栄枯は移る世の姿、映さんとてか今も尚、ああ荒城の夜半の月」

栄枯盛衰は、いつの時代にも繰り返されるものですね。
月の光は今も昔を、それらを照らしています。
荒城から見える月の中に、明治維新に散っていった武士たちの姿が見えるような気がします。

若い世代の方々…、こんな音楽も、かつて、日本にはありました。
これからも残っていってくれるでしょうか。


◇運命の会談

幕末、官軍の江戸総攻撃について、薩摩藩の西郷隆盛と、江戸幕府代表の勝海舟が、この地域にある薩摩藩邸である、一度目が高輪屋敷、二度目が上屋敷近くの蔵屋敷で会談を行ったと前述しました。

ようするに、江戸幕府は、薩摩藩邸に「お願い」に出向いたというかたちですが、勝は、いざとなったら江戸の街を戦場として戦う準備もしっかりしており、そのことは西郷も承知していました。

実は、西郷も勝も、江戸で戦闘を行うことのダメージや、それぞれ自分たちへのリスクも承知していました。
双方とも江戸での戦闘をやりたくないという思いの中、見事な交渉が行われました。
この一連の交渉は、下交渉も含めて、この二人でなければできなかったような気がします。
徳川慶喜も、尾張徳川家も、薩摩長州側も、この二人に託したことで、次の時代にバトンタッチできることを確信していたのかもしれませんね。
賢明な人たちが、必要な時にそろったことで、「江戸無血開城」が実現しました。

コラム「みゆきの道(1)運命の桜田門」で「桜田門外の変」をご紹介しましたが、もし幕末のこの時に井伊直弼が生きていたら、この場に勝ではなく、井伊が来ていたのかもしれません。
そうしたら、歴史は大きく変わっていたかもしれませんし、会談自体がなかったかもしれません。
まず井伊が薩摩藩邸に出向くはずがありません。
江戸での大戦争も起こりえたのかもしれません。

そもそも、井伊が生きていたら、大政奉還もなく、尾張徳川家や福井藩松平家による官軍(薩摩・長州)の後方支援もなかったのだろうと思います。
歴史上の人物のいくつかの死の時期が、少しでも違っていたら、江戸無血開城はおろか、幕末という、日本の歴史にも数回しかないであろう国難の危機を乗り越えることができたであろうかと思ってしまいます。

* * *

西郷と勝は、日本や東京の運命を決めたこの会談の前から、旧知の仲でしたが、この二人の会談でよかったですね。
二人で、有馬屋敷の「火の見やぐら」でも眺めながら、「三田牛」の鍋でも、食べたことがあったでしょうか…。
坂本龍馬が生きていたら、おそらくこの会談の隣の部屋に座っていて、会談無事終了の時に、笑顔で襖(ふすま)の扉を開けたことでしょう。
幕末の志士たちはみな、重要な役割を終えるように順番に去っていきましたね。


◇薩摩パワー

島津家は、徳川家よりも、はるかに古い歴史ある武門の名家です。
コラム「よどみ(9)金次郎と酒匂川」で、鎌倉幕府の有力武家として九州制圧のため鹿児島に移住したことを書きました。
家康は、薩摩藩島津家を滅亡させたがっていましたが、実現できませんでしたね。
それどころか、かつて屈服させた毛利家の長州藩とともに、江戸時代を終わらせられてしまいます。
まさに、日本の武家の中でも最高クラスのしぶとい名家ですね。

「鹿鳴館」は、薩摩藩の中屋敷の敷地に建てられましたが、それを指揮したのは、長州藩毛利家の祖、毛利元就の家臣であった井上氏の子孫の井上薫(いのうえかおる)です。
薩長連合のもうひとつの象徴であり、遺産建築物が、「鹿鳴館」だったのかもしれませんね。

お話しは少し回り道をして、鹿鳴館にやっと戻ってきました。
今回のコラムはここまでにして、次回に有馬家のことを書いてから、鹿鳴館の続きを書きたいと思います。

有馬家や水天宮のお話し、鹿鳴館や大倉喜八郎のお話しの後、帝国ホテルや東京宝塚劇場、その後にいよいよ銀座の「みゆき通り」に入り、築地方面に向かいます。
この「みゆきシリーズ」は、「よどみシリーズ」と、並行して書いていきます。
「映像&史跡fun・コラム一覧」のページで分類してあります。


◇御岳どん

最後に、冒頭写真は、もちろん鹿児島市から眺めた桜島です。
桜島の火山は、「御岳(おんたけ)」とも呼びます。

私は、こんなにも、噴煙を上げる火山に近い場所で暮らした経験はありません。
どんな心持ちなのでしょう。

幕末は、富士山の噴火活動がおさまっていましたから、薩摩からやって来た官軍の兵たちは、江戸から見えた富士山をどのように感じたでしょうか。
「んだもしたん、こん富士山は風景画よなふじゃんど。おいの「御岳どん」に負けっ。へのよなこっじゃ」とでも言ったでしょうか。
標準語訳:「あれあれびっくりした。この富士山は風景画のようだ。私の国の御岳にはかなわないよ。大したことないね」
鹿児島の方…、この鹿児島弁は正しいでしょうか?

たしかに、桜島(御岳)のもとで暮らしていたら、生きる覚悟と、行動の爆発力が違ってくるかもしれませんね。
東京から見える富士山が、今の桜島のような姿であったなら、まるで別の東京になったかもしれませんね。

「薩摩パワー」には、「有馬パワー」とはまた違う、強大なチカラをつくづく感じます。

「有馬パワー」って何?

* * *


次回の「みゆきの道(3)御蔵と御浜 / 芝・三田.1」と「みゆきの道(4)坂の上へ / 芝・三田.2」では、この大名屋敷の地域を写真でご紹介します。
その後に、もうひとつの強大なチカラ「有馬パワー」について書きたいと思います。

「みゆきの道(3)御蔵と御浜 / 芝・三田.1」に続く

 

 

2019.11.26 jiho

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