久留米藩有馬家の水天宮と火の見やぐら。情け有馬の水天宮。恐れ入谷の鬼子母神。むだクチ「地口」。有馬温泉と有馬記念。三田の馬と牛。三田市。化け猫騒動。

 

 

みゆきの道(6)有馬さまの火と水


コラム「みゆきの道(3)御蔵と御浜」から数回にわたり、東京の芝・三田あたりの大名屋敷のことを書いてきました。
これまで薩摩藩島津家の強大な「薩摩パワー」をご紹介してきましたが、今回は、この大名屋敷地域にありました築後国(今の福岡県南部)の久留米藩有馬家のことを書きたいと思います。

「薩摩パワー」とは また違う、強大な「有馬パワー」のことをご紹介します。

上の地図の黄色の部分が、大名屋敷がたくさんあった地域です。
緑色の8番の場所が、久留米藩有馬家の上屋敷があった場所です。


◇有馬屋敷の水天宮

江戸時代、芝・三田の大名屋敷の地域には、人気の大観光地がありました。
それが、「情け有馬の水天宮」という「しゃれ言葉」で知られる築後国(今の福岡県南部)の久留米藩有馬家の上屋敷です。

江戸時代に、有馬家は、本宮のある久留米市から、「水天宮(すいてんぐう)」を、この有馬家屋敷の敷地に分霊しました。

当初は、屋敷の敷地の中の有馬家独占の水天宮でした。
屋敷の塀の外から賽銭を投げ入れる者が多かったそうで、その後、庶民の嘆願で一般公開となります。

この有馬家の情け深い行為が、「情け有馬の水天宮」という、人気のしゃれ言葉を生みます。
こうした言葉の誕生から、いかに庶民に喜ばれたのかがわかりますね。

庶民が大勢押しかけ、久留米藩は、賽銭やお札販売などの利益で財政難から脱却しました。
相当に多くの人が、やって来たのでしょう。
水天宮は本来、安産・子授けの神様ですが、商売にも福?

* * *

この成功を見て、他の大名家も、敷地内のお社を一般公開するようになりました。
讃岐丸亀藩の金毘羅宮は、二匹目のどじょう?
現代でも、水天宮と金毘羅宮は、地元や東京だけでなく、日本全国でたいへん親しまれていますね。

水天宮は、源平合戦で滅亡した平家一門の人々や、安徳天皇を弔うというお宮でもあり、話題性と人気は最大級でした。

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明治時代初期の「戌(いぬ)の日」の、この場所にあった水天宮の大混雑ぶりの写真には、驚かされます。

現代でも、出産時の母子の危険性は変わりませんが、明治時代頃までの危険性は、今よりもはるかに高かったことでしょう。
江戸時代のママたちからしたら、絶対に無視できない水天宮でしたね。

下の写真は、桜田通りから、かつての有馬家屋敷のあった地域を眺めています。

 

広大な屋敷跡の敷地には、現在、たくさんのビルが建っています。

下の写真の、斬新なデザインのビルは、朝に夕に、日の光を浴びて金色に光り輝きます。
太陽だけでなく、いろいろな光にも輝くようにデザインされているようです。
このビルは、住友不動産麻布十番ビルです。

その輝きと奇抜さは、目立つこと この上ありません。
この日も、夕日を浴びて、光まくりです。

何か、江戸時代の有馬屋敷の繁栄と目立ち方を思い起こさせますね。




◇有馬屋敷の「火の見やぐら」

さらに、江戸時代の有馬家の敷地には、人を集める大建築物がありました。
めずらしい特殊な高層建築があったのです。

当時の高層建築といえば、ある時期までの江戸城天守閣か、お寺の五重塔くらいです。
前回コラムまでの芝・三田巡りで、この地域に山があったことは、すでに説明いたしました。

有馬家の敷地の高台には、江戸の火事防災のための、高層の「火の見やぐら」が建っていたのです。
都会に暮らす子供たちは、「火の見やぐら」を見たことがないかもしれませんね。
江戸時代の古い絵に登場する「有馬の火の見やぐら」は、この三田の地域の有馬屋敷です。

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その高さは、9メートルほどだったようですから、今の3階建てのビルくらいでしょうか。
今の一般住宅であれば、4~5階建てくらいでしょうか。
江戸時代の「火の見やぐら」としては、かなりの高層です。

その「火の見やぐら」は、江戸時代の絵図を見ると、敷地内の山の中腹あたりに建てられています。
ですから、平地から見たら、20~30メートルくらいの高さか、それ以上はあったと思われます。

古い絵図は誇張して描かれることも多いですが、優に50メートル近くの高さにも見えてしまいます。
江戸時代の五重塔の平均はおよそ30メートル台で、高層の五重塔で50メートルくらいです。
新幹線から見える、京都の東寺の五重塔がおよそ50メートルです。

東京・芝の増上寺には高さ33メートルの五重塔がありましたが、東京大空襲で焼失しました。
その後再建されていませんが、今、増上寺の敷地には、333メートルの東京タワーが建っています。
東京タワーは、五重塔のかわりといっていいのかもしれませんね。

今は、高層ビルに囲まれている東京タワーですが、かつては、その高さに驚いたものです。
おそらく江戸時代に、増上寺の五重塔を眺めた庶民の思いは、今、この東京タワーを眺めた時の感覚よりも高いと感じたかもしれませんね。

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江戸時代に、歌川広重が、芝 増上寺の五重塔の最上階の外の空中から眺めた、有馬屋敷の「火の見やぐら」の風景を、想像して描いています。
二つの塔の間には、渋谷川と赤羽橋が眼下に描かれています。

その絵からは、その五重塔の最上階と同じか、それ以上の高さに、有馬屋敷の「火の見やぐら」がそびえ建っているように感じます。
誇張されて描かれているとはいえ、庶民の目には、そのように 二つの高層建築が見えていたのかもしれません。
あるいは、実際に、五重塔よりも高い位置に「火の見やぐら」の最上階があったのかもしれません。

江戸時代の大名屋敷は、せいぜい2階建てまでですから、そこに10階建てくらいの高さにある建造物は、それは驚きますね。
「増上寺 五重塔」で画像検索していただけましたら、二つの高層建築が建ち並ぶ、その絵を見つけられるはずです。

* * *

どうして、ここに「火の見やぐら」があったのかというと、お隣の徳川家の菩提寺である増上寺を火災から守るためです。
有馬家は大名家でありながら、「大名火消し」という今の消防隊の役割を、江戸幕府から任されていました。
「有馬火消行列図」という絵も残っています。

あくまで想像ですが、この「火の見やぐら」からは、増上寺はもちろん、芝・三田地域の大名屋敷群、さらにその先の御殿山、江戸城の南西側、今の赤坂御所である紀州徳川家の屋敷、銀座方面、築地・新橋方面、ひょっとしたら日本橋あたりも見渡せていたかもしれません。
高層建築が少ない江戸時代でしたら、遠くの煙や赤い炎がいち早く発見できたかもしれません。

今、スカイツリーからでしたら、茨城県の筑波山のふもととか、横浜市内の火事の煙が見えることでしょう。
ひょっとしたら、そんな感覚に近い存在だったのかもしれませんね。

* * *

庶民からしたら、「火の見やぐら」に上がれなくても、一度はその姿を見てみたいと思ったかもしれませんね。
おそらく、有馬家は、特別な貴賓客であれば、展望台として上がらせていたでしょうね。

この火の見やぐらは、「玄蕃(げんば)の火の見」という名称まで付いていましたから、おそらく江戸の観光名所のひとつではなかったかと想像します。
「玄蕃」とは、コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」でも書きました、宮中の官職名(百官名)のひとつで、もともとは僧の管理、仏事、外国接待などを行った官職です。
有馬家の官職名です。
島津家が「修理(しゅり)」なら、有馬家は「玄蕃」です。

* * *

話しを、「火の見やぐら」の現場に戻します。

今の東京の住人でも、スカイツリーの展望台に上がったことのない人のほうが、おそらく圧倒的に多いはずです。
でも、東京のいろいろな場所から、ついついその姿を探してしまいます。
特殊な高層建築物の、不思議な魔力ですね。


◇今も残る「火の見やぐら」

前回コラム「みゆきの道(5)お日向さまと多生の縁」で、芝・三田巡りのコースの最後の一部を次回コラムで紹介しますと、書きました。
ここで、その場所をご紹介します。

下の写真は、渋谷川にかかる「中の橋」という橋です。
江戸時代にもありました。

橋の四隅にある「親柱(おやばしら)」をよく見てください。
なんと、「火の見やぐら」の姿をしています。

この姿こそ、有馬屋敷に建っていた「火の見やぐら」の姿なのです。

下の写真の奥にある樹木の後方に高台があります。
写真の「火の見やぐら」が巨大化し、高台の中腹に建っていたということです。

このミニやぐらの周囲を見渡しましたが、説明板がひとつも見当たりません。

今、この橋のたもとには、下の写真のように、「中ノ橋児童遊園」という小さな公園があります。
ここにも説明板はありません。
ですが、あきらかに江戸時代風の門ですね。

何も語らず、それとなく「火の見やぐら」と江戸風情を伝えるとは…。
「有馬屋敷の火の見やぐら」を知らない人には、まったく意味がわかりませんね。

 

先ほど、現代の、金色に光り輝くビルをご紹介しましたが、そのすぐお隣には高層ビルが建っています。
さしづめ、現代の「有馬の火の見やぐら」に感じてしまいます。

有馬家のかつての屋敷の場所に、新旧の高層建築です。
現代の四角い高層ビル…、かつての「火の見やぐら」のデザインに似させてほしかった…。



◇江戸の火付け役?

この有馬家人気は、こんな流行語も生みます。
「湯も水も、火の見も有馬の、名、高し」

江戸弁の口調は、少し難しいかも…。
言葉を切る箇所が重要ですね。

「水」は、前述の水天宮のことです。

「湯」とは、有馬温泉のことです。

有馬家の本来のルーツは兵庫県の有馬温泉の地域です。
築後国(福岡県南部)の久留米藩の有馬家は、兵庫県の摂津有馬氏や赤松有馬氏とはルーツが同じです。

そして、「火の見」は、もちろん「火の見やぐら」のことです。

* * *

肥前国(佐賀県・長崎県)、肥後国(熊本県)の名称の「肥」とは、九州の火山群の「火」のことです。
そうです。久留米藩有馬家は、二つの「火」の国に挟まれた筑後国(福岡県南部)の藩なのです。
有馬家が江戸の「火事の番人」であったことは、この藩の配置からきたダジャレなのかとも思ってしまいますね。

水天宮、火の見やぐら…、他の藩から見たら、何とも うらやましい観光施設でしょう。
水を火で沸かした「お湯」までそろっていますね。

人も金も、たくさん呼び込んだのは、当たり前だの…。

* * *

有馬家の見事さはこれだけではありません。
「火消し行列」の人気をあげるため、戦国武将のような派手な姿のお殿様も登場させます。

さらに さらに、江戸時代は、四谷怪談や番町皿屋敷など怪談話が大流行です。
「有馬家の化け猫騒動」の話しも登場してきます。
観光名所、有名人、怪談、武勇…、とても良くできたエンターテイメント・ストーリーですね。
「火の見やぐら」も、お相撲さんの「雷電(らいでん)」も、九段坂も、しっかり登場してきます。
今の東京赤羽橋近くの赤羽小学校の敷地内には、「猫塚」も残っているそうです。
筑前鍋島藩の「化け猫話し」と混同しがちですが、別のお話しです。

何とも商売上手で、流行の火付け役…、それが有馬さまですね。
有馬さま…、本当は、火付け役、火の見張り番、火消し役、と三拍子そろった役者でしたね。

* * *

明治時代になり、「火の見やぐら」はなくなり、有馬屋敷はこの地から移転します。
水天宮も移転することになります。
移転先(前述地図の9番の場所)のお話しは、次回のコラムで書きます。


◇お馬さまパワー健在

有馬家といえば、この話しに触れないわけにはいきません。
そうです。競馬の「有馬記念」の「有馬」とは、もちろん、この有馬家の「有馬」のことです。

今のJRA(日本中央競馬会)の初代理事長は、「安田記念」に名を残す安田 陸軍騎兵大尉です。
「騎兵隊」です。
2代目理事長が有馬家のご当主でした。
ここまで、馬つながりとは、恐れ入谷の鬼子母神!

* * *

「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神(きしぼじん)」も、「情け有馬の水天宮」と同様に、江戸時代の江戸の「しゃれ言葉」です。
「恐れ入りました」という時に使いました。
今でも、使っている人も多いと思いますが…?

* * *

ちなみに、東京の入谷にある「鬼子母神」さまの、「鬼」の文字は、改心して、頭の角(つの)がとれているはずです。
お社に行かれましたら、よく「鬼」の文字を見てください。
角が見えてしまった人は、よく拝んでください。

前述の有馬家がらみの「しゃれ言葉」もそうですが、江戸っ子はこういうことが大好きですね。
こうした言葉遊びを、「地口(ぢぐち)」といいます。

意味のつながらない名称を付け加えた、こうした言葉文章を、国語学では「むだクチ」ともいうのだそうです。
こういう時の返答の言葉が、「恐れ入谷の鬼子母神」。
むだクチ!

情け有馬の水天宮
その手は桑名の焼きはまぐり
ビックリ下谷の広徳寺
ウソを築地の御門跡
言わぬが花の吉野山
なんだ神田の大明神
会いに北野の天満宮
大石勝った 吉良負けた
何か用か 九日十日
驚き 桃の木 山椒の木
あたりき車力よ車引き
おっと合点承知の助
敵もさるもの 引っかくもの
日光 結構 もう結構
あたり前田のクラッカー

英訳できない、説明しにくい、コテコテの日本語表現ですね。
「コテコテ…」も、外国人には説明しにくい…。

* * *

今、「若者言葉(女子校生言葉・JK語)」というものがありますが、すぐに生まれては、あっという間に消えていきますね。
いってみれば、この「地口」は、長い時代で通用する「中高年言葉」かもしれませんね。
こんな言葉を使い始めたら、教養ある?立派な おとな…。

若い世代の方々は、これらの言葉の使い方がわからないかもしれませんね。
でも、知らぬ間に身についていく言葉です。

* * *

それにしても、今でも、「有馬パワー」の「馬力」は健在ですね。
年末が近づいてきました。
水天宮に行かなくちゃ…。


◇三田の「馬」と「牛」

幕末の有馬家屋敷があった場所の地名は「三田(みた)」と言います。
コラム「みゆきの道(5)お日向さまと多生の縁」で「御田八幡神社」のことを書きましたが、「三田」という地名は、この「御田(みた)」からきたとも言われているそうです。

ですが、実は、あの有馬温泉のある「有馬」とは、兵庫県神戸市北部の特定の温泉地域だけだと思われがちですが、今の兵庫県三田市(さんだし)の地域も含めて、かつては有馬郡と言われていたそうです。
久留米藩有馬家のルーツが有馬温泉の地域であったことは前述しました。

「三田(みた)」と「三田(さんだ)」です。

* * *

三田市(さんだし)と聞くと、馬肉ではなく、「三田牛(さんだぎゅう)」の牛肉を思い出しますね。
私は関東の人間ですので、三田牛と神戸牛の違いはよくわかりませんが、どちらも、日本の最高級牛肉の「但馬牛(たじまぎゅう)」であることは間違いありません。

でも、東京の三田(みた)に来た時に、「三田牛(さんだぎゅう)」を頭に思い描かないのは、この二つがまったく別の「三田」だと思い込んでいるからかもしれません。
水天宮と有馬屋敷が、この三田の場所から移転しなかったら、頭の中で結びついていたのかもしれませんね。

こういう場面で、「三田牛…、大石勝った、吉良負けた」です。

それにしても、東京の「三田(みた)」と、有馬温泉の「三田(さんだ)」とは、あまりにも偶然すぎです。
こういう場面で、「ビックリ下谷の広徳寺」。

江戸幕府が何か、屋敷の配置を悩み過ぎて、逆に楽しんだのか、ダジャレを持ち込んだのか、まったくの偶然や宿縁なのかわかりませんが、非常に不思議です。
こういう場面で、「恐れ入谷の鬼子母神」。
あるいは、「その手は桑名の焼きはまぐり」。
「ウソを築地の御門跡」でもいいですね。

* * *

江戸の芝・三田地域の大名屋敷の「二大パワー」…、それは、薩摩パワーと有馬パワーでした。
「さつま」と「ありま」… 恐れ入谷の鬼子母神!

「さつまパワー」と「ありまパワー」は、次回コラム「みゆきの道(7)水と座とお人形」に、まだまだ続きます。

 

 

2019.12.13 jiho

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