大奥・絵島生島事件・絵島・高遠流罪・大奥リストラ・徳川吉宗・柳生新陰流・高遠藩主内藤家・大岡越前・赤ひげ先生

 

 

よどみ…(4) 遠すぎた橋


前回コラム「よどみ…(3)大奥・絵島生島事件」では、この事件が、紀州徳川家の吉宗の陰謀という仮説のもと、ストーリーを書きました。
事件の内容と、吉宗から見たライバルたちの状況を書きました。

吉宗は見事に将軍となりましたが、この事件により残された課題がいくつかあります。
4000人の大奥の女性たちと、高遠に流罪にした絵島の件です。

今回も、史実と想像を組み合わせて書いていきたいと思います。


◇暗躍だらけ(19)大奥の女性たち

これから将軍となる吉宗の信条のひとつは、「質素倹約」です。
幕府の財政が傾いたのは、大奥にも一因がありました。
この後、庶民に大増税を強いるのに、幕府内でこのようなことを許しておけるはずがありません。

「絵島生島事件」で、江戸の芝居小屋全体や、大奥出入りの呉服商や材木商を、処分したのはそのためです。
庶民への見せしめともいえます。

この時期は、ものすごい格差社会で、貧しい人たちの窮状はたいへんなものでした。
捨て子、おば捨て、行き倒れ、野犬に人が襲われるなど、現代では想像もできません。
その一方で、芝居見物や茶屋での宴会など、お金持ちの道楽遊びは、はなはだしかったようです。

大奥の、ぜいたく三昧(ざんまい)の暮らしは、吉宗から見たら、もはや許されざる光景だったでしょう。

* * *

吉宗は、将軍になってから、貧民や庶民の病人などのための「小石川養生所」を建てます。
ここは、身寄りのない老人を保護することも行っていますので、現代の「病院 プラス 老人ホーム」のような施設だったようです。

これは、前回コラムでも書きました「目安箱(めやすばこ)」に、ある町医者が投書したことから、建てられたそうです。
その医者が「赤ひげ先生」こと、小川笙船(おがわ しょうせん)です。
この建設に、「大岡越前(おおおかえちぜん)」こと、大岡忠相(おおおか ただすけ)が奔走します。

官僚組織の一部をなくし、費用を捻出しました。
幕府お抱え医師も、交替で派遣されたそうです。
なかなかの政策ですね。

他にも、吉宗は、貧民だろうが、金持ちだろうが、侍だろうが、町民だろうが、誰でも楽しめる、桜や桃のお花見の名所を、各地に整備していきます。
火事が多い江戸でしたから、防災の面も考慮したようです。
コラム「ダンボみたいに」で書きましたが、ゾウが長崎から江戸まで旅をしたのも この頃です。

* * *

江戸時代のこの頃は、戦国時代が終わって、100年あまり経っています。
武士の剣術能力は格段に落ちており、もはや剣で戦うことなど、ほぼ不可能だったのかもしれません。
吉宗は、武芸の鍛錬を復活させます。
武士たちに、本来の姿を求めたのかもしれません。

六代将軍 家宣までは、将軍家の剣術指南役は、小野家と柳生家が行っていましたが、吉宗からは柳生家のみとなります。

小野家とは「一刀流」の、あの小野家です。
小野家内部の騒動で分裂し、将軍家指南役でなくなったようです。
吉宗の頃、小野家は、防具と竹の刀を使った鍛錬方法を生み、日本中にこの流派が広まっていったそうです。
今の剣道ですね。

柳生家とは「新陰流」の、あの柳生家です。
吉宗時代の少し前に、柳生家は大名にまで出世します。
将軍家剣術指南役として隆盛を極めていきます。
柳生宗矩、柳生十兵衛、柳生石舟斎など、時代劇でもよく登場しますね。
ドラマ「暴れん坊将軍」で、吉宗は新陰流の達人として登場しますね。

* * *

吉宗は他にも、貧乏というだけで、その才能を活かせない人物が、世に出てこられるような政策も行います。
なかなか上手くいかなかったようですが、それでも出てこれた人たちもいました。

大出世という意味では、大岡忠相もそのひとりです。
忠相は、今で言う地方裁判所の判事のような職の時に、徳川御三家の紀州徳川家に忖度(そんたく)するような判決を下さず、公正に裁きを行います。
吉宗は、それを知っていて、彼を気に入り、江戸町奉行に大抜擢しました。

今の消防隊のような「町火消(まちびけし)」のことは、前回コラム「よどみ…(3)大奥・絵島生島事件」で書きました。

* * *

吉宗は、とにかく、身分や貧富にかかわらず、有能な人間がしっかり世の中で活躍できる社会をめざしたのかもしれません。
そして、一部の特権階級、特にぜんたく三昧で遊んでいる者たちを許しませんでした。
格差はあっても、みな同じように充実した暮らしができるような社会をめざしたのかもしれません。

* * *

そんな吉宗の考え方を知るよしもなく、大奥の女性たちは、絵島生島事件後、騒然としていたでしょう。
女性たちは、大奥内部の人間関係のことだけで、精一杯だったかもしれません。

事件により、月光院派が弱体化し、天英院派が勢力を巻き返していったことでしょう。
月光院派から天英院派にくらがえする女性もいたでしょう。
権力の入れ替わりで、相当な戦いがおきていたでしょうね。

お部屋は、食事は、順番は、お着物は、お化粧は…。
あなた急に態度が変わったじゃない…。

想像しただけで恐ろしいですね。
天英院派は、吉宗の威光の笠に安心していたかもしれませんね。

* * *

吉宗は、紀州時代に正室を亡くしています。
いってみれば独身です。
そんな吉宗が、いずれ将軍となって江戸城にやってくるのです。

大奥は、どの程度、吉宗の考え方を理解していたのでしょうね。
大奥の4000人の女性たちは、色めき立っていたかもしれません。

紀州からですって…、正室がいないんですって…、どんな女性がお好みかしら…。
吉宗は、そんな女心にも、しっかり手を考えていました。


◇暗躍だらけ(20)大奥の大改革

吉宗は、大奥の大縮小を、最初から考えていました。

この手法が、これまた、とんでもないものです。
ここまで、数々の陰謀を成功させ、将軍の座に登りつめた吉宗です。
ちゅうちょは、なかったでしょうね。

吉宗は大奥に伝えます。
「われこそはと思っている美女たちを、集めよ」
おそらく女性たちは、側室選びと思ったに違いありません。

それは美貌に自信満々、野心も満々の女性たちが、たくさん集まりました。
そこで吉宗は言い放ちます。
「今日限りで、大奥から暇をとらす…」

この女性たちは、多くの大名家や江戸の町へと向かうことになりました。
受け入れた大名家も大喜びだったでしょうね。
たいへんな美上たちが江戸城大奥からやって来るのですから。

この時に、大奥トップクラスの、50人あまりの野心家の美女たちが大奥を去ったようです。
吉宗は、次の月光院を絶対に出したくなかったのでしょうね。
将軍選びに絡んだ、おぞましい大奥の争いや、幕府周辺の不審な出来事を、これ以上出したくなかったのかもしれません。

こうしたリストラで、4000人あまりいた大奥の女性たちは、400人にまで減ります。
4000人という人数には、女中や下働きの女性も入っていたはずですが、それにしても、400人にまで減らすとは、相当な大リストラです。
ひとりのトップクラスの女性に、いかに多くの付き人がいたのかと想像できます。
そのひとりにかかる、衣食住、着物代、お化粧代、遊興費などが、いくらかかっていたかと思うと、恐ろしいです。

これで浮いたお金が、格差社会対策に向かったのですから、まさに幕府自身の骨身を削っての良策のようにも思います。

残った女性たちは、ほとんど野心のない、それなりの美貌の方々です。
吉宗は、その中から側室を選びます。

* * *

吉宗の、人の外見ではなく、その中味を見ようとする姿勢は、前述の広く人材を登用する姿勢と同じものですね。
吉宗は、「絵島生島事件」で、出入りの呉服商や医者をすでに処分しています。
大奥の建物改修や模様替えを行っていた業者も処分しています。
おまけに、江戸の芝居小屋業界全体を縮小させました。

「絵島生島事件」のもうひとつの目的が、これではっきりしましたね。

天英院派も、月光院派も、この吉宗の行動に、あっけにとられたかもしれません。
天英院も、月光院も、有力な次世代の女性側近たちを失ってしまったかもしれませんね。
心を入れ替えてくれたら、いいのですが…。


とはいえ、吉宗は、天英院と月光院の二人には、破格の待遇を準備し、ぜいたくな暮らしを与えました。

れにしても、吉宗さん…、男性も女性も想像すらできない作戦を、よく思いつくものですね。
だからこそ、暴れん坊将軍 吉宗なのですね。


◇暗躍だらけ(21)異例中の異例

これで大奥は片付きました。

さて、次は、高遠に流罪にした「絵島」の件です。

信州の高遠のことは、コラム「よどみ…(1)淀橋・内藤新宿・高遠」でも書きました。

高遠藩主 内藤家が、ほぼ監獄状態の絵島に、もう少し自由を与えてはと、幕府に嘆願したのは、1722年、吉宗が将軍になってから6年後のことです。
大奥が落ち着くのを待ったのかもしれません。

なんとなんと、許可されます。
正確には、「非公式だが許可する」ということです。
こんなことがあるでしょうか。

絵島は短い散歩を許されます。
吉宗 直々の決定だったようです。

この事実は何を意味しているのでしょうか。
ふつうであれば、考えられません。

* * *

内藤家の幕府への要望は、ふつうなら、やり過ぎです。
下手をすると、内藤家の改易ものです。

こう考えると、絵島と内藤家は、「絵島生島事件」で吉宗に協力したと考えられなくもないです。
「絵島生島事件」は、ある意味、吉宗にとっての「方広寺鐘銘事件」、いや「関ヶ原の戦い」、「大坂の陣」といえる天下分け目の大戦(おおいくさ)でした。
「絵島生島事件」は単なる、大奥内の女性の戦いでないのは、間違いないと思います。

ひょっとしたら、絵島は、何も語らず、吉宗の時代が来るのを待っていたのかもしれません。
絵島は、この事件の首謀者は、私を殺さないと感じていたかもしれません。

死んでさえいなければ、また復活できると信じていたのかもしれません。
絵島は、ある段階で、月光院と間部に見切りをつけ、誰よりも先んじて、吉宗と組んだ可能性もゼロではありません。
そのくらいの演技は、朝飯前だったと思います。
あくまでも、可能性の話しです。

この内藤家の異例の嘆願と、吉宗の行動を、少し考えてみたいと思います。

* * *

私は、この嘆願が、どうしても理解できません。

内藤家からみれば、絵島が生きている間に、幕府に一か八か、挑んでみたのかもしれません。
吉宗が、絵島生島事件で、絵島に協力を頼んだのか、利用したのかはわかりません。
でも、この事件を含めて、最終的に得をして、勝ち残ったのは吉宗だけです。

内藤家は、この事件の裏事情を知っていることを、幕府に、吉宗に、伝えたかったのかもしれません。
絵島から聞き出した可能性もあります。
嘆願から許可まで一年かかっていますから、幕府と、何か条件闘争や交渉のようなことがあったかもしれません

高遠で、大規模な百姓一揆が起こるのは、まだ100年あまり後のことですので関係はありません。
ただ、高遠藩が慢性的な財政難であったのは確かなようです。
この嘆願の目的がここにあったと考えられなくもないです。

他方、藩主が、絵島にそそのかされたとも考えられます。
その美貌は確かだったようです。
江戸幕府は、高遠藩に、絵島が高遠に護送される際に、絵島の誘いに注意するような意味合いのお達しを与えています。

もし、この嘆願の発端が、そんな単純なことであったなら、もうお手上げです。
考えるだけ、ばかばかしくなります。
ですが、日本史には、こうしたばかげた理由で、その家が滅亡したり、窮地に追い込まれたケースは、数知れずあります。
お殿様にも、いろいろなタイプがあります。

それにしても、幕府の、それも吉宗に挑むなんて、ふつうでは考えられません。

* * *

結果的に、内藤家の嘆願が通ったということは、何か理由や意味があったはずです。

吉宗のほうから、内藤家にこうした嘆願を、幕府に向けて行わせた可能性もあります。

現代でもそうですが、あえて上から命令するのではなく、特定の者に下から要望をいったん上げさせ、それを許可するという手法はいくらでもあります。
これなら内藤家が幕府に無謀な嘆願を出したのもわかります。

では、吉宗は、何のために、そんなことを内藤家にさせたのか。

*大奥に存在する月光院のコントロールのため、絵島の刑を徐々に緩めようとした。
*絵島を事故に見せかけて、そろそろ暗殺しようとした。
*内藤家と絵島をセットで処分する準備をした。

考え出したらキリがありません。
でも、幕府は、その後、内藤家を処分したりはしません。

それにしても、嘆願させたということであれば、許可まで一年とは長すぎます。
やはり、内藤家からの嘆願だったのでしょうか。

そこには、何か隠された条件闘争や交渉があったように感じます。

* * *

絵島生島事件の裏事情を、絵島や内藤家から、天英院や月光院に伝えられるのは、騒動がやっと落ち着いた大奥の寝た子を起こすようなものです。
幕府側の「非公式ではあるが…」は、「幕府として認めるわけにはいかない」という意味です。
幕府が認めることができない内容を、なぜ許可したのか。

内藤家が提示した条件を、幕府が飲んだということなのでしょうか。
これは「絵島の行動範囲の拡大 プラス お金」だったような気もしないことはないです。
黙らせるかわりに、条件を飲んだのでしょうか。

幕府からみれば、内藤家を改易したり、絵島を暗殺するくらい、簡単なことでしょう。
ですが、吉宗の陰謀の全体像が、それを発端に世に知れわたることは避けたいかもしれません。
特に尾張徳川家を喜ばせることにもなります。
高遠は、江戸よりも名古屋のほうが距離も近いです。

今回の内藤家の無謀とも思える嘆願の背後に、尾張徳川家がいたと考えられなくもありません。
内藤家は、しぶしぶ尾張徳川家に言われて、嘆願を行ったと考えられなくもないです。
尾張徳川家による、巻き返し戦略の一端だったのでしょうか。

吉宗は、嘆願を受け入れることで、尾張徳川家の反撃の芽を摘んだということなのでしょうか。
闇に隠されていて、よくわかりません。

幕府は、この嘆願の全体像を、一年かけて、入念に調べ上げたのかもしれません。
許可まで一年もかけたのは、そうした部分の捜査に時間がかかったのかもしれません。
多くの「御庭番」たちが、甲州街道を走ったことでしょうね。

どう考えても、この嘆願や、吉宗の判断は、理解できません。
「絵島生島事件」以上に、スッキリしません。

「絵島生島事件」にまつわる暗躍は、ここで終わったのかもしれませんね。

* * *

絵島は、1723年の許可により、「囲み屋敷」の周辺の散歩を許可されます。
はじめて、自由に、アルプスの山々を目にすることができたのかもしれません。

絵島は何を思ったことでしょう。

絵島の本当の正体が、私にはわかりません。
嘆願が許可されてから18年後、絵島は、1741年に高遠で病死します。


◇遠すぎた橋

下の写真は、江戸城の平川門です。
大奥の女性たちは、この門を利用していました。
この門は、江戸城の鬼門の方角にあり、「不浄門」と呼ばれました。
江戸城から遺体や罪人を搬出する場合は、必ずこの門を使っていました。
大奥の女性たちが、なぜ、この門を使わされていたのかは、よくわかりません。

絵島が、芝居小屋から江戸城に戻って来た時の門も、おそらくこの門でしょう
江戸城から高遠に護送された時も、この門だったでしょう。

記録では、絵島は、取り調べや判決の時には気丈に振舞っていたようですが、護送かごに入れられるときは、相当に泣き叫んだそうです。
その時の句なのか、辞世の句なのかよくわかりませんが、彼女の句をご紹介します。
江戸城を出る時、絵島は死を覚悟したのであれば、辞世の句と考えてもいいかもしれません。

「浮き世には、また帰らめや、武蔵野の、月の光の かげもはづかし」

この句の真意が何なのか…。
月光院へのお詫びともとれる句ですが、何を詫びたかったのでしょうか。
この句には、いろいろな「詫び」が含まれていそうです。

この句からは、自身がワナにはめられた悔しさと、切なさがにじみ出ています。
誰がワナにはめたのかは、この時点で、絵島はわかっていなかったかもしれません。
天英院なのか、間部なのか、白石なのか、月光院なのか…。別の人間なのか。
この句から想像するに、月光院だけは違うと信じていたのかもしれません。
あるいは、この句は、絵島のカモフラージュなのか。

もし絵島の裏切りでなければ、絵島は、「最後は、月光院と間部が何とかしてくれる」と、思っていたことでしょう。
でも、それは、かないませんでした…。

絵島は、月光院と間部に見捨てられたのか?
それとも、この二人でも、チカラが及ばなかったのか?

* * *

絵島は、高遠の地で気づいたかもしれません。

月光院でも、間部でも、私(絵島)を助けることができない。
この二人でも、かなわない人物…。

徳川御三家以外には、ありませんね。

絵島は、江戸城大奥という閉鎖された社会の中で、世の中でもっとも強いチカラを持っているのは、江戸城にある江戸幕府だと勘違いしていたのかもしれません。
将軍は小さな子供、月光院も間部も白石も、本当の意味で徳川家の人間ではありません。
徳川御三家の存在を、やっと思い出したのかもしれませんね。
「徳川」という絶大なチカラにやられた…。

本当に強くて恐ろしい者は、暗い闇の中にいることを、思い出したかもしれません。
彼らは、その姿が見えず、深い「よどみ」の中に潜んでいます。
「姿見ず(すがたみず)」とは、本当に恐ろしい言葉ですね。

歴史の中では、たくさんの、成り上がり者たちが、同じ失敗を繰り返しました。
成り上がり者は、怖いもの知らずになった時点で、ほぼ消えていきましたね。

 

下の写真の橋が、絵島の人生に架かっていた、江戸城「平川門」です。



下の門と橋は、信州(長野県)の今の高遠城です。
桜の名所として有名な橋ですね。
「桜雲橋(おううんきょう)」です。

この門は、もともと高遠宿の本町にあり、昭和になってから高遠城に移築されました。
これだけの規模の橋です。
おそらく絵島の護送の際にも、渡ったことだと思います。

あの有名な戦争映画「遠すぎた橋」や「戦場にかける橋」を思い出しました。
絵島にとっても、この橋は「遠すぎた橋」だったのかもしれませんね。




◇はるか遠い…

私は、東京在住です。
旅行や仕事で、地方に行く際は、「遠いなあ…」と、ついつい クチに出てしまいます。

でも、日本の大多数の方々は、「江戸東京は、遠いなあ…」と思っていることでしょう。

きっと、高遠にいた絵島もそうだったと思います。
吉宗も、かつては、紀州から そう思っていたでしょう。

高遠が、高い山々を越えた先にあって、江戸から遠い遠い地なのではありません。
江戸が、高遠から、はるか遠いのです。
距離だけではありません。すべてが遠いのです。

高遠の絵島には、江戸の出来事は、もはや別の世の出来事のように感じていたかもしれませんね。
美しい山々に囲まれた、伊那谷北部の高遠の風景は、絵島に何を与えたのでしょうか。

こちらの勝手な想像で、彼女の人生を読み解こうとするのは、やめておきたいと思います。

桃源郷のような高遠の地から、江戸は、はるか遠くにある暗躍の地なのですから…。

 

* * *

 

それにしても、歴史上には、多くの男たちによって、「よどみ」の上に架かる危ない橋を渡らされた女性が、たくさんいたことを忘れてはいけませんね…。






さて、東京の中野区と新宿区の境にある「淀橋」のお話しから始まって、「よどみ」のお話しも佳境に入ってきました。

次回のコラムは、その「淀橋」の現在の姿と、「姿見ず(すがたみず)の橋」から「淀橋」への改名の謎を解明してみたいと思います。

それでは次回に。

* * *

コラム「よどみ…(5)水に姿を」につづく

 

 

2019.9.19 天乃みそ汁

 

 

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