姿見ずの橋と姿見の橋。淀というお名前。橋の話しを盛る。ソバと水車は江戸の華。黒船来航と水車大爆発。環状七号線地下調節池。黒船来航。面影橋から雑司ヶ谷霊園へ。四谷怪談。

 

 

よどみ…(5)水に姿を


前回コラム「よどみ…(4)遠すぎた橋」では、絵島の運命の「よどみ」について書きました。
今回は、コラム「よどみ…(1)淀橋・内藤新宿・高遠」でご紹介しました、中野長者の鈴木九郎さんの伝説に登場する「姿見ず(すがたみず)の橋」の現在を書きたいと思います。

コラム「「よどみ…(1)淀橋・内藤新宿・高遠」の、小見出し「九郎の伝説」と「嫁の出立(でだち)」を読んでおいていただけると、今回のコラムは、わかりやすいと思います。


◇「淀橋」に改名

東京都にあります青梅街道(おうめかいどう)は、江戸時代初期に、石炭を青梅から江戸に運ぶためにしっかり整備されたようです。

鈴木九郎さんがいた室町時代が、どの程度の道だったかはよくわかりません。

青梅街道沿いの中野坂上には宝仙寺があります。
このお寺は、源義家によって平安時代に創建されていますので、その頃にはすでに、馬が通れるような街道が整備されていたのかもしれません。
新宿の熊野神社も室町時代に建てられています。
もちろん、鈴木九郎さんの屋敷や牧場もすぐ近くです。

1603年に、江戸に幕府が開きました。

大昔から、こんなに重要な街道です。
昔から、橋がかかっていても不思議はありません。
江戸幕府の都の重要な街道に、いつまでも「姿見ずの橋」という、よくわからない橋名では都合が悪かったと思います。
それこそ、縁起や世間体も考えたかもしれません。

「姿見ずの橋」とは、今の中野区と新宿区の境を流れる、神田川に架かる短い橋のことです。
この橋を青梅街道が通っています。

江戸時代のどこかで、この橋を、「淀橋(よどばし)」と改名しました。
いつからかは、諸説あって、はっきりしません。

徳川三代将軍の家光が、よどんだ緩い川の流れを見て改名した。
京都の淀川の風景に似ていた。
四つの村(戸)の境にあるので、四戸橋(よどばし)と名付け、それが淀橋となった。
などなど、説はたくさんあります。

いずれにしても、「淀橋」という立派な名前がつけられました。

現在の東京の主要な橋の名前は、江戸時代とほとんど変わっていません。
400年後であっても、立派に使える名前でなければいけないと、江戸幕府は考えたのかもしれませんね。


◇「江戸」と「淀」

さて、「淀(よど)」と「江戸(えど)」…、文字の読みでは、一字しか違いません。
実は、そこには共通のあるものがあるのです。

両者とも、この言葉のもとの意味は、水がたまってよどんでいる低湿地をあらわしているそうです。

「淀」という文字は、琵琶湖から始まり、京都を流れ、大阪湾まで流れる淀川を、まずイメージしますね。
瀬田川、宇治川、淀川と名前を変える大きな川です。木津川、桂川も合流します。
京都の都の南には、巨大な巨椋池(おぐらいけ)が昭和初期までありました。
今は、干拓されてありません。

京都南部の、この大きな池がある低湿地は、もともと「与渡(よど)」と呼ばれていたそうです。
大きな川が、各方向から合流し、水運の要所でもありました。
大雨や台風の時などは、たいへんだったでしょうね。

戦国時代、明智光秀は、よくこんなところで、秀吉と決戦をしようとしたものです。
それにしては、アイデア不足です。

この地域は、秀吉が天下を取った後、大規模な治水工事が行われ、茶々の出産の場所として、「淀城」が建てられます。
茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります。
「淀君」は後世で生まれた呼び方のようです。

* * *

「淀殿」の、幼名は「茶々(ちゃちゃ)」、本名は「菊」です。
浅井三姉妹は、「菊(きく)、初(はつ)、江(ごう)」です。
とはいえ、現代でもそうですが、いろいろな呼び方や漢字、仮名、匿名、芸名を使うことはしょちゅうありますね。

歳をとった秀吉が、成人した淀殿に、笑顔で「ちゃちゃ、ちゃちゃ」と言って、踊っていても不思議はありません。
淀殿は、署名に茶碗や茶せんの絵でも描いたかもしれません。

江は、「五」なんて署名もしています。
江は、徳川家康の息子の二代将軍 秀忠の正室となって、江戸にやって来ます。
この方、本当に最初から「江(ごう)」という漢字のお名前だったのでしょうか。
縁がありすぎです。

人の遊び心は、昔も今も同じかもしれませんね…。
でも、この「淀殿」という漢字と呼び方、何か気品が漂います。
「与渡殿」では、そうはいきません。

戦国時代だけでもないですが、漢字の文字を変更することなど、歴史にはつきものです。
「大坂」から今の「大阪」になったのも、諸説あります。

ただ、縁起や由来、品格などを考慮したのは確かでしょう。

コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ケ原」でも書きましたが、私は、この三人は本当に三姉妹なのか、少し怪しい気もしています。
戦国時代の織田家の重臣だけが知っていた何かがあるような気がしてなりません。

* * *

「えど」は、入り江の入り口(戸)ですので、「江戸」となったようです。
「えど」は、「よど」と同じように、水がよどんだ低湿地を意味していたようです。
その通り、江戸の中心部は湿地帯だったところです。
古代より、名称の成り立ちは、漢字の意味と、発音の意味の両方を、あえて組み合わせることが、よくありました。

江戸の「淀橋」あたりは、神田川がひんぱんに洪水をおこし、低湿地のような状態であっても不思議はない気がします。

江戸にある、水がよどんだ低湿地。
京都にもある、同じような低湿地の地名の「よど」。
もともとは京都の由緒ある水運の拠点の地名の「よど」。
「淀」は、徳川の敵だった人物の名前ではありますが、その漢字には品格が感じられます。
「姿見ずの橋」伝説にも、悲劇の女性が登場します。
この読みと漢字なら、すぐに定着しても不思議はない気がします。

* * *

日航機の「よど号ハイジャック事件」を覚えておられる昭和生まれの方々も多いと思います。
この「よど号」の「よど」は、この「淀」からきています。
その頃の日航機には、他に、たま号、ふじ号、ひだ号、とね号がありました。
この名称のつけ方には、どんな理由があったのでしょうか。
地名なのか、まさか女性のお名前では…。

それにしても、ハイジャックされた機が、よりによって「よど」とは…。
この名前、どこまで、いわく付きで、よほど、よどんでいるのでしょうか。

政治家やマスコミの方々…、「よど」と耳にすると、この日航機をすぐに思い出す方も多いでしょうね。
後に政治家になる あの方のお顔とともに…。


◇橋の話しを盛る

ここで、ちょっと不思議な話しを書きます。

実は、江戸時代に、「姿見ずの橋」のすぐ近くに、「姿見(すがたみ)の橋」も存在しました。
現在の神田川の「面影橋」や「小滝橋(おたきばし)」という説があります。
実は、この橋は、江戸時代に安藤広重(あんどう ひろしげ)が絵にしています。

「名所江戸百景」の中に、「高田姿見のはし、おもかげのはし砂利場」と題されています。
そして、絵の中には、それぞれと思われる橋が二本描かれているのです。
ですから、現在のどちらの橋が「姿見の橋」なのかははっきりしません。

画家の思考や絵の題から考えると、絵の手前の大きな橋が「姿見の橋(小滝橋)」で、奥の小さな橋が「おもかげ橋」ではないかとも想像します。
この砂利場の先に、今の雑司ヶ谷霊園(ぞうしがや れいえん)があったのではないかと想像します。

この「姿見の橋」も、ある夫婦の悲劇と、女性の身投げの話しが残っています。
また、前述の鈴木九郎さんの娘の小笹さんが、「姿見ずの橋(淀橋)」で身を投げて、この「姿見の橋(小滝橋)」で、その遺体が発見されたという言い伝えまであります。
どんどん話しが広がっています。

* * *

絵の題にある「高田」という地名は、今も神田川沿いにあります。
JR高田馬場駅も近くにあります。

ここには、「面影橋(おもかげばし)」という橋も、実際にあります。
その北側に、「雑司ヶ谷霊園」が今もあるのです。
これは昔からの大きな墓地で、歴史上の著名人たちがたくさん眠っています。

実は、あの超有名な怪談話「四谷怪談」で、遺体が川に流される場所こそ、ここだという話しもあります。
この怪談話は、江戸時代中期のある殺人事件をもとに創作されたとも、いわれていますね。
舞台は「雑司ヶ谷」です。

* * *

江戸時代の有名な怪談話しに、「番町皿屋敷」というものもありますね。
「いちま~い、にま~い…」のあの話しです。
これは今の東京都千代田区が舞台ですが、本当の大元の話しは「播州皿屋敷」です。
兵庫県の姫路城でのお話しです。姫路城には、「お菊の井戸」も残っていますね。
おそらく関西から江戸に入って来た話しを、江戸にあわせて変更したのではと思います。

現代においても、食べ物でも、料理でも、催し物でも、東京でうけるように内容を変更することはよくありますよね。
そうしなけば、まず東京では成功しません。

江戸庶民たちのことですから、「姿見ず」、「姿見」、「面影」と、神田川の流れに沿って、話しをつなげて面白くしていったのかもしれません。
亡き人たちの面影を想像しながら、「面影橋」を渡って、雑司ヶ谷霊園にお墓参りに向かうなど、ちょっと江戸の「粋」にも感じますね。

姿の見えなくなった思い人、その姿が見えてきたかと思ったら、それは面影だった…、さあ、お墓参りです。

* * *

「姿見ずの橋」があったために、「姿見の橋」や「おもかげ橋」が生まれたのかもしれません。
おまけに、恐ろしい話まで、どんどん登場してきます。
江戸庶民は、よほど怪談話しがお好きだったのでしょうね。

悪気はなくとも、「話しを盛る」という人は、いつの時代にも存在していたのでしょうね。
「よどみ」は、決して悪気のないところにも、おきてしまうものなのですね。


◇水に姿を…

全身を映す鏡を、今でも、「姿見(すがたみ)」と言いますね。
前述の広重の絵を見ますと、たしかにこの形状の橋であれば、川面に全身を映すことができる気がします。

でも、全身を川面に映すには、川の流れが、ほとんどわからないほどに、よどんでいなければなりません。
まさに「明鏡止水」です。
「淀」そのものですね。

このあたりの神田川は、江戸庶民が、実際に、自身の全身の姿を見る鏡として利用されていたのかもしれませんね。
たしかに江戸時代は、現代のように、全身を見ることができる鏡などありません。

「姿見」とは、実は、「淀みに映る全身の姿を見ること」を意味していたのかもしれません。
流れが速くて、姿を見れないのであれば、それは「姿見ず」となります。
どの橋に行けば、全身の姿を見れるかは、橋の名を聞けば、すぐにわかりますね。
「姿見の橋」に走ればよいのです。

少し想像しすぎかもしれません。
ですが、昔からの地名でも、現代の親父ギャグや だじゃれ でも、複数の意味を持たせて、ひとつの呼称や名称、小話しにすることはよくあります。
やはり、遊び心は、江戸時代も現代も、それほど変わっていないのかもしれませんね。

こうした橋の名や、地名が、現在の東京に残されていることは、とてもうれしいことです。
神田川も、時代を越えて、位置をそれほど変えずに、しっかり流れてくれていますしね。

* * *

それにしても、「番町皿屋敷」には「お菊」さんが登場します。
淀君の本名も、「菊」さんです。
このつながりも不思議ですが、個人的に、この「淀」という文字は、とてつもないパワーを秘めている気がします。

次回のコラムでは、そのパワーのことを書きたいと思います。


◇淀橋

下の写真は、今の淀橋です。










下の川の右側が新宿区で、左側が中野区です。


夏の暑い時期、この橋には、たくさんのハトが羽を休めにやってきます。
神田川で涼んでいます。
江戸庶民も、きっとそうだったでしょう。

写真のこの部分は、人間が足を踏み入れられない場所なので、ハトたちは、ほとんど微動だにしません。
もしやと思って、グーグルマップの航空写真を見ましたら、バッチリ写っていました。
グーグルマップも、ハトたちも、おそるべしです。
今度、庭の犬が写っていないか、よく見てみようと思います。


淀橋から、青梅街道を中野方面へ、この坂を上がったところが「中野坂上」です。
室町時代も、江戸時代も、今も、お日様は同じように当たっていますね。


今でこそ、神田川の川幅は大したことはありません。そのかわり深さは結構あります。
実は、昭和の時代までは、大雨などの際に何度か決壊して、洪水をおこしていました。
今でも、ゲリラ豪雨のときに、神田川の支流域は危険にさらされます。

今の、東京の中野区と杉並区の境にある、環状七号線という道路の下に、大きなトンネルをつくっています。
神田川と妙正寺川の間の部分です。
これは、大雨の際に、河川からあふれそうな雨水を、このトンネルに貯め込むための空間です。
完成すると、54万立方メートルの水が貯められるそうです。
5億4千万リットルです。

東京ドーム一杯は、12億4千万リットルです。東京ドーム、意外と貯められます。
トンネルを掘るよりも、建物のほうが安上がりで早い気もしないことありません。
でも、建物のほうが実際の運用コストは莫大にかかるし、周辺への危険性もありそうです。

このトンネルの名称は、「環状七号線地下調節池」といいます。
なんと「池」の扱いです。
法律的、政治的な意味合いで区別されているのでしょうが、「池」とは、いかした名称です。

ため池を地上につくれないのであれば、地下につくってしまえとは、なかなかな発想です。
人工の鍾乳洞のようなものです。
地上で暮らす人々には、まさか自分の足の下に巨大な池があるとは思っていないかもしれません。

すでに、実際に一部が使われ、防災に役立ちました。
河川をなかなか拡張できない現代ですので、新しい時代の河川や池のあり方なのかもしれませんね。
そのうち、「池」ではなくて、「湖」や「海」をつくるのかもしれませんね。

平成以降、神田川の洪水を耳にすることはなくなりました。

* * *

下は、江戸時代の淀橋の絵です。わかりやすいように、着色してみました。
川は絵の上から下に流れています。
中野坂上方面は橋の右側です。左側が新宿方面です。

江戸時代の青梅街道には、人家や商店も多く、人々のにぎわいが感じられますね。
この写真にはありませんが、この絵には、神田川近くに水車小屋も描かれています。


 

* * *

淀橋から中野坂上に上がる坂の途中にある、石森製粉株式会社の本社前に、下のように、大きな粉挽き用の石臼(いしうす)が置いてあります。
明治時代に吉田製粉場で使われていたようです。
吉田製粉場は、今の石森製粉株式会社で、そば粉を製造販売する会社です。
淀橋の地の本社前に、これを置いてくれているとは、この会社の心意気と自負を感じますね。
大したものです。

今の時代に、淀橋の水車と製粉業の歴史を、しっかり伝えてくれていますね。

江戸時代、このあたりは製粉業が盛んで、神田川にはたくさんの水車があり、そのチカラで石臼が動かされていたようです。
淀橋の橋の欄干に描かれた、丸い形の図柄は、水車を描いたものです。



◇ソバと水車は、江戸の華

コラム「お盆に思い出す / 東京都中野区(1)」で、犬囲いの後の広大な土地が、粉やしょうゆ、味噌の集積地となって、そうした業者が増えていったことを書きました。

荻窪、吉祥寺、高井戸、小金井などから、ソバが運ばれ、この淀橋あたりで製粉され、江戸のソバ屋に供給されていたそうです。
かなりの数の業者がいたようです。
中野は、ソバの名所だったようですね。

どうりで、江戸庶民はソバが大好きで、落語にたくさん登場するはずです。
関西は「うどん」なのに、江戸はどうして「ソバ」なのか、ここにも原因がありそうです。

江戸時代の江戸は、世界最大級の都市人口があったそうです。
それは、相当な量のソバが必要だったことでしょう。

現代人にも麺好きのDNAが受け継がれているのでしょうか、今の中野は、ラーメン屋さんの大激戦区です。
中野は、「つけ麺」発祥の地ですね。
入れ替わり、たち替わり、新規出店の挑戦が止まりません。
麺文化は、今の中野に、しっかり受け継がれています。

* * *

江戸郊外の青梅街道沿いの地域は、とにかく水車だらけだったようです。
大小の川がたくさんありました。
今の調布市の「深大寺(じんだいじ)」の近くには、「水車館」という展示施設があります。
水車や、いろいろな関連施設があります。

何年か前に、NHKの朝ドラで「ゲゲゲの女房」というものがありました。
「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の、水木しげるさんの家が、深大寺の近くにあり、ドラマの中でも、深大寺やソバが登場していましたね。

東京の人たちには、「深大寺ソバ」といえば、ソバの有名ブランドです。
また別の機会に、深大寺のこともご紹介します。

江戸時代に、「火事とケンカは、江戸の華(はな)」という言葉がありました。
今の消防隊である「町火消」たちの豪快な仕事ぶりや、江戸っ子のケンカっぱやいが、きっぷと威勢の良さは、江戸の自慢だという表現です。
実は、「ソバと水車も、江戸の華」だったようですね。


◇淀橋水車のよどみ…

ここで、淀橋水車にまつわる暗いお話しをご紹介します。

江戸時代の1853年に、江戸湾の浦和に、ペリーが率いる、アメリカ合衆国海軍の蒸気船4隻がやってきます。
このうちの3隻は大型軍艦です。いわゆる「黒船来航」です。
これは攻撃ではなく、平和的な交渉を目的とされたものだといわれています。

この翌年、日米和親条約が結ばれます。
将軍は12代将軍 家慶(いえよし)でしたが、黒船が来たときは、この時代も徳川家のゴタゴタで精一杯です。
このゴタゴタの中で、後に最後の将軍となる、15代将軍 慶喜(よしのぶ)が歴史の表舞台に登場してきます。
黒船来航時は、老中の阿部正弘(あべ まさひろ)が、幕府の政治の実質的トップでした。

黒船は、アメリカ独立記念日の祝砲を撃ったものだから、江戸は大混乱になります。
ただの空砲で、この音が江戸の町まで届くはずはありません。
江戸に、どのような内容で伝わったのでしょうか。
大勢の見物人が浦賀に押しかけたりしました。
それは徐々に不安や脅威になっていきます。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、 たった四杯で夜も眠れず」

これはその頃の狂歌です。
「上喜撰」とは京都の高級茶で、もちろん黒船の蒸気船をさしています。
「四杯」は、4隻の蒸気船のことです。
「濃い京都の高級茶を4杯飲んだので、眠れなくなって、江戸幕府は目を覚ました」という内容です。

江戸幕府と江戸庶民の、たいへんな混乱ぶりをうかがえます。

現代でいえば、ミサイルが発射されて、日本各地でアラートが鳴り響いたというようなことでしょうか。
アメリカ軍のこの来航は、江戸幕府に目を覚まさせることが目的だったでしょうから、作戦は大成功だったでしょう。

この黒船来航をきっかけに、日本は、15年あまりの幕末の期間に突入します。
いよいよ江戸幕府は終焉に向かって突っ走っていきます。

* * *

黒船来航により、江戸幕府は外国勢力への備えとして、火薬の本格製造を急に始めます。

それまで、ソバなどの粉をつくっていた水車を、火薬製造に切り替えます。

前述のとおり、江戸の各地には、水車がたくさんありました。

近年は、ほとんど花火工場の爆発のニュースを見かけなくなりましたが、昭和の時代までは、結構、各地で花火工場の爆発事故のニュースを目にしました。
近代になってからは、花火工場は、人家のある住宅街から離れた山の中などにありましたので、周囲の街を巻き込むことは少なかったです。

江戸時代は、生活圏の中に水車がありました。
案の定、各地で爆発事故が多発します。

淀橋にあった水車は、近隣住民の不安を無視し、その所有者は対策をとっていませんでした。
やっと、対策を始めようとした時に、大爆発が起きます。
1854年でした。
死傷者も多く出て、その敷地にはクレーターが出現したと記録されているようです。

その時代ですから、幕府の支援もありません。
江戸庶民は義援金を集め、被害者の救済にあてたそうです。
現代でも、同じような支援を、たくさん目にしますね。

淀橋水車には、そんな歴史もありました。

* * *

下の写真は、今の青梅街道です。
中野区 中野坂上の宝仙寺の付近です。

江戸時代の方々…数百年後に、このような風景になるとは思ってもみなかったでしょうね。
でも、「道」と「橋」と「川」と「青い空」は、そのまま、ここにあります。



◇ヨドバシ

さて、そんな「淀橋」ですが、現代でも、この名称、どこかで耳にしたことはありませんか。
そうです、カタカナの「ヨドバシ」です。

大型家電量販店の「ヨドバシカメラ」です。
実は、このヨドバシカメラという会社の発祥の地は、この「淀橋」の地なのです。

そんなお話しは、次回のコラムで書きたいと思います。

* * *

この「淀」という文字…、私はてっきり水につながった名称だと信じきっていましたが、何か水だけではなさそうです。
いったい、水ではなく、何が、よどんでたまっているのでしょうか?

それでは、次回に。

* * *

コラム「よどみ…(6)牛とヨドバシ」へつづく

 

 

2019.9.21 jiho

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