大奥・絵島生島事件・天英院・月光院・江戸防衛ライン・御庭番・徳川吉宗・徳川家宣・間部詮房・新井白石・尾張徳川家

 

 

よどみ…(3) 大奥・絵島生島事件


前回コラム「よどみ…(2)群馬 vs. 山梨」では、館林徳川家と甲府徳川家、いわゆる「御両典(ごりょうてん)」の政争のことを書きました。
「内藤新宿」という新しい宿場の創設もそうした中で行われたと書きました。

五代将軍 綱吉夫妻が不審な死をとげ、柳沢吉保は失脚し、六代将軍は家宣となり、新井白石(あらいはくせき)、間部詮房(まなべ あきふさ)らが政治の実権を握っているところまで書きました。

ようするに、群馬県勢が失脚し、山梨県勢が、権力を欲しいままにしているということです。

そして、六代将軍の家宣は間もなく病死し、幼子の家継が七代将軍となります。
もはや、将軍は幼すぎて、いないも同然です。
白石や間部の権力は絶大なものとなっています。

そんな状況から、今回のコラムは書いていきたいと思います。

* * *

もはや徳川の人間がいないところで、強力な家臣たちが政治を動かしている…、徳川御三家や、多くの譜代の家臣たちが、こんな状況を放っておくはずがありませんね。


◇暗躍だらけ(12)間部詮房

この頃、特に、間部詮房(まなべ あきふさ)の増長ぶりは目にあまるほどだったようです。
幼子の七代将軍の家継の言葉に、「詮房はまるで将軍のようだ」というものも残っています。
大奥に入り浸り、家宣の側室の「月光院」とは、かなり親密だったようです。

実は、家継は、月光院と詮房のあいだの子だという説もあるくらいです。
真偽はわかりません。
家継の幼名は「鍋松(なべまつ)」です。
通常、こんな意味深な名前を、わざわざつけるでしょうか。
家宣がオーケーしたということは、彼も薄々感じていたのかもしれませんね。

* * *

豊臣秀頼が、秀吉の子ではなく、淀君と家臣 大野治長(おおのはるなが)とのあいだの子だという説もありますが、この話しとよく似ています。
淀君の治長への執着は尋常ではありません。
家康もその事実をつかんでいたのかもしれません。
大野治長を、淀君への心理作戦に上手く利用していました。
家継も、秀頼も、両者とも十分に可能性はあるかも…。

* * *

間部詮房は、もともと芸能分野の猿楽師の、それも弟子という地位から、幕府の政治の最高の地位まで、まるで猿のように、あっという間にかけ上がった人物です。日本史上でも、芸能分野からの下克上は、この人だけのようです。
さすがに、現代の政治家でも、まだありません。
おそらく、行動力は抜群で、要領もよかったと思います。

新井白石はエリート学者ですから、この二人が組むと、それは強そうです。

こんな詮房です。
まじめに忠義に励む、もともと格上の譜代や外様の大名たちには、大不興でした。
白石にも、手に負えなくなっていたのかもしれません。

* * *

家宣の側室の「月光院」も、江戸浅草の小さなお寺「唯念寺(ゆいねんじ)」の娘から大出世して、今や前将軍の側室で、現将軍の生母です。
詮房と月光院…、お互いの出世話しで、それは盛り上がったことでしょう。
月光院は死ぬまで、野心いっぱいだった女性です。


◇暗躍だらけ(13)将軍への道

今回のコラムは、大奥の「絵島(江島)生島事件」(えじまいくしまじけん)のことを書きますが、前提として、この事件が、後に八代将軍となる紀州徳川家の吉宗(よしむね)による壮大なワナと仮定して書いていきたいと思います。

わかっている断片的な事実から、想像をめぐらせ、ストーリーを書きたいと思っています。
あくまで仮定の話しです。

まず、この時点で、吉宗が八代将軍をめざすにあたって、障壁となる人物を列挙してみたいと思います。

A:七代将軍 家継…六代将軍 家宣の一応 子どもで、まだ幼い年齢です。
B:新井白石…幕府のトップ
C:間部詮房…幕府のトップ
D:天英院…家宣の正室、後水尾天皇の孫
E:月光院…家宣の側室、七代将軍 家継の生母
F:絵島…大奥のトップ、月光院派のトップ
G:大奥4000人の女性たち…天英院派と月光院派で争い
H:尾張徳川家…徳川御三家のひとつで、紀州徳川家より格上
I:水戸徳川家…御三家よりも格下
J:柳沢吉保ら元綱吉勢力…すでに勢力は弱体化

紀州徳川家は「徳川御三家」のひとつです。
将軍家から将軍後継者が出せないときには、尾張か紀州から将軍を出すのが掟(おきて)です。

皆さんが、徳川吉宗だったら、上記の人たちを、どのように攻略しますか?
誰を味方にして、誰を敵にしてつぶしますか?
誰を上手に利用しますか?

私は、なかなか思いつきません。
でも、「絵島生島事件」を知ると、なるほど、その手があったかと思ってしまいます。

事件のことは、後で書きます。

* * *

江戸時代は、それぞれの時代で、大奥の女性たちのすさまじい争いがありました。
まるで、女性たちだけの権力闘争と思われがちですが、そこにはしっかり男性陣が加わっています。
ある意味、けしかけられて、男たちに上手に利用されてしまっているように感じます。

今回のこの事件は、絵に描いたように、女性たちの争いを上手く利用されました。
「天英院(てんえいいん)」と「月光院(げっこういん)」の激しい争いです。

実は、この二人、歳をとってからは、意外と仲がよかったという説があります。
なぜでしょうか。
おそらく、二人とも、吉宗に上手に利用されたことを後で悟って、吉宗という二人の共通の敵ができたからかもしれません。
ですが、その時にはすでに吉宗は絶大な権力を握っていました。

徳川の15人の将軍の中で、これほど女性たちを上手に利用したのは、家康と吉宗だけだったかもしれません。
他のほとんどの将軍たちは、それは苦労しました。
この二人、女性の心理を、当人に悟られないように、上手くついていました。


◇暗躍だらけ(14)御庭番

さて、絵島生島事件の話しを書く前に、吉宗の情報収集能力についてご紹介します。
吉宗は、将軍職についてから、あらゆる分野の改革を行ったと前に書きました。
その中に「御庭番(おにわばん)」という組織の創設があります。

ウィキペディアに何と書いてあるかと確認しましたら、「幕府の役職で、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密」と説明されていました。
その説明は、まるで、ある官庁の役所の一機関を表面だけ説明しているようで、ある程度の内容までにとどまっています。

現代でも、もちろんそうですが、その国の情報収集能力や諜報活動能力は、その国の防衛力そのものを示していますね。
比例しているといってもいいかもしれません。
これは、国に限らず、民間企業でもまったく同じですね。
そして、その情報収集能力や分析能力は、それにたずさわる個人や装備の能力にかかっています。
これは江戸時代でも同じだったでしょう。

* * *

十数年前までの、今ほど SNS が普及していない時代のインターネットの社会では、各大国の軍が直接、ネットの中で情報収集をしていましたね。
小さな企業や個人まで、よくここまで丹念に情報収集しているものだと思ったものです。
片田舎のごく小さな民間企業に、突然、軍やNASAの人がやってくるというこも、実際にありましたね。

今は、軍が直接ではなく、第三者や民間企業が情報収集していますので、どこの国が入ってきているのかはよくわかりません。
個人の顔や声、居場所、考え方、行動範囲、趣味、資産など、ほとんどの情報は収集されているはずです。
もともと、「ハッシュタグ」や「認証技術」とは、情報を集めるための機能ですね。

どこかの国では、それらの情報で、個人ごとに人間の格付け評価や安全度を判定していますね。
日本でも、すでにある分野には入っています。
これも、江戸時代でもすでに行われていたでしょう。

* * *

この「御庭番」という名称のとおり、大奥の庭にも番所をつくって、その動向を監視していたようです。
江戸はもちろん、全国各地で活動していたようです。
変装、家族にも秘密、身分詐称は、今のスパイたちもいっしょですね。

この役職は、最初は17名だったようですが、吉宗は紀州にいた時から、数十人のこうした人間たちをかかえており、吉宗が江戸に行ってからは、交替で紀州と江戸で仕事をしていたようです。

忍者の話しは、コラム「旅番組とお城(3)馬と虎と犬と」で書きましたが、今の滋賀県の一部の甲賀には甲賀忍者が、今の三重県の一部である伊賀には伊賀忍者がいました。
紀州(和歌山県)は、三重県のすぐお隣りです。


【徳川御三家と江戸防衛構造】

ここで、徳川家がどうして紀州(和歌山)にあるのかについて、少しだけ書きます。

家康は、幕府開府後、徳川四天王の本多忠勝を伊勢(三重県)に、同じく四天王の井伊直政を近江(滋賀県)に、関東の地から移します。
四天王のあとの二人は、関東の地に残します。
そして、三重県の一部の伊賀には、藤堂高虎を置きます。

その後、太平洋側の紀州(和歌山)には紀州徳川家を置きます。
そして、日本海側の越前(福井)には、越前松平家を置きます。この家は、家康の次男、秀康が守ります。
公家や仏教勢力がいる京都や奈良には直接入りません。
もちろん豊臣がいるあいだは大坂には入りません。
この日本海から太平洋までの防衛ラインで、東日本と西日本を分断しました。

機会がありましたら、日本地図を見てください。
福井県・滋賀県・三重県・和歌山県…のライン、きれいに日本を分断しています。

このラインの東側に尾張(愛知県)があり、西日本攻撃の最大の拠点が名古屋城です。
そう意味で、名古屋城は、ほかのお城とは、構造も意味合いもかなり違います。
ここには、尾張徳川家を置きます。

そして、名古屋から東に、道は東海道と中山道に分かれ、家康の故郷の三河や駿府のある東海道側、信州に向かい北関東に入る中山道となります。
北関東には、四天王の榊原康政がいます。いざという時に東北や新潟方面からの攻撃をブロックするのは、この北関東です。
南関東には、四天王の酒井忠次がいます。この酒井は信州や甲州の事情にも明るい人物です。
水戸徳川家は、江戸の後方の太平洋沿いにあり、海路で東北にすぐに行ける場所です。
千葉の房総半島も酒井が守ります。
江戸は、最前線防衛ラインから、もっとも離れた奥に位置します。
そして、そのさらに奥は脱出ルートです。

この配置は見事とというほかありません。
鉄壁の江戸幕府防衛構造です。
この構造を、もし西日本で作れと言われても、できないかもしれません。

* * *

関西に配置された四天王の二人と藤堂は、戦にめっぽう強く、突撃タイプで頑強な守り、徳川軍の最強の三人といっていいかもしれません。
戦場では、相手にしたくない三人です。
藤堂は築城の名人と言われました。とにかく、攻撃でも守りでも、さまざまなタイプの城を、すぐにつくれる人なのです。

この三人の いで立ちも、戦場では目立ち、そこにいるというのが、すぐにわかったでしょう。
武田軍が加わった井伊軍は、真っ赤な軍団です。
黒い塊りの真ん中に鹿がいたら、そこは本多です。
何か変わった陣構えで、羽を広げた兜が見えたら、そこには何かのワナがまっている、それが藤堂です。
築城の名手の藤堂のことです。戦場にも仕掛けをつくってあるに違いありません。
藤堂のいるところ、そこにはワナや暗躍が待っています。

この曲者(くせもの)の藤堂が、伊賀忍者を管理統率しました。
元は武田軍の甲州忍者をかかえた井伊が、甲賀忍者を管理統率しました。
何とも心にくい人選です。

* * *

織田と豊臣は、甲賀忍者を庇護して、伊賀と戦いましたが、徳川は両者を手中にしました。
家康は、「本能寺の変」の直後に伊賀と甲賀の助力で、三河に生きて戻れました。
服部半蔵は、伊賀の武将です。
この助力がなかったら、家康の命はここで終わったかもしれません。

さすがに、忍者の伊賀と甲賀です。
誰を助けたらいいのか、選択を間違えませんでしたね。
これが織田軍の中の武将でしたら、彼らは討ち取ったはずです。

忍者たちには、最高のチャンスがやってきました。
家康には、これまでの自身の行動が幸運を呼び寄せましたね。

江戸幕府の防衛構造の中で、服部半蔵は江戸で守りにつき、将軍が危険になったときの役目としました。
「本能寺の変」の直後と同じです。
最後の逃げと幸運には、やっぱり、半蔵です。

徳川家が、どうして紀州・尾張・水戸にいるのか。
背景には、こうしたことがあります。

* * *

「御庭番」の話しに戻ります。

江戸で「御庭番」になった人々は、もともと紀州徳川家で、そうした情報収集、諜報活動、隠密活動などに従事していた人々です。
紀州は伊賀のお隣りです。

忍者や間者と呼ばれた人々は、戦国時代が終わって、その役目が少しづつ変わってきたのかもしれません。
仕事の範囲も広がってきたでしょう。
潜入やおとり捜査なども、より巧妙になってきたのかもしれません。

吉宗が、どうして情報戦や諜報、陰謀に長けているのか。
それは、伊賀甲賀のお隣りの、紀州だったからこそです。

では、同じお隣りの尾張は…?
尾張家は、派手に遊びすぎて、お侍さんたちはいつも腰に刀をさしているということを、忘れてしまったのかもしれませんね。
尾張家は、その後もずっと派手に遊び続けます。
…派手で悪いか!
悪くないです。

でも尾張家は、江戸時代の終わりに、お名前どうり、やっと大活躍します。
なんと、江戸徳川幕府を終わらせます。
ものすごい判断ですね。

* * *

さて、吉宗は、4000人はいたといわれる大奥の女性すべてを調べ上げ、分類整理していたのは間違いないと思います。
もちろん男性陣は言うに及びません。
特に重要な人物の関係性や行動も監視していたはずです。
もちろん、4000人の女性の中にも、多くの女性スパイを潜り込ませていたことでしょう。
それぞれの派閥に入り込み、それなりの行動をとっていたものと思います。

* * *

あの家康も、豊臣家の大坂城の中に、相当な数のスパイを入れていました。
コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ヶ原」で、大坂城にいた豊臣家の重臣、片桐且元(かたぎり かつもと)のことを少しだけ書きましたが、この人物も最初から家康のスパイだったと、個人的には考えています。

この且元は、豊臣家滅亡の「大坂の陣」のきっかけとなる「方広寺の鐘銘事件」のときに、豊臣家から徳川家に寝返る人物です。
もともと、家康側ですから、寝返るというよりも、役割を終えて徳川家臣に戻るというほうが正確かと思います。
この鐘銘事件は、もちろん最初から、家康のワナでした。
この事件は、徳川が豊臣と実際に戦いを開始したことを意味しています。

* * *

ちなみに、秀吉のもとで、賤ケ岳の合戦の時に武功をあげ大活躍した「七本槍」の七人の武将のうち、結果的に六人が家康側につきました。
実際には、七人とも家康側だったと思います。
七人とは、加藤清正、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則、片桐且元です。
実際の賤ケ岳の戦いでは、他にも活躍した武将がたくさんいました。
大谷吉継も、状況によっては、この中に加わった可能性があると思っています。

実は、この「七本槍」のお話しの七人は、江戸時代になってからつくられた七人衆です。
おそらく、関ヶ原の戦いも含めて、その前から家康側だった者たちへの配慮だった可能性が高いと思います。
とはいえ、この七人こそが豊臣軍の武闘派の主力だったのは間違いないと思います。

彼らは実際に、関ヶ原の戦いの前まで、家康のもと、しっかり役割分担がされていたと感じます。
加藤清正は、家康の命令で、関ヶ原の戦いに参加させてもらえなかったのではなく、念のため、九州で、黒田官兵衛のけん制だった可能性もあります。

豊臣五奉行のひとり、浅野長政も家康側です。
あとの四人は、ほぼ武闘派ではなく、家康には必要なかったと思います。

強くて、まともな武人たちはみな、石田三成ではなく、家康を選択していたのです。
上杉家や宇喜多家をのぞいて。
後は、両天秤派です。とはいえ、武家の多くは両天秤派です。

こうした選択は、情報収集能力と分析能力以外にありません。
選択は、まさに生死を意味しています。
情報収集や諜報の大切さを、吉宗も、よく理解していたと思います。

七本槍や家康の話しは、コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ヶ原」で書いています。

* * *

「御庭番」の最初の役職のメンバーは17名と書きましたが、これは公式に公開されていた情報です。
この下に、何千人という配下がいたと思います。
そんな情報が残っているはずもありませんね。

この「御庭番」は、吉宗が将軍になってから組織されましたが、それよりも前に、江戸城内に潜り込ませてあったことでしょうね。


◇暗躍だらけ(15)絵島生島事件の準備

吉宗は、将軍になってから、奉行所のシステムも改革します。
いわゆる警察や裁判に関する分野です。

* * *

奉行所では、庶民の金銭トラブルの裁判はしないと決めます。
自分たちで解決しろというのです。
ただし、街のどこにそういった金銭トラブルが起きていて、誰が大金を持っているかは把握したはずです。
幕府の情報収集という意味では、その情報だけで十分ですね。
いざとなったら武力解決もできます。

* * *

「目安箱(めやすばこ)」も吉宗が誕生させたものです。
これは、庶民からの匿名の投書箱ですが、人物の特定ができないはずはありません。
現代の「ハッシュタグ」にも通じるものがあります。
「長屋(ながや)」というシステムは、大家(おおや)が、「店子(たなこ)」である庶民の行動を監視するシステムです。

* * *

「岡っ引(おかっぴき)」というシステムは、いわゆる街の情報屋、タレこみ屋です。
「親分さん」といって時代劇に登場してくるような人たちです。
「悪には、悪をもって制す」ということも、もちろんありました。
ある程度の権限もあり、十手(じって)を手にして、罪人の捕縛もできました。

現代は、きとんと「お巡りさん」がいてくれますが、ちょっとガラの悪い荒っぽい人たちが、逆に犯罪を防いだともいえます。
街には、刀をさしたお侍がいましたが、岡っ引たちは、そうした人には手を出せませんね。
「岡っ引」は、ある意味、幕府が管理制御できる「荒くれ者」「スパイ」たちでした。

これとは別に、町人の中には、幕府から隠密で役割を持たされる人間もいました。

「必殺仕事人」「隠密同心」が、実際に存在していたとしても、不思議はありませんね。

* * *

「町奉行」は、今の警察と裁判所をあわせたような役所です。

「大岡越前(おおおかえちぜん」と呼ばれた大岡忠相(おおおか ただすけ)が、江戸町奉行となって「南町奉行所」にいたのは、将軍が吉宗になってからです。
吉宗の下で、江戸の街の治安や管理をしっかり支えました。

先程、「目安箱」は庶民の監視と書きましたが、実は、街の発展にも寄与したかもしれません。
貧しい人や庶民の病人施設である「小石川養生所」、火事の時の消火隊「町火消(まちびけし)」、新田開発、川の治水なども、この目安箱がきっかけともいわれています。
実際には、幕府の政策でしょうが、目安箱の成果を強調したのでしょう。

この頃は、「捨て子」や、旅館での病人の放り出しなどが多かったと以前に書きましたが、「小石川養生所」は、病気の蔓延だけでなく、そうした対策にもなったかもしれません。

「町火消」は、実際は水で火を消すというよりも、延焼を防ぐため、火元の周囲の家々を叩き壊すのが仕事です。
まといを手にして屋根に上っているのは、ここまで壊せという合図です。
街の荒くれ者や、無職の若者たちの仕事としては、向いていますね。
丈夫な身体と、体力、強い気性があれば何とかなりそうです。
武士にはやらせられません。

吉宗は、桜や桃の名所を、防災上や娯楽の観点から造っていきますが、これもたくさんの仕事を作り出していきました。
関連商売も生まれます。

これら、街の政策に、町奉行はかかせない存在でした。

* * *

こうした事柄については、おそらく、吉宗は将軍になる前から準備を行っていたと思います。

絵島生島事件が起きる前には、その裁判や刑に関する分野に、その幕府に不満を持つ武士や、吉宗自身の息のかかった武士を、すでに配置しています。
この事件が起きることをわかっていたようにも感じます。

前述の御庭番もすでに、江戸城内には配備済みでしたでしょう。
江戸の街にも、各所に情報網を張り巡らせてあったと思います。
幕府内部や、大奥内部の、人間の派閥状況も調査済みでしたでしょう。
そして、これから起こる事件の処断を下す分野にも、手ごまの武士たちを手配済みでした。

家康が、豊臣家を滅ぼした時と、よく似ていますね。
後は、その時を待つだけですね。
淀君の気性や行動パターンも十分に理解していました。

さあ、今回は、どうやって事件を起こさせましょうか?


◇暗躍だらけ(16)絵島生島事件

【事件前の状況】


六代将軍 家宣(いえのぶ)の正室は天英院(てんえいいん)で、家宣の側室に月光院(げっこういん)がいて、月光院の息子が、七代将軍 家継です。
何々院は、夫が亡くなって仏門に入った時の呼び名ですが、わかりやすいので、この名で書きます。
家宣は、すでに亡くなり、家継が七代将軍となっています。

天英院は皇室出身、月光院は寺の娘からの成り上がりです。
天英院の子供たちは、みな死んでいきます。本当にみな、病死でしょうか…。

月光院は家継を生みます。
月光院は、前述の間部(まなべ)と親しく、家継も彼の子という噂さえあります。

月光院は、現将軍の生母です。
今や、大奥は「月光院派」の王国です。

「絵島(えじま)」は、月光院派のトップです。
大奥の4000人の女性のトップです。

* * *

吉宗が、もし大奥の両派閥をつぶす、あるいは支配下に置くには、どうしたらいいでしょうか?

先程、この時点で、吉宗が八代将軍をめざすにあたって、障壁となる人物を列挙しました。

A:七代将軍 家継…六代将軍 家宣の一応 子どもで、まだ子供の年齢です。
B:新井白石…幕府のトップ
C:間部詮房…幕府のトップ
D:天英院…家宣の正室、後水尾天皇の孫
E:月光院…家宣の側室、七代将軍 家継の生母
F:絵島…大奥のトップ、月光院派のトップ
G:大奥4000人の女性たち…天英院派と月光院派で争い
H:尾張徳川家…徳川御三家のひとつで、紀州徳川家より格上
I:水戸徳川家…御三家よりも格下
J:柳沢吉保ら元綱吉勢力…すでに勢力は弱体化


上記Dの天英院は、皇室の出身ですから、皇室を敵に回すことは得策とは思えません。
天英院を味方につけ、月光院派の息の根をつぶすほうが、まずはいいと思います。

天英院は、前将軍の正室ですが、今や、現将軍の生母の月光院のチカラは絶大です。
以前の側室に、正室が苦杯(くはい)をなめさせられていたのです。
自分の子供たちの死にも、何かを思っていたかもしれません。
この二人の対立は、尋常ならざるものがありました。

* * *

戦国時代は、不利な方に手を貸して、結局、両者を一網打尽にする作戦がよくありました。
吉宗は、天英院を助けることで、月光院派の一掃を考えたかもしれません。
いずれは、天英院派も…。

月光院派をつぶすということは、間部詮房(まなべ あきふさ)の大奥への影響力を弱めることにつながります。
大奥の4000人の女性勢力のうちの多くを、弱体化させられます。

猿楽師から下克上で成り上がった間部が、その他の幕府の重臣や家臣たちと不仲だったことは、前述しました。
吉宗は、すでに彼らの一部を抱き込んでいたでしょう。

間部がチカラを失えば、新井白石だけで、政治権力を維持することはできません。
間部をつぶせば、この政権が倒れることは目に見えています。

まずは、Dの天英院を助けて、最大の敵である Bの白石・Cの間部・Eの月光院を叩きつぶす戦略だったのかもしれません。

* * *

問題は、どうやって、Dの天英院の信頼を勝ち取り、助ける状況にするかですね。

ここで、もし間部たちがいったん失脚しても、尾張徳川家をバックにして勢力を盛り返してくる可能性もあります。
尾張徳川家は、間部や白石らと、ある意味つながっています。
尾張徳川家から将軍を出すことを条件に、勢力を盛り返す可能性もあります。

実は、小さな子供の七代将軍 家継が亡くなったのも病死です。
月光院と一緒に、どこかに遊びに行って風邪をひいたのがきっかけという噂もあります。
絵島生島事件から、なんとわずか二年後です。
これが偶然の出来事とは思えません。
間部なのか、月光院なのか、吉宗なのかは別として、誰かに消されたと想像できなくもないです。
間部なら、すぐに別の将軍をたててきたでしょう。

間部と、幕府の両輪であった新井白石は、この頃には、もう政治に興味を失っていたという話しもあります。

吉宗からしたら、いざ事が開始したら、速やかに進めなければ、敵にチャンスを与えてしまいます。
とにかくスピードが大切だったと思います。

吉宗は、家康の行動と似てきましたね。


【公式の事件の概要】

正徳4年1月12日 (旧暦)、西暦1714年2月26日、絵島(江島)は、同じくらいの身分の「宮路(みやじ)」と共に、上野の寛永寺と、芝の増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴きます。
その帰りに、ある江戸の呉服商の誘いで、今の銀座の歌舞伎座近くの芝居小屋「山村座」に立ち寄り、芝居を観ます。

その後、絵島は、芝居役者の生島(いくしま)を茶屋に誘い宴会を開きます。
宴会に夢中になって大奥の門限に間に合いませんでした。
城に入れる入れないで騒動が起こり、評定所が駆けつけます。

評定所は徹底的に調べ上げ、大奥の規律の緩みが次々に明るみにされます。
絵島は生島との密会の罪で高遠へ流罪。これは月光院の嘆願で減刑となったものです。おそらく死罪からの減刑です。
異母兄は切腹。弟は追放。
生島と山村座の座長は遠島、山村座は廃座。江戸の他の芝居小屋も縮小。
呉服商は遠島。大奥出入りの医者や材木商も遠島や追放。
この事件では、直接的に50人あまりが処分されました。

関連して処分した者たちを含めると、なんと1400人あまりといわれています。
この中には、なんと水戸藩士もいました。
これは、何か、においますね。

この公式記録を、どのようにとらえるか、ということになります。


【事件の深層を想像】

もともと、絵島ほどの地位の人間が、門限ごときで、ここまでの大問題になるでしょうか。
それに、ここまでの地位に成り上がった絵島が、こんな「不義」で足をすくわれるようなことがあるでしょうか。

この内容は、全体を通して、あまりにも稚拙で単純です。
でも、この「規律の緩み」「不義」という単純さこそが、大事だと感じます。

家康が、「方広寺の鐘銘事件」で、豊臣家を攻め立てたのは、たった漢字四文字です。
鐘に銘記された「国家安康」の文字は、「家康」の名前を分断し呪うものだ…、この単純さこそが大事だと感じます。
この文字は、家康が入れさせたもので間違いないと思います。
この問題を処理できなかった豊臣家の負けです。

個人的には、絵島生島事件も、これによく似ている気がします。
あるいは、家康と同じ手法を、吉宗が行ったのかもしれません。

* * *

絵島の不義など、初めからなかった可能性もあります。
もし、あったとして、絵島を門限に間に合わせないことなど、簡単にできます。

呉服商や芝居小屋主人、役者のスケジュールを確認しておけば、このストーリーの中に、見事に組み込めます。
絵島が、芝居小屋に初めて立ち寄ったもので、役者を知らなくても、もちろんいいのです。

もともと家宣の墓は、芝の増上寺にあり、どうして上野の寛永寺にも行く必要があるのでしょうか。
芝居小屋は、両者の中間の位置にあります。
増上寺と寛永寺の途中で、まずは芝居小屋に立ち寄って宴会の予定をとりつけ、あらためて宴会場に重要人物たちを集めたということではないでしょうか。
絵島が、怪しい宴会をすんなりオーケーしたとは考えにくので、宮路が何かの「おもてなし」の細工をしたのかもしれません。

同行した「宮路」という人物、もしかしたら、前述の「御庭番」だったのかもしれません。
家康が大坂城に送り込んだ「片桐且元」と同じだったのではないでしょうか。

* * *

そして、絵島が江戸城に戻って、なぜここまで大きな騒動になるのでしょうか。
絵島の門限破りを、だれが問いただせるのでしょうか。
あの人物しかいません。

仮に城の門での騒動ではなく、大奥に絵島が逃げ込んでも、評定所が大奥に立ち入る許可を出せるのは、将軍かあの人物しかいません。
月光院が止めようとしても、その人物なら可能です。

天英院です。

おそらく、天英院と評定所は、絵島が江戸城に戻るのを待ち構えていた可能性が高いと思います。

もし絵島と生島の不義など、はじめからなかったとしても、この作戦に天英院が乗っても不思議はありません。

吉宗側が、どのように天英院に話しをしたかはわかりませんが、月光院をつぶせる、こんなチャンスはそうそうきません。
吉宗側が、天英院に、絵島の不義を、さも確かな話しとして伝えていたとしても、結果は同じでしょう。

この騒動を大問題にまで引き上げた首謀者のひとりは、天英院だと思います。

* * *

この突然の騒動は、大奥の女性たちを相当に動揺させたと思います。
吉宗は、4000人の女性たちが、天英院派か、月光院派かは、おおよそ調べ上げていたでしょうが、この騒動で、彼女らにそれを自らのクチで明るみにしなくてはいけない状況に追い込んだのかもしれません。
あるいは、月光院派からの寝返りを誘発させたかったのかもしれません。

吉宗のこの作戦…、やはり、天英院が乗らないはずはないように思います。

これで大奥の女性たちは、月光院派から天英院派に相当流れたかもしれません。
天英院派の大反撃です。

これで、間部詮房は、大奥になかなか足を運ぶことはできませんね。
まずは、月光院と詮房を分断することに成功しました。

大坂城の淀君と石田三成を分断させたのは、片桐且元でしたね。
家康が且元に、そう命じたのでしょう。

* * *

この想像のストーリーは、天英院と宮路が、吉宗側にいたという前提ですが、実は絵島も、寝返って、吉宗側についていても不思議はありません。
もともと、吉宗が処分したかったのは、絵島の異母兄や弟、芝居小屋、大奥関連の商人、水戸藩士だった可能性があります。
そして本命は、間部詮房、新井白石、大奥全体です。
現将軍の生母の月光院は立場上、そうそう簡単に処分できません。

将軍の家継は幼い子供です。
ゆっくり料理すればいいと考えたかもしれません。

絵島には、いったん高遠に流罪にするが、天英院も月光院も排除して、江戸城大奥に戻すという話でも持ち掛けたかもしれません。
この話しを、最初からしていなくても、事件後に取引きしてもいいのです。
吉宗のもと、絵島の地位を保証してあげればいいだけです。

間部や月光院をつぶすための証人、絵島を、ここで死罪にしてはいけないのです。
将軍の生母である月光院を、連座で処分はできません。
月光院の絵島への助命嘆願も予想どおりです。
絵島には高遠でおとなしく沈黙してくれていればいいのです。
高遠の内藤家には、事前に話しをつけてあったかもしれません。
絵島が、吉宗側に寝返っても、寝返らなくても、吉宗にとっては、絵島は戦の駒となったと思います。


【事件の処分】

先程、間部は、幕府内の他の大名たちから不人気だったと書きました。
譜代の重臣たちとも不仲でした。
幕府の男性陣も、白石や間部の一派と、それ以外の勢力の間で対立がおきていたのです。

関連も含めて、この事件の処罰が1400名にも及んだということは、間部や白石の権勢を削ごうとした動きとも考えられます。
吉宗のことですから、白石一派の反対勢力に、スパイを送り込んで、はやしたてたかもしれませんね。

この事件の大量処分は、その時の幕府が行ったものです。
吉宗は表向きには関与していないでしょうが、派手をきらい、質素倹約を旨とする吉宗には、高笑いが出そうな処分内容です。

こんな広い連座処分は、政治的な思惑なしで起きるはずがありませんね。
間部や白石が、すすんで行うはずもありません。
間部や白石は、絵島らの処分に文句は出せなかったはずです。
自身の身を守ることに精一杯で、その処分を撤回できる状況にはなかったのだろうと思います。

幕府の頂点に立つまでは、ワナを仕掛け放題だった二人なのに、今度は、まんまとワナにかかったのかもしれません。
油断とおごりなのでしょうか。
間部や白石は、ワナであることは悟ったでしょうが、黒幕が誰か理解したでしょうか。
天英院と重臣の誰かか、あるいは、尾張か、紀州か…、いずれ わかります。

この厳しい処分を下したのは、四代将軍にとりたてられた人物や、吉宗の息のかかった人物たちです。
前述しましたが、吉宗は事前にしっかり手を打っておいたのかもしれません。

* * *

処分内容は前述しました。

ここで、面白いのは、処分の中に水戸藩士がいたことです。
何があったのでしょう。
水戸藩士が、処分の対象になるのは、あまりにも不自然です。
間部や白石が、恩のある水戸徳川家に手を出すとは思えません。
そんなことができるのは誰か、それよりも上の家格の人でしかありません。

吉宗は将軍になってから、水戸徳川家を大切に扱います。
藩士たちを、幕府のそれなりの役人にも取り立てます。
いずれ、水戸家は御三家となりますが、紀州徳川家は、この時、上の家格の尾張徳川家とは、ある程度距離をおいて、水戸徳川家と親しくなろうとしたのではないでしょうか。
そのきっかけが、この事件だったのかもしれません。

何かの条件で、その藩士を紀州徳川家が助けてあげたというかたちだったのかもしれません。
水戸徳川家への対応は、ひとまず済みました。
とにかく、水戸徳川家には、吉宗側として静かにしてもらいたかったのかもしれません。

吉宗は、この時、尾張徳川家内部で、ある陰謀の真っ最中だったと思います。


◇暗躍だらけ(17)尾張徳川家への陰謀

この事件によって、大奥内での月光院の勢力は弱体化し、今度は天英院の勢力が権力を握ったことでしょう。

吉宗は、本当のことをいうと、大奥のご婦人たちの意向で、将軍が決められるなど許さなかったはずです。
でも、吉宗は、大奥の女性たちの抗争と権力への執着を、逆に利用したのだと思います。

そんな時に、月光院の息子の家継が、幼くして亡くなります。

前述のとおり、よくわからない原因とタイミングです。
前述のような、間部側の、恐ろしいまでの巻き返し戦略なのか、吉宗の策略なのか、まったくわかりません。

天英院の夫であった、六代将軍 家宣が、将軍職を吉宗に指名していたという遺言など、どう考えても信じられません。
生前、彼がおしていたのは、尾張徳川家です。

天英院は吉宗を八代将軍に推挙し、吉宗は八代将軍となります。

間部らが、尾張徳川家と組んで、新将軍を推挙することはできませんでした。
もともと家宣が存命の頃に、家宣は七代将軍を尾張徳川家から出そうとしました。
その人物が、尾張徳川家の徳川吉通(よしみち)です。
この人物はかなり有能な人物だったようですが、早世します。おそらく毒殺です。

間部や白石は、尾張家から将軍を出すことには猛反対しました。
それはそうです。尾張から将軍ひとりがやってくるわけではありません。
間部や白石がいた甲府徳川家と尾張徳川家では、あまりにも家格が違います。
間部や白石は、幼い家継を七代将軍にしてしまいます。
間部や白石と、家宣のあいだには溝ができました。
この時、家宣の命も危うい状況でしたね…。

* * *

尾張徳川家では、江戸の将軍家以上に不審な死が続きます。
吉通の子も夭折し、吉通の弟の継友(つぐとも)が尾張藩主となっていました。

間部や白石らは、家継が亡くなった以上、そうもいっていられない状況です。
幕府内での勢力挽回の意味で、継友を将軍にしようと画策しはじめます。
間部は大奥の月光院を見捨て、新しい権力構造づくりに着手したのかもしれません。

もし、そうなら、吉宗は、しめたと思ったことでしょう。
間部と月光院は完全に切れた。

尾張徳川家から、初めての将軍かと思ったとたん、なんと尾張徳川家内部から反対勢力があらわれます。
それも、重臣の何人かです。
「尾張は将軍の座を争うべからず」という掟があるとか何とか言い出します。

* * *

戦国時代の武家では、「当家は天下を狙うべからず」という家訓や先代の遺訓があるとか何とかいって、危機を脱することがよくありました。
毛利家もそうでしたね。毛利元就の遺言にそう書かれていますとか何とかいって、本当は野心でいっぱいで、そちらが本物の遺言です。
当時は、ニセ家訓やニセ遺訓は当たり前でした。ただの理由づけや言い訳です。

吉宗が、尾張徳川家の重臣たちに先に手を打ったのかもしれません。

ここで、天英院の再登場です。


◇暗躍だらけ(18)結局、大奥に決めさせる

尾張徳川家の継友の正室は、天英院とも比較的近い一族の出身ではありましたが、天英院は、八代将軍に吉宗を推挙します。
継友は、有能な兄の吉通よりも、かなり能力が低く、性格にも問題があったという記録は、いったい誰が残させたものかは、よくわかりません。

もはや、吉宗の将軍就任に誰も文句を言えない状況だったのかもしれません。
幕府や大奥には、吉宗派がすでに大多数をしめていたかもしれません。
吉宗は、この頃はまだ、大奥にやさしく接していたことでしょう。

結局、誰が八代将軍を最終的に決めることになったのかというと、それは大奥です。
正確には、大奥に決めさせたということですね。

間部や白石らに、はむかうチカラや、支援してくれる外部勢力も、もういなかったかもしれません。
何しろ、大奥が決めたのです。

天英院も、月光院派をつぶしてくれた黒幕の吉宗の他に、将軍の座を指名できる人物はなかったと思います。
逆らったら、今度は月光院と同じ運命をたどるかもしれませんしね。

* * *

自分で誘導しておいて、結局、誰かに指名や推挙させるという行為は、天下人を目指す武将たちがよく使った手法です。
吉宗は、きとんと歴史を学習していたのかもしれませんね。

* * *

前述の、A から J までの人物らの中で、柳沢吉保ら元綱吉勢力はすでにチカラを失っていますので、将軍になってからでも十分に対応できます。
将軍就任後、柳沢を甲州から退かせ、柳沢一族は、栃木県、奈良県、新潟県とバラバラにされました。
甲州から武田の色を完全に消し去ります。

これで、男性陣への対応は終了しました。
次は、女性陣への対応です。

大奥内は、天英院派は大喜びだったでしょうが、月光院派はまだまだ激しく動揺していたことでしょう。
この時、大奥内で何が起きていたか、あまり想像したくありませんね。

吉宗にとって、後は、大奥4000人の女性たちと、高遠の絵島をどうするかです。
そのことは次回のコラムで書きます。

* * *

それにしても、五代将軍 綱吉夫妻が不審死してから、いったい何人が亡くなったでしょうか。
幼子が何人亡くなったでしょうか。みな病死かどうかは、わかりません。
暗殺や失脚もたくさんありました。
恐ろしい政争が長く続いてきましたね。

群馬県と山梨県という「御両典」勢力が江戸城から去り、徳川御三家から、もっとも強い者が将軍になるという、徳川家康からの掟がここで復活しましたね。

いよいよ、吉宗の治世が始まろうとしています。

* * *

コラム「よどみ…(4)」につづく


 

2019.9.17 jiho

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