いよいよ関ヶ原の陣、最終回。。ぷにゅたは今回、どんな失敗をやらかすのか
徳川家康最後陣跡、岡山烽火場など →関ヶ原の戦い!!!~1/4。
石田、島津など →関ヶ原の戦い!!!~2/4。
小西、宇喜多、大谷など →関ヶ原の戦い!!!~3/4。
↓福島正則陣跡
平塚為広碑よりチャリ5分。巨木が目印、「福島正則陣跡」だ。
福島正則隊兵6000。
倍以上の宇喜多隊と一進一退の善戦を展開する。
尾張清洲24万石→安芸広島50万石。
↓関ノ明神前 福島正則陣所古趾3
三成嫌いが高じて家康に味方するはめに。
家康にとことん利用されるだけされて、のちに移転減封→死後改易処分となった。
家康の善人面に、まんまと騙されてしまったクチだろう。
↓月見の宮大杉
合戦屏風図にも描かれている樹齢800年の杉の木。
関ヶ原合戦を見てきた木と思うと、感慨深いものがある。
↓京極高知・藤堂高虎陣跡
福島正則陣跡よりチャリ3分。関ヶ原中学校の門の内にあるが、自由に見ることができる。
↓芝井 京極高知・藤堂高虎 陣所古址
京極高知3000。
飯田10万石→丹後宮津12万石
藤堂高虎2400。
伊予宇和島10万石→伊予今治20万石
↓史跡 西首塚碑
京極・藤堂陣跡よりチャリ1分、「西首塚」。
関ヶ原合戦の翌日、家康の命により、関ケ原の領主であった竹中重門が散らばる遺体を埋葬し首塚を造った。
駅近には「東首塚」があったが、東西両軍の区別なく2ヶ所に埋葬した。
↓柴ノ 内 関ヶ原合戦戦死者胴塚碑
戦死者6千~8千ともいわれる。
石碑には、首塚なのに「胴塚」
・・・首の無い死体や、首のみの仏が混在したのだろうか。
首塚の上に生える木も、かなりの古株と思える。
丁度、彼岸花が咲いている季節だった。
↓本多忠勝陣跡への道
西首塚よりチャリ6分、「本多忠勝陣跡」へ。
場所が少しわかりづらいが、ここで曲がり、この道の奥にある。
道標があるのでありがたい。
↓本多忠勝陣跡へ
道の奥入って間もなく、何か見えた
公民館の横から裏庭みたいな場所へと入っていく。
↓十九女池の西 本多忠勝陣所古址
本多忠勝わずか500。
徳川秀忠率いる徳川本隊が本戦までに到着できなかったため、受け持つ兵は意外なほど少なかった。
大多喜12万石→桑名12万石。
↓烏頭坂(うとうざか)
本多忠勝陣跡の道標の所で曲がらず、そのままひたすら真っ直ぐ坂道を下ってゆくこと6分、「島津豊久碑」のある「烏頭坂」に到着。。
小高い微高地の上にある。
↓島津豊久戦死の地
徳川家康最後陣跡からは、ほぼ真っ直ぐ南東へ約2.5kmの場所。
西軍が総崩れとなり、勝鬨の声を挙げ気が緩んだ刹那、なりを潜めていた島津軍は動き出した。
家康本陣に特攻と見せかけ、右に折れ南進した、という事が地理的関係からもわかる。
↓島津中務大輔豊久之碑
島津豊久750(義弘と合わせて1500)。
大谷吉継が大物では唯一戦死と言ったが、島津豊久もいた。
島津豊久は島津家久の子で、叔父にあたる義弘を慕っていた。
↓烏頭坂 島津豊久碑_説明
説明によると、豊久の生死は不明であるという。
一説には、彼は負傷しながらも多良まで落ち延びたが、そこで自害して果てたという。
(ここからさらに10km南に行った所に瑠璃光寺という寺があり、島津豊久の墓が立っている)
とにもかくにも、彼の犠牲なくして島津義弘他80余名の薩摩への帰還は無かっただろう。
ダムの所でつまづいたため、レンタサイクルの返却時間が迫ってきた
。。
でもせっかくなんで、駅東の陣跡も攻めときたい。
延長料金支払い覚悟で東へGO
↓桃配山
島津豊久碑より再び北上し、本多忠勝陣跡の手前で右に折れ、国道56号線を東へ。
道なりに進むとやがて21号線に出るので右へ曲がりさらに東へ。
チャリで約12分、「徳川家康最初陣跡」。
道沿いの小山の上にある。
↓桃配山 徳川家康本陣古址碑
壬申の乱のおり、大海人皇子が兵の士気を上げるため、桃を配ったという伝承があるので「桃配山」という。
当時から高価な桃を、一体何個用意できたものだろうか
↓史蹟 徳川家康最初陣地碑
最初陣跡は、激戦地からは2~3km後方にあたる。
もし西軍の毛利勢が攻勢に出た場合、抑えの浅野・山内・池田軍がいるにしても、かなり危険な位置である。
↓桃配山からの眺望
↓眺望_案内
家康:「うーむ、ここからじゃあまりよく見えんのう。。カリカリ(←爪を噛む音)。」
↓桃配山からの眺望_拡大
ざっくりいうと、写真左の方が宇喜多、中央が小西、右端が石田といった所か。
家康:「よしもっと前進するぞよ。。小早川の小せがれ
を、脅しつけてやろうぞ。。」
↓折れ曲がり杉
徳川家康最初陣跡にあった、珍しい形をした木。
根元で大きく折れ曲がり、途中から真っ直ぐ上にのびている杉を発見。。
(2枚の写真を合成しました)
“ここには説明のつかないような、不思議なパワーが宿っている、とでもいうのだろうか”
(呪いのビデオ・ナレーション風)
↓旧中山道分岐点
21号線から分岐して、平行に東西に走る旧中山道を目指す。
旧中山道に出るには少しだけ分岐点まで引き返し、Uターンする形で、っと・・・。
事前にざっくりと頭に入れていたつもり。。
・・・がっ
ここでぷにゅたこの旅、4つ目の痛恨のミス
上写真の分岐点を見逃してしまった
(目の前の歩道が、徐々に右手の車道と離れていく感じなのでわかりづらい。しかも歩道橋の陰で隠れてる)
あれコの字に曲がればいいのかな
・・・不審に思いながらもJR線路を越え、相川を越えてから信号を渡って東進を開始。
中山道って、、こんなに車がビュンビュン走るような道なん
いちおう歩道がついてるけど、あまり通行する人もないのか、草木が元気で藪化してるし。。
次の山内一豊陣跡はたしか近かったはず・・・
・・・ええい、突っ込め突っ込め少しの辛抱やっ。。
ガサ、ガササッッッ!
===
おかしいな・・・どうもありそうに無いぞ、、ここでようやく位置確認。
えこれバイパスやん
ぜんぜん場所違うぞ。やられた~。。
↓山内一豊陣跡
どうにか引きかえして分岐点を見つけ、「山内一豊陣跡」へ。
碑は特に無く、説明板のみのようだ。
山内一豊2000。
遠江掛川6万石→土佐高知20万石。
気がつくと、ズボン・靴
にはびっしりとひっつき虫が
10000個ぐらい付着していた
最悪。。でも取っている暇は無い、一刻も早くチャリを返却せねば。。
ここにきてなんか電動アシストの調子が悪くなってきた。漕ぐの超しんどいって。。
倒したりしたんで、イカれてしもうたんかな~それとも電池切れ
↓関ヶ原駅前観光交流館のコインロッカー
ハァハァ、ゼィゼィ。。。
ほうほうのていで関ヶ原駅前観光交流館へと帰ってきた。
途中でチェーンが外れてしまった件を話すと、なんと延長料金はサービスしてくれました。。
ありがとう!おばちゃん。。
↓同コインロッカー左
足元にいっぱいひっつき虫を付けた状態そのままでお土産を買い、コインロッカーを撮影。
↓コインロッカー_細川忠興
シャレのきいた貼り紙。これって使用中って事
だったら他のロッカーはどんな文言が入るのだろうか
興味のある人は、あと32回荷物を預けてお試しあれ。
それにしても・・・・・・疲れたで。orz
皆様におかれましては、ぷにゅたと同じような失敗をする事の無きよう、おなしゃす
(なお、この後JR車内で、座席が混みだす京都駅までにと必死に、あらかた目につくひっつき虫を取り除きましたとさ)
おわり。。。