駅前でレンタサイクルし、これまでに、駅近の東軍陣所から始まり、反時計回りに西軍の陣所へと見てきた。
徳川家康最後陣跡、岡山烽火場など →関ヶ原の戦い!!!~1/4。
石田三成陣跡、島津義弘陣跡など →関ヶ原の戦い!!!~2/4。
ここからは、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継の墓と見ていこう。。
↓史跡 関ヶ原古戦場 開戦地碑
島津義弘の陣から南へ約300m。
松平忠吉・井伊直政の発砲した一番槍は形ばかりのもので、
実際にはその直後に福島正則が小西行長、宇喜多秀家隊と交戦に突入した場所が「開戦地」。
といっても、実際の開戦地はこの石碑から400mほど南、宇喜多陣跡の前だそうだ。
農地改良事業などで、ここに石碑が移されたようだ。
↓天満山北 小西行長陣所古址碑
開戦地から奥へ入っていくと・・・あったあった、「小西行長陣跡」へは徒歩1分。
明治39年に建立された小さな標柱のみ。
小西隊6000。捕縛され三成ともども六条河原で処刑された。
朝鮮出兵でのダメージが尾を引き、その多くは石田三成の配慮で急遽補充された兵だった。
キリシタン大名として有名な(歴史ファン以外には意外に知られていない
)彼は、加藤清正とは朝鮮出兵以前から折り合いが悪かったという。
↓天満神社_入口
開戦地から自転車で3分で、写真の場所に達する。
ここからは天満神社参道となっている。
この先、林道っぽいな。チャリでどこまで進めるのかな
↓天満神社境内(宇喜多秀家陣跡)
かなり手前の方でチャリを止めたがために、少し歩くはめになった。
歩き進んでいくと、神社の間際に先客のレンタサイクルが停められていた
。
(先刻から気になっていたんだが・・・
石田三成陣跡で見た歴女ふたり、同じようにレンタサイクルで史跡を巡っているようだが・・・
進み方が遅いゆっくり差を開けようと努力はしてるんだが、小西陣でも追いつき、宇喜多陣でもまた追いついてしまう。。
そろそろ何となく気まずくなってきた。)
写真は宇喜多陣跡碑から振り返った絵。入口の灯篭が見える。
↓宇喜多秀家公陣所跡碑
「兒」の字は宇喜多の旗印。この碑は比較的新しそうな。
調べていたら、「天満山南 浮田秀家陣所址」と書かれた碑が別にあったようだ。見落とした。
ひとつ上の写真の、左の方の石積みの上あたりにあるみたい。。
宇喜多隊は西軍の副大将で、堂々の17000人だ。
勝利の暁には、「関白」の座でも用意されていたか(小早川秀秋にも用意したかも)。
西軍敗走後、無事に戦場離脱し、戦後は八丈島への島流しとなった(83歳まで生きた)。
↓藤古ダム施設
歴女ふたりに、気を使い使われるのもアレなんで、ここは近道
天満山の西へ出て、川を渡って次の大谷吉継墓のある山へ行ってやろう。
と、同じ事を考えたのか、西の方から引き返す歴女ふたりに、正面から遭遇。。
ぷにゅた:「あっち、自転車は無理ですか」
歴女:「絶対に無理です。。」
まずいな、、ここでUターンしたらその差はほぼゼロ。。
とりあえずこの先の様子を自分の目で確認しておこう・・・
↓藤古川ダム
どひゃこりゃ無理かも。川へ出るには急坂を下らなければ
ならない。。
でも、歴女らとの差を考えると、強引にでもこの難所をチャリで横断できないものか・・・
ムチャな決断をしてしまった。。
無理やり川岸まで出てしまった。藤古川に架かるダム上を通れるようになっているんだが・・・
この段差。一段一段が大きく急勾配な階段を、重いチャリを担いで越えないといけない。
↓藤古川ダム上
電動アシスト付きがこんなに重いとは、大誤算。。
↓藤古川_上流方面
不幸はこの後おそった。下りの階段でチャリの重さに耐え切れず、手を離して自分の身を守るのが精一杯。
チャリは転倒しあわや大惨事の事態に。
一息入れ立て直すも、本当の絶望はその直後だった
西の道へ出るには今度は急坂を登る訳だが、下る時以上に大変な急坂
。もはや壁やん。
しかも狭い山道で登山級の悪路。さらに最悪なことに木々のせいで目標地点も見通せない。
今さら引き返そうにも、もはや引き返せないし。
・・・ここに進退窮まれり。
ぷにゅたの武運、ここに関ヶ原に潰える。
↓大谷吉継墓所
ヒィコラヒィコラ、よいしょっ。。何とか自転車を上の道まで引き上げた。
皆様におかれましては、絶対にマネしないでください。
宇喜多陣から大谷墓へは、徒歩なら近道できるが、自転車では南に迂回するしかないです。
自転車を降り、藤川台(当時は山中村)という山を登っていく。
自転車で迂回したら普通は南側の若宮八幡神社から登るだろうが、東側から登る。
15分位かかっただろうか。思っていた以上にしっかり登山道だったので、ここでもかなり体力が削られた。
↓史跡 関ヶ原古戦場 大谷吉隆墓碑
この地に知将・大谷刑部吉継が眠る。享年36(諸説あり)。
石碑には「大谷吉隆」とあるが、建てた時代公認での勘違いだろう。
他の西軍諸大名が逃走を図ったのに対し、関ヶ原の戦いで討死した(腹を切った)唯一の大物。
↓大谷吉継の墓
静寂な雰囲気の中、安らかに眠っているであろう大谷吉継。
墓は敵方の藤堂高虎によって、戦後すぐに建てられた。
左隣は家臣・湯浅五助の墓。
吉継の介錯を努めた忠臣で、密かに主君の首をここに埋めた。
湯浅五助の墓は、のちの大正時代になって建立された。
↓大谷刑部少輔吉隆 顕彰碑
墓からすぐ近くにある顕彰碑。
「彼こそ武士道の模範だ」とされる時代背景によって1940(昭和15)年に建てられた。
↓大谷吉隆顕彰碑の裏面
裏面には、要約すると次のように書かれている。
「 大谷吉継は石田三成の挙兵をいさめたが聞き入れられなかったため、意を決して西軍に与し奮戦したものの衆寡敵せず自害した。これは、主君である豊臣秀吉の恩に報い、共に秀吉に仕えた三成との義に殉じたものでまさに武士道の模範である」
* * * * *
なお、異説では吉継の首は軍僧・祐玄が戦場から落とし、滋賀県米原に埋めた。
現地には首塚も建てられている。
↓参考:米原にある大谷吉継公首塚(以前に訪問済み)
* * * * *
↓藤下の山道
なお、顕彰碑を見ている時、早くも歴女らが墓所に現れた。
藤古ダムで手こずったため、先回りどころか遅れを取ったようだ。
また重複するかもしれないので、急いで「松尾山眺望地」に向かおう。
道中もアップダウンこそあまり無いものの、舗装された道では無い。
↓大谷吉継陣跡
墓からは7分位歩いただろうか、以外に距離があった印象だ。
↓宮上 大谷吉隆陣所古址碑
「宮上 大谷吉隆陣所古址碑」。
大谷吉継隊5700(戸田・平塚隊含む)。
小早川秀秋の裏切りには初めから備えていたため対応できたが、
北国衆の四将(脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠)が便乗して寝返り。これにはたまらず壊滅してしまった。
↓松尾山眺望地
大谷吉隆陣跡からすぐ、「松尾山眺望地」。
ここは木々が取り払われ、少しばかりの眺望がきくようになっている。
さすがに疲れたので、そこのベンチでランチタイム
も兼ねて、しばし休憩
。。
↓大谷吉継_顔抜き
このような顔抜きまで用意されているのは、少し行き過ぎでは
と言いながらも、ちゃっかり自撮り(見苦しいため写真は割愛)。
このご時勢でマスク着用なので、丁度吉継みたいかも
・・・病状が進み当時歩行は困難だったとあるが、この顔抜き、立ってるし。。輿に乗ってるバージョンも是非。
↓松尾山眺望地 眺望案内
↓松尾山_遠望
木々のため、東海道新幹線線路や国道21号は見えない。
松尾山と名神高速は目視できた。
↓小早川秀秋陣跡_拡大
あの幟りの立っている所が「小早川秀秋陣跡」か。
当時、ここから秀秋の行動を注視したに違いない。
彼の裏切りに備えるために、向かいのこの山に陣取ったのか(布陣の順序については諸説あり)。
↓平塚為広顕彰碑
チャリを停めている麓にもどらねば。大谷墓のすぐ手前まで同じ山道を引き返し、下山。
すれ違わなかったな、、休憩中にやり過ごしたか。。
東口から道路を挟んで南すぐにある「平塚為広顕彰碑」。
↓平塚因幡守為廣 顕彰碑
1940(昭和15)年、子孫により建立された。
なお、弟(紀州平塚家に仕える)の末裔である、平塚らいてう氏も建立に関わった。
垂井城主12000石。平塚為広隊360(大谷隊の前備え)。奮戦するも小早川らのために苦戦となり、討死に。
死ぬ前に吉継に送った辞世の句「名のために 捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」が、今に残り、碑にも刻まれている。
↓藤古川
松尾山を登るのは時間的にもきつそうなので、脇坂安治陣跡ともどもまた別の機会に行くとしよう。
中山道沿いに東へ進み、再び藤古川を渡り(ダムの下流地点の橋)、東軍南方の緒陣所を目指す。
↓藤古川_説明
読みづらくなっているが、壬申の乱についての説明がされているようだ。
関ヶ原は、古代から東西勢力が決戦を行なう場所だったのだ
つづく。。。