関ヶ原の戦い!!!~2/4 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

カタカタカタカタ・・・ガタンッビックリマーク・・・スコスコスコ。。

 

はてなマークびっくり

 

・・・チェーン外れたはてなマーク木の根っこ越えた弾みではてなマーク

 

ウソーーンビックリマークさいあくwww!!えーん

 

↓中田池

中田池

ちょうどこの池のあたりで、レンタサイクル自転車の外れたチェーンを直す羽目に。

暑いのでシャツTシャツを一枚脱いで作業しよう。

 

すわ、今日降ろしたてキラキラのシャツに黒い油もやもやがっっビックリマーク

 

最悪やん、、汗だく滝汗になりながら何とかはまった。。

 

手を洗える場所も無さそうやし、、もーーーいやビックリマークショック!

 

皆様も、北野神社の脇道の林道を通る場合は、速度に注意してねビックリマーク

(結構スピード落としたんだけどなー・・・)

 

↓遊歩道

遊歩道

ここから西の激戦地とか石田三成陣跡とかに向かうわけだが、近道。。

 

GoogleMap地球とかだと道が描かれていないが、観光マップでは池のほとりをうねるように西へ向かう道があった。

情報が無かったのでどうかと思っていたが、どうやら自転車でも通れるようだ。

 

池に架かる細い橋。

ここも何とかチャリで渡れた。

 

↓八幡池

八幡池

中田池、小栗毛池、八幡池と3つのため池が連続してあるが、後世に造った池スライムだろう。

関ヶ原町にため池が多いのは、雨が少なく川の水もあまり流れていないからだそうだ。

 

↓関ヶ原バイパスをくぐる箇所

関ヶ原バイパスをくぐる箇所

山すそと池を縫うようにして、無事国道21号(関ヶ原バイパス)をくぐる箇所まで来れた。

写真の奥から来て振り返りの図。

 

↓関ヶ原古戦場碑 激戦地

関ヶ原古戦場碑 激戦地

岡山烽火場から7分ぐらいだろうか。ここが関ヶ原のど真ん中ビックリマーク

もっとも激アツな戦いナイフが繰り広げられた場所だ。。

 

↓関ヶ原古戦場 激戦地

関ヶ原古戦場 激戦地

「史跡 関ヶ原古戦場 激戦地」。

この碑がある場所はのどかな畑のただ中、のぼりも立っているので見落とす事はまずない。

 

↓激戦地より石田三成陣を見る

激戦地より石田三成陣を見る

ここから石田三成陣跡である笹尾山が間近に見えている。

三成の陣に多くの部隊が殺到し、激戦となったのがよくわかる。

 

石田隊の秘密兵器・大筒爆弾も、この辺に降ってきたのだろうかはてなマーク

 

↓石田三成陣跡(笹尾山)

石田三成陣跡(笹尾山)

1分で笹尾山に来れた。

低い山だが、手前には土塁も再現されている。

 

↓島左近陣跡

島左近陣跡

柵の右の方にあり、見落とし注意。

島左近隊1000。

佐和山城と並び、三成に過ぎたるものと言われた武将。

 

島左近は戦闘なかばで深手を負ってしまい、それもあって石田隊は支えきれなくなったのかも知れない。

左近がもう2~3人いれば勝っていたかも。。ニヤリ

 

(今調べてたら、柵の左の方には蒲生郷舎(がもうさといえ)の陣跡もあるそうな。見落とした汗

 

↓竹矢来(再現)

竹矢来(再現)

気分を盛り上げてくれる竹矢来(たけやらい)魚の骨だが、けっこう奥の方まであり、それも幾重にも再現している。

やるじゃん、関ヶ原町ビックリマーク

 

当時、東軍の動きに対応すべく、急進して笹尾山へ向かった石田隊。

時間が無かったはず砂時計で、砦としてどれほどの防御施設を構築できたものか。

 

↓石田三成本陣へ

本陣へは、柵の所からさらに小高い小山を登る感じで、1分ほどか。

 

↓石田三成本陣跡

石田三成本陣跡

山頂に着いた。奥になかなか広い。

中腹含め石田隊4820人が入れて不思議は無い。

 

眺望がきき、音声案内付きの展望台も設置されている。

 

↓笹尾山 石田三成陣跡古址碑

笹尾山 石田三成陣跡古址碑

この碑は存在感があまり無かったが、他の陣跡でもおなじみの大正時代のものだろう。

ここでは石碑に囲みを造っていない。

 

ひとつ上の写真で囲み付きの石碑が写っているが、皇太子殿下(のちの大正天皇か)が視察した時の記念碑のようだ。

 

↓史跡 石田三成陣地碑

史跡 石田三成陣地碑

やはり、昭和はじめに建てられたこちらの碑が目立つ。

 

↓関ヶ原古戦場 史跡位置図(右)

関ヶ原古戦場 史跡位置図(右)

↓関ヶ原古戦場 史跡位置図(左)

関ヶ原古戦場 史跡位置図(左)

↓笹尾山からの眺望

笹尾山からの眺望

大将の構える本陣としては、軍団全体の北端で、本当に最適だったのだろうか。

 

だがしかし、

  • 盆地のやや奥まった位置にある小山。戦場全体を一望できて北国街道を抑えている。
  • 松尾山(小早川)、南宮山(毛利ら)に布陣済みの戦力を巻き込む事ができる。

三成の勝手知ったる土地なので、ここで正解だったのだろう。

 

写真左端手前に見える、畑の中に木々が独立して立っている所が、さっきの関ヶ原古戦場激戦地だ。

一番左手の山富士山が、南宮山(なんぐうさん)。

 

↓笹尾山からの眺望(南宮山)

笹尾山からの眺望(南宮山)

南宮山を拡大サーチ

ふもとには桃配山(徳川家康最初陣跡)がある。

 

三成:「毛利よビックリマーク内府(家康)があそこにおるぞ、チャーンスビックリマーク動いてくれ~~~ビックリマーク

 

↓笹尾山からの眺望(関ヶ原歴史資料館)

笹尾山からの眺望(関ヶ原歴史資料館)

中央あたりに見えていた関ヶ原歴史資料館を拡大。

つまり、あの辺が徳川家康最後陣跡だ。

 

三成:「狸じじいめビックリマークあんな近くまで来やがったかビックリマーク今だ、金吾(小早川秀秋)ビックリマークこちらに付け~~~ビックリマーク

 

↓近くにあった花壇

近くにあった花壇

背後に写っているのは笹尾山交流館

札に書かれたカンナかと思いきや、花の名は、わからなかった。

 

↓コスモス

コスモス

こちらは、コスモスでしょうコスモス

 

↓島津義弘陣跡

島津義弘陣跡

笹尾山からチャリ5分、島津義弘陣跡。 神明神社神社がある場所に立つ。

 

 なお、写真手前の石碑は「笹尾山はあっちよん」の道標。

 

↓小池 島津義弘陣所跡碑

小池 島津義弘陣所跡碑

紀元2600年事業(1940年・昭和15年に皇紀2600年を祝った一連の行事)の一環として、

福田武吉氏(鹿児島の人士か)らが提唱し、関ヶ原町に掛け合って建てた碑。

 

↓小池 島津義弘陣所古址碑

小池 島津義弘陣所古址碑

国許の島津義久の非協力で、島津軍わずか1500。

敵中突破により、生きて薩摩に帰れたのは80人余だったという。

 

↓島津義弘陣跡_遠景

島津義弘陣跡_遠景

小西行長陣跡に向かう道中、振り返った図。

 

もはや伝説ともいえる敵中突破だが、犠牲の大きさを思えば、いっそ投降お願いするわけにはいかなかったのだろうか。

 

全く刃を交えてなかった訳だし、その後佐和山攻めの先鋒でも努めれば、あるいは・・・!?

 

 

 

つづく。。。