カタカタカタカタ・・・ガタンッ・・・スコスコスコ。。
え
・・・チェーン外れた木の根っこ越えた弾みで
ウソーーンさいあくwwww
↓中田池
ちょうどこの池のあたりで、レンタサイクルの外れたチェーンを直す羽目に。
暑いのでシャツを一枚脱いで作業しよう。
すわ、今日降ろしたてのシャツに黒い油
がっっ
最悪やん、、汗だくになりながら何とかはまった。。
手を洗える場所も無さそうやし、、もーーーいや
皆様も、北野神社の脇道の林道を通る場合は、速度に注意してね
(結構スピード落としたんだけどなー・・・)
↓遊歩道
ここから西の激戦地とか石田三成陣跡とかに向かうわけだが、近道。。
GoogleMapとかだと道が描かれていないが、観光マップでは池のほとりをうねるように西へ向かう道があった。
情報が無かったのでどうかと思っていたが、どうやら自転車でも通れるようだ。
池に架かる細い橋。
ここも何とかチャリで渡れた。
↓八幡池
中田池、小栗毛池、八幡池と3つのため池が連続してあるが、後世に造った池だろう。
関ヶ原町にため池が多いのは、雨が少なく川の水もあまり流れていないからだそうだ。
↓関ヶ原バイパスをくぐる箇所
山すそと池を縫うようにして、無事国道21号(関ヶ原バイパス)をくぐる箇所まで来れた。
写真の奥から来て振り返りの図。
↓関ヶ原古戦場碑 激戦地
岡山烽火場から7分ぐらいだろうか。ここが関ヶ原のど真ん中
もっとも激アツな戦いが繰り広げられた場所だ。。
↓関ヶ原古戦場 激戦地
「史跡 関ヶ原古戦場 激戦地」。
この碑がある場所はのどかな畑のただ中、のぼりも立っているので見落とす事はまずない。
↓激戦地より石田三成陣を見る
ここから石田三成陣跡である笹尾山が間近に見えている。
三成の陣に多くの部隊が殺到し、激戦となったのがよくわかる。
石田隊の秘密兵器・大筒も、この辺に降ってきたのだろうか
↓石田三成陣跡(笹尾山)
1分で笹尾山に来れた。
低い山だが、手前には土塁も再現されている。
↓島左近陣跡
柵の右の方にあり、見落とし注意。
島左近隊1000。
佐和山城と並び、三成に過ぎたるものと言われた武将。
島左近は戦闘なかばで深手を負ってしまい、それもあって石田隊は支えきれなくなったのかも知れない。
左近がもう2~3人いれば勝っていたかも。。
(今調べてたら、柵の左の方には蒲生郷舎(がもうさといえ)の陣跡もあるそうな。見落とした)
↓竹矢来(再現)
気分を盛り上げてくれる竹矢来(たけやらい)だが、けっこう奥の方まであり、それも幾重にも再現している。
やるじゃん、関ヶ原町
当時、東軍の動きに対応すべく、急進して笹尾山へ向かった石田隊。
時間が無かったはずで、砦としてどれほどの防御施設を構築できたものか。
↓石田三成本陣へ
本陣へは、柵の所からさらに小高い小山を登る感じで、1分ほどか。
↓石田三成本陣跡
山頂に着いた。奥になかなか広い。
中腹含め石田隊4820人が入れて不思議は無い。
眺望がきき、音声案内付きの展望台も設置されている。
↓笹尾山 石田三成陣跡古址碑
この碑は存在感があまり無かったが、他の陣跡でもおなじみの大正時代のものだろう。
ここでは石碑に囲みを造っていない。
ひとつ上の写真で囲み付きの石碑が写っているが、皇太子殿下(のちの大正天皇か)が視察した時の記念碑のようだ。
↓史跡 石田三成陣地碑
やはり、昭和はじめに建てられたこちらの碑が目立つ。
↓関ヶ原古戦場 史跡位置図(右)
↓関ヶ原古戦場 史跡位置図(左)
↓笹尾山からの眺望
大将の構える本陣としては、軍団全体の北端で、本当に最適だったのだろうか。
だがしかし、
- 盆地のやや奥まった位置にある小山。戦場全体を一望できて北国街道を抑えている。
- 松尾山(小早川)、南宮山(毛利ら)に布陣済みの戦力を巻き込む事ができる。
三成の勝手知ったる土地なので、ここで正解だったのだろう。
写真左端手前に見える、畑の中に木々が独立して立っている所が、さっきの関ヶ原古戦場激戦地だ。
一番左手の山が、南宮山(なんぐうさん)。
↓笹尾山からの眺望(南宮山)
南宮山を拡大。
ふもとには桃配山(徳川家康最初陣跡)がある。
三成:「毛利よ内府(家康)があそこにおるぞ、チャーンス
動いてくれ~~~
」
↓笹尾山からの眺望(関ヶ原歴史資料館)
中央あたりに見えていた関ヶ原歴史資料館を拡大。
つまり、あの辺が徳川家康最後陣跡だ。
三成:「狸じじいめあんな近くまで来やがったか
今だ、金吾(小早川秀秋)
こちらに付け~~~
」
↓近くにあった花壇
背後に写っているのは笹尾山交流館。
札に書かれたカンナかと思いきや、花の名は、わからなかった。
↓コスモス
こちらは、コスモスでしょう。
↓島津義弘陣跡
笹尾山からチャリ5分、島津義弘陣跡。 神明神社がある場所に立つ。
なお、写真手前の石碑は「笹尾山はあっちよん」の道標。
↓小池 島津義弘陣所跡碑
紀元2600年事業(1940年・昭和15年に皇紀2600年を祝った一連の行事)の一環として、
福田武吉氏(鹿児島の人士か)らが提唱し、関ヶ原町に掛け合って建てた碑。
↓小池 島津義弘陣所古址碑
国許の島津義久の非協力で、島津軍わずか1500。
敵中突破により、生きて薩摩に帰れたのは80人余だったという。
↓島津義弘陣跡_遠景
小西行長陣跡に向かう道中、振り返った図。
もはや伝説ともいえる敵中突破だが、犠牲の大きさを思えば、いっそ投降するわけにはいかなかったのだろうか。
全く刃を交えてなかった訳だし、その後佐和山攻めの先鋒でも努めれば、あるいは・・・
つづく。。。