さて、日蓮の辻説法について考えてみましょう。
この「日蓮聖人辻説法跡」は小町大路(小町通りではありません)にあり、2021年には日蓮宗久遠寺派が隣地を取得して「鎌倉日蓮堂」なるものを建立しました。
そもそもの「辻説法跡」は戦前からの日蓮主義宗派である国柱会の創始者、田中智學氏が購入した土地で、本来は本覚寺門前の夷堂橋付近と本人は考えられていたようです。
これは日蓮宗の本山である妙厳山本覚寺(鎌倉市)の夷堂で、日蓮はこの先佐渡へ配流されるのですが、鎌倉へ戻ってからここで一か月以上滞在したと言われています。
さて辻説法なのですが、よく絵伝で見られるのは、直弟子の日朗に「南無妙法蓮華経」の題目旗を持たせて説法する派手な図柄となっています。
(比叡山延暦寺に掲示されている日蓮聖人の絵伝)
(千葉県茂原市にある法華宗本門流大本山鷲山寺の銅板レリーフ)
注目したいのは辻説法をしたと伝わる場所です。
図を見て頂くと、「日蓮聖人辻説法跡」にしても本覚寺門前の夷堂橋にしても、鎌倉幕府の中枢からさほど離れていない場所にあることがわかります。
鎌倉幕府の所在は1236年より鎌倉大蔵から若宮大路へ移って近づいている上に、100メートルほど先には金龍山宝戒寺(天台宗)があります。
この宝戒寺は、北条義時以来の北条氏歴代執権屋敷跡に建てられた寺院で、北条氏の私邸からもごく近くで日蓮は辻説法したことになります。
1232年、和賀江嶋に港が開かれた材木座辺りが商業地であり、名越氏との関係上からも法華経を庶民に広めるのであればこの辺りに専念すべきでしょう。
(同エリアにある本興寺には辻説法したとの寺伝あり)
しかも執権北条時頼あたりから鎌倉市中の統制が厳しくなる中、日蓮が辻説法したのであれば、敢えて幕府を挑発して対話へ持ち込む策略ではなかったと想像してしまいます。
日蓮にとって辻説法などは幕府を誘い出す手法に過ぎなかったと思われます。
(静岡県三島市にある日蓮宗本山玉沢妙法華寺の石板曼荼羅本尊)
日蓮はご本尊の曼荼羅に日本の天台宗祖である伝教大師最澄を勧請しています。
即ち、密教化・念仏化する天台宗とは決別したものの、法華経の先輩行者であった伝教大師最澄を尊敬して止まなかったのです。
最澄の時代、仏法は鎮護国家のためにあり、念仏宗や禅宗のように直接に庶民を教化するのではなく、国家が法華経を信仰することこそが末法の世に庶民を救うと考えたわけです。
これが後に『立正安国論』や幕府への諌言につながって行くことになります。































