拝島山本覚院と書くより、別称である拝島大師の方が馴染み深いかもしれません。
私と美月は2022年1月と2023年1月に参詣しているのですが、残念ながらUSBが壊れて画像がほとんど無いことを予めお詫びしておきます。
さて、このブログを書き始めて2年が経ちました。
最近は西国三十三所霊場巡礼を始めて仏像ばかり書いていますが、そもそもブログを始めた理由は角大師の護符が不可解だったからでした。
(これは埼玉県児玉郡神川町にある『金鑚元三大師』で頂いた古い角大師護符)
「オトボケお目目の黒ヤモリがどうして厄除けの信仰を集めているのか?」
これが正直な実感でした。
(茨城県常総市にある正覺山安樂寺で頂いた角大師手ぬぐいです)
しかも年々「きもかわ」系キャラへと変身を続けており、最早、厄を追い払う奇怪さや迫力すら失せようとしています。
寺院であれば、厄除けにぴったりの強大・強靭な体格の恐ろしいご尊格がいくらでもいらっしゃるはずです。
(2024年比叡山延暦寺カレンダーの迫力溢れる不動明王)
また鉄壁の守備を誇る四天王だって頼りになります。
(2025年東博『運慶展』で売られていたお菓子の缶です)
もちろん不動明王を中心とした五大明王ならば誰しも文句はないでしょう。
(京都府木津川市にある岩船寺三重塔で奉拝した五大明王図)
恐いと言えば、私が2026年用に準備している年賀状は、干支も考慮して、正月から震え上がるような馬頭観音に決めました。
さてそう考えていくと、庶民の信仰が何に依拠しているのかわからなくなってきます。
信仰とは何なのか?
祈りとは何なのか?
もちろん不動明王に祈るのと、観音菩薩に祈るのとでは、おおよその棲み処分けが出来ていると思います。
(和歌山県那智勝浦町、青岸渡寺の如意輪観音像お前立です。)
しかし願いの種別によって完全な役割分担が出来ているわけではなく、一体の御仏が多種多様の祈りを受け止めているイメージを強く感じてしまいます。
つまり御仏はどなたであれオールラウンダーとなるわけで、庶民にしても祈る対象はどんなご尊格であっても良かったのかもしれません。
ましてや上人であっても・・






























